https://www.youtube.com/watch?v=EELs1KIQZmo

 

 

 

 

巴里にて 

與謝野晶子 




 巴里の良人の許へ着いて、何と云ふ事

なしに一ヶ月程を送つて仕舞つた。

 

東京に居た自分、殊に出立前三月程の間

の忙しかつた自分に比べると、今の自分

は餘りに暇があるので夢の樣な氣がする。

 

自分の手に一日でも筆の持たれない日が

あらうとは想像もしなかつたのに、

 

此處へ來てからは全く生活の有樣が急變

した。

 

其れが氣樂かと云ふと反對に何だか心細

い樣な不安な感が終始附いて廻る。

 

好きな匂の高い煙草も仕事の間に飮んだ

時と、外出の歸りに買つて來て、

 

する事のない閑さに飮むのとは味が違ふ。

 

新しい習慣に從ふことを久しい間の惰性

が姑く拒むらしい。

 

其れに自分が日本を立つたのは、唯だ良

人と別れて居ることの堪へ難い爲めであ

つた。

 

良人が歐洲へ來たのとは大分に心持が異

ふ。

 

歐洲の土を踏んだからと云つて、自分に

は胸を躍らす餘裕がない。

 

ひたすら良人に逢ひたいと云ふ望で張詰

めた心が自分を巴里へ齎した。

 

而して自分は妻としての愛情を滿足させ

たと同時に母として悲哀をいよいよ痛切

に感じる身と成つた。

 

日本に殘した七人の子供が又しても氣に

掛る。

 

自分が良人の後を追うて歐洲へ旅行する

に就いては幾多の氣苦勞を重ねた。

 

子供を殘して行くと云ふ事は勿論その氣

苦勞の一つであつた。

 

其れが爲め特に良人の妹を地方から來て

貰つて留守を任せた。

 

子供等は叔母さんに直ぐ馴染んで仕舞つ

た。

 

叔母さんからの手紙は斷えず子供等の無

事な樣子を報じて來る。

 

手紙を讀む度にほつと胸を安めながら矢

張り忘れることの出來ないのは子供の上

である。

 

 

 


 巴里の街を歩いて居ると、よく帽に金

筋の入つた小學生に出會ふ。

 

其れが上の二人の男の子の行つて居る曉

星小學の制帽と全く同じなので直ぐ自分

の子供等を思ふ種になる。

 

ルウヴルの美術館でリユブラン夫人の描

いた自畫像の前に立つても其抱いて居る

娘が、

 

自分の六歳になる娘の七瀬に似て居るの

で思はず目が潤む。

 

自分はなぜ斯う氣弱く成つたのかと、日

本を立つ前の氣の張つて居たのに比べて

我ながら別人の心地がする。

 

 

 


 四月の半であつた。

里に預けて置いた三番目の娘が少し病氣

して歸つて來た。

 

附いてる里親の愛に溺れ易いのを制する

爲めに看護婦を迎へたりして其兒に家内

中が大騷ぎをして居る中へ、

 

四歳になる三男の麟が又突然發熱した。

 

叔母さんも女中達も手が塞がつて居るの

で書齋の自分の机の傍へ麟を寢かせて自

分が物を書きながら看護して居た。

 

温厚しい性質の麟は一歳違ひの其妹より

も熱の高い病人で居ながら、

 

覗く度に自分に笑顏を作つて見せるので

あつた。

 

而して無口な子が時時片言交りに一つよ

り知らぬ讚美歌の

 

「夕日は隱れて路は遙けし。

我主よ、今宵も共にいまして、

寂しき此身を育み給へ」

 

と云ふのを歌ふのが物哀れでならなかつ

た。

 

自分はそんな事を思ひ出しながら歩くの

で、巴里の文明に就いては良人が面白が

つて居る半分の感興も未だ惹かない。

 

過去半年に良人を懷ふ爲に痩せ細つた自

分は、歐洲へ來て更に母として衰へるの

であらうとさへ想はれる。

 

 

 


