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産褥の記
与謝野晶子
わたしは未だ病院の分娩室に横になつ
て居る。
室内では夕方になると瓦斯暖炉が焚かれ
るが、好い陽気が毎日つづくので日のあ
る間は暖い。
其れに此室は南を受けて縁に硝子戸が這
入つてゐるから、障子を少し位明けて置
いても風の吹込む心配は無い。
唯光線がまぶしいので二枚折の小屏風を
障子に寄せて斜に看護婦が立てて置く。
未だ新しい匂の残つてゐる畳の上に、妙
華園の温室を出て来た切花を硝子の花瓶
に挿した小い卓と、
此月の新しい雑誌が十冊程と並べられて
ある外に何物も散ばつて居ない。
整然として清浄な、而して静かな室であ
る。
看護婦さんは次の副室に控へて居る。
其処には火鉢や茶器や手拭掛や、調度を
入れる押入や、食器を入れる箱などが備
へてあるらしい。
見舞に来る人は皆其処で帽や外套や被布
やを脱ぐ。
其人達がわたしの前に現れる時は凡て掩
ひを取去つた人達である。
羽織袴の立派なのを改まつて著けてゐる
人は少い。
大抵は常著の人である。
裸体で這入つて来るのと格別相違の無い
人達である。
見舞の言葉もくどくどと述べる人は無い。
何れも「奥さん、どうですか」位のこと
を云つて、後は帝国劇場の噂とか、新刊
小説の評判とかを少時して帰つて行く。
わたしは其人達の他人行儀の無い、打解
けた友情の温く濃かなのが嬉しい。
と云つて其人達はお互の交際範囲でば
かり生きてゐる人で無い。
芸術ばかりで生きて居られる時代に住ん
でゐる人でも無い。
次の副室に退くや否や、或人は大学帽を
被り、或人は獺の毛皮を襟に附けた外套
を被り、
或人は弁護士試験に応じる準備の筆記を
入れた包を小脇に挟んで帰る。
一歩この病院の門を出ればもう普通の人
に混じて路を行くのである。
わたしは見送に出られる身で無いけれど、
わたしの友達が其れぞれ何う云ふ掩ひ物
に身を鎧うて此病院の門から世間へ現れ
「仮面」の生活を続けて行くかと云ふ事
は大抵想像が附く。
どうせ軍人にならない人達だから祖国で
重宝がられる訳には行くまい。
わたしは斯んな事を考へて思はず独で微
笑んだ。
副室の前は廊下になつてゐて、玄関か
ら此処まで来るには二三回も屈折して廿
四五間もある長い廊下を、
おまけに岡の様な地形を利用して建てら
れた病室の廊下であるから、急な傾斜を
二三度も上下して通らねばならぬ。
通る人は皆上草履を浮かす様にして通る。
此処は音を忌む国なのである。
「足音をお静に」と云ふ貼紙が幾所にも
してある。
或病室の前には、「重症患者有之候に付特
に足音を静に御注意被下度候」とさへ書
いてあると云ふ。
併し斯うして病室に横になつてゐる身
には、其最も忌むと云はれる「音」が何
よりも恋しい。
宇宙と云ひ人生と云ふも客観的に云へば
畢竟線と色と音との複雑な集りから成立
つて居る。
学問芸術に携はる人は、其複雑な線と色
と音とが有つて居る微妙にして偉大な調
和を読んで、
一般群集の前に闡明する者だと云つて可
い。
固よりわたしは然う云ふ立派な芸術家で
も無く、
殊に今のわたしは産後の疲労の恢復する
のを待つて天井を眺めてゐる「只の女」
である。
其れにしても此病室で見る線と色とは余
りに貧弱である。
音と云つたら副室で沸る鉄瓶の音と、廊
下の前の横長い手洗場で折折医員や看護
婦さんが水道栓を捩ぢて手を浄める音と、
何処かで看護婦達の私語する声と、看護
婦の溜で鳴る時計の音と、其れ位のもの
である。
宅に居て何時も静かな家に住みたいと願
つて居たわたしも此単調には堪へられな
い。
二三日前までは時計の鳴るのを待ち兼ね
たが、
今ではもう、十二時頃だらうと思ふのに
未だ宵の九時を打つたりするのでがつか
りして、
あの意地の悪い音は聞えない方がよいと
思ふ。
耳を澄まして何か新しい物音を探し当て
ようとするが、変つた音の聞えないのは
苦痛である。
偶
廊下の遠くから幽かな上草履の音
がして、其れが自分の副室の前で留つた
時は胸を跳らさずに居られない。
其れが行き過ぎて外の病室の見舞客であ
る時は惨めである。
人は孤立を嫌ふ。
同情して貰ひたいのが素性であるらしい。
毎日学校の帰りに立寄る長男は、いく
ら教へて置いても廊下で音を立てる。
わたしは気兼をしながら其子供らしい足
音を聞くと気が引立つ。
夜に入つて見舞に来て呉れる良人は、静
かに廊下に立止つて指先で二度ほど軽く
副室の入口の障子を弾く。
中の人に注意を与へて置いて這入つて来
るのであるが、
しんとした静かな中で響く指音は、忍ぶ
恋路の男がする合図の様に聞える。
其瞬間、十年前に経験しなかつた若い心
持をわたしは今更味ふ様な気がする。
看護婦さんは行儀の正しい無口な女で、
物を言へば薄い銀線の触れ合ふ様な清ん
だ声で明確と語尾を言ふ。
感情を顔に出さずに意志の堅固さうな所
は山口県生れの女などによく見る型であ
る。
わたしは院長さんの博士よりも此の看護
婦さんに余計気が置ける。
