象の夢を見たことはない -29ページ目

埋もれ木

「埋もれ木」を観ていた。

 

 

 

劇団というのはある種罪深い。

観客の見る世界を限定して、その中でモノを動かそうとする。

自己顕示欲の塊である。

意識で無意識をコントローできるという考え方に違和感を覚える。

 

別にそれが悪いだの良いだのと言っているわけではなく。

それを、美しいと思うか否か。

 

美しさというのは、客観ではなく主観である。

主観というのは、他者には全く意味がない。

その主観が多数決で判定される。

畢竟それだけのことなのだ、浮世。

 

であるからには、好きなモノを観たり、好きなモノを聞いたり。

好きなモノだけを観ていたら、どこかへ行けるのだろうか。

嫌いなモノも食べろ!

本当にそうなのだろうか。若いコには旅をさせろと人は言う。

 

人間のステージというのは、年齢によって上がっていく。

卒業する風景。

卒業できない風景。

 

案外、卒業できない風景のほうが楽しいし、幸せに暮らせるのだ。

埋もれ木。

客観とは幻想なのかもしれない。

 

 

 

 

 

朝鏡

スリービルボードを観ていた。

 

 

ハンナ・アーレントから時代は大きく下っている。

誰もが善人で誰もが悪人であるなんて誰でも知っている。未必の故意など当たりまえの話で言われるまでもないし、今時問うことの意義などなければ、哲学にすらならない。だが、ドブ攫いはいつの時代でも必要だ。また、何度でも必要なことだ。そんなことを神戸女学院の教授が言っていたっけ。

 

幼児は、生まれてすぐの状態では、「これが自分だ」という、「統合された自分自身のイメージ」というのを持っていないと、ラカンは言っていたそうだ。人間は「他者の視線」というのがあってこそ、「自分という自我」が生まれるとか。他者の存在が必要なのだ。統合された自身の認識が意識を生む。我思う故にわれありとかいうけれど、我思うことを我気づいた故に我ありというのが真実なのではとか。我気づくのは、他者あるいは対峙する世界の存在の故であり。プラトンの洞窟の話もある意味そうなのかもしれない。何人もの人が違う言葉で同じ事実を言っている。

 

だが、鏡を見るにしろ影を意識するにしろ光源が必要で、それを人は神様としているのだけれど、日本人的にはおてんとさまとか、それには光ー自分ー他者(あるいは世界、もしくは影)という3点セットが必要らしい。

 

鹿を見つけた彼女は、それを神が遣わした偶然として、自分を見直すシーンがある。

自らに気づくのは自らの力としてそれぞれの人が根源的に持っている。わざとそれを見ない人はどこにでもいるし。自分も朝、鏡をみない。年とってからは猶更見たくなくなったのだけれど、それは自分自身を更新する行為だ。

 

朝鏡を見よう。それを今年の目標にしよう。そんなふうに思った。

羊の夢を見たことはない

意識を支えるのに必要な情報の統合がなされていない。

と、するならば、どういう構造を持った時点でそれは情報を統合できるようになるのか。

 

cpu・メモリ・ハードディスク。

これが1970年代から1980年代にかけてのコンピュータの三種の神器であった。

だが、それをいかに高速化させたとしても、コンピュータに意識は生まれなかった。

 

1990年代からグリッドという概念が現れたのはインターネットの出現にともなってだったのだろうか。スタンドアロンのコンピュータを広域ネットワーク上の一つの資源として一つのコンピュータ資源として統合する。

 

ただし統合するとは言ってもそれをそれまでとは異なるアルゴリズムをもったOSが操るわけではない。要は意識の統合というