御屁処 -5ページ目

危肛子の来歴~秘技修得に至るその苦闘の修業時代

危肛子の来歴
~秘技修得に至るその苦闘の修業時代


褐色の危肛子の「無と空」を拝読し、彼の宗教史に対する深い造詣を改めて噛みしめている次第です。そこで、二、三補足して、彼がブッ教の秘技中の秘技と言われる念屁を習得するまでの苦闘の修業時代をざっと紹介することにしましょう。


 お釈迦様の元の名はゴータマ・シッダッタであることはご存じの方もおられると思いますが、危肛子が紹介した 御放屁様は幼名はコンドーモ・マタ・ヘッダータです。青年期に頻屁に悩み抜いてこの恥ずかしさ、苦しみからいかに逃れるかということに苦闘し、やがて、頻屁だけでなく頻便にも病んでいる世の人々の存在に気づき、出家してこれら世の人々の苦しみいかに救えるかという問題に一生を捧げたと言われております。


残念ながら偶然にも同時代に生きておられた、お釈迦様の説法の偉大さの影に隠れて、御放屁様の影は薄かったのですが、当時の教えの一部は日本にも伝わりました。それが鎌倉時代の一屁上人の痔宗です。僅かに、極ローカルな形でほんの少しばかり広がりはじめましたが、再び、偶然という歴史の皮肉がおきました。ほぼ同じ時代に時宗の一遍上人の踊り念仏が圧倒的に有名になり、釈迦の教えをわかりやすく大衆に広めたのです。


一屁上人も踊り念ブッで布教を続けたのですが、元々、仏教に比べてブッ教がもう一つマイナーな教えであったこともあり、大きく花開くことはありませんでした。更に一屁上人には悲運が続きます。同時代に法然、親鸞、道元、日蓮等、天才的な学僧達が次々に現れ、それぞれ浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗など、所謂新仏教の全盛期を開いたのです。更にはライバルの一遍上人までも時宗の開祖になったのです。一屁上人は失意のうちに京の都を去りました。

 さていよいよ危肛子の修業時代の話しになります。彼も若き頃頻屁に悩んでおりました。こう表現しますと、日本語は面倒なもので、今頻屁ではないという誤解を生じそうですね。違います、違います。以前も今も頻屁ではあるが、そのことで今は悩んではいないということです。念屁の秘技を習得したからです。ではどのようにしてそれを獲得したのでしょうか?


 「念屁」でも少し触れてありましたが、彼は仕事中の頻屁によって何度も失笑を買ったことがあり、一時ノイローゼ気味になったことがあります。休暇を取り、京都の我が家に滞在することになった彼は古寺を回り、やがて痔宗の存在を知ったのでした。比叡山延暦寺から北方に十数㎞、滋賀県に入ると屁羅連峰の峰峰が並んでいますが、その一つが屁榮山でして、そこに百屁寺という古刹があり、その寺こそ何を隠そう、一屁上人の教えを連綿と伝えてきた由緒正しきお寺なのでした。


余談ですが屁羅連峰は秋から冬にかけて突風が琵琶湖に向かって吹き降りることで有名でして、この風は屁羅八荒(へらはっこう)として有名です。屁榮山に修行僧が大勢いた頃は、その風に修行僧の屁が乗って降りてくるので、里人にたいそう恐れられていたようです。ここで彼は念ブッ踊りに浸り込みました。私も彼の踊りを目にしたことがありますが、それは放屁を連発しながらこんな念ブッ歌を唱えるのです。


おどーれ楽しやブッブッブ~ッ おどーれ嬉しやブッブッブ~ッ 屁じゃないか 屁じゃないか 屁じゃないか~


 確かこのようなものでした。詳しく知りたい方は直接危肛子に問い合わせればよいでしょう。


 念ブッ踊りに出逢い、一時だいぶ回復したとの連絡があった危肛子ですが、ある日突然山を下りて私の家に来ました。彼が言うには、自分は出家するわけではない、まだまだ会社の仕事に未練もやる気もあるのだが、念ブッ踊りではどうしても限界がある、と言うのです。会社でいつも「 おどーれ嬉しやブッブッ ブ~ッ」と踊り続けることは出来ないし、更に、痔宗というだけあり、踊りながらの放屁は痔の疾患をも必然的に覚悟せねばならない。踊り念ブッに救われて、少し元気にはなったが、自分の求める道とは少し違う、ということでした。続けて彼は、これから福井の永平寺の方に行くと言うのです。な、なんと!遂に曹洞宗か、と問いただすと、いや、永平寺の方にある榮屁寺だというのです。


 そこにこそ自分の求めるものがある筈だということを風の噂で伝え聞いたというのでした。聞いたことのないお寺でした。とまれ彼の新しい出発を祝い、杯を酌み交わして分かれたのです。

 何日か経ってから彼から手紙が来ました。そこにはこう書いてありました。「京都滞在中はお世話になりました。今いる榮屁寺こそ私の求めていた教えがありました。ブッ教の教えが道元の曹洞宗の影響を受けて成立した宗派で、


開祖は怒運現屁士(どうんげんへし)中心の教えは弛緩打屁(しかんだへ)です。


 これはブッ教の秘技中の秘技と言われる念屁に達するための修行であり、門外不出他言無用と厳しく戒められており、詳しくは言えませんが、禅の修行と同じく、一日中座り込み、ただひたすら放屁の念に集中するのです。そうすることで直腸の弛緩緊張を自由に制御することが可能になり、放屁を自由に操ることが出来るようになるのです。そして体内に拘泥する屁の執着を断ち切り一気に虚空に放下する!云々。」

