恋愛小説家 -9ページ目

Roke 2011

台風15号が通り過ぎて行きました。


午前中で仕事を終えて、駅まで向かう道のりで

何度かシャワーに見舞われ、膝から下がびしょぬれになりました。

レインコートと大きな傘のおかげで絶望的な姿は免れたものの

低い雨雲から大量の水が落ちてきて、地表では風が巻いているし

路肩の排水溝で処理しきれない雨水が穴から吹き上げていました。


そんな状況で、雨の日用にしている合成革の靴はまるで歯が立たず

おもしろいほど水が入り、前進するたびジャポジャポ鳴りました。

だんだんどうでもよくなってきて、仕舞には笑えてくるから不思議です。

普段なら、大人はしないであろう叱られる水遊びを満喫しました。

丸洗いしたその靴も、ようやく乾きました。


そして、本当の秋がやってきました。


夕方になると、いつまでも夏の気分が抜けきれず浮かれていた者を

ハッとさせるような、冷たい風が吹いてきます。

寒いはずです。9月もあと僅かなのですから。


我に返り、湯船にお湯を張りました。

そこに、去年のクリスマスごろ友達にもらったコミカルな入浴剤を投入。

「おかえりなさいませ」と、メイド風美女が描かれています。

4分の3年も宝の持ち腐れになっていたので、こんな時こそ使わねば。

ピンク色したお湯に浸かって、指の先まで温まりました。

おかえりなさいませ。ただいまかえりました。


紅葉はすぐにやってくるでしょうか。

真冬に自転車に乗るのはどんな感じでしょうか。


夏の暑さに何度となく「あつい」とこぼした私は

冬の寒さにも「さむい」と繰り返してしまいそうですが

苦手なことがあったとしても、四季はどれも素晴らしいもので

好きな季節をどれか一つだけ選び取ることなど、出来そうにありません。


どうか、ご自愛ください。

 

通り雨

恋愛小説家


「通り雨みたいに泣きたいときあるよね」って

誰かに訊きたかったけど誰に?


「わかるよ」と言ってくれるかな

そんな気がする、そんな気がするから

もう大丈夫だと思った


この身など地球の上では塵より小さい

吹けば飛ぶほど小さいね


けれどほんの数グラムでも

この想いが大きくなっただけ

重たくなっていたんだよ


吹けば飛ぶほど小さなこの身でも

 

紅茶の事典

紅茶の事典を見ていたら熱い飲み物が欲しくなって

キャラメル紅茶に、練乳をひと匙入れてみました。

事典にある、紅茶の歴史や産地や文化などのコラムを読みながら

見たこともない土地や遠い昔の人たちのことを

ぼんやり考えていました。


高校時代に、世界史の教科書に出ていた

「ボストン茶会事件」の挿絵を憶えています。

船の上からお茶の木箱を海に投げ捨てている植民地人と

港でヤイヤイ騒いでいる白いかつら姿の紳士たちの図。

アメリカ植民地にも茶が広まり、嗜好品としての需要が高まったことで

イギリス本国は植民地から税金を取ろうとした結果、

密輸が増え、諍いが生じ、課税反対運動が起こり、

とうとう独立戦争の引き金になるなんて。

喫茶の「茶会」かと思いきや、まるで穏やかではない戦いの火蓋。

たかがお茶、されどお茶。

何人たりともお茶の自由を奪ってはならず・・・です。


甘いキャラメル紅茶を、一口。


お茶をするのが好きだった友人に

G.H. FORD TEAの、ティーボールの詰め合わせを贈りました。

全部違う色のタグがついている、球状のティーバッグが珍しく

30数種類のフレーバーがあって、日替わりで楽しめるもので

今日はどれにしようかと悩みながら、少しずつ飲んでくれたら本望でした。

それでも、それらのお茶は私が訪ねていく日に限って開封されるから

すべての味を飲み終わるまでにはとても時間がかかりました。


「お茶でも淹れましょう」と、言いだすのは大抵

新しいアイデアをシェアしたいときや、何事かに煮詰まったとき、

いただきもののお菓子が残っているときや

向き合って語り合いたいとき、そっぽを向いて黙っていたいとき、

大切な何かを打ち明けたいときなど、決まってお湯を沸かしました。


何もしていないようで、息もしていれば、お腹もすくものらしく

なぜかしょっぱいキャラメル紅茶を、もう一口啜りました。

随想 110916

恋愛小説家

 

