象の夢を見たことはない -53ページ目

vanishとロス

『バニシング・ポイント』(米1971)を見た。



主人公は、バリー・ニューマン扮するコワルスキー。だが、もう一人の、あるいは1台の主人公は白の70年型ダッジ・チャレンジャー。彼らが消滅するポイントが、バニシング・ポイント。この映画はいろんな映画で引用されている。『マッドマックス』、タランティーノの『デス・プルーフ_in_グラインドハウス』。もっとも、バニシング・ポイントの原型は、でも『イージーライダー』(米1969)だろう。



もちろん、これらの映画が目指す場所はそれぞれ違う。あるいは着地点は違う。
明らかに、まったく。これ見よがしに違う。

もしかしたら、それ、つまり、『目指す場所』、あるいは『着地点』の違い、見る人がそれらについてはっきりわかることが、それらがコピーかリスペクトかオリジナルかと判断するポイントなのかも知れない。与えられるものが違ったという自覚を観客が持てるか否か。

与えられるもの。それは作り手が、はっきりくっきり意識してないと生まれない。

vanishというのは、60年代から70年代にかけてのアメリカの空気感なんだろう。
ヴェトナム戦争に負け、強いアメリカを失う。ただ、そういう意味ではなく。
答えは風に舞っている。そういうことだけでもない。消失。vanish。

最近、村上春樹の『風の歌を聴け』を読み直した。彼がジャズ喫茶をやっていたときに、深夜にキッチンで書いたという小説。断片をシャッフルする。それによって、ある種の不規則な、しかしどこかに整合性がある物語が生まれる。そう彼は『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』の中で語っていたのだけど、村上春樹の断片がシャッフルされてるのはどちらかというと『1973年のピンボール』のほうで、『風の歌を聴け』の中には、その後の村上春樹の全てが存在した。そう自分は読み直していて感じた。

そしてそれらのすべてが消滅する『回転木馬のデッドヒート』。知らない間に何かが決定的に、そして不可逆的に損なわれる。それが『回転木馬のデッドヒート』の主題である。彼のすべての短編、長編の主題は『喪失』である。そう『風の歌を聴け』にはっきり彼は書いている。ハート・フィールド。それが彼が目指した小説だった。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991/新潮社

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消滅ではなく、喪失。そこが、イージーライダーや、バニシングポイントや、あるいはその時代のアメリカと、アメリカに対して憧れていた日本人の意識の違いなのかも知れない。

vanishでなく、loss。
主であるアメリカにとっては消滅であり、それを追うもの、憧れていたものに対しては、それは喪失である。最近、あまロスとかましゃロスとかよく聞くけれど、喪失というのは、主体でなく、従者が持つ感情なのだろう。日本の文化が女性的であるといわれるのはそういうことも含めてなのかも知れないとふと思った。

主体になることって。。
いっこうに主体になれない自分はなんなんだろうと。クソだな。
あー、でも「レーダーホーゼン」は喪失ではなくて消滅だな。そして、その主人公はなんとなれば女性だ苦笑。捨てる主体のほう。いいねぇ。

ベルファーム

水仙

納屋

ゴシック・ガール

The Prodigy - Omenからの

SiM - Amy (OFFICIAL VIDEO)


東狂黒 "黒と衝動" Full ver


THE TEENAGE KISSERS「Psychic Haze」MV


HATE HONEY - Teenthrash PV


うーむ、ゴス。
どっかで特集やらねえかな?


まあ。見るヤツぁ、ロリコンかもな、だな。
ドラキュラってありゃロリコンの化身だな。
だいたいさぁ、乙…まあ、このあたりでやめとこう。



ちょっと落ち着こう。

Aoki Takamasa / see that girl

備忘録

昨日のInter FM、Ready Steady George!! でストレイテナーのホリエアツシ氏がジョージの代役DJだったのだが、そのせいでか、選曲が自分ごのみ。



