象の夢を見たことはない -55ページ目

価値は上から下へ流す

日曜美術館を見ていた。『アートの旅 みつけよう、美 決定版』。最近の日曜美術館の迷走ぶり。特にオープニングのジングルが変わってから酷い。それが端的に出ているのがこのアートの旅シリーズで。たぶん、井浦新の後任を誰にするかというのも兼ねているのだろうけど。基本的にこの番組で視聴率なんてものを考えようとしたらダメで。

シロウトの目は所詮シロウトの目で、実際に美術に関係している、関係していた、あるいは、造詣が深い人の目を通した価値観を、上から下へ流すことで、一般視聴者への価値導入が出来るわけであって、自分たちと同じレベルかそれ以下で見ている人を通して、美術の価値を底上げしようなんて発想自体がマーケティング的に古すぎるし、そういう発想をすること自体、バブル期から今まで日本が成長できてない根本的な問題をはらんでるような気がする。水は下から上には流れない。

上から流す水の量が圧倒的であるか、落差を大きくするか。
マーケットのパイはそのようにしてしか水平拡大はしない。

今日気になった記事 マーケティング

Business Journal > 連載 > 田中洋「マーケティングのキーインサイト」
織田信長、天下統治の秘密は茶道具の価値変革…ナイキやゴディバ等の経営戦略の先駆け 
田中洋/中央大学ビジネススクール教授

<サマリー>
信長は「天下」「世間」「外聞」という語をよく用いました。秩序への反逆者というイメージとは逆に、信長は現代でいう「レピュテーション・マネジメント」、つまり評判をマネジメントすることに気を使っていました。信長は、当時の武家社会の秩序に注意して、どのように自分が見えているか、「セルフ・ブランディング」を通じて、武士政治をマネジメントしようとしていました。

信長は「茶の湯」を愛し、「茶人」として茶会を主催し、茶道具を部下である武将に武勲の褒美として贈りました。信長は、領地や位階中心の武士の価値観を、茶道具の高い価値に転換させました。信長は茶道に関して、次の3つのサイクルで行動を行うことで、武士にとっての茶道具の価値観を変えていきました。
(1)収集:名物茶道具を収集したこと(名物狩り)
(2)披露:茶会で信長が名物茶道具を入手したことを披露したこと
(3)下賜:功績があった家臣に名物茶道具を与えたこと

信長の価値転換戦略には、次のような2つの見るべきポイントがあります。
(1)異なる価値体系からの価値導入
(2)贈与行動での価値転換

信長は、上流階級である足利将軍家や茶人たちの行ってきた茶道を取り入れて、下層からのしあがってきた武士階級を「文明化」しようとしました。このように新しい価値を導入しようと思えば、まず異なった価値をもった階層やグループから価値を取り入れる必要があるのです。

ナイキのようにトップアスリートがもつ価値観をアスレティックシューズに取り入れ、それを一般のスポーツ愛好者に広めるという戦略もあります。さらには、異なった文化の世界観を取り入れるやり方もあります。たとえば、化粧品の「ロクシタン」は、プロバンス地方のライフスタイルを取り入れています。

信長から学べるもうひとつのポイントは、(2)贈与行動での価値転換ということです。これは別の言い方をすれば、ギフト市場において新しい価値を導入することが、通常の購買行動よりも行いやすいことを意味しています。

より大きな価値のものを贈ることで、贈られた相手は心理的な負債を負い、より大きなお返しをしなくてはなりません。このために、ギフト市場で新しい価値を導入することは可能であり、同時に必要であるということになります。

村上春樹と村上龍

先日から村上春樹のエッセイを引っ張り出して読んでいる。

村上春樹と村上龍は今でこそあまり繋がりもなさそうなのだけど、『村上朝日堂の逆襲』のなかに「猫の死について」というエッセイがあって、こんなことが書いてあった。

先日、飼っていた猫が死んでしまった。この猫は村上龍氏のところから来たアビシニアンで、名前は「きりん」といった。龍のところから来たので「麒麟」という名をつけたわけである。ビールとは関係ない。

そんな書き出しで始まる文で、村上春樹家に飼われている・飼われていたねこについてのエッセイなのだが、その「きりん」についてのくだりはどうしても前の飼い主である龍氏を思い浮かべてしまう。

「きりん」はどういうわけかセロファン紙を丸めるときのくしゃくしゃという音が好きで、誰かがタバコの空箱を潰したりするとどこからともなく脱兎のごとくとんできて、ごみ箱からその箱をひっぱりだして、十五分くらいは一人で遊んでいた。いったいどのような経緯を経てこのような傾向なり癖なり嗜好なりが一匹の猫の中で形成されていくのかはまったく謎である。
 この猫は元気がよくて固太りした食欲旺盛な雄猫で--このへんの描写は村上龍氏のパーソナリティとは無関係--性格も開放的で、うちに来るお客にはなかなか受けが良かった。


なんてことが書かれていた。

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場の感覚

舞台や舞踏をテレビやユーチューブで観ることに意味があるのだろうか。

そんな極端な話でもないけれど、明らかにその現場にいるときと、画面でみるときの感覚は違う。画面でみる場合、自分の視点が制限される。主な原因はそういうことなのだろうかと思っていたのだけどどうも違う。

