象の夢を見たことはない -56ページ目

グラビティ ゼロ

先日、瀧原宮へ。

内宮の雛形といわれているのだけど、それだけでなく、ゼロ磁場のパワースポットだそうだ。

お正月に伊勢神宮にいったとき、御札(御神札)の授与所の横の木に人だかり。
神様は手を合わせて拝むもので、手をかざす場所ではないと、十数名の参拝客が宮司の人に前言われていたのを同じ場所で見た。お正月は忙しいのかそういう注意をする宮司さんはそのときはいなかった。

そういえば、自分が神戸の大学にいたとき、構内で人を勧誘して、手を頭にかざして、お祈りをするという同じ大学生のサークルなのかなんなのか。あれは、大学では許されていたのだろうか。

手をかざすという行為自体、かざされた方は目下の存在になるという暗黙の了解的な何かは確かにあり。ナポレオンの王冠と同じようなものだろう。跪くとか。かざした方は全能感を得るのだろうか。

小学4年生のとき、学芸会で笠地蔵をやった。クラスのヒロイン的な女ノコが老夫婦の妻役で、自分は地蔵の一人に運よくなれた。話の展開はすでに忘れてしまったが、自分が笠を被せてもらったときの手の暖かさはまだ覚えている。

水泳が好きで、オリンピアンで銅メダルの選手まで覚えているのは水泳の日本の女子選手だけだけど、そのコたちはあのわけのわからんおっさんたちにメダルを授与されるとき、そんなことは思ってはいまい。あのおっさんたちはこのコたちに対して何かを成し遂げたと恩着せがましく思っているかもしれない。

グラビティ・ゼロ。

ここにはねじれた樹が存在するとか。

行ったあと知ったので写真はないのだが。

ここの空気は清冽なのだけど、もし今順調で人生に問題がない人は行かない方がいいかもしれない。だいたいパワースポットなどに行く人は自分がいまいちついてないとか運気が悪いと思っている人だろうから、その人たちの在り様をフラットにしてくれることは間違いなさそうだったけれど。良い状態までフラットにされてしまうところがありそうなそんな場所のような気がする。

社がある場所で天を仰ぐと、すべてが吸い込まれそうになる。この感覚は伊勢神宮にもない。あの場所はフラットでほんとうにゼロだ。ここは逆にそういう意味で、宇宙空間につながっていて、自分が今いる宇宙船からそこに放り出されるような感覚がある。

平日の昼前だったのだけど、シトロエンのC4やらボルボやら、人は少なかったのだけど、来ている人は、いわゆる成功者のおじいさん、おばあさんたちだった。ここは実はとんでもない場所なのかも知れない。

瀧原宮

かっこよさとていねいさ

しばらく前から村上龍の「心はあなたのもとに」を読んでいた。

主人公が子供のとき、タイガー戦車が好きで、プラモデルを買って作るのだけど、どれも作り終わってスイッチを入れると、モーターがガーガー唸るだけで一向に動かなかった。彼は父親にていねいさが足りないのだと言われた。好きなものに対しては丁寧になれるはずだと。自分はタイガー戦車がこんなに大好きなのに何故なんだろうと。

テニスにしてもそうだ。好きな筈のテニスで、ずいぶんテニスの練習場に通った筈なのに、習い始めたばかりの丁寧なボールの打ち方をするおばさんに負けた。彼は、ベッカーだのアガシだののテニス選手に憧れていて、その真似をしていたのだ。でも、それらの選手のマネをしたからといってテニスがうまくなるわけではない。

これはフィクションだと最後に彼は断っていたけど、ここに出てくる主人公は彼にそっくりだし、主人公の母と彼との関係も彼のことを書いたのだろう。

テニスはていねいにボールを打つ者が勝つ。
それはすべての仕事においていえることで。

前田日明が昔、こんなことを言っていた。プロレスでもそうだが、大技は誰でも練習すればできる。でもプロレスで本当に大切なのはそこに至るまでの繋ぎであって。ただ大技だけが出来ることに本当の強さはない。関節技にしてもそうで、そこに至るまでの道筋を丁寧にそして臨機応変に追っていけるものだけが試合に勝てると。

成功するための秘訣はただ一つ。それは失敗しないことで、
失敗の原因は数限りなくある。

自分も子供の頃、戦車のプラモデルに憧れたのだけど、作るのが難しいという話は知っていて、それで手を出さなかったし、出せなかった。自分は欲望の力が弱い。好奇心やあこがれの強さというのは、生きるために絶対に必要な欲望であり、生きるための力だ。

