https://www.youtube.com/watch?v=HmrIYNvAVYQ

 

 

 

 

智恵子抄 

高村光太郎 

 

 

 

あどけない話 


智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。


私は驚いて空を見る。


桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。


どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。


智恵子は遠くを見ながら言ふ。


阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。


あどけない空の話である。

 

 

 

 

 

 

 

風にのる智恵子 


狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する


防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる


智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ


尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場


智恵子飛ぶ

 

 

 

 

 

 

 

千鳥と遊ぶ智恵子 


人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。


無数の友だちが智恵子の名をよぶ。


ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――


砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。


口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。


ちい、ちい、ちい――


両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。


群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。


ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――


人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。


二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

 

 

 

 

 

 

 

 

値ひがたき智恵子 


智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。

智恵子は現身のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

 

 

 

 

 

 

 

レモン哀歌 


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ


トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした


あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ


あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた


それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた


写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

 

 

 

 

 

 

 

荒涼たる帰宅 


あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。


十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。


この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。


人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。


人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。


夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。


私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。

 

 

 

 

 

 

 

報告(智恵子に) 


日本はすつかり変りました。


あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。


すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいひます。)


内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。


あなたこそまことの自由を求めました。


求められない鉄の囲の中にゐて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
あなたの頭をこはしました。


あなたの苦しみを今こそ思ふ。


日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

 

https://www.youtube.com/watch?v=jLtjrUnX2GQ

 

 

 

 

思い出す事など 

夏目漱石 

 

 

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+十二

+十三

+十四

+十五

+十六

+十七

+十八

+十九

+二十

+二十一

+二十二

+二十三

+二十四

+二十五

+二十六

+二十七

+二十八

+二十九

+三十

+三十一

+三十二

+三十三

 


 ようやくの事でまた病院まで帰って来

た。

 

思い出すとここで暑い朝夕を送ったのも

もう三カ月の昔になる。

 

その頃は二階の廂から六尺に余るほどの

長い葭簀を日除に差し出して、熱りの強

い縁側を幾分か暗くしてあった。

 

その縁側に是公から貰った楓の盆栽と、

時々人の見舞に持って来てくれる草花な

どを置いて、退屈も凌ぎ暑さも紛らして

いた。

 

向に見える高い宿屋の物干に真裸の男が

二人出て、日盛を事ともせず、欄干の上

を危なく渡ったり、

 

または細長い横木の上にわざと仰向に寝

たりして、ふざけまわる様子を見て自分

もいつか一度はもう一遍あんな逞しい体

格になって見たいと羨んだ事もあった。

 

今はすべてが過去に化してしまった。

 

再び眼の前に現れぬと云う不慥な点にお

いて、夢と同じくはかない過去である。 

 


 病院を出る時の余は医師の勧めに従っ

て転地する覚悟はあった。

 

けれども、転地先で再度の病に罹って、

寝たまま東京へ戻って来ようとは思わな

かった。

 

東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜ら

ずに釣台に乗ったまま、また当時の病院

に落ちつく運命になろうとはなおさら思

いがけなかった。 

 

 

 帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も

雨であった。

 

扶けられて汽車を下りるときわざわざ出

迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らな

かった。

 

目礼をする事のできたのはその中の二三

に過ぎなかった。

 

思うほどの会釈もならないうちに余は早

く釣台の上に横えられていた。

 

黄昏の雨を防ぐために釣台には桐油を掛

けた。

 

余は坑の底に寝かされたような心持で、

時々暗い中で眼を開いた。

 

鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲

つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい

人の声が微かながらとぎれとぎれに聞え

た。

 

けれども眼には何物も映らなかった。

 

汽車の中で森成さんが枕元の信玄袋の口

に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、

降りる混雑の際に折れてしまったろう。 

 


  釣台に野菊も見えぬ桐油哉

 


 これはその時の光景を後から十七字に

ちぢめたものである。

 