 日本服を着て巴里の街を歩くと何處へ

行つても見世物の樣に人の目が自分に集

る。

 

日本服を少しく變へて作つたロオヴは、

グラン・ブル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)アルの「サダヤツコ」と

云ふ名の店や、

 

巴里の三越と云つてよい大きなマガザン

のルウヴルの三階などに陳べられて居る

ので、

 

然まで珍しくも無いであらうが、白足袋

を穿いて草履で歩く足附が野蠻に見える

らしい。

 

自分は芝居へ行くか、特別な人を訪問す

る時かの外は成るべく洋服を着るやうに

して居る。

 

併し未だコルセに慣れないので、洋服を

着る事が一つの苦痛である。

 

でも大きな帽を着ることの出來るのは自

分が久しい間の望みが達した樣に嬉しい

氣がする。

 

髮を何時でも剥き出しにする習慣がどれ

丈日本の女をみすぼらしくして居るか知

れない。

 

大津繪の藤娘が被て居る市女笠の樣な物

でも大分に女の姿を引立たして居ると自

分は思ふのである。

 

丸髷や島田に結つて帽の代りに髮の形を

美しく見せる樣になつて居る場合に帽は

却て不調和であるけれども、

 

束髮姿には何うも帽の樣な上から掩ふ物

が必要であるらしい。

 

自分は今帽を着る樂みが七分で窮屈なコ

ルセをして洋服を着て居ると云つて好い。

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=KTPf8Z8PGhE

 

 

 

 

住吉祭 

與謝野晶子 




 海辺の方ではもう地車の太鼓が鳴つて

居る。

 

横町を通る人の足音が常の十倍程もする。

 

子供の声、甲高な女の声などがそれに交

つて、朝湯に入つて居る私を早く早くと

急き立てるやうに聞えた。 

 

此処に近い土蔵の入口に大番頭が立つて、

 

『真鍮の大の燭台を三組、中を五組、

銅の燭台を三組、

 

大大のおらんだの皿を三枚、

錦手の皿を三十枚、

 

ぎやまんの皿を百人前、

青磁の茶碗を百人前、煙草盆を十個。』

 

と中に入つて居る手代に手びかへを読み

聞かせて居る。 

 

『畳二畳敷程の蛸がな、砂の上を這ふて

ましたのやらう。

 

そうしたら傍に居た娘はんがびつくりし

やはつてきやつと云やはりましたで。』

 

『ほんまだすか。』
『真実だすとも、うはばみのやうな鱧も

おましたで。』


『まあ、さうだすか。』


井戸端で、昨夜の夜市を見て来た女中が

外の女中とこんなことを話して居る。

  

時々思ひ出した様に何処かでこほろぎが

鳴く。 

 

湯から上ると縁側の蒲筵の上に鏡台が出

してあつて、化粧役の別家の娘が眉刷毛

を水で絞つて待つて居た。

 

青い楓の枝に構まれた泉水の金魚を見な

がら、頸のおしろいを附けて貰つて居る

と、

 

近く迄来た地車のきしむ音がした。 


 牡丹に唐獅子 竹に虎

虎追ふて走しるは和藤内。 


こんな歌も聞えて来た、

 

さうすると三つの井戸の金滑車がけたた

ましい音を立てて、

 

地車の若衆に接待する砂糖水を造るので

家の中が忙しくなる。 


『旦那様、ありがたう。

御寮人様、ありがたう。』

 

その世話人が四五人家の中へ入つて来て

父母に挨拶をした。

 

揃の浴衣に白い縮の股引を穿いて、何々

浜と書いた大きい渋団扇で身体をはたは

たと叩いて居る姿が目に見える様である。 

 

白地の明石縮に着更へると、

別家の娘が紅の絽繻珍の帯を矢の字に結

んでくれた。

 

塗骨の扇を差した外に桐の箱から糸房の

附いた絹団扇を出して手に持たせてくれ

た。

 

店へ行く廊下を通る時大きい銀の薄のか

んざしの鈴が鳴つた。 

 