 以下省略しますが、この修行の成果は彼のブログ「念屁」に明確に書かれています。一部をここで紹介しますから、未読の方は是非ご覧になって下さい。弛緩打屁それは…


「強い念を送ることによって、相手に『まるで今ここに屁が漂っているかのような錯覚を与える』という念力ではなく、本当に、物理的にブタンやメタンといった、屁を構成する臭素や分子を空気中に放つことができる能力なのです。」

 さらりと書いてはありますが危肛子がこの境地にまで達するには言語を絶する、それこそ血の滲むような、雲固の滲み出るような苦闘の日々があったのでしょう。


 褐色の危肛子殿、勝手に個人情報に触れるようなことを書いてスンマヘーン。 
                                                 ぼんぼん丸 

すべては、無と空

非常に論理的かつ実際的考察と洞察に裏打ちされたぼんぼん丸氏の記事に比べ、小生の書くものはホントにネタ度が高くて申し訳ないです。

ぼんぼん氏の長編で頭が熱っぽくなった貴兄、どうぞこちらでお冷ましくださいませ。


さて、今日は、宗教的観点から屁を語ってみます。


みなさんは、般若心経の意味するところを学んだことがありますでしょうか。


目に見えるもの、聞こえるもの、触れるものすべてが実は「無」であるということ。

それらにとらわれ、その後の自分の気持ちや行動をさまざまに変化させてしまうのは煩悩であり、その煩悩をすべて消し去ることが「悟り」です。


ありとあらゆる事柄を「空」として否定することから、この悟りは得られるようになるそうです。

全身が煩悩で埋め尽くされた小生には到底無理なお話ですが。


般若心経にかかれば、生と死さえも、その区別はありません。無であり、同一なのです。


(今回はいつにも増して格調高くお送りしております)


さて、これがどう屁に関わってくるのかと期待される向きも多かろうと思いますが、つまりですね、屁だウンコだと言ったところで、そんなものは結局「無」なんですよ。そこにあろうが無かろうが一緒!どこでどんなのを放出したって「無」なんだから文句ねぇだろ!!!!





すみません、激しく高揚してしまいました。


まぁ、それを言ってしまうと、このブログそのものの存在意義も無っぽいですけど、そうは成りません。


我々地上の人間からすると、食べ物を食べて排泄するという生命維持に必要な行為は、ごく当たり前に意識されているわけですけども、前述の教えからいえば、どんなに美味しい高価な食料でも、それはウンコや屁と同じ(区別することがナンセンス)であり、かつ無なわけです。


これに納得するにはかなりの勇気が必要ですよね。
だからこそ、それこそが悟りだ、というわけです。


ときに世の中には、フェティシズムの極致として、食糞や飲尿を喜んでされる御仁がいらっしゃいます。これらの人々は、別に悟ってるわけでもなんでもなく、単に「超越」してるだけですので、本稿からは除外します。彼らには純粋に頑張ってもらいたいと心からエールは送りますけども。



閑話休題。


つまりですね、「排泄物は臭く汚いもの」という煩悩だけで、この清らかな貴物(貴糞、貴屁、貴尿)たちを蔑んできたわけです。


大変に罪深いことです。


今こそこれらの根拠の無い先入観を捨て、今までの自らの愚かさを真正面から認め、贖罪に努めて生きていくべきではありませんか?
何も仏の道に進めというのではありません。浄土真宗本願寺派に入信せよということでもありません。ただただ、これらの教えを深く知り、理解し、実行してゆくことで、みなさんは救われ、穏やかでかつ有意義な人生を送れるようになるという按配です。


ただ、この記事を読んで、どうしても入信したいとお考えになる御仁のために、現在まで密教としてその存在をひた隠しにしていた宗教がありますので、ご紹介しておきましょう。



世界三大宗教の一つである「仏教」と非常に似た経緯でこの世に広まったといわれる、


ブッ教


がそれです。


詳しい経緯は割愛しますが、紀元前5世紀頃に、明けても暮れても放屁ばかりしていたという御放屁様(おほひさま)の教えが広まったもので、俗に「ブーッだ!」の教えを説くことで知られています。


まさにその教えは、今回述べてきた悟りを得るためのものであり、どれも普遍的に達成可能なものですから、自らがブッになるための修行をいとわずに受け入れる信者が多いと聞きます。



注意しなければならないのは、このブッ教には亜流、偽者、悪徳商法まがいの団体も多いということです。

筆者のほうで確認が取れているのは、


ぷっすぅ教
 →本来の教えとは間逆で、音を出さずに放屁し、かつさらなる濃厚な香りを楽しむだけのテロリスト集団です。



ブリブリブリビチャッ教
 →屁だけでなく水気の多いリアル糞便も同時に排泄し、洗濯する身内の神経を逆撫でして洗脳する新興宗教です。



プゥ教
 →「そんなんだったらしてもしなくても同じじゃん!」というような、非常に勢力の弱い、どうでもいい放屁を目指す弱小団体です。



他にもいくつか確認が取れていますが、どこまで邪道なのかについては確証が無いため、ここに記載するのは控えたいと思います。


さぁみんなも悟りの境地へ。
そして屁をいつくしむ人生を。


おわり。

(筆:褐色の危肛子)


  お詫び:お釈迦様そして仏様、本当にごめんなさい。悪意はありません。

屁と雲固に関する一考察~いわれなき冤罪に泣く屁と雲固に捧ぐ

屁と雲固に関する一考察
いわれなき冤罪に泣く屁と雲固に捧ぐ


 危肛子の最新の文章である「念屁」であれ「おならポスト」であれ、その人並外れた才気が遺憾なく発揮された珠玉の名文であり、国家認定屁士認定有資格者の一人として感嘆の念を禁じ得ません。さて、何故このような、一見たわいない類の文が古今東西を通して、常に人々に共感を持って歓迎されてきたのでしょうか。このことに答えるためには、やはり、「大便ばら撒きテロが想起させるも」で少し触れましたが、「人間の意識にもたらした二足歩行の決定的な影響のこと」をやや詳しく述べるしかありません。


 これは数年前イタリアはベネチアの北西、チッタデルラて開かれた「世界放屁脱糞道フォーラム」での基調報告です。また、この一文は当御屁所の基本思想とも言うべき理念が述べられており、その性質上、やや硬い文章になっていて「読みにくいなぁ!」と思われる方もおられるかも知れませんね。ですから、ここは読み飛ばしても全く構いませんよ。


 でも、私達の脳は何故、特定のものに対して「嫌な臭い」とか「臭いもの」などと判定するのでしょうか?このことに興味を覚えた方は少し我慢して読んでください。おお!と目から鱗が剥がれるかも知れませんよ。



 屁と雲固は普通の大人や少し大きくなった子供にとって、人前での放出をはばからざるを得ない恥ずかしさを与えるものであることは言うまでもない。だが一方で言葉のレベルでは唐突に用いられるとき、緊張を解きほぐしてくれる何か間の抜けた懐かしさを与えてくれる奇妙な存在だ。小生の甥にとてつもなくおかしいやつがいて「おじさん、頻尿は糖尿とか何か重大な健康面での危険信号のようだけど、頻屁や頻糞は大丈夫だよね」などとメールで書いてよこして、思わず腹を抱えて笑ったことがある。このおかしさはどこから来るのであろうか?


 子供たちが何かの遊びで10を数えるとき、関東の方では「だるまさんがころんだ」と言うのに対し関西では「ぼんさんが屁をこいた」とごく普通に言う。また東北地方に伝わる有名な民話に「へっぴりずんご」というおならの名人の話もある。こんな具合に屁は子供たちにとって限りなく慣れ親しんだ近しい存在だ。また雲固も同様である。滑稽漫画などでは雲固が笑いネタになるのはざらであるし、「ウンチ君」などといった可愛らしいキャラクターも大活躍しているのだ。悪口では「雲固たれ!」というののしり言葉で使われ、「くそったれ!」という言葉は悪口と言うよりはむしろ自己を叱咤激励する場合などで、「なにくそ!という気持ちでがんばれ」というように、子供だけでなく大人にまでもごく普通に用いられるているのである。更に雲固の方は子供たちに取り、慣れ親しむどころか、更に恥ずかしさが加味されたまことに怪しい実在である。特に女子のように大小兼用のトイレではなく、用向き次第で異なる場所に入らねばならぬ男子の間では小学生時代には、大便をしに行くなどということはとんでもないことで、仲間に知られたらそれこそ、どんなあざけりを受けるか想像するだに恐ろしいことである。そんな辱めを受けるぐらいならいっそ漏らしたほうがましだと思い詰め、我慢に我慢を重ねてついにパンツの中に放出してしまう者もいたほどである。そんなことをしても無論一時の時間稼ぎになるだけで、やがてその強烈無比な臭いのためにすぐに仲間に知られ「せんせーい、○○君が雲固もらしました!」などと叫ばれ、更に激しい揶揄とあざけり地獄の中に突き落とされるのだ。現在の至れり尽くせりの小学教育ではもしかしたらこのへんに「排便教育」的なメスが入り、そういう地獄は解消されているのかも知れないが、小生の時代ではまさにこの通りであった。この恥ずかしさはどこから来るのであろう?


 この「地獄の場面」には強烈な恥ずかしさ、悲しさ、おかしさが融合している。屁に対するそれと同様、この感情はおそらく人間にとって初源的な感覚に由来しているのだろう。即ち、二足歩行に移行して、人類が人類として文明化の第一歩を獲得していく際に、必然的に屁や雲固は視覚、嗅覚を司る部位からから距離を置かれ、遠ざけられてしまったということである。遠ざけられたという意味では足先も同様なのだが、屁や雲固の悲劇は、これらをを司る部位が、ただ遠距離にあるだけでなく、性行為を司る部位とあまりに近接しているということにあった。


 アナーキーな性行為が原始共同体の秩序を維持する上で危険視され、タブーとして強烈な禁忌を課せられたことは確実なことだ。これを破る者は衝動に身を任せて共同体の秩序を破壊する危険な輩であり、断固罰せられなければならない。当初は禁忌破りに対する外的な制裁という形でいわば外から課せられた禁忌が、長い時間の経過と共にやがて自己規制として働く内的な共有観念として人々に受け入れられて行ったに違いない。この自己規制する観念こそ、恥という観念であろう。罰を受けるからということだけでなく、自らの運命を委ねている共同体の危機を招くことも承知であるのに、衝動を抑えることが出来ないということは、己の弱さの現れであり、実に恥ずべき行為なのである。恥ずかしさという感情の原点は、二足歩行という生理的インフラ進化において要請される、当然の思考回路の革命についていけない弱さの認識に他ならないのである。


