こんなのを見かけたんです。

 

 

「絵師はもういらないですよね??」

https://okwave.jp/qa/q10290919.html

 

タイトルと質問内容がバランス取れていなくて、本音が違うところでダダ漏れしてる感じではあるのですけれども。

生成AIについては確かにいろいろあるよね、ということでちょっと脳内整理をしてみようかと思うわけですよ、ええ。

 

 

まず前提として。

 

当該記事において「絵師が必要か、不要か?」というお話と「AIの肯定・否定」はまったく関係ありませんでした。
いっしょにするのはよくないですね。まぜるな危険。

 

AIが出てきたからといって、絵師が不要にはならないんです。

 

その理由は「描きたいと熱望する人が、法に基づかない根拠によってその活動を制限される必要はない」からです。

 

描きたいから描くわけで、もっと簡単に作れるから描く必要ないじゃんとか言われても知らんがな、というのが本音なわけです、クリエイターという生き物は。

 

自分で支配したいのだ。AI? いらんいらん。なんでつかうのそんなもん。

 

おわかりいただけただろうか?

絵描きさんが唱えるAI不要論の根拠のひとつはコレなんですよ。(主語は大きすぎるが気にしない)

 

 

 

この手のお話は昔からずっと繰り返し発生してまして。

くだんの方が思いついたようなことは幾度となく言われ続けています。

 

その昔、アナログでめちゃくちゃリアルに描く画家さんたちがいらっしゃいました。

スーパーリアルイラストレーションと呼ばれるジャンルです。

あるいは細密描写とか。

 

それがカメラ・フィルムの発達と、コンピュータグラフィックスの台頭で、一目では写真なのか絵なのかわからないものがたくさん作られるようになりました。

 

いまさら手で描く意味がわからない。

もういらないんじゃないの?

 

と、人の心はないんか、みたいな言葉が投げつけられたのですけれど、画家さんがやめるかどうかは、その人の心次第だったのですね。

 

当時はSNSがありませんでしたから、すごくクローズドなところで嫉妬にも似た空気を孕みつつ、チクチクと「スーパーリアルはいらん」とかおっしゃる方を見かけたものです。

 

 

確かに細密描写を表現の柱にする画家さんの数は減ったんじゃないかと思いますけれども、それから40年くらい経ったいま、やっぱり油絵や色鉛筆画で超絶精緻な絵を描く方々が活動されています。

 

まあこれを「いらない」という人の言葉とは「自分にとって不要なものだ」くらいの理解でいいと思います。必要な人には必要。それが多様性ってもんでしょ?

 

 

いまのAI絵というやつは、細密描写の画家がいた頃よりもたくさんの人が使えるようになってきました。

 

スーパーリアルはいらないんじゃないの? といった人のように、絵師はもういらないんじゃないの? と考える人は、そのAIサービス利用者数に比例して多くなってると考えるわけです。

言い方を変えると、SNSの功罪。声デカすぎ問題でもあるわけです。

面と向かって言えるんならまだしも、顔も名前も隠してグダグダ言うのは恥ずかしすぎる。

 

 

でも描きたいと思う人は描くわけですよ。

で、それを否定するあなたって、なんか権利あるんすか? という感じです。

 

 

さて。

リンク先文中にある「温かみ」や「癖」について。

 

温かみ、癖、というやつはAIでも出るんです。

だけどそれは「生成する人の体温と癖」だったりします。

これはちょっと伝えにくいんですけれどもね。

 

制作側はそういったものに慣れてまして、ちょっと違うな、みたいなことを感じる「感度」が一般の人よりキツめだったりします。なのでAIに違和感を覚えていたりする感じかなあと思います。

 

だから「思ったようにできない」という声も聞こえてきたりします。自分で描けるからこそもどかしいわけです。

 

制作者が持つ独自のトーン・アンド・マナーっていうのがありまして、これを無意識に整えていたりするわけですね。

 

 

 

で。

リンク先文中にある「AIだけでオリジナル絵、漫画、アニメも描けると思う」ことについて。

 

これはその通りかもな、と思います。

いつかそうなるかもしれない。

 

ただやっぱりなんというか、制作には一貫した整合性が必要でして、統括する人の能力がめちゃくちゃ重要になるんですよ。

 

なので「今はまだ、思いのままの絵、漫画、アニメには遠い状態」って感じです。進化はすごいけれど、もうちょっと時間がかかる。

 

一般の人が一点ものだけを用意するならイケるかもだけれど、シリーズ化したときに「あれっ?」ってなるかもしれないですね。アニメーションは特に。

 

これねえ、簡単には説明できないんですよ。

 

監督以外に作画監督、美術監督っていう人がどうして存在しているのか? というところから説明しないとダメか?

