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ヒウザン会とパンの会
高村光太郎
私が永年の欧洲留学を終えて帰朝した
のは、たしか一九一〇年であった。
当時、わが洋画界は白馬会の全盛時代
であって、白馬会に非ざるものは人に非
ずの概があった。
しかし、旧套墨守のそうしたアカデミッ
クな風潮に対抗して、当時徐々に新気運
は動きつつあった。
その頃、有島生馬、南薫造の諸氏も欧洲
から帰朝したばかりで烈々たる革新の意
気に燃えていた。
私が神田の小川町に琅と言うギャラリ
ーを開いたのもその頃のことで、家賃は
三十円位、
緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や
工芸品を陳列したのであるが、
一種の権威を持って、陳列品は総て私の
見識によって充分に吟味したもののみで
あった。
店番は私の弟に任し切りであったが、
店で一番よく売れたのは、当時の文壇、
画壇諸名家の短冊で、
一枚一円で飛ぶような売れ行きであった。
これは総て私たちの飲み代となった。
私はこの琅
洞で気に入った画家の個
展を屡開催した。
(勿論手数料も会場費も取らず、売り上
げの総ては作家に進呈した。)
中でも評判のよかったのは岸田劉生、柳
敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展
であった。
ヒウザン会は、丁度その頃、新進気鋭
の士の集合であり、当時洋画会の灰一色
のアカデミズムにあきたらぬ連中の息抜
き場であった。
琅
洞を本拠として、多士済々、大体
三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力
のあったのは岸田劉生及その友人門下生
の一団であって、
私も大体に於て岸田のグルウプであった。
その他、川上凉花、真田久吉、万鉄五郎
を中心とする一派、斎藤与里を中心とす
る一派等に分れていた。
われわれヒウザン会同人は、当時、殆
んど毎日のように本郷白山の真田久吉の
下宿に集合して、
気焔を挙げていたものであるが、期熟し
て、その秋、第一回展を京橋角にあった
読売新聞の楼上に開催した。
それが又ひどい会場で、天井板のように
ガタピシする床には少からず閉口した。
私は油絵三点、彫刻を一点出品したが、
岸田劉生は一室を占領し、万鉄五郎また
多数を出陳して気勢をあげた。
真田久吉の印象派風の作品など当時にあ
っては尖端をゆくものであった。
この第一回展で特に記憶に残っているの
は、先頃逝去した吉村冬彦氏(寺田寅彦
博士)が夏目漱石氏と連れ立って来場さ
れ私の油絵や斎藤与里の作品を売約した
ことである。
当時洋画の展覧会で絵が売れるなどと言
うことは全く奇蹟的のことで、一同嬉し
さのあまり歓呼の声をあげ、
私は幾度びか胴上げされた。
翌年、第二回を開いたが、間もなく仲
間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は
新たに生活社を起した。
この系統が彼の草土社となったのである。
その頃、特筆すべきは「現代の美術」
と言う美術雑誌を主宰していた北村清太
郎氏で、われわれの仲間ではペエル タ
ンギイで通っていた。
あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に
当時の美術界に尽力した人はないであろ
う。
概括してヒウザン会の傾向をのべると、
フォウビズム、印象派、後期印象派の三
つに分れ、
われわれの崇拝の的はゴオガンとゴッホ
であった。
先輩の中で、われわれの兎も角承認した
のは黒田清輝氏ただ一人である。
当時、山脇信徳が文展に出品した「上
野駅の朝」と題する絵は、当時の新傾向
作品の代表的のもので、
私は新聞雑誌上でこれを極力賞讃した。
当時、文壇では若冠の谷崎潤一郎が
「刺青」を書き、
武者小路実篤、志賀直哉等によって「白
樺」が創刊され、
芸苑のあらゆる方面に鬱勃たる新興精神
が瀰っていた。
「パンの会」はそうしたヌウボオ エス
プリの現われであって、石井柏亭等同人
の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北
原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、
それから私など集ってはよく飲んだもの
である。