 さて、アナーキーな性行為の禁止はともかく、問題はこれと平行して、何の罪もない、否、それどころか、これが順調に排出されなければすぐさま人体の危機を招来する、必要不可欠な排泄物たる、屁や雲固までもが、たまたまその排出部位が、ただ生殖器と場所的に近くにあるということだけで強烈にタブー化(性行為ほどではなくても)させられてしまったということだ。なんたる不運、悲運であったろうか。


 屁や雲固放出作業は、衝動の発露という点では性衝動と同種の機能に属するが、人体の健康を維持しようとする大いに推奨すべき衝動解消作業なのだから、大いに賞賛されるべきであり、共同体の存亡に拘わるが故にひたすら隠されなければならぬ性行動と同等の扱いは出来ない。だからといって、屁や雲固放出作業を白日の下堂々と露出したりすることは生殖器露出の危険を伴う以上、断固抑制させなければならないのである。この抑制を性衝動と同じような恥の観念で何とか規制できないものか…二足歩行確立⇒共同性を獲得した人間、というものの確立に一途邁進している頭脳司令部は、ここで天才的とも言える解決策を用意したのだった。屁や雲固は、「汚い」「臭い」「嫌悪すべき」ものなので恥ずかしいという観念を多少無理はあれ、人間に強制することである。これら排出物に伴う特有の臭いは何ら不都合なものではないのに、敢えて「嫌な」臭いであり、「嫌悪すべき」臭いであり、従ってこれら自体が「汚い」ものなのだとひたすら強制するしかないのだ。このような形で、本来肯定的な屁や雲固放出作業を恥として断罪する、偏見差別を意図的に開始し始めたのである。これらが意図的強制から生じたということは、人間の乳幼児のこれらに対する反応を見れば誰しも納得いくことであろう。幼児達は屁や雲固そのものに何ら否定的反応を示したりはしない。


 まさに屁や雲固にとってはいくら嘆いても嘆ききれない宿命的悲運である。生殖器のそばで排出されるというだけで、頭脳司令部によって、「臭くて」「嫌な」「汚い」恥ずべき存在という刻印を押されてしまったのだから。これこそまさに人類学的重大冤罪事件であったと言えよう。


 逆に幸運だったのは尿であろう。同じ生殖器の近くから排出されるという点では、屁や雲固と同じく忌み嫌われる運命になるはずではあったが、性器との近さというよりは性器そのものから放出されるという事実が尿にとっては幸いしたのである。つまり、屁や雲固の親戚という血筋において一定程度の嫌悪感の波及は免れ得なかったが、共同体の掟を遵守する中でなされる正規の性行為、即ち子孫を生み出していくという生殖行為の持つ輝かしい光りの中に紛れることが可能になったのだ。「アナーキーな」という形容詞がつかない限り、したがって他の構成員の刺激にならぬよう、あくまでも秘められた形で行われる限り、性行為そのものは共同体の明日を約束する子孫を生み出すという神聖な行為であり、褒め称えられるべきものだ。この誉むべきものから排出されるという一点で、尿はそこそこバカにされることはあれ、屁や雲固の辿ったいわれなき迫害から免れ得たのである。更に尿排出という行為の持つ特異性、即ち常に身近さを意識するほどの頻度の多さ、また外見の清澄さも自らの強烈なタブー化を免れ得た一因として寄与したことであろう。


 同様に、汗等も、身体から排出されるという点で、屁や雲固の同類という刻印を押され、同様の羞恥感、嫌悪感が形成されて行ったのだが、これらに屁や雲固特有の強烈な恥ずかしさが伴わないのは、今述べた幸運な尿と外見が類似しているという点が大いに寄与しているに違いない。とまれ、屁や雲固を頂点とした、身体から排泄されるもの全てに対する、こういう嫌悪感一般を通してのみ、人類は共同性をより強固に獲得し、地球の覇者たり得たのである。


 したがって、恥ずかしさを感じるということは、共同性を獲得し、地上の覇者たり得たこと、即ち人間が人間たり得ることを可能にした原初的タブーを追体験することであり、その課程で断罪し、距離を置いた罪無き者達への懐古の念に浸ることであり、同時に自由放埒が許されていた黄金時代の余韻を追体験することに他ならないのである。


 往々にして観察される乳幼児のおむつへのこだわり、即ち断固おむつ生活を維持しようとする強い執着も、人類の初原的タブーの成立の痕跡を示唆してくれる。排便、排尿の衝動に駆られたときに、いつでもそれを可能にしてくれるおむつ生活ほど快適なものはない、なぜこれを諦めなければならないの?というわけだ。しかし、人間になるためには誰でもそれは諦めなければならないのですよ、という親の教育によって、そんな執着も次第に破砕させられ、幼児は便器へ、そしてトイレへとその場所を限定させられていくことになる。