実写の映画で、どうして監督以外に撮影監督が存在するのか? も同様ですね。

 

全世界にある作品を全コマ、さらに各部門の監督たちごとに分類して食わせないとダメだろうなあ、とか思います。知らんけど。

 

スタートレック ピカードに出てくるシークエンスのひとつに、ものすごく印象的なカメラワークと間の取り方、そして登場人物たちの会話があったのです。

 

ちゃんとストーリーを考えなければ出せない見せ方だったんですよね。

指示なしでAIに吐き出させるのは無理だと思いました。

AIでなんでもできると思っている人は、あの素晴らしい数秒がつくれない。

そもそも動画の知見が少ないからです。

俳優と製作陣がすごいってことの証左ですよね。

 

で。

リンク先文中にある「うまく活用すれば絵が描けない人が誰でも描ける日が来る」ことについて。

 

うまく活用すれば、ある程度はできるようになるかもしれません。

 

うまく活用できればね。

 

これって「いらすとや」さんのイラストレーションと同じなんです。一般の人にとっては。みんなそれ使ってPOPとか作ってましたよね。

 

ですから、広く浸透していくと、みんな一度くらいはやってみて、それで飽きちゃうんじゃないかなあと思いました。

誰でもできるってことは、自分じゃなくてもいいってことなので。

 

それでね?

 

いま「いらすとや」さんのイラストレーション、どれだけ見ます?

いっときより減ったと思いませんか?

 

ある程度できるようにはなる。

やってみたらおもしろい。

世の中にAIで作られたものがあふれまくっている。

完成度は高い(気がする)ものがいっぱいあふれる。

 

なのだけれど、世の中って「流行」があるんですよ。

だから、みな同じようなものを作っては廃れる、という感じになります。

 

その結果、よくできた「他所との違いがわからないもの」があふれるようになります。

 

でどうなるかというと、

人々の目は、権威のあるところに集中するようになる。

 

AIで作ったものは、人が指示した結果できたものです。

なので「指示する人」のレベルが、仕上がりに直結することがわかるようになります。

 

ほら、ファッションで高いものから安いものまで、精度の高い商品がいっぱいあるじゃないですか。

じゃあ、しまむらやGUで生き続けるか? ってなるかというと、お金持ってる人はハイブランドを求めますよね?

 

生成AIにしてもハイブランドを探し求めることになるわけです。

「より価値の高いもの」を欲するようになる。

周りと同じで、かつ、周りよりも上だと認識できるものに視線が集まる。

 

たとえば100均でお買い物してる人が持ってるバッグやサイフは、高級ブランドモノだったりするじゃないですか。

 

みんなが使えるようになると、その中で上に行きたい人が現れて、さらに上を求めることになって、生成結果に著しい差が生じるのはある程度想像できるんじゃないかなあと思うわけです。

 

 

「誰でもできるようになる」のと「なんでだか仕上がりに差がある」は同居しますので、誰もが使えるようになったとしても、理想の形への直通特急にはならないんじゃないかなあと思うのでした。

 

なんで自分はAIをうまく使えないんだろう?

世の中にはあんなにすごい表現があるのに…。

 

という悩みを抱えまくって潰れていく人のメンタルというのが、おそらく出てくる。それはもはや呪いです。

 

 

そうすると、なんでもAIでやるんじゃなくて、古い手法やプロが作り上げてきた技術も使うケースが出てきます。

 

不要なもの、人というものは無くて。

誰かに求められ続けることはあると思うんですよね。

 

シンセサイザーが登場した頃、ぜったい使わんぞ! と公言してたアーティストとか、いましたからね。新しいものの登場は、様々な葛藤を生み出してきました。

 

で、現代ではいい感じで使われてたりするし、使われてなかったりもする。

使い所を決めるのは、最後は人だというところに落ち着くしかありません。

 

 

以下、ひとりごと。

 

例えば旅動画を撮影したとします。

編集をAIに任せたとします。

何も指示がなければ、旅に出かけた人の心の動きには頓着せずに、食いまくった栄養と、録画されたエモそうな光景を軸に、そつなく繋いだ動画が出てくることでしょう。

 

旅人の感動がどこにあったのか?

AIは知ったふりして決めつけてきます。お前ここで感動したろ? って。

 

それはとても多くの人たちの記憶と感情から差し出された、平均的なものです。

ぼくのことなんか知らないくせに。っていう歌がありますけれども。

そんな感じで、知ったふりして出してきます。

 

それを「成果物です」って言われても、クリエイターは納得しないんですよ。

 

そういうの、やっぱり違うじゃないですか。

こっちの前提を共有してくれないのがAIなんですよね。

 

「一般的に受けること」を前提に提示してくるわけですから、きっちりディレクションしてやらないとね、ってことになります。

 

誰もが納得して満足するようなAI登場は、AI画に限っても、まだまだ時間かかるんじゃないかな。

 

どんなに進化が早かったとしても、多様性には寄り添ってくれないんです。

なぜかというと、感情がないし、共有もできないから。

 

 

いまのところはそんな感じです。