余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ

舁き上げられて、三カ月前に親しんだ白

いベッドの上に、安らかに瘠せた手足を

延べた。

 

雨の音の多い静かな夜であった。

 

余の病室のある棟には患者が三四名しか

いないので、人声も自然絶え勝に、秋は

修善寺よりもかえってひっそりしていた。 

 


 この静かな宵を心地よく白い毛布の中

に二時間ほど送った時、余は看護婦から

二通の電報を受取った。

 

一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」

と書いてあった。

 

そうしてその差出人は満洲にいる中村是

公であった。

 

他の一通を開けて見ると、やはり無事御

帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の

相違もなかった。

 

余は平凡ながらこの暗合を面白く眺めつ

つ、誰が打ってくれたのだろうと考えて

差出人の名前を見た。

 

ところがステトとあるばかりでいっこう

に要領を得なかった。

 

ただかけた局が名古屋とあるのでようや

く判断がついた。

 

ステトと云うのは、鈴木禎次と鈴木時子

の頭文字を組み合わしたもので、妻の妹

とその夫の事であった。

 

余は二ツの電報を折り重ねて、明朝また

来るべき妻の顔を見たら、まずこの話を

しようかと思い定めた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=72s73owDpus

 

 

 

 

 

 

ケーベル先生の告別 

夏目漱石 

 

 

 ケーベル先生は今日(八月十二日)日

本を去るはずになっている。

 

しかし先生はもう二、三日まえから東京

にはいないだろう。

 

先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人であ

る。

 

二十年前大学の招聘に応じてドイツを立

つ時にも、先生の気性を知っている友人

は一人も停車場へ送りに来なかったとい

う話である。

 

先生は影のごとく静かに日本へ来て、ま

た影のごとくこっそり日本を去る気らし

い。 


 静かな先生は東京で三度居を移した。

先生の知っている所はおそらくこの三軒

の家と、そこから学校へ通う道路くらい

なものだろう。

 

かつて先生に散歩をするかと聞いたら、

先生は散歩をするところがないから、し

ないと答えた。

 

先生の意見によると、町は散歩すべきも

のでないのである。 


 こういう先生が日本という国について

なにも知ろうはずがない。

 

また知ろうとする好奇心をもっている道

理もない。

 

私が早稲田にいると言ってさえ、先生に

は早稲田の方角がわからないくらいであ

る。

 

深田君に大隈伯のうちへ呼ばれた昔を注

意されても、先生はすでに忘れている。

 

先生には大隈伯の名さえはじめてであっ

たかもしれない。 


 私が先月十五日の夜晩餐の招待を受け

た時、先生に国へ帰っても朋友がありま

すかと尋ねたら、

 

先生は南極と北極とは別だが、ほかのと

ころならどこへ行っても朋友はいると答

えた。

 

これはもとより冗談であるが、先生の頭

の奥に、区々たる場所を超越した世界的

の観念が潜んでいればこそ、こんな挨拶

もできるのだろう。

 

またこんな挨拶ができればこそ、たいし

た興味もない日本に二十年もながくいて、

不平らしい顔を見せる必要もなかったの

だろう。 


 場所ばかりではない、時間のうえで

も先生の態度はまったく普通の人と違

っている。

 

郵船会社の汽船は半分荷物船だから船

足がおそいのに、なぜそれをえらんだ

のかと私が聞いたら、

 

先生はいくら長く海の中に浮いていて

も苦にはならない、それよりも日本か

らベルリンまで十五日で行けるとか十四

日で着けるとかいって、

 

旅行が一日でも早くできるのを、非常の

便利らしく考えている人の心持ちがわか

らないと言った。 


 先生の金銭上の考えも、まったく西洋

人とは思われないくらい無頓着である。

 

先生の宅に厄介になっていたものなどは、

ずいぶん経済の点にかけて、普通の家に

は見るべからざる自由を与えられている

らしく思われた。

 