 何事であれ、別離とは悲しいものだ。このことを示すエピソードが一つある。私の姪の一人がおむつ離れをした頃(厳密に言えばおむつ離れをさせられた頃)、水洗トイレで自分の排泄物をそれこそ粘土細工でもするように「こねくり回して」楽しそうに遊んでおり、それを彼女の母親が発見して皆で大笑いしたことがある。周りの大人は大笑いでも彼女にとっては極めて貴重な時間だったのであろう。遠い故郷の懐かしい者と出会ったような感じを持っていたのではあるまいか。生まれたばかりの時代の、屁や雲固が文字通りごく身近に存在していた、文字通り黄金期の感触を彼女は懐かしんでいたのであろう。この姪に限らず全ての幼児はこういう別離の時期を乗り越えて人間になっていく。極めて悲しい体験だ。だが耐えられぬほど強烈な悲劇を体験するとき、人間は心的代償作用として滑稽な感情というものが吐出するように出来ている。何かの原因で錯乱状態に陥った者が突然ヒステリックに笑い出すのもこのことの一つの表れだ。屁や雲固が何かしら滑稽な感じを与えるのもこのことで説明できよう。悲しすぎることは笑い飛ばすしかないのだ。更には何らかの原因で精神に異常を来した大人達の、幼児回帰願望、汚物崇拝当の症状も根は同じである。彼らは自らの自由が極度に抑圧されたあまり、その抑圧の成立時点以前の状態に帰ろうとしているのだ。その恍惚として喜悦している姿は、正常な者から見ればあまりに滑稽で悲しい。

 雲固の説明ばかりで屁に関しての説明が不足しておると非難する方もあるかも知れないが、屁は雲固が気化したような、いわば霊体であり、後者ほど強烈ではなくても後者を象徴的に、より清々しく連想させるものなので、取り立てて言上げする必要はなかろう。


 屁や雲固は懐かしく心安らぐものではあるが、恥ずかしいもの、嫌な臭いのするもの、悲しいものであると同時に滑稽なものであることの解釈は以上のごとくである。ここで確認しておかなければならないが、屁や雲固の臭いや形を笑うとき、それは現実のそれを笑っているのではない、ということだ。現実のそれを些かでも好感を抱いて擁護するには我々はあまりにも文明化され過ぎてしまっている。我々が笑うのは屁や雲固が深く運命的に具現している恥ずかしさ、嫌悪感、悲しみ、そしてそれらの観念を一気に浄化した滑稽さ、という極めて抽象的な観念なのである。


 私たちはこれら、宿命的に「別離」を余儀なくされた、近くにありながら遠きもの、且つ遠きにありて近きものを折に触れてイメージし、言葉にすることで、失われた自由をささやかに味わい、かつての黄金時代を噛みしめるのである。下らないと言えばあまりに下らなさ過ぎて、恥ずかしさが込み出るのを禁じ得ない、こう感じたとき人は立ち止まらなければならない。この下らなすぎて滑稽すぎて、恥ずかしいという感覚こそ人間が人間となった証であり、深いところで失われた無制限の自由への憧憬に強く深く結びついているものなのだから。 ぼんぼん丸     

おならポスト

こんにちわ。

なんか知らないけど、アクセス数がエラい伸びてます。

こんなブログ、一体どなたが読んでくださってるのでしょうか。

それにしては、読者登録がゼロなのですが・・・(涙)


さて、ぼんぼん丸氏は頑なに大便側について論じておられるようなので、もう一方的に固形関係はお任せするとして、小生は気体系についての議論を進めることにします。


さて、もうなんかタイトルだけで今回の内容がバレバレっぽいですけど・・・


時節ネタも糞だんに取り入れてまいります。


過去(約10年前)に、ぼんぼん丸氏とは「屁便所」なるものの必要性について熱く議論したことがあり、この経緯や結論についてはアーカイヴの形でいずれ公開したいと考えておりますが、今回のテーマは多少それと近い内容になる見込みです。


「おならポスト」


なんとも響きが可愛らしく、子供ウケもよさそう。

かの「赤ちゃんポスト」の刹那的な暗さに比べたら、なんともユーモラスで味わい深いじゃないですか。

今回は、この「おならポスト」の必要性について論じてみたいと考えております。


さて、簡単に定義立てだけしてみましょうか。


おならポストとは、諸事情のために自分で吸ったり周囲にふるまったりできない放屁を、その放出主が匿名 で出すための容器、およびそのシステムの通称である。


こういった設備の目的は、望まれない放屁を我慢と無駄な廃棄から守ることにある。こと新生屁では外界に対する適応力(恒常性 を維持する能力)が弱く、また単純に捨て屁として何らかの施設前に放置されると拡散や発火 ・小動物の殺害といった脅威に晒される危険性すらあるため、これらの危険から守るために設置されている。

設置に際しては、しばしば捨て屁を容認するのかと言った議論にも発展するシステムではあるが、それ以上に捨て屁が依然として存在している以上、それらの新生屁は早急かつ安全に保護されてしかるべきだという議論もあり、モラル 人道 の双方の観点からの議論は続けられている。

この仕組みは法的裏付けが十分でないにも拘らず、ベルリンの壁崩壊 後(→ドイツ再統一 )のドイツ 国内にて旧東ドイツ 地域を中心にNPO キリスト教 団体・病院 などにより次々に設置され、2005年 現在80ヵ所を超えている。ハンブルク では2000年 の開設以来5ヵ年間に22発の屁の命が救われた。こと同地域では、冬季に夜間の温度が氷点下にまで下がるにも関わらず、慈善団体施設の前に放置された乳幼屁が凍結した事件が契機となって設置が進んだという事情も報じられている。