菊菱の紋を白く抜いた水色の麻の幕から

日が通つて、金の屏風にきらきらと光つ

て居た。 

 

従兄と兄はその前へ置いた碁盤で五目並

べをして居る。

 

将棋盤の廻りには十人程の丁稚が皆集つ

て居た。

 

花毛氈の上であるから並んだその白足袋

が美くしく見える。

 

九谷焼の花瓶に射干と白い夏菊の花を投

込に差した。

中から大きい虻が飛び出した。 

 

紅の毛氈を掛けた欄干の傍へ座ると、青

い紐を持つて来て手代が前の幕をかかげ

てくれた。

 

向ひのおてるさんが待つて居たやうにに

こやかに目礼した。

 

道の人通りが多いので常のやうに物を云

つても聞えさうではない。

 

水色の透矢の長い袂と黒い髪が海から来

る風で時々動くのが見えるだけであつた。 

 

氷屋が彼方此方で大きい声を出して客を

呼んで居る中へ、

 

屋台に吊つて太鼓を叩いて菓子売が来た

辻に留つて背の高い男と、それよりも少

し年の上のやうな色の黒い女房とが、

 

声を揃へて流行歌を一くさり歌つた。

 

どんどんとその後でまた太鼓を打つた。

 

 

欄干の前に置いた大きい床机の上で弁当

を開く近在の人もある。 

 

和歌山の親類の客を迎へに停車場へ行つ

て居た番頭が真先になつて七八台の車が

着いた。

 

絽の紋附の着物を着た裏町の琴の師匠が

来た。

 

和歌山の客は皆奥で湯に入つて居るらし

い。 

 

杯盤や切ずしを盛つた皿が持つて来られ

て、父も母も客も丁稚も皆同じやうに店

で食事をした。 

 

通る地車の数が多くなつて、砂糖水はも

う間に合はないで、

 

奉書包みを扇に載せてその世話人達に番

頭は配つて、

 

橋の上に立つて大きい目をした張飛だの、

加藤清正だのの地車の彫物を和歌山の客

は珍しさうに見た。 


『とても和歌祭にはかなひまへん。』


と父はその人等に云つて居る。

 

街々の祭提灯に火が入るまでに私は三度

程着物を着更へさせられた。 

 

行列の太鼓の音がほのかにすると家中の

人が皆欄干の処に集る。

 

この家が船であつたなら一方の重味で覆

るであらう。 

 

猿田彦が通り、美くしく化粧したお稚児

が通り、

 

馬に乗つた禰宜が通り、神馬が通り、

宮司の馬車が通り、勅使が通り、

 

行列は終になつたが、神輿はまだ大和橋

を渡つたとか渡らぬとか群衆が云て居る。 

 

黒い波のやうになつて道を通る人は皆南

の方を向いて神輿のお旅所の方ヘ行くの

である。 

 

浜の方からは神輿の迎へに開運丸、住吉

丸などと船の名を書いた旗を持つた若者

が幾人も幾人も走しつて行く、 

 

四五町先へ神輿が来た頃から危ながつて

道端に居る人が皆店の上へ上つて来る。

 

幾千の弓張提灯の上を神輿が自然で動く

やうに見えて

 

四方に懸けた神鏡がきら/\として通つ

た後二三十分で祭の街は死んだやうに静

かになつて、

 

海の風が藻の香を送る。


 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=N1b-jxgW0ZY

 

 

 

 

 

戸の外まで 

與謝野晶子 




 自室から出ましてね、廊下の向うの隅

に腰を掛けて車丁に、


『わたしは巴里へ行くのよ。』
 と云ひました。


『ええ、奥様。』
 と笑ひながら頤の先に髯のある車丁は

笑つてましたよ。

 

一昨日までの露西亜人、今朝迄の独逸人

とは比べものにならないやうな優しい車

丁ですよ。

 

四時に巴里へ着くことに決つて居ても、

巴里が終点であることが解つて居てもや

つぱしね、

 