このまえ会った時、ある蓄財家の話が出

たら、いったいあんなに金をためてどう

するりょうけんだろうと言って苦笑して

いた。

 

先生はこれからさき、日本政府からもら

う恩給と、今までの月給の余りとで、暮

らしてゆくのだが、

 

その月給の余りというのは、天然自然に

できたほんとうの余りで、用意の結果で

もなんでもないのである。 


 すべてこんなふうにでき上がっている

先生にいちばん大事なものは、人と人を

結びつける愛と情けだけである。

 

ことに先生は自分の教えてきた日本の学

生がいちばん好きらしくみえる。

 

私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰

ろうとした時、自分は今日本を去るに臨

んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自

分の指導を受けた学生に、

 

「さようならごきげんよう」という一句

を残して行きたいから、それを朝日新聞

に書いてくれないかと頼まれた。

 

先生はそのほかの事を言うのはいやだと

いうのである。

 

また言う必要がないというのである。

同時に広告欄にその文句を出すのも好ま

ないというのである。

 

私はやむをえないから、ここに先生の許

諾を得て、「さようならごきげんよう」

のほかに、

 

私自身の言葉を蛇足ながらつけ加えて、

先生の告別の辞が、先生の希望どおり、

先生の薫陶を受けた多くの人々の目に

留まるように取り計らうのである。

 

そうしてその多くの人々に代わって、

先生につつがなき航海と、穏やかな余

生とを、心から祈るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=zIksEFgITAs

 

 

 

 

長谷川君と余 

夏目漱石 



 長谷川君と余は互に名前を知るだけで、

その他には何の接触もなかった。

 

余が入社の当時すらも、長谷川君がすで

にわが朝日の社員であるという事を知ら

なかったように記憶している。

 

それを知り出したのは、どう云う機会で

あったか今は忘却してしまった。

 

とにかく入社してもしばらくの間は顔を

合わせずにいた。

 

しかも長谷川君の家は西片町で、余も当

時は同じ阿部の屋敷内に住んでいたのだ

から、住居から云えばつい鼻の先である。

 

だから本当を云うと、こっちから名刺で

も持って訪問するのが世間並の礼であっ

たんだけれども、

 

そこをつい怠けて、どこが長谷川君の家

だか聞き合わせもせずに横着をきめてし

まった。

 

すると間もなく大阪から鳥居君が来たの

で、主筆の池辺君が我々十余人を有楽町

の倶楽部へ呼んで御馳走をしてくれた。

 

余は新人の社員として、その時始めてわ

が社の重なる人と食卓を共にした。

 

そのうちに長谷川君もいたのである。

 

これが長谷川君でと紹介された時には、

かねて想像していたところと、あまりに

隔たっていたので、心のうちでは驚きな

がら挨拶をした。

 

始め長谷川君の這入って来た姿を見た

ときは――

 

また長谷川君が他の昵懇な社友とやあ

という言葉を交換する調子を聞いた時

――

 

全く長谷川君だとは気がつかなかった。

 

ただ重な社員の一人なんだろうと思った。

 

余は若い時からいろいろ愚な事を想像す

る癖があるが、未知の人の容貌態度など

はあまり脳中に描かない。

 

ことに中年からは、この方面にかけると

全く散文的になってしまっている。

 

だから長谷川君についても別段に鮮明な

予想は持っていなかったのであるけれど

も、

 

冥々のうちに、漠然とわが脳中に、長谷

川君として迎えるあるものが存在してい

たと見えて、長谷川君という名を聞くや

否やおやと思った。

 

もっともその驚き方を解剖して見るとみ

んな消極的である。

 

第一あんなに背の高い人とは思わなかっ

た。

 

あんなに頑丈な骨骼を持った人とは思わ

なかった。

 

あんなに無粋な肩幅のある人とは思わな

かった。

 

あんなに角張った顎の所有者とは思わな

かった。

 

君の風はどこからどこまで四角である。

頭まで四角に感じられたから今考えると

おかしい。

 