これらでは、屋外と屋内に扉が設けられ、中には新生屁の入った風船程度の空間があり、冬は適度に保温され、夏は猛暑に晒されることが無いように工夫されている。この中に新生屁を入れると、宿直室の呼び出しブザーなどに直結されたセンサーが働き、職員がすぐさま安全に保護できるような工夫も見られ、その一方ではポスト内部に捨てに来た放出主向けのメッセージカード(手にとって持ち帰ることができる)が用意され、このカードに同ポスト設置施設や放屁相談所などの連絡先が記載されており、後々捨てたのを後悔して放出主であることを名乗り出る際に役立つといった配慮も見られる。


とまぁ勝手にWikiから引用して書き換えてるだけなのですが、実際にこれが存在すれば、どれだけの屁が救われることになるのでしょうか。


今の世の中、ぼんぼん丸氏の記事にもあったように、その香りや「ハシタなさ」といった上辺だけの小奇麗さのみを追求してきた結果、放屁は決して人前ではしてはならぬといった風潮が蔓延しており、たかが放屁のためだけにわざわざトイレに駆け込む輩まで現れるありさま。


なんとまぁ情けなく、かつ人間の聖なる営みを否定する行動なのでしょうか。


現代のOLの約9割が、オフィシャルタイムでの放屁を我慢しているそうです。

これが人体にどう影響するかわかっているのでしょうか。

ちなみに、放出されなかった屁はどうなるかというと、直腸から再度吸収され、血液中に取り込まれ、肺で不要物となって「口から体外へ放出される」のです。


現代のOLの約9割が、一日中、あなたのオフィスで、その紅をさした口から屁を放出し続けているのです。これを危機的状況といわずして何と言うべきでしょうか。


もちろんOLだけではありません。

狭い空間に長時間閉じ込められている学生たちも同じでしょう。老若男女問わず、社会に属するものたちのほとんどが、オンタイムにはその口から延々と屁を放出しまくっているのです。


嗚呼なんたる悲劇。


終電近くの電車内。したたかに酔ったオヤジがつり革に全体重を預けてウトウト。

上から何か直前に食べたものを戻しそうな動きに周囲は戦々恐々としている中で、予想外の爆裂放屁なんていうシーンも、今では見慣れたもの。

残業に疲れたサラリーマン達や、飲み会で遅くなったOLや学生たちがいっせいに顔をしかめる。

この酔っ払いの屁だって、このようにまったく知らない連中からイヤな顔をされるために生まれてきたのでしょうか?


いいえ、ちがいます。

断じて、ちがいます!



せっかくこの世に生を受け、放出主だけでなくその周囲にも魅惑の雅香をふりまくことが可能な「屁」が、このような邪道な扱いを受けているという厳然たる事実。



おならポストは、この悲劇を消し去るする救世主となりうるはずです。



唯一の問題は、おならポストの設置場所までどのように持参するか、だけです。

もちろん、体内に蓄えたままおならポストの吸入口に臀部を密着させ、混じりっけの無い状態でポスト内に注入できればいいのですが、ふいに想定外のタイミングで襲ってくる屁意ですから、こればかりはどうにもなりません。そのまま我慢していたら、OLの9割と同じ人種になってしまい、口から放屁するという駄目人間に成り果ててしまうだけです。


そこで提案です。


とてもコンパクトで、装着していることが周囲に分からないように工夫された「屁漏れパンツ」の開発です。

ただ吸収するだけでなく、あとで「おならパッド」に吸い込んだ屁を小さなパックにおさめるようにして、手軽におならポストへ持参できるようにすればいいのです。


これを見ているオムツ産業の皆さん、アイデア料金は不要です。

ぜひともすぐに開発に着手してください。

つい先日、似たような構想のオムツというか下着が開発されたというニュースがありました。屁の音と香りを吸収する装置だそうですが、とてもじゃないですが大きすぎて、装着しているのがひと目でバレバレの代物でした。あれではOLの9割が購入して下着代わりにするとは到底思えません。(装着しているモデルが笑顔の女性だったのがとても痛々しかった記憶があります)

実際のブツはこれ


目的は、音や香りを消すことではありません。なるだけLawの状態でパッケージ化することにあります。

場合によっては、そのパッケージ化したものを、誕生日や記念日の贈り物にすることだってできます。キレイにラッピングして、受け取ったほうは「なんだろ、なんだろ」と期待して開封すると、そこからは甘く芳醇な魅惑の香り・・・・


いくらでも夢とアイデアは広がりますね。

今日はこのくらいにしておきます。



それよりも、OLの1割は普通に放屁してるんですね


(筆:褐色の危肛子)

「大便ばら撒きテロ」が想起させるもの

危肛子の青年期の電車内での経験、即ち、放屁と思い、軽い気持ちで力を入れたら、思いもかけぬおまけが…という衝撃体験は確かに僕にも覚えがあります。では自戒の念を込めて。
あな悲し
       屁意にゆだねし 愚かさよ
   罪なき放屁と 思い初めしか 

