象の夢を見たことはない -52ページ目

ブレーク

鞠子 @『とと姉ちゃん』



自称シンガーソングライター・加奈子 @『99.9-刑事専門弁護士-』&
真田信繁の3人目の妻役に大抜擢 @ 『真田丸』



えっ!?このこだれ?アップ

って思ってたコが次々と有名になってくのを見るのは至福クラッカー
さすがだな、オレ様の見る目はやっぱり!とか笑
ただの女好きともいう苦笑。

というか、インディーズバンドのメジャーデビュー直前のPVからとか、メジャーデビューPVとかから火が付くっていうのがライブでバンドを直に見ているものにとっては至福でもある。

論理哲学論考

生まれ落ちたときに自らの外にあった世界を、自らのうちに作りこんでいく。それによって、世界の成り立ちを知る。世界と相似な、世界の像を自らの中に作りこんでいく。人そのものが世界と相似となる。結果、七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。なんていうのが理想なのかとなんとなく心の中で思っていた。すべての経験は宝物である。その根拠となるのがこんな考え方だったのだが、考えてみれば、自然というのが、南極や砂漠や熱帯雨林や高い山などでまったく形を変えるように、人がなれる自然というのも人によって違う。人が自然と同じような全体性を得るというのは困難なことであろう。

移民。ブラジルの奥地で土地を開拓し、農場を作る。その過酷な経験が大原治雄を形成した。そして彼が残した写真。日本・ブラジル国交樹立120年記念なのだそうだ。

それでもなお、彼が写した写真は、のうのうと現代の日本に生きる自分の心の中にある世界と呼応する。それは、実は写真という媒体自身が持つ力なのかも知れないが。

ヴィトゲンシュタインは、こんなことを言っている。

「像(Bild/picture)」とは、例えば、地図が土地の地形を写すように、あるいはまたレコード盤が音波を、音波が音楽を、さらに音楽が楽譜を写すように、対象との正確な対応関係を有する模像(モデル)のことである。
一見すると、対象とその像との間には、何の類似性もないように見える。レコード盤はビニールの板であり、楽譜は図が印刷された紙である。外面的には、どこにも似た点はない。
しかし両者の間には、一定のルールに従った、一対一の内的な対応関係が存在している。


内的な対応関係。
自分の中に世界を作る。自分の中に作られた世界が重要なのではなく、内的な対応関係を作ろうとする人の心のあり様が人を成立させている。生き生きとしたそれを、死ぬまで持ち続けることが重要なのだろう。

埃(ほこり)まで描いた男~モランディ

基本的に自分はものを知らない。なので、モランディも初めて知った。

日曜美術館「埃(ほこり)まで描いた男~不思議な画家・モランディ~」

モランディの静物画

静謐感。だけではなく。どこかにあるノスタルジー。
自分の親がまだ小さかったころ、家にあった容器をおじいさんが描いた感じ。
あえていうならモノの心象風景。

自分が小さかったころ、物はそれをとりまく風景を含めて、自分の一部だったのかも。物に対する親密な感じ。もののそれぞれに性格があった。人が寝静まった夜更けにそれらは動き出すのだ。そういえば、岸本佐知子さんの『なんらかの事情』に

五年生の家庭科の時間に、一人に一個、裁縫セットというものが配られた。
女子はピンク、男子はブルーのつるつるしたプラスチック製の四角い箱で、中には見慣れない道具一式が詰まっていた。水色の平たくのした三角形のクレヨンみたいなもの。ミニチュアのピザカッターめいた器具。先端に平べったい円盤がついた針。トルコブルーのコーデュロイでくるんだ極小クッション。焦げ茶の革の、受話器の送話口みたいな穴があいた指輪状のもの。


なんらかの事情 (ちくま文庫)/筑摩書房

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自分が子供のころに出会うものの印象というのは、そのつかみどころのなさにある。のっぺらぼうなものたち。経験の少ない自分たちは、その初めて出会ったものの印象を、なんとか自分の知っているものと比べながら理解しようとする。それはものに対する親密な感情を伴わずには得られない。

それぞれのものが背景から切り離されている必要がある。それらの境目がわからない絵や抽象画に対しては起こらない。輪郭ははっきりしていないといけないのだが、はっきりしすぎていてもいけない。

静物画というと具象と考えがちなのだけど、それは極めると抽象画になるらしい。

モランディの静物画に描かれた容器も、具象性がどこかはぎ取られていて、それらの容器が実際にどのような用途に使われていたのかわからない。色にもたぶんノスタルジーの秘密があるのだろうけど、それは今ははっきりしない。またそのうち。