その当時「その面影」は読んでいなかっ

たけれども、あんな艶っぽい小説を書く

人として自然が製作した人間とは、とて

も受取れなかった。

 

魁偉というと少し大袈裟で悪いが、いず

れかというと、それに近い方で、とうて

い細い筆などを握って、

 

机の前で呻吟していそうもないから実は

驚いたのである。

 

しかしその上にも余を驚かしたのは君の

音調である。

 

白状すれば、もう少しは浮いてるだろう

と思った。

 

ところが非常な呂音で大変落ちついて、

ゆったりした、少しも逼るところのない

話し方をする。

 

しかも余に紹介された時、君はただ一二

語しか云わなかった。

 

(もっとも余も同じ分量ぐらいしか挨拶

に費やさなかったのは事実である。)

 

その言葉は今全く忘れているが、普通に

ありふれた空虚な辞令でなかったのはた

しかである。

 

むしろ双方で無愛想に頭を下げたのだっ

たろうが、自分の事は分らないから、相

手の容子だけに驚くのである。

 

文学者だから御世辞を使うとすると、ほ

かの諸君にすまないけれども、実を云え

ば長谷川君と余の挨拶が、ああ単簡至極

に片づこうとは思わなかった。

 

これらは皆予想外である。 


 この席上で余は長谷川君と話す機会を

得なかった。

 

ただ黙って君の話しを聞いていた。

その時余の受けた感じは、品位のある紳

士らしい男――

 

文学者でもない、新聞社員でもない、ま

た政客でも軍人でもない、あらゆる職業

以外に厳然として存在する一種品位のあ

る紳士から受くる社交的の快味であった。

 

そうして、この品位は単に門地階級から

生ずる貴族的のものではない、半分は性

情、半分は修養から来ているという事を

悟った。

 

しかもその修養のうちには、自制とか克

己とかいういわゆる漢学者から受け襲い

で、強いて己を矯めた痕迹がないと云う

事を発見した。

 

そうしてその幾分は学問の結果自らここ

に至ったものと鑑定した。

 

また幾分は学問と反対の方面、すなわち

俗に云う苦労をして、野暮を洗い落とし

て、そうして再び野暮に安住していると

ころから起ったものと判断した。 


 そのうち、君は池辺君と露西亜の政党

談をやり出した。

 

大変興味があると見えて、いつまで立っ

てもやめない。

 

娓々数千言と云うとむやみに能弁にしゃ

べるように聞こえてわるいが、時間から

云えば、

 

こんな形容詞でも使わなくってはならな

くなるくらい論じていた。

 

その知識の詳密精細なる事はまた格別な

もので、向って左のどの辺に誰がいて、

その反対の側に誰の席があるなどと、

 

まるで露西亜へ昨日行って見て来たよう

に例のむずかしい何々スキーなどと云う

名前がいくつも出た。

 

しかし不思議にもこの談話は、物知りぶ

った、また通がった陋悪な分子を一点も

含んでいなかった。

 

余は固より政党政治に無頓着な質であっ

て、今の衆議院の議長は誰だったかねと

聞いて友達から笑われたくらいの男だか

ら、露西亜に議会があるかないかさえ知

らない。

 

したがってこの談話には何らの興味もな

かった。

 

それで、あんまり長いから、談話の途中

で失敬して家へ帰ってしまった。

 

これが余の長谷川君と初対面の時の感想

である。 


 

 

https://www.youtube.com/watch?v=wNn9VgoQe20

 

 

 

 

 

子規の画 

夏目漱石 

 


 余は子規の描いた画をたった一枚持っ

ている。

 

亡友の記念だと思って長い間それを袋の

中に入れてしまっておいた。

 

年数の経つに伴れて、ある時はまるで袋

の所在を忘れて打ち過ぎる事も多かった。

 

近頃ふと思い出して、ああしておいては

転宅の際などにどこへ散逸するかも知れ

ないから、

 