但し、それが強ければ必ず成功するというわけでもない。

悪の凡庸

悪の凡庸。というハンナ・アーレントの言葉について最近引っかかっている。
引っかかっているのは、そのハンナ・アーレントについて自分は知らなかったのだが、彼女についてそれを自分に最初に語ったのが、県の農水関係の職員だったからというのも遠因にあるのかもしれない。

大学のとき、一般教養の哲学で最初にレポートを書かされたのが「学問芸術論」のルソーについてであった。ルソーっていうのは、自分の著述については大層なことを書いているのだが、本人は露出癖はあるは、不倫はするは泥棒はするはだの、クソみたいな人間だったとかで。

その哲学の教授が言うには、「本人の在り様とその著作の尊さには関係がない」と。まあ、そんなことを言っていたのだが、ある朝の授業で、「今朝、嫁と喧嘩して気分が悪いんだけれど」云々と言った枕詞で授業を始めたときに、あぁ、君もそういうことなんだすなと大学の青二才ながら納得したことだけは覚えている。

まぁ、ハンナ・アーレントもそういう人生で、いうまでもなく、それを信仰する人の倫理感と彼女自身のあり様を重ねてしまわれることをそれを語った時点で彼は望んではいなかったろうが。。他人っていうのはそういうものだ。意外と真実は突いていると思う。

今日はバレンタインデーで、妹はまだ結婚もしていない憐れな兄にいつも義理チョコをくれるわけである。それはそれで有り難い話ではあるのだが。

よくある義理チョコ

このよくある義理チョコ、そういえば、前にも貰ったよなと。
自分が今後、商売をするにあたって、どういうものを売っていくべきかとかそういう根本的な指針を今決めているのだけれど。

「悪の凡庸」というモノが実態経済に及ぼす影響というか、それがスパイスでなく、経済の基盤となっていることにこれを貰ったとき愕然としたのよね。もちろん、妹に対してはありがたく思っているし、そのありがたく思うこと自体にミソがあって。この値段でこういうのを売り続けて商売成り立っていくんだという。

正直、悪どさとかそういうのは人生には必要で、それがないとつまらないのはわかっているのだが、商品についてもそうで、悪のふりかけというか。そのエッセンスの重要さというか。わかっていたつもりなのだが。

実際には、「長く見ているもの、自分と長い時間関わっているものを、本質的に人はいとおしくおもう」というクソのような条件反射に愕然とするわけである。要は、どんなにひどいものだろうが、自分が過去において長く関わってきたものを『是』としてしまう人間さ。 ボージョーレーとかさ。そんな平均的なレベルで商売してて、それで生きていけるんや?という。そして実際生きてイケテルこと。

そのクソさ加減。悪の凡庸。

少なくとも、自分がこれまで見てきたライブで、そんな凡庸な奴らはいなかったのだ。
そして、自分はそのコらがまき散らして来た努力とか、汗とか、そんなものにしか生きるエネルギーは貰わない。そこにしか目指すべきものはないと。そういう誓いを改めて今日ぶっ立てる。

第三の波

そういえば、今日inter-FMというか、名古屋版のRADIO NEOだと思うのだが藤原さくらちゃんがゲストで出ていた。ま、自分といえば、学校さぼって市場調査という名のドライブに出てたからそんな時間にラジオが聴けてたわけだが。

去年の年末に新栄のROCK'N ROLLでLAZY guns見に行ったとき、主催がMOJのタツ君だったのだけど、彼が彼女がまだアミューズに行く前から知っていて、そのつながりで引っ張ってきてて、時々そういうとんでもない引っ張り方をして、マジか?っていうことをやっちゃうのが彼のすごいところなんだけど、実はそのときまだ知らなかったのだよね。

で、そのとき、なんだか不思議なコだけど、なんだかどこかが違っていて。
こういうコを引っ張れるメジャーってやっぱりすげーんだなとおもったのだな。
新しい波はひたひたと押し寄せてきているのね。



むかし、新しい潮流が現れると、第三の波って取り敢えず呼ぶっていう風習があったのだけど、意味を知らなかったのだ。今調べてあーそういうことかと。なるほどね。

日記(1月18日~1月23日)

1月18日(月)~20日(水)
浅草寺

1月21日(木)
早朝6時過ぎ 築地
築地
築地マップ
夜 渋谷
ミルキーウェイ

1月22日(金)
鎌倉 シラス丼980円
鶴岡八幡宮
かまきん
ノグチ

1月23日(土)
押上 2080円 
タワー