水。偶然の。運命。
高校の現代国語の教師がこういうことを言っていた。
「戦争前には、水玉模様が流行るんだ。なぜか、わかるか?水玉模様っていうのは、赤ちゃんの模様なんだ。赤ちゃんのよだれかけとか、ベビー服とか見てみろ。水玉模様が多いだろ?
要は赤ちゃんや子供が安心する柄なんだよ。
ドットプリントのネクタイしめてる教師とかもいるだろ。ああいうやつは、頭が子供っぽいんだよ。
大人の思考ができなくなったときに戦争は起こるんだ。だから、水玉模様が流行るときは注意したほうがいい。」
前に書いた文章だが、ギンガムチェックもそうなのかもしれないとふと思った。
草間彌生の水玉もそうなのだけど。
閉塞感がある場合、水玉になる。上を蓋された状況で煮詰まっていく。
村上龍が『イビサ』で精神をおかしくした主人公が、クローム鍋で水を沸かすところをとにかく描写してみたように。クローム鍋のなかの水が沸騰する様子を彼女の視点で徹底的に。
沸騰といえば、パンクの鋲もそう。革ジャンに鋲。水玉が尖るのである。この水玉と鋲のモチーフが美術作品に多くみられるのが、なぜか女性なのである。ある種の恐怖なのだ、彼女たちにとって。あるいは囚われの身であることの安寧。ストックホルム症候群的な。
クリムトの場合、水玉は海蛇(水蛇)の中の細胞のイメージになる。正面から見た男性器。男性の場合、分割されていない水玉は幼児であって、そういうイメージが現れるのであれば、その人は幼児退行していて少しヤバいかもしれない。
脳の細胞は限られていて、同じような状況を同じイメージで括る.。閉塞された状況の中で沸騰する。そういうイメージ。限界もしくは臨界。
今は、そんな状況ではない。水玉もギンガムチェックも流行ってはいない。
今、流行っているものは何なのだろう?
木星の衛星「エウロパ」で水蒸気が噴出、「海」の成分解明へ NASAが発表
必然的な出会いという。
たとえば、結婚する人と赤い糸でつながっているという古典的な思い込み。
文学で言えば、ナジャ。アンドレ・ブルトンの。
「偶然の必然性」というのがシュールレアリズムの裏テーマ。
関係の暗示。あるいは関係性の暗示というのがシュールレアリズムの見た目だけど、例えばダリの絵。自動筆記にしてもそう。それらの延長線上にある、あるいは「生きていること」の中で出会う偶然的必然性。ある種、宗教的な体験。キリコにしてもそう。神懸かり的な遭遇。その中にこそ、おまえの世界における存在価値はあるのだという。
恋愛とか、結婚とか、あるいは職業だとか。そういうものと劇的に出会うことを劇的に肯定する、すなわち自己の存在意義を肯定する出来事に、そこまではいかなくても、ああ自分はこのために生きているという出来事にルーチンワーク的に出会えるほどに動けてたら人生成功裏に終わる気がする。
夢の中で、いままで見たことのない景色にであうことはよくあるが、ふとした瞬間にいたこともない場所の光景を思い出すことがある。記憶の中にある景色なのか、夢でみた景色なのか判然としない。
人は生まれ変わるという信仰がある。知らない筈の場所、出来事を言い当てる。これは過去生での経験からである。魂は存在する。そういう信仰からきている。例えば、ここでこんな提案をしてみたら。
魂というのは、それが肉体に縛られていないように三次元の法則にも縛られてはいない。空間でなく、時間も超えて連続する存在の一部である。つまり、未来の生からも我々はやってくる。
三次元の物理世界。その法則の中で考えられる、考えていることの限界。臨界点。
もちろん、キリスト教の神がそうであるように、ここでいう魂というものは現生の人の幸・不幸にとって都合のいい解釈をされたモノではない。3次元では、3次元の、4次元では4次元の物理法則を満たす法則のことであって、人知は及ぶべくもないソレのことである。
カウチポテト
この間からゾンビ映画を勧められ。なんか気になりだして、見たいのだが、ブツが見つからず、見れないのが、2つ。
『ゾンビ革命 -フアン・オブ・ザ・デッド-』
『ロンドンゾンビ紀行』
すげえ面白そう笑。
そういえば、いま教えているセントヨゼフ中学のコが学校の先生の英語(英国)の発音が聴きとりにくいといってたので勧めてみようか。ところでセントヨゼフって上智もそうだけどイエスズ会系のカソリックなのだけど、なんでブリティシュ英語推しなのだろう?英国ってプロテスタントだよなと。わからん。
要は、ゾンビ+なんとかっていう組み合わせなのである。奥の細道・オブ・ザ・デッド的な。まあ、これは「日本タイトルだけ大賞」だけど。人の根源的な恐怖って、笑いと隣り合わせなので相性抜群らしい。シリアスさと笑いを極端にぶっこんだら学校の授業も塾の授業も面白くなるんじゃねえかと。まあ、自分はそこまでのテクはないけれども、少しは面白くはできるんじゃないかと。