 危肛子ははやくもこの部屋のメインテーマである放屁に話題を転換したようですが、私としてはまだ雲固にこだわりたいので、もう少しこのテーマについて書こうと思います。
さて順序は逆になりましたが、危肛子が紹介してくれた「うんこ止まらず、運行をSTOP」のニュースに現れた「大便ばら撒きテロの犯人」に思いを馳せましょう。これは歴史的重大事件の一つの予兆かも知れませんね。近未来の一つの光景が私の眼前にありありと浮かびます。


 そこはSFで良く扱われる超高度管理社会。戦争、「テロ」のもたらした悲惨を克服するために、極めて高度なレベルで自由が抑圧されて表面上人々は平和を謳歌していた。高度なレベルでの自由の抑圧とは、自由が抑圧されているということを意識されないほど巧妙な管理が行き届いているという意味である。この社会においては所謂、人間本来が持つアナーキーな自由への衝動こそが秩序維持への唯一の不安定要因と見なされていた。

 さて、ここで少し堅い話になるが、どうしても人類の進歩ということにざっと触れておかねばならない。二足歩行を開始し、人類が人間として第一歩を開始したことはご存じのことであろう。二足歩行と共に、両手の自由が生じ、それが文明の進歩をもたらす大きな契機となったことも同様である。しかし学校ではあまり力を入れて教えてもらえない一つの重大なことがある。それは人間の意識にもたらした二足歩行の決定的な影響のことだ。即ち、足歩行と共に、知覚、認識を司る頭部が排泄を司る部位を下に眺めるようになって、当該部位における排泄物のもたらす臭気に対する侮蔑、嫌悪の感情が生まれたということである


 何故嫌悪感なのかということを説明するためには、共同性を勝ち取った人間の頭脳と生殖器との関係にも触れなければならないが、このことに関しては長くなるので、いつの日か別の機会に述べることにしよう。二足歩行⇒頭部と排泄部位との遠隔化⇒前者の後者に対する侮蔑の感情の誕生。おおざっぱに言って、これが人間の人間たるゆえん、更には文明の進歩を基礎づけた大要因であると言えよう。近未来超管理社会では人間は更にもう一段の進歩を遂げていた。そこではアナーキーな自由=野蛮=悪と規定され、それを思い起こさせる一切の初原的人間的属性はぎりぎりまで否定されているのである。初原的人間の属性の象徴として最も敵視されるのが排泄物の臭いであった


 目誤解しないでください、私とて文明人のはしくれ、排泄物が不当なまでに被ってきた悲運な歴史的運命に関して同情、共感の念は多少あるにせよ、その臭いを思うだけで顔をしかめてしまうのはおそらく皆さんと同じです。さて現在でも文明人としてごく当たり前に有する、この嫌悪感を更に深化させた近未来超管理社会では、生体レベルで排泄物を制圧してしまうのです


 現在ごく普通に流布している香水、芳香剤、消臭剤等を考えれば、その延長上にいかなる事態が生じているかということは自明であろう。この未来社会では腎臓や直腸といった内臓レベルで化学的に無臭化処理された屁、尿そして雲固が普通になっているのである。無臭化だけでは飽きたらない人には、更に香華を付与することも可能である。ラベンダーの香りの尿や、シクラメンの香りの雲固などの生成が内臓レベルの処理で可能になり、「今日のあたしの香りいかが?」「ちょっとあっさり気味の香りが素敵ね!」などと、そこかしこで自慢の雲固品評会なども催され、ひとびとは超文明人である自分に陶酔したりしている。


 動物園は、こうした人間の進歩を、その社会で初めて可能になった恩恵として想起させるために、今と同じような形で存在していた。超文明人達は色々な動物の排泄物のもたらす異臭に触れては、顔をしかめて「うへー、吐き気がするよな!ひっでー臭いだ」と揶揄したり、「以前の人間はこんなのしてたんだって、やーねー!鼻が曲がっちゃうわよね、おほほ!」と笑ったり、「おひょ!俺やお前がこんなのを出している姿を想像するだけで笑っちゃうよ!」などと優越感に浸り、自分たちの超文明人たる誇りを再認識し「美しい社会」を再確認して新社会に生きる喜びに浸っているのある。

 目だがやがて、よくあるSFストーリーのように、こうした超管理社会の与えてくれる自由が本来の自由にほど遠いことに、何かの機会に気づくヒーロー、ヒロインが現れます。


 彼らはそんな社会のあり方の持つ息苦しさ、欺瞞性に異を唱えてひそかに、本来の自由を希求するようになるのだった。二人は特に動物園好きで、何度も動物園でデートをしては動物たちの放つ異臭に顔をしかめながらも、何故か懐かしい思いに駆られるという共通点があったのだ。以前の人間の有り様を貶めるはずの動物園が、逆にそれに対する憧れを生み出す機縁になったのである。二人は失われた過去の人間の有り様を様々な手段を用いて探求発掘し、二人が置かれている超管理社会社会に強い疑問を抱くようになる。


 さて、この社会では新生児は、手術に耐えられる体力が生じた頃に、無臭尿、屁、雲固を生成するように外科手術を受け内臓処理を施されるのであるが、失われた自由を希求するこの二人はそれを断固拒否し、彼らの赤ちゃんと共に逃亡することになる。共感してくれた親しい友人達や親族などの助けを借り、何とか無事に身を潜めた二人は次第に仲間を集め、時折伝道師のように通りに出ては、人間復興運動を展開していく。やがて管理当局から危険分子と見なされた彼らに更なる危機が迫る。