授業中に、ノートの下にもう一冊ノートを忍ばせて

詩や絵や散文、心の中にあることを書き溜めていました。

自分だけの言葉で、自分なりの思いつきを文字にすることで

上手く消化できない悩みごとや思春期にありがちなもやもやから

解放される気がしていました。

そう、ノートの中にいる私は、自由だと思っていたのです。


ある日、私はやはりそのノートに何かを書いていて

まわりのことに少し上の空になっていました。

だから斜め後ろに国語の教師が立っていることに

ぎりぎりまで気付きませんでした。


あっという間のことでした。

教師は私のノートを取り上げ歩き去り

教壇に立ち、クラス全員の前で言い放ちました。

「これをここで読み上げるか、破り捨てるか選べ」


事実、どうでもよい落書きばかりだったように思います。

それでも、たまには哲学めいていたり繊細であったり恋をしていたり

口に出せないこと、秘密にしておきたいことも書いていました。

なにせノートの中では、私はとても自由だったのですから。


その領域を教師の厭味めいた声で読み上げられることは

裸で人前に立たされるほど耐えられない気がしました。

ノートは“なかったもの”として、縦に横に、愉快気に切り裂かれ

私の大切な何かしらと一緒に紙屑となり消えました。


ふとした拍子に、苦い記憶がよみがえってきたのは何故でしょう。

忘れていたのに思い出してしまいました。

あの日、この胸がとても痛かったことや、

本当は悔しくて仕方なかったのに、

恥ずかしさとバツの悪さを笑ってごまかしてしまったことなどを。

「返して下さい」と懇願していれば戻ってきていたでしょうか?

ううん。と、本能が首を振っていました。

そんな人が“国語”の先生だなんて、悲しいことだと思いました。

  

随想 110915

カレンダーを見て、今月も折り返しだと気付き

宿題になっている原稿を書かなくちゃ!と思い出しました。

本当は仕事を宿題にしてはいけません。

それから、自分のためのモノカキに脳内を整理中。

時間ばかりが流れていますが、前より冷静です。


表面は何も変化していないようで、

内側が少しずつ熟れていく椰子の実。

幹があり、葉があり、繊維があり、花も果実もある。

どんな風に活用されていくのか、方法は無限に広がり

木陰でさえ、人を憩わせる椰子の木。



SOHOで働いていたころと違うのは

通勤があること、毎日決まった人に会うこと、部や課があること

昼休みがあること、電話にでること、始まりと終わりがあること

「数」ではなく「時間」への対価、使う文房具の種類、

それに、仕事そのものの内容もちょっと違っています。

自分では結果が見えませんが、人には見られているようで

良いことも悪いことも、忘れたころに還元されてくるものです。


集中できることがあると楽しく、時間が飛ぶようにすぎます。

そういうときは、非常に気持ちがいい。

小さくても、自分が歯車のひとつになりたいのです。

なれるかな、なれたかな、誰かの役にたてているかな。

仕事に限らず、日常でも、どんな場面でも

「あなたが居てくれてよかったなぁ」と親指が上がるとき、

私も生きててよかったなぁと、思います。・・・大袈裟ですが。



「椰子の実」の歌が好きです。

望郷の念、それでも旅をする。

それとも旅によって望郷の念が生まれるのか。

作詞は島崎藤村によるもの。



名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実ひとつ
故郷の岸を離れて
汝はそも 波に幾月

旧の樹は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕
ひとり身の 浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新たなり 流離の憂い
海の日の 沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん

  

