vanishとロス | 象の夢を見たことはない

vanishとロス

『バニシング・ポイント』(米1971)を見た。



主人公は、バリー・ニューマン扮するコワルスキー。だが、もう一人の、あるいは1台の主人公は白の70年型ダッジ・チャレンジャー。彼らが消滅するポイントが、バニシング・ポイント。この映画はいろんな映画で引用されている。『マッドマックス』、タランティーノの『デス・プルーフ_in_グラインドハウス』。もっとも、バニシング・ポイントの原型は、でも『イージーライダー』(米1969)だろう。



もちろん、これらの映画が目指す場所はそれぞれ違う。あるいは着地点は違う。
明らかに、まったく。これ見よがしに違う。

もしかしたら、それ、つまり、『目指す場所』、あるいは『着地点』の違い、見る人がそれらについてはっきりわかることが、それらがコピーかリスペクトかオリジナルかと判断するポイントなのかも知れない。与えられるものが違ったという自覚を観客が持てるか否か。

与えられるもの。それは作り手が、はっきりくっきり意識してないと生まれない。

vanishというのは、60年代から70年代にかけてのアメリカの空気感なんだろう。
ヴェトナム戦争に負け、強いアメリカを失う。ただ、そういう意味ではなく。
答えは風に舞っている。そういうことだけでもない。消失。vanish。

最近、村上春樹の『風の歌を聴け』を読み直した。彼がジャズ喫茶をやっていたときに、深夜にキッチンで書いたという小説。断片をシャッフルする。それによって、ある種の不規則な、しかしどこかに整合性がある物語が生まれる。そう彼は『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』の中で語っていたのだけど、村上春樹の断片がシャッフルされてるのはどちらかというと『1973年のピンボール』のほうで、『風の歌を聴け』の中には、その後の村上春樹の全てが存在した。そう自分は読み直していて感じた。

そしてそれらのすべてが消滅する『回転木馬のデッドヒート』。知らない間に何かが決定的に、そして不可逆的に損なわれる。それが『回転木馬のデッドヒート』の主題である。彼のすべての短編、長編の主題は『喪失』である。そう『風の歌を聴け』にはっきり彼は書いている。ハート・フィールド。それが彼が目指した小説だった。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991/新潮社

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消滅ではなく、喪失。そこが、イージーライダーや、バニシングポイントや、あるいはその時代のアメリカと、アメリカに対して憧れていた日本人の意識の違いなのかも知れない。

vanishでなく、loss。
主であるアメリカにとっては消滅であり、それを追うもの、憧れていたものに対しては、それは喪失である。最近、あまロスとかましゃロスとかよく聞くけれど、喪失というのは、主体でなく、従者が持つ感情なのだろう。日本の文化が女性的であるといわれるのはそういうことも含めてなのかも知れないとふと思った。

主体になることって。。
いっこうに主体になれない自分はなんなんだろうと。クソだな。
あー、でも「レーダーホーゼン」は喪失ではなくて消滅だな。そして、その主人公はなんとなれば女性だ苦笑。捨てる主体のほう。いいねぇ。