 目ここで彼らが死んではせっかくのSFも終わりですから、主人公の活躍と知恵の力で彼らは迫害を逃れ、逃亡を繰り返し、やがてとある辺境の地において新たなコミューンを作り、ますます結束を堅くしていくのです。


 噂を聞いて密かに駆けつける仲間も増え、子供たちもどんどん生まれていく。無論このコミューンの子供たちは、手術など受けぬ自然のままの身体を持ち、現在の我々に近い子供たちである。無臭排泄物に慣れきっていた親の世代の者達にとっては、子供たちの排泄物の臭いが苦痛ではあったが、彼らはこの臭いを生きる証として受け入れることが、本来の自由を取り返すために必要不可避のことであることに共感した者達なのだ。無論その臭いに愛着、好感を抱くほどの動物レベルに戻っているのではない。嫌悪を感じながらも、これが本来の人間の自然の姿なのだから受け入れるしかない、という現在の我々の認識と同レベルにまで彼らは回帰しているのである。


 彼らは文明人として当然の如く、子供たちに現在の我々の社会においてなされているのと同様の排尿、排便教育を授け、排泄物に対して適切な距離感を教え込むのだった。やがて子供たちも逞しく成長していくj。ちょうど現在の僕たちのような人間の再生である。彼らは親子共々、自然の中にのびのびと生きる喜びを謳歌し、かつて歴史書で読んだ狩猟採集生活に順応していくことで生を実感していくのであった。

 しかしこのコミューンにおいても世代間の断絶が生じることになる。思春期を迎えた子供たちは、自分の排泄物が親のように無臭ではないことに気づき、大きなコンプレックスを抱くようになったのだ。文明人としての排尿、排便教育の結果、排泄物に対する嫌悪をしっかり教え込まれていた彼らは、自分が何か親たちに比べて恥ずかしい存在であるかのように感じるようになったのは皮肉であった。「何故僕たちはお父さんやお母さんとは違うんだ?どうしてこんな臭いものを発する身体なんだ?」そんな疑問を突きつけてくる子供たちに親たちはこれまでの経緯、苦労話を述べて何とか説得しようとするのだが、少しでもかっこよさ、洗練さを求めようとする子供たちに通じるはずはなかった。いつしか子供たちに遠い都会での超文明人の噂が聞こえて来る。彼らは親の制止を聞かず、一人、また一人とコミューンから出て行く…。嘆き悲しむ親たちを置き去りにして。


 都会に出たそんな子供たちは、管理当局の網に捕らえられてしまう。当局は彼らを追求し、コミューンのありかを突き止めると同時に、彼らを動物園に入れて悪臭を放つ排泄物を出す野蛮人として晒し者にし、この社会を裏切った者達がいかに愚かしい姿であるのかを人々に教えようとする。当初好奇の目で見ていた人達の中には、そんな当局のやり方に異を唱える人も出てきたのだった。そしてこの社会からドロップアウトした集団のコミューンの噂が広まっていき、未来社会にさざ波のような動揺が拡がっていく。


 臭いということがなんなんだ、これが人間本来の自由を取り戻す一つの道ではないか。この臭いと共に生きていくことが人間の証そのものだ。


 嫌な臭いという苦痛を受け入れることで、もっと自由な生き方が可能になるのではないか、そんな声がますます大きく広まり、この超管理社会に亀裂が生じそうになるのだ。だが、かつて裏切り分子の逃亡を許した当局は徹底的な弾圧体制を敷き、社会での動揺を未然に防ぐことに成功したのだった。

 そしていよいよクライマックス。コミューンを包囲した当局の軍隊が襲いかかり、阿鼻叫喚の地獄の中、徹底的な殺戮をはじめたのだった。国家は、反逆するものを一切容赦しない。国家の備える暴力はまさにこういう時のためにあるのだ。そして静寂。後には累々とした屍…。


 たまたま難を逃れていたこの物語のヒーローは茫然自失状態になって、妻や子供達、そして仲間達の無惨な姿に対面し、自分のはじめた人間復興運動が何をもたらしたかを噛みしめて愕然とする。そして彼は意を決して元の社会に向かって歩き始める。辛うじて彼がたどり着いたのは、彼の故郷の超近代都市。彼の目に、氷のように美しく整然と佇立しているビル群が写る


 彼は何かに憑かれたように、超近代都市の象徴である高速電車の先頭車両に乗り込む。ラッシュ時ではないので乗客もまばらであった。ズボンを脱いだ彼は突然何かを叫びながら脱糞しはじめる。脱糞しながら電車の中を最後尾の車両に向かってゆっくりと歩き始めた。そのとき奇跡が起きたのだ。無臭の筈の彼の雲固に、次第に人間本来の臭いがたっぷり備わりはじめたのだ!悲鳴を上げて狼狽する人々の前を、嗚咽しながら脱糞歩行という離れ業を続けていくヒーロー。彼の脱糞はいつ終わるともなく続いていく。落ちた雲固が爆裂し、その飛沫が黄金の若鷺のように飛び交い、周囲の人々に付着し、電車中に散乱していった。人間業とは思えぬ量と臭い…そして静かに、あくまでも静かに…。 そのときの彼の顔にうっすらと笑みが浮かんでいたという目撃証言もある。


終わり          (ぼんぼん丸)