今日は、そんなかんじで『ウォーキング・ゾンビラン』と『ゾンビガール』っていうのを借りてきた。ゾンビとは関係ないけど、DVDの棚を眺めてて、ギャスパー・ノエの『LOVE』とタランティーノの『ヘイトフルエイト』が気になったが、新作なので今度まとめて借りることにした。新作映画と言えば、『スーサイド・スクワッド』は観たいけど、映画館最近行ってない。
塾で英語を教えているといろんなコがいる。勘がよくてってコは手がかからないのだけど、で今までは手がかからなかったのだけど、長文読解とか、勘でやったら痛い目を見るっていうところに壁があるかもしれない。愚直にっていうことを要求される作業ってどこかにある。
堀江貴文の「検索力が必要とされる時代」っていうのはある意味わかるのだが、今日本屋で彼の本を立ち読みしてて、おお!と読んでたのだけど、この文で彼の本を買うのやめた。同じことを村上龍も言ってて。それは彼らが文系だからだろうなと。
インド人とソフトウエア開発の仕事をしてたとき、彼らは、語弊がある言い方を敢えてすれば、ズルするのが得意で、検索して情報を持ってくるのはすごく速くて要領はいいんだけど、それで開発作業ができるのは80%までで、あとの20%が詰められない。だから試作品は作れるし、そこまでにいくのは日本人の何倍も速いけど、製品として世の中に出せるレベルまではどうやってもいかなかったのよね。そこの詰めの部分は本当に泥臭い努力が必要になる。そのあたりはこれからもずっと変わらないだろうと。
とはいえ、言語習得はそんな難しいもんじゃないので、彼らや彼女たちを飽きさせないために、本を買いに行った。とりあえず、amazonで
を買った。中学英語卒業くらいなのでこのあたりがいけるんじゃないかと。
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は、前、妹がいらなくなったからってくれたのだが、どこかにやってしまい。今日、本屋で見つけて立ち読みしてたが、やはり何かがおかしい。意味が多い前置詞について、ちゃんとイメージとしてまとめきれていないからというのが一点。自分が思っている前置詞のイメージと図が違うというのが一点。
イメージを絵にするのはできるけど、その絵を皆の共通の解とするというのは簡単なようで難しいんだろう。イメージはお仕着せではなく、自分で作っていかないと、「生きもの」として自分の中に作らないとダメなんだろうなと。たぶん、それがデザインの限界なのだろう。絵画との違い。まあ、それって自分が思っているデザインと絵画のイデオロギーの違いだけなのかも知れないけど。便宜的な解を与えることがデザインで、相手に解を委ねてしまうのが絵画というか。
ps.『ウォーキング・ゾンビラン』と『ゾンビガール』は激ハズレだった苦笑。さすがゾンビ映画。難しい。
vineについて
ホナガヨウコちゃんのTwitterをこないだからフォローしていたのだが、ホナガヨウコ blog更新しました *『JINTAKA』MV振付 っていうのがあったので。
ダンスとかダンスパフォーマンスについて勘違いしていたのだけど、あれは感覚を想起するものであって、感情を想起するためのものではないのだろう。ダンスパフォーマンスが問題なのは、ダンサーが踊る時間とその舞台が続いていること。それが、自分に勘違いを起こさせた。
音楽はよく時間芸術と言われるんだけど、この言葉も音楽を勘違いさせる言葉かもしれない。クラッシックの時代はそうかもしれなかったけれど、認知心理学的には、あるメロディを聴いた場合にグルーピングする際の仕方、全体性を持ったまとまりのある構造、としてどこに区切りをいれて認知するかっていうのがまずあって。そこで、どんな塊を人間はメロディとして認識するかっていうのが、音楽の枠組みを作る一つの単位になっている。それをどう組み合わせていくのかっていうのが、最近の音楽の潮流として主流に近いのかなとも思う。
そう考えた場合、塊としての繋がりより、ワンセンテンスのショッカーの度合がますます重要になってきてて、ゲーム感覚的に。ダンスというのもそっちに変わってきているんだろうと。もはやダンスも、バレエや歌舞伎のような時間芸術ではない。
vineっていう6秒のなにか。その場の感情の揺れ。場が6秒で転換するから、それをMV的につなげれば、場が続くことの呪縛から逃れられる。なるほどねと。MVとして生き残る。ダンスパフォーマンスが持つ、感覚を想起するという武器を先鋭化する。残酷な視点でダンスパフォーマンスを見るならば、そういうふうな存在価値しかない、今の時代。極端にいえば。でも、方法論としては、逆にいろいろな選択肢が増える。複数のストーリー性のあるシーンを6秒ごとにちぎってシャッフルしたりとか。6秒っていうのがvineの最大の発明ポイントなのだね。それがミソ。すごいわ。