すうと巴里を抜け通つてしまつて、地中

海の海岸まで伴れて行かれやあしないか

と思ふんでせうね、

 

心配なんでせうね。

 

 廊下の大きい硝子窓の向うには、ばた

ばたと血を落して、汽車の行くのと反対

の方へ飛んで行く何かのあるやうに雛罌

粟が咲いて居るんです、

 

国境からはもうずうつとかうなの。

 

矢車草もあるんですよ。 


 ノオルド・エキスプレスは綺麗な汽車

なんですよ。

 

かう云ふ厚硝子張りの一等車ばかりがつ

ながつてるんですものね。

 

それにわたしのやうな、昨日からあと二

日位食事はしないで置かうと、

 

必要上考へなければならなかつたやうな

女が乗つてるんですものね、

 

可笑しいわけですわねえ。 


 わたしの卓の上にはまだ化粧品や何か

がしまはれずに置いてあるのですわ、

 

暇つぶしがなくなつては困りますからね。

 

書物なんかはもう皆片附けてしまつたの

です。

 

書物と云つてもね、太抵もう西部利亜の

間で三四度も読んだもので、

 

もう味の薄くつまらないものになつたも

のばかしでしたもの。 


 わたしは又席へ帰つて来て、随分沢山

な荷物だと思つて、頭の上から足の廻り

を見廻しましたよ。 


 川が見え出しましたの、岸の低いねえ、

一寸手を伸してもしやぶしやぶと水なぶ

りが出来さうな川。

 

向うの堤には小枝の多い円い形の木が並

んで居ましたよ。

 

かなりいろんな船が居りますのよ。

隅田川の半分くらゐの川だけれど。

 

甲板の黄色く塗つたのや、赤い色の沢山

使はれたのや、紫がかつた黒い船やとか

ねえ。

 

人も随分乗つて遊んでるの、向う岸の処

々には船と同じやうな美くしい色をした

小家があるんです。

 

その向うがずうと薄お納戸色にぼけた街

の家並なんでせう。

 

一番向うは空の下を低い山が這つて居る

のでせう。

 

山は代赭と緑の絵の具を無茶になすり附

けたやうな色。

 

一番冷い色をしたのが間にある街なんで

せう。

 

ですからね、却て向うの方が水の流れて

居る川のやうなのです。 


 わたしは前の川をセエヌ川かしらと思

ひました。

 

又さうぢやなからうと思ひました。

 

わたしはもう地図なんか出して見られや

あしない。

 

わたしの手はもうぶるぶると慄えて居ま

す。

 

何が出来ますものですかねえ。 


 川が見えなくなつたり、その川と思ふ

やうな水を渡つたり、

 

さうかと思ふとまた以前と同じ方角に同

じやうな川があつたり、

 

細くてそして房々とした枝の木が多いそ

んな林を通つたり、

 

崖と崖の間を通つたりして居るうちに、

石ばかりで出来上つたやうな小都市の上

を通つて行くのでしたわ。

 

お墓のやうな気のする清い街だと思ひま

してね、

 

私はまた思はず廊下へ出ましたの、

 

四五人も窓から外を見てましたわ。

 

此方側の方はその綺麗な家の壁などとす

れすれになつて行くのでした。

 

青い羽蒲団を窓へ出して居る娘さんや、

はたきを肩にかついだやうな形のまま

で立つて居た女中なんかとわたしも真

近に顔を合せましたわ。 


 それから一時程経ちました。

汽車がもう巴里の停車場の構内に入つて

行くらしい。

 

大きな機関車の壊れたのを見るやうな停

車場のかかりだとわたしは思つてました。

 

けれど、けれどまだなかなか長いのです。
 

『奥様、巴里ですよ。』
『ええ。』


 わたしは自室から飛び出したわ。

 

車丁は棚からわたしの荷物を下し初めた

でせう、きつとね。

 

もういよいよ汽車が止りさうなので昇降

口まで出て行きました。

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=u-ixxNVJ1aY&t=675s

 