     半月     半月     半月

マルセル・デュシャンの「泉」が提示したものは、「便器でさえも抽象的なオブジェになる」というこれまでの芸術の破戒だけではなく。あれって日本人が最初みたときになにかわからない。たぶん日本のむかしの便器も西洋人にしたら、なにかわからないだろう。なにもよりによって便器に親密性を感じたくはないのだけれど。

便器でさえも抽象的なオブジェ


そういえば、かたちという点では、あるいは、モノの匿名性という点で、あるいは不可解な容器という点で、ハンス・コパーも思い出した。

参考
ジョルジョ・モランディ ― 終わりなき変奏 ― | 全国巡回展情報 |
ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏 - 東京ステーションギャラリー
3分でわかるジョルジョ・モランディ キリコの形而上絵画とモランディの静物画 モランディの人生と作品

カラヴァッジョの「法悦のマグダラのマリア」

過剰な演技性。あるいは演劇性。
誇張された感情表出。

中世宗教絵画に限らず、多くの西洋画、あるいは日本画においてもそれらは見られるわけであるが、それが病的な域にあるかどうかの判断は個人の線引きに依る。

作者その人の人となりは、絵や作品そのものからはわからない。
実際には伝え聞いたその人の行動様式や、性向によって判断している部分が多いのだけど。人格と作品はわけて考えるべきかどうか。
ヒューマニズムというのは、ときに崇高でときに愚かしい。
果たして美術や芸術の本当の価値とは一体?

認知科学的なモノの見方を提示する。
印象派以降、美術の評価は、その真価をそれらの新規性や妥当性に基づいて与えられてきたように思える。奇を衒う、衒学的、というよりもむしろ「眩術」的な現代美術のあり様とか。それらのうさんくささに飽きてしまった、あるいは一目で見破ってしまう人もいるだろう。なんにせよ、人を離れて美術や芸術は存在しえない。

果たして、では人というのは美術とか芸術の世界でどれだけの分量をしめればよいのだろうか。例えば、技能。それを体得するため時間を推しはかる。あるいは、天才性。どれだけ数少ない人が生まれながらにしてその才能を持っているのかどうか。あるいは、その時代にどれだけの富と時間をその作品に費やしたのか。

それらの一見「本質的な美」とは関係ないものを、どれだけ自分は、絵画や芸術の価値として付加して見ているだろうか。果たして、では、人を離れて「本質的な美」というものがあるのか。

個人的な経験というのは、かなりの部分でその作品の評価に影響する。

脆く崩れやすい自尊心。その自己の脆弱性を補おうとする虚言、過剰な演技性。根本にあるのは自己不信である。そして訪れる虚無感。虚無をもつ自分への自己陶酔。誇大的自己と無能的自己のあいだで振幅運動を繰り返す。

カラヴァッジョ、正直、お友達にはなりたくないタイプである苦笑。上のわずかな光へ行く手前に鋳薔薇の絡まった十字架の試練。はるかな希望と闇に留まる自分への憐憫と安寧。遠いものに憧れながらそれを敢えて手にしないことの恍惚。自愛。

だが、誰もがそういう部分を持っている。だから、人の心を打つ。
人を離れて、美は存在しない。

美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。by小林秀雄

マグダラのマリア



「もう一つのモナリザ」だと、松岡正剛氏。

アルカイク・スマイル。法隆寺金堂釈迦三尊像のそれは、仏像鋳造技術が未熟な時代に作られたからだとか。その説は、結局古代ギリシア美術のアルカイック美術についての解説の踏襲で、この時代の彫刻はまだ彫刻表現が未熟なため表情はぎこちなく云々と。そんな誰かの評論を小学校のときに読んだ覚えがある。

果たして、あのように均整のとれた見事な光背を持つ仏像が、言われるように未熟な美感や技術をもつ人間によってつくられたものなのだろうか。あるいは、中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像についても。
神との一体化、それを示す表情が一瞬の永遠を表そうとするものであるならば、なんらかの共通する表情というものが、それなのかもしれない。

節度-恍惚-智慧。その微笑のかたち。
ずいぶん差があるけれど、どこかにあるエロス。そして受苦。

春あらし

昨日の桜。


さ


く


ら

さくら。

なんだっけ?こういうのNHKにあったよな。

今日は、土砂ぶりの雨。
昼出かけたときには、道路に花びらが散らばっていた。
春の嵐。

今の時期、新入生も、新社会人も、新しい学年で新しいクラスになった子供たちも
心の中は春の嵐。とにかく、ジェットコースターみたいだろう。
しっちゃか、めっちゃか。

そういうのを楽しめるようになったのが、大人になってよかったと思える一つ。
新入社員の頃って、5月くらいまで、情緒不安定だった。