場がもつ状況。

それを判断する感覚というのは、ただ単に五感の寄せ集めでなく、場の感覚というのがあって。それが統合的に感情を支配する。



舞台とか舞踏の現場にあるのは、単に音だけではないし、光景だけでもない。
そしてそれらをただ寄せ集めたものでもない。

たとえば、怒りであるとか悲しみであるとか不安であるとか。
あるいは喜びであるとか驚きであるとか。

どうにかしてそれらを引き出すまで再現可能にできないもんだろうか。
ただ単に視覚からだけで判断されるっていうのはなんだかな。

横浜トリエンナーレ2008で、三渓園でティノ・セーガルの「Kiss/キス」を見たとき、再現性のないものを再現性のある形で提供するという手法が舞台であり、舞踏なのだけど、「構築された状況」がもつ形式的な「認知」を観客が体験するのではなく、場の空気感によって、呼び起こされる感情を不特定多数の人間に発生させる装置として、三渓園の建物とか、その場所でのパフォーマーの身体表現があったわけで。

感情を喚起するのは、感覚ではなく、状況なのだ。

なんかCMとかマーケッティングのウソ臭さとか。もういいかげんやめようよと。
勿体なすぎるとおもうんだよな。ちなみに上の土屋太鳳ちゃんの舞踏は、音なしで見るべきものだと思う。この舞踏には、歌は正直嘘臭くて邪魔だ。

リアリティと価値観の差分

リチャード・ギアの『真実の行方』を見ていた。
昔の作品である。絵面であるとか、照明、カメラワーク。いくぶん古い。そして一番問題なのは、地デジ前の画質、だがその古さを代替するのは脚本の丁寧さだと思う。

ジョン・ウィック』をこの直前に見ていたのだけれど、光とかフィルムに対する加工だとか、視覚的なキャッチーさだとか。もちろん決定的なのはその画質。だが脚本がひどい。実際の世界の在り様とか実在性とかの整合性を飛び越えた部分でストーリーが成り立っている。

リアリティと価値観。

リアルであることというのは、現代では一つの価値観でしかない。
事実は、それを見ている人の数だけ存在しうる。それがわかったとき、リアリティという価値感は映画というメディアでは瓦解したんだろう。

正義というのは価値観の順位である。あるポイントではなく、優劣の順位。

このまえ、瀧原宮でシトロエンのC4を見たといったが正確にはC4 PICASSOだ。パリで最初に驚くのはガラスだと思う。表参道のプラダビル。あれを最初に見たのと同じ感覚。C4 PICASSOのフロントガラスを見たときに「あー、そういうことか」と。もっとも、プラダはイタリアのブランドであり、みゆき通りのあのビルを作ったのはスイスの建築家ユニットなのだが苦笑。地震があったらどうするのだろうと、まず自分は思った。事故ったらガラスが降り注ぐだろうなと。

何かを優先するということは、何かを捨て去ることである。

天才といわれる人の絵をみたとき、あるいはこの人は天才だと思う人の絵を見たとき、自分が最初に感じるのは、線である。ある線を選ぶ。その為にその他の線をすべて捨て去る。その捨て去り方の潔さ。それがない作家の作品には天才性を感じない。もっとも、選んだ線にリアリティがあるかどうか。実存という意味で。そこが一番のポイントなのだが。実存というのはその人の持つ価値感のヒエラルキーの別名かもしれない。その価値観がリアルか否かっていうことであって。

全てをまんべんなく拾う。そして拾ったものの精度を上げるというのが日本車の在り様で。たぶん、そうすることで日本では自らが捨て去ったものの輪郭がつかめなくなる。すべての順位があいまいになる。それが日本車の長所であり、短所なのだろうと。要は『生』に対してリアルじゃないのだ。

リアリティというものの価値観。すべての、たとえばある事件にかかわったすべての人の意見を拾うことから生み出される視点と、ある特定の人の視点。例えば、ある鋭い感性を持つ人の視点。

村上春樹の『アンダーグラウンド』を途中まで読んで、あまりにリアリティがなくて途中で自分が捨て去ったのはその全体性に疑問を持ったからだと思う。あるいはリアリティという名の公平性がもつ欺瞞に対して。すべてを拾おうとしてすべてが薄れていく。

そのどちらが正しいのか。どちらが正義なのかという判断をするのは受け手個人に任されるのだけど、それって、おのおのが世界の『実存』というものをどうとらえているかということかもしれない。関係の中のある一点なのか、それとも個々の本質という意味でなのか。

草間彌生

捨てることが下手な日本人。個々の人が持つ世界感を、全体性という価値観で覆おうという閉塞性。自分が村上春樹が『アンダーグラウンド』を書こうと思った意に反して、結果的にそれがもたらしたモノに対して嫌悪感をもったのは、公平性というものが持つ欺瞞に対してだったのかもしれない。戦争があった70年も前と今も、そういう日本人の在り様はたいして変わっていない。

それぞれの個人が世界に対して持っている窓は必ずしも同じ空を映してはいないのだけど、ある一点から公平に見ようとすると同じ地平にあるように見えるのだ。自分が同じ場所から彼らの窓を見ていることに誰もが気づいていない。