 

 

 

 

産褥の記 

与謝野晶子 

 




 わたしは未だ病院の分娩室に横になつ

て居る。

 

室内では夕方になると瓦斯暖炉が焚かれ

るが、好い陽気が毎日つづくので日のあ

る間は暖い。

 

其れに此室は南を受けて縁に硝子戸が這

入つてゐるから、障子を少し位明けて置

いても風の吹込む心配は無い。

 

唯光線がまぶしいので二枚折の小屏風を

障子に寄せて斜に看護婦が立てて置く。

 

未だ新しい匂の残つてゐる畳の上に、妙

華園の温室を出て来た切花を硝子の花瓶

に挿した小い卓と、

 

此月の新しい雑誌が十冊程と並べられて

ある外に何物も散ばつて居ない。

 

整然として清浄な、而して静かな室であ

る。 


 看護婦さんは次の副室に控へて居る。

 

其処には火鉢や茶器や手拭掛や、調度を

入れる押入や、食器を入れる箱などが備

へてあるらしい。

 

見舞に来る人は皆其処で帽や外套や被布

やを脱ぐ。

 

其人達がわたしの前に現れる時は凡て掩

ひを取去つた人達である。

 

羽織袴の立派なのを改まつて著けてゐる

人は少い。

 

大抵は常著の人である。

 

裸体で這入つて来るのと格別相違の無い

人達である。

 

見舞の言葉もくどくどと述べる人は無い。

 

何れも「奥さん、どうですか」位のこと

を云つて、後は帝国劇場の噂とか、新刊

小説の評判とかを少時して帰つて行く。

 

わたしは其人達の他人行儀の無い、打解

けた友情の温く濃かなのが嬉しい。 


 と云つて其人達はお互の交際範囲でば

かり生きてゐる人で無い。

 

芸術ばかりで生きて居られる時代に住ん

でゐる人でも無い。

 

次の副室に退くや否や、或人は大学帽を

被り、或人は獺の毛皮を襟に附けた外套

を被り、

 

或人は弁護士試験に応じる準備の筆記を

入れた包を小脇に挟んで帰る。

 

一歩この病院の門を出ればもう普通の人

に混じて路を行くのである。

 

わたしは見送に出られる身で無いけれど、

わたしの友達が其れぞれ何う云ふ掩ひ物

に身を鎧うて此病院の門から世間へ現れ

 

「仮面」の生活を続けて行くかと云ふ事

は大抵想像が附く。

 

どうせ軍人にならない人達だから祖国で

重宝がられる訳には行くまい。

 

わたしは斯んな事を考へて思はず独で微

笑んだ。 

 


 副室の前は廊下になつてゐて、玄関か

ら此処まで来るには二三回も屈折して廿

四五間もある長い廊下を、

 

おまけに岡の様な地形を利用して建てら

れた病室の廊下であるから、急な傾斜を

二三度も上下して通らねばならぬ。

 

通る人は皆上草履を浮かす様にして通る。

 

此処は音を忌む国なのである。

 

「足音をお静に」と云ふ貼紙が幾所にも

してある。

 

或病室の前には、「重症患者有之候に付特

に足音を静に御注意被下度候」とさへ書

いてあると云ふ。 


 併し斯うして病室に横になつてゐる身

には、其最も忌むと云はれる「音」が何

よりも恋しい。

 

宇宙と云ひ人生と云ふも客観的に云へば

畢竟線と色と音との複雑な集りから成立

つて居る。

 

学問芸術に携はる人は、其複雑な線と色

と音とが有つて居る微妙にして偉大な調

和を読んで、

 

一般群集の前に闡明する者だと云つて可

い。

 

固よりわたしは然う云ふ立派な芸術家で

も無く、

 

殊に今のわたしは産後の疲労の恢復する

のを待つて天井を眺めてゐる「只の女」

である。

 

其れにしても此病室で見る線と色とは余

りに貧弱である。

 

音と云つたら副室で沸る鉄瓶の音と、廊

下の前の横長い手洗場で折折医員や看護

婦さんが水道栓を捩ぢて手を浄める音と、

 

何処かで看護婦達の私語する声と、看護

婦の溜で鳴る時計の音と、其れ位のもの

である。

 

宅に居て何時も静かな家に住みたいと願

つて居たわたしも此単調には堪へられな

い。

 

二三日前までは時計の鳴るのを待ち兼ね

たが、

 

今ではもう、十二時頃だらうと思ふのに

未だ宵の九時を打つたりするのでがつか

りして、

 

あの意地の悪い音は聞えない方がよいと

思ふ。

 

耳を澄まして何か新しい物音を探し当て

ようとするが、変つた音の聞えないのは

苦痛である。 

 


 偶※(二の字点、1-2-22)廊下の遠くから幽かな上草履の音

がして、其れが自分の副室の前で留つた

時は胸を跳らさずに居られない。

 

其れが行き過ぎて外の病室の見舞客であ

る時は惨めである。

 

人は孤立を嫌ふ。

同情して貰ひたいのが素性であるらしい。 

 


 毎日学校の帰りに立寄る長男は、いく

ら教へて置いても廊下で音を立てる。

 

わたしは気兼をしながら其子供らしい足

音を聞くと気が引立つ。

 

夜に入つて見舞に来て呉れる良人は、静

かに廊下に立止つて指先で二度ほど軽く

副室の入口の障子を弾く。

 

中の人に注意を与へて置いて這入つて来

るのであるが、

 

しんとした静かな中で響く指音は、忍ぶ

恋路の男がする合図の様に聞える。

 

其瞬間、十年前に経験しなかつた若い心

持をわたしは今更味ふ様な気がする。 

 



 看護婦さんは行儀の正しい無口な女で、

物を言へば薄い銀線の触れ合ふ様な清ん

だ声で明確と語尾を言ふ。

 

感情を顔に出さずに意志の堅固さうな所

は山口県生れの女などによく見る型であ

る。

 

わたしは院長さんの博士よりも此の看護

婦さんに余計気が置ける。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=KdrjdLISVgc

 

 

 

 

 

隣の家 

與謝野晶子 




 私達が去年から借りて住んで居る家の

左隣は我国の二大富豪の一として知られ

た某家の一族の邸である。

 

私の家との間に高さ一丈余りの厚い煉瓦

塀が立つて、其上に忍び返しが置かれて

居る。

 

その塀に接近して建てられた私の家は全

く風通しが悪いので今日此頃の暑さが非

常である。

 

おまけに塀の上部に隣の庭の高い木立が

黒味を帯びた緑をして掩ひかぶさつて居

て、

 

その木蔭から発生する無数の藪蚊が塀を

越えて断えず私の家に襲来する。

 

蚊遣線香をのべつに焚いても防ぎ切れな

い。

 

私の家の多勢が又しても呟き呟きアンモ

ニヤを手足へ附けて居る。

 

大きな体をした悪性の藪蚊で、子供や女

中の中には

 

螫された跡が飛ぶ火と云ふ発疹物のやう

にじくじくと気持悪るく膿を持つて

 

両脚一面にお医者さんから繃帯をして貰

つて居る者さへある。

 


 其塀の彼方は広い立派な庭になつて居

ると聞くだけで、勿論こちらからは見え

る筈が無い。

 

隣の邸の建物はずつと遠くにあるのであ

らう、私達は此処へ移つて来てから塀の

向ふでする人の笑ひ声一つ聞いたことも

無い。

 

いつも塀の向ふは静かである。

 

唯だ夜になると大きな飼犬が邸の内へ放

たれると見えて、それの吠える声が聞え

る。

 

さうして、夜更けて私達が書斎の戸を締

めたり、子供達が便所へ行つたり、

 

末の子のために私が牛乳を温めに起きた

りする物音の聞える度に、屹度其犬が塀

の側へ駈け寄つて私達に吠える。

 

私はその主人に忠実な犬だとぐらゐしか

思つて居ないけれども、

 