合理非合理

恋愛小説家


あなたは

私には無い切り口で

理に適った正論を説くから

これまで合理的な考え方ってものを

ずいぶん学んだ気がする


わたしは

あなたが呆れる切り口で

夢みたいな理想論を説くから

非合理的なロマンチシズムを

全力で否定されることもあるけど


理屈じゃどうにもならない

愛ってものがあるんだと

一石ぐらい投じてみたい



覚書 110913

「私って目が悪いのよね」と、近視度合いの暴露大会がときに起こりますが

いつも、こういう場ではだんまりになります。

子どもの頃から、かなりシビアに目が悪いので

洒落にならないから、コメントできない。口をはさみません。

頼みの綱のアキュビューも-12Dまでしか製造していないので

もう完全に崖っぷちです。


最近、ちょっと真面目に自分の眼(視力)のことを考えていました。


レーシックについて、これまで調べなかったわけではありませんが

近視の度合いが強すぎて、ムリだろうとあきらめていました。

正しくは、良く調べずに、あきらめていました、

けれど、どこへ行くにも何をするにも、

眼が良く見えたならどんなに素晴らしいかと夢ぐらいは見ており

ここ数日、良く調べて、やっぱり検査ぐらい受けてみよう!と思い立ち

経験者にも背中を押されて、クリニックへ足を運んでみたわけです。


名前が呼ばれるまでの間、もしもこの眼がよく見えるようになったら

生まれ変わったように感じるだろうと妄想して、ぬか喜びしていたので
レーシックでの視力矯正は不可能という結果には落胆しました。

度数を調整できるほどの角膜の厚みが、明らかに足りません。

(近視が強いほど深く削るため、残存する角膜が薄くなりすぎてしまう)

ダメならダメとはっきり判っただけでも収穫がありました。


とはいえ。

予想通りでも、しょんぼりぐらいはします。


結局、私の視力はこれまでと何も変わらないのですが

でも、今回検査のために裸眼で上京した私の手を引き

盲導犬のように、つきあってくれた仲間に感謝します。

結果がNGでも頭をぽんぽんとたたき、至極いつも通りで、

同情めいたなぐさめは不要なのでした。

不便な場面では代わりに見てあげる、と、遠回りを面倒くさがらず

最後まで親切だったやさしさが身に染みました。


スクラップ

思い出を貼る茶色い台紙が

だんだん分厚くなってきた


ごめん先に謝っておくけど

あなたが「捨てて!」と言っていた

殴り書きのメモも貼ってあるよ

もう糊が乾いちゃったし

頼まれても剥がせないんだこれが


判読困難な文字とラフな地図

何か大急ぎで計画した

とりあえずの紙切れに

どれだけ我々らしさが籠っているか

その情景が嬉しかったから

これを貼らずして何を貼る、と思った


通り過ぎた過去に頼るためじゃない

ページの角も取れたころに本を開いて

あれやこれや拾い上げては

ガラクタめいた宝物を吟味して

おもしろいねと小突きあいたいだけ


今度は何処へ行こうって

そんな日々がいとしい

だから許して、あしからず


tune up

恋愛小説家


見慣れた景色。見慣れた顔ぶれ。それでも、もっとよく見てみたい。

うっかりコンタクトをつけっぱなしで、涙と生欠伸が止まりません。

気付けばめがね歴も28年、モノゴコロついた人生のほとんどです。


東の空が白む頃、追いかけっこで月が西へと沈んでいきます。

季節はとうに秋らしく、夜明けがだんだん遅くなっていて

目覚めの肌寒さにブランケットを手探りをするとき

一抹の寂しさを感じるようになりました。

けれども冬の寒い夜、生きている温もりを抱きしめる幸福に

余計にくっつきあいたくなるのは、いいもので。

ほんの少し毛布をあげて、洞穴の入り口を作ってあげると

喉を鳴らしながら猫が入ってきた“踏まれる”感触も懐かしい。

湯たんぽが出番を待っています。


忙しなかった夏から、祭りのあと突然正気が戻ったように

気が逸る、9月。それも間もなく半分に差しかかろうとは・・・

「〇〇の秋」とよく耳にしますが、

マルマルの中に何を入れるかは自分次第。


置いて行かれないように、tune upのシーズンです。

中に詰まっている幸福

いただきもの

緑のトマトは炒めると美味。


恋愛小説家


誕生日に欲しいものを訊かれても

自分のためは思いつかないくせに

何かあげたいと頭の中がぐるぐる回る


殊にあなたに限って言えば

毎日が名もない誕生日さながら

「はい、これおみやげ」と

ちょっとした物々交換が繰り返され

あげたりもらったりもらったりあげたり

他愛ない好物や消耗品たちが

リュックにざっくり詰め込まれ

街道を行ったり来たりしている

幸福な思いを乗せて走っている


いろんなことに喜ぶ日

いろんなことに感謝する日

もしも誕生日プレゼントの箱が

空っぽだったとしても

中に詰まっている幸福は

ちゃんと見えるし手に取れる

そういうふたりでいられますように