いや、そうでもないな。盆踊りっていうのは違う。あれは、みんなで作る時間芸術かもしれない。ほなちゃんが別にやってるけど、あれって今の時代に、ダンスが失ったものに対する補償かも知れない。ライブもそういえば、皆でつくる時間芸術だ。ダンスパフォーマンスもほんとはそういうものなんだろうけど、場というのはテレビやユーチューブでは伝わらないから、今の時代、演者も観客も昔に比べて損しているんだろう。世の中便利になって、どこかが退化することで、別のどこかにポイントが移っていってるだけなのかも。
でも、確実に間口は増えた。
ただ、増えた間口のどれもに同じ価値感で展開はできないだけってことなんだろう。
こしゅにえ
パラボイの自主企画の告知がTwitterであって。
自主企画ならっていうんで、対バンのMVをみてたら、ちょっとこれはヤバイとおもうバンドがあったので、備忘として。
Co shu Nie(コシュニエ)
けっこう暗いのだが、この暗さはガーリーな感じ。
どうやら、ガーリーカルチャーな世界観が好きらしい、自分。
ソフィア・コッポラとかTHE TEENAGE KISSERS。
そのあたりで惹かれたんだなと自己分析。
次世代多面性ポストポップバンド?なるほどね。
以下、備忘録。
Co shu Nie(コシュニエ)がヤバい!このバンドは聴いた方がいい!!
でも新曲は、ここまで特殊さが際立ってはいないみたい。
このあたりはパラボイちゃんもそうで、初期作品のほうが自分は好きだ。一般受けしないんだろうけど、初期衝動を丸ごと真空パック的なシングルとかミニアルバムってライブ会場限定で、レアなうえ、へたしたら廃盤になってたり。その勿体なさたるや、メジャーのおんなじような…カウントダウンTVって何年かに1回くらいタマに見るけど、何年ぶりにみてもメジャーな曲の中にあるあの共通なマンネリ感って何なのか、文化は進化しているのだけど、ああいうのは人間の本質的な音に対する好みで脊髄反射的な部分になっちゃうのか、ううーんといつも唸ってしまう。そういう代わり映えのなさが世間だけでなく、どこか自分の中にもあるのに飽きちゃったんで、ライブ会場に行きたいと。このバンドも自分が偶然にライブ会場でであってたら。。やはり、偶然の生な出会い。というのが人生のミソだし、それが人生の快楽の本質の大きな部分を占めるのかも。
ふしぎがいっぱい(5年) [理科 小5]
ん、なんだろうこのコ。ホナちゃんって…。
ていうことで調べたら、ホナガヨウコちゃん。モデルだろうなあと思ったら、パーフォーマー・振付師でもあるとか。ホナガヨウコ企画。いいねえ。
モデルの条件って、やっぱり手足の長さが重要なのだろう。手とか足とかは構築的なのだ。身体の構築性というのは、ダンスのさいに表現できる幅が変わるということで。
池谷祐二氏の『単純な脳、複雑な私』に15ドットの人間というのがある。
https://www.biomotionlab.ca/Demos/BMLwalker.html
たった15個の点でも、それがしかるべき動きをすると、まるで人が歩いているように感じる。動き具合によっては、歩いている人の性別や感情までが伝わってくる。ていう。関節の部分に「点」が置かれているのがミソで、そこをもって人の動きを認識する。その人の感情表現や性別や動きの重さ。手足が長いほうが遠くの人にまでそれがわかる。
ただ、その表現認識がどこまで及ぶのかというのがいまだによくわからない。その重要性の認識。パーフォーマンスの限界。自らが表現したいものとそれを受け取る人の感覚の鈍さ。
感情は感覚ではなく、どっちかというと文脈に依存する。状況なのだよね。場というか。文脈を共有させるための伝統とか型というあり様は、ある種の人々の囲い込みであり、特権階級的なものを生み出す。そうなると、それが表現するものと乖離していくことになる。
正直いまだにその価値がわからない。女子高生のvineのほうがまだわかるのである。一瞬で場を表現しているということなら。
だが、その人のもつオーラっていうのは、なんなんだろう。その人自身がもつ場というもの。磁場とよく表現されるのだけど。それを操ることができたらというある種究極のエゴ。パーフォマンス自体より、その意志を持っていること。自分は人のそこに惹かれるのかもしれない。
しかし、ノッポさんといい、NHK教育の人選というのは。パフォーマーという表現者をここに持ってくるセンス。すごいわ。