僻む人には毎晩隣の犬に怪まれねばなら

ないと云ふことがいい感じを与へないで

あらう。 

 


 富んだ私人の家や公共的の建築が高い、

いかめしい、堅固な塀で取巻かれて居る

ことを私は好ましくないことだと思つて

居る。

 

それは他と親まずに秘密主義を守つて居

た封建割拠時代の遺風である。

 

館や城に立て籠つて最後まで戦ふ準備を

必要とした武士道時代の余習である。

 

また武士と町民との区別がやかましくて、

前者が後者に対し形式的に威張り散らし

た時代の模倣である。

 

もう今の時代に監獄と火薬庫と要塞とを

除いて、其様な恐しい塀の設備が必要だ

とは考へられない。

 

塀は邸の境を分つだけに役立てばよいか

ら、自由に内外の見通せる鉄柵か石の金

剛柵かを設けて置けば十分である。

 

欧洲では帝王の家までがバツキンガム宮、

ベルサイユ宮のやうに鉄柵の間から自由

に覗かれるやうに造られて居る。

 

維納の宮殿などは全く開放的で、其中を

民衆が自由に馬車や自動車を駆つて横断

して居る。

 

私は靖国神社のやうな国民の崇拝的記念

建築がなつかしくない排他的な重苦しい

塀で掩護されて居るのを見ると、

 

折々一種の不快を覚えるのである。 

 


 若し私の家も隣の塀が清楚な鉄柵か石

の柵であつたら風通しが好くなるであら

う。

 

風と日光とが好く通れば隣の庭に藪蚊が

発生して私の家族を悩ませることも減じ

るであらう。

 

また鉄柵の間から隣の立派な庭が覗かれ

て、どんなに私達の目と心とを爽かにす

るであらう。

 

偶には双方の家族が塀越しに微笑と挨拶

とを交換して隣同志の人情を流露し合ふ

機会も生じるであらう。

 

少くとも隣の犬が私達の顔を見知つて夜

中に吠えたりすることが無くなるであら

う。 

 


 一体に貴族や富豪で宏大な庭園や、立

派な建築や、珍しい沢山の美術品やを所

有して居る家は

 

出来るだけ開放して公衆の縦覧を許すや

うにして欲しいものである。

 

巴里の大美術商ジユラン・リユイル氏が

毎週に一度その寝室までを公開して所蔵

の印象派以後の諸大家の絵を縦覧させて

居るやうなことは、

 

完全な公設美術館の無い我国では殊に必

要であり、有益であると思ふ。

 

例へば私達は日本式の庭園術が特色を持

つて居ることを書物の上で知つて居ても、

 

京都の桂の離宮や二条離宮を拝観しない

以上、有名な小堀遠州の庭園術を実際に

鑑賞することは出来ない。

 

かう云ふ遺憾は日本の各時代と各流派と

を代表する美術品に就いても常に感じる

ことである。

 

私は紀州の徳川侯が南葵文庫を公開され

たり、尾張の徳川侯が有名な源氏物語絵

巻其他の貴重な美術品を先頃一部の人達

 

一日の縦覧を許されたりしたやうなこと

が続々行れて欲しいと思つて居る。

 

今の若い芸術家は自分の国の芸術を知ら

ないと云はれるが、知らうにも知る機会

が非常に乏しいのである。

 

私の知つて居る若い文人で木下杢太郎さ

ん程日本の芸術に該博な知識を持つて居

る人は無いと思はれるが、

 

木下さんが其れまでに蘊蓄されるには非

常な注意と時間とを費されたことであら

う。

 

巴里のルウヴル宮やリユクサンブルの美

術館のやうな所があつたら半年でも得ら

れる知識を、

 

木下さんは東京と奈良と京都とで恐らく

十年も費して居られるであらう。

 

私なども日本では其断片しか見なかつた

浮世絵を、初めて白耳義アンゼルの博物

館で各流派に亘つて一目に知ることが出

来たやうな次第である。