今のうちに表具屋へやって懸物にでも仕

立てさせようと云う気が起った。

 

渋紙の袋を引き出して塵を払いて中を検

べると、画は元のまま湿っぽく四折に畳

んであった。

 

画のほかに、無いと思った子規の手紙も

幾通か出て来た。

 

余はその中から子規が余に宛てて寄こし

た最後のものと、それから年月の分らな

い短いものとを選び出して、

 

その中間に例の画を挟んで、三つを一纏

めに表装させた。 


 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄と

しては極めて単簡な者である。

 

傍に「是は萎み掛けた所と思い玉え。

下手いのは病気の所為だと思い玉え。

 

嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」

という註釈が加えてあるところをもっ

て見ると、

 

自分でもそう旨いとは考えていなかっ

たのだろう。

 

子規がこの画を描いた時は、余はもう

東京にはいなかった。

 

彼はこの画に、

 

東菊 活けて置きけり 

火の国に

 

住みける君の 帰り来るがね

 

と云う一首の歌を添えて、熊本まで送っ

て来たのである。 


 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋し

い感じがする。

 

色は花と茎と葉と硝子の瓶とを合せてわ

ずかに三色しか使ってない。

 

花は開いたのが一輪に蕾が二つだけであ

る。

 

葉の数を勘定して見たら、すべてでやっ

と九枚あった。

 

それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒

い藍なので、どう眺めても冷たい心持が

襲って来てならない。 


 子規はこの簡単な草花を描くために、

非常な努力を惜しまなかったように見え

る。

 

わずか三茎の花に、少くとも五六時間の

手間をかけて、どこからどこまで丹念に

塗り上げている。

 

これほどの骨折は、ただに病中の根気仕

事としてよほどの決心を要するのみなら

ず、

 

いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる

彼の性情から云っても、明かな矛盾であ

る。

 

思うに画と云う事に初心な彼は当時絵画

における写生の必要を不折などから聞い

て、

 

それを一草一花の上にも実行しようと企

てながら、

 

彼が俳句の上ですでに悟入した同一方法

を、この方面に向って適用する事を忘れ

たか、または適用する腕がなかったので

あろう。 


 東菊によって代表された子規の画は、

拙くてかつ真面目である。

 

才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、

絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅

くなって、

 

穂先の運行がねっとり竦んでしまった

のかと思うと、余は微笑を禁じ得ない

のである。

 

虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵

は旨いじゃありませんかと云ったこと

がある。

 

余はその時、だってあれだけの単純な

平凡な特色を出すのに、あのくらい時

間と労力を費さなければならなかった

かと思うと、

 

何だか正岡の頭と手が、いらざる働き

を余儀なくされた観があるところに、

隠し切れない拙が溢れていると思うと

答えた。

 

馬鹿律義なものに厭味も利いた風もあ

りようはない。

 

そこに重厚な好所があるとすれば、子規

の画はまさに働きのない愚直ものの旨さ

である。

 

けれども一線一画の瞬間作用で、優に始

末をつけられべき特長を、とっさに弁ず

る手際がないために、

 

やむをえず省略の捷径を棄てて、几帳面

な塗抹主義を根気に実行したとすれば、

拙の一字はどうしても免れがたい。 


 子規は人間として、また文学者として、

最も「拙」の欠乏した男であった。

 

永年彼と交際をしたどの月にも、どの日

にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得

るの機会を捉え得た試がない。

 

また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえ

もたなかった。

 

彼の歿後ほとんど十年になろうとする今

日、彼のわざわざ余のために描いた一輪

の東菊の中に、

 

確にこの一拙字を認める事のできたのは、

その結果が余をして失笑せしむると、感

服せしむるとに論なく、余にとっては多

大の興味がある。

 

ただ画がいかにも淋しい。

でき得るならば、子規にこの拙な所をも

う少し雄大に発揮させて、淋しさの償と

したかった。