ごキゲンさんだったわ。
この曲も、当時コア系のライブでフロアでDJがよくかけてた。たのしかったわ。



さいきん、ZION行けてないなあ。フロアで盛り上がりたいわ。

他者視点での価値

北野武が久石譲の音楽を使わなくなったことと、彼が宮崎駿を意識し始めたときって同じなんじゃないかとふと思った。

その男、凶暴につき(1989年) -  久米大作
3-4X10月(1990年) - BGMなし
あの夏、いちばん静かな海。(1991年) - 久石譲
ソナチネ(1993年) - 村川 役 - 久石譲
みんな~やってるか!(1995年) - 久石譲
キッズ・リターン(1996年) - 久石譲
HANA-BI(1998年) - 久石譲
菊次郎の夏(1999年) - 久石譲
BROTHER(2001年) - 久石譲
Dolls(2002年) - 久石譲
座頭市(2003年) - 鈴木慶一
TAKESHIS'(2005年) - NAGI 掛川陽介 藤川祥虎
監督・ばんざい!(2007年) - 池辺晋一郎
アキレスと亀(2008年) - 梶浦由紀
アウトレイジ(2010年) - 鈴木慶一
アウトレイジ ビヨンド(2012年) - 鈴木慶一
龍三と七人の子分たち(2015年) - 鈴木慶一

だとか(北野映画!久石譲の音楽を使わなくなった理由

その前に
北野武監督、宮崎駿が「大嫌い」、作品は認める「余裕が大事」

っていうのがあって、なぜそこまでこの人は言うんだろうと。まあ、自分はどっちも好きなだけにとそう思ったわけで。

「天空の城 ラピュタ」のオープニングを見ていて、「んーこれって、北野武監督が何かの映画で同じようなオープニングにしてたな」と。「あの夏、いちばん静かな海。」だっけ。どこかで似ている。

そんなことを書きたかったわけではなく、アニメーションと実写との価値感。
基本的に実写、あるいは最近のCGとアニメーションの価値、その差分について。
リアルであることが正しいあるいは「正義」であるというその価値感。現実に対するリアルさというもので圧倒的にアニメーションよりも実写のほうが「正しい」。あるいは「正義である」という。

ノンフィクションの究極の形が「実写」であって、フィクションの究極が「マンガ」であると。落合信彦が、通勤電車でジャンプを読みふける30代の社会人に幻滅したその日本人のあり様。たしかに。まあ、確かにその通りであると思っていたんだけど。

あるいは、絵画において、そのものを写実することと、人がモノをどのように認識するのか、その価値観の変換点が、「印象派」にあるように。「正しさ」とか「正義」とか、そういう価値観自体が持っている仮想点というか。「仮想」と「リアル」に対する価値観。その分岐点は、一体どこにあるんだろうと。

ノンフィクションというものが、実は、それを伝えようとした時点で、バイアスが無意識のうちにでも、どうしても存在しうるということ。村上春樹が、いくら「アンダーグラウンド」で、当事者にインタビューしたところで、そのインタビューした場が持つバイアスというのは、自らの意図に関わらず存在するわけで。それって、結局フィクションになるよねと。

そんなふうに「リアル」というものを捉えた場合、「事実」というのものは、その事象がその時その場で存在したとしても、それが過去になった地点で、検証不可能なものになると。少なくとも「ノンフィクション」だからOK!なんていうのはあり得ないなと。

事実という名の虚構。

ここで、ちょっとその価値を転換してみよう。
受け手にとっての「リアリティ」というのを考えたときに、それらが自分のリアルな生活において、どこまで自分を鼓舞してくれるのだろうかと。そういうふうに各人が捉えるものが全てなんじゃないかと。

作品そのもの。作者がもつ天才性。
あるいは、その作者が、たとえば天才ではなくとも、自身の人生において、どれほど多くの時間をそこに注いできたかということ。あるいは、どんなに多くの人がその「作品」に心血を注いできたかを感じ取ること。

見ている人が、あるいはそれを触った人が、それを聴いた人が、自分がその作品を「自分が生きるためのエネルギー」として「生かせる」。それを作った人のエネルギーを受け取ること。そしてそれを促す力をその作品が持っていること。たぶん、それが「他者視点」での本当のその作品の価値なんだろうと。実写とかノンフィクションとか写実というのは、「ジャンル」でしかないのだ。

リアルという言葉。それがもつ二面性。あるよねー。BYいっこう的な。よはらい。