象の夢を見たことはない -50ページ目

ジュブナイル

1960年代から1970年代にかけて、東京オリンピックと大阪万博。

高度成長期のコンクリートやコンビナートと人間の感情との差分。そんなものが、SFという分野にそそぎこまれていた、そんな時代。当時の子供たちに託された未知の未来が、SFジュブナイルというジャンルになっていた。人間不在という命題に対する柔らかい緩衝材だったのかもしれない。

 

コンビナートとか廃墟とか。埠頭。工場、ダム、立体交差、天文台。

 

そんな世代の子供たちが今20代から30代になっていて、親が持っていた情緒をどこかで引き継いでいるのかもしれないとparanoid voidのメグリちゃんをみていつも思う。どこかにある少年。

 

そういえば、ニューエイジャーと呼ばれた世代も彼女の親の世代だろう。100匹めの猿とか。じぶんは、この話の「まったく交流がないはずの他の島までこの文化が伝播する」ということをどこかで信じているのだよね。

 

101匹目の猿が時代を超えて現れる件。

 

 

 

8/17 心斎橋

 

 

お盆

ずっと不義理をしていた小学校の同窓会に出た。

浦島太郎は、自分だった。そんなことに気づく。
何十年ぶりにあった旧友たち。姿形に刻まれた年月。
そんなSFX。

そんな見た目より、話をしていて、あるいは所作をみて、
彼らや彼女たちの年月が刻んだ心の襞の深さのほうに
自省をうながされる。

勝ってたやつは負け、負けてたやつが勝つ。
動いたものが人生を得る。



ほんとに愛していたんだよ
あのとき、このとき、さようなら

だからそういっちゃえよ。
だからそうわらっちゃえよ。



カモン!!エナジー

ピーター・バラカン氏の番組をさっきなにげに聞いてたら、どこかで聴いたメロディーが。まるっと佐野くんじゃん!
ダイナマイトに恋をしたら二度と家へ帰れない。
家へ帰ってようつべ見たら、ライブアクトまでそっくりでもう笑うしかなかったわ音譜



バディホリーだの、スタイルカウンシルだのいろいろあるけど、バックツーザストリートとハートビートの彼の初期って、ほぼほぼ、ブルーススプリングスティーンだったのか。しかし、「ボーン・in・the・USA」とか80'sの頃のひどい彼しかしらない自分にとっては、70年代のブルース・スプリングスティーンはかっこいい歌、歌ってたんだな~と初めて知る。

今佐野くんのコンサートは行かないけど80年代の彼はイカしてた。Cafe Bohemiaまでしか聴いてないし、それまでもコピーばっかりだったんだけど、当時はそんなことより、あの消火器をマイク代わりにして「おーいえー」とスタジオで叫んでたとかいう、その逸話が示す、彼のエネルギーにイカれてたんだと思う。無茶苦茶だ。ほとばしってる人は、それが人の真似だろうとなんだろうと、その姿そのものがオリジナルだし、そのエネルギーこそがカッコよかったんだ。

しかし、このライブさいこーじゃん。
ステージ上がってきた女ノコにキスして欲しいわ笑

イット・フォローズ

イット・フォローズ。

何かが自分をつけてくる。
夢に出てくるあのパターンというのは、人の根源的な恐怖なのだと思う。



一体、何につけられているのだろうか。
それは「死」というものである。そう断言するのはたやすい。

言葉というのは、片方では呪術性をもつ割に、もう片方では安心をもたらす。
なにか分からない痛みにさいなまれて、病院へ行き、診断をもらって、それがなんであれ、ほっとする。それもある種の呪術性なのかも知れない。プラシーボ効果的な。

だが、現実の恐怖というのは、無意識の中で定義できないものに変わるらしい。

夢は現実問題を解決するために脳がその日の情報を取捨選択するための手段だそうだが、そんなに簡単なものでもなさそうだというのが、悪夢を見た後の感想。浮き上がった感情は理性で解決できそうに思えるだけで、気分の悪さはどこかしらに沈殿している。

詩というのは、あるいは格言というのは、とりあえずその問題をどこかに一時的に置いておく『便宜的』手段である。言葉が解決できるものというのはせいぜいその程度のものだと思う。

とりあえず、空は10kmもいけば成層圏で、人は住めないけど、地表は永遠に広い。
シネマスコープのサイズ。映画はそうでないと。
iphoneやアンドロイド携帯、その動画が縦長なのは本来の世界のあり様、その情報を制限することで、短時間に脳が情報を処理しやすくするためなのかもしれない。余分な情報をカットする。本来はそこにこそ人生が詰まっていたりする。スマホというのはそういう仕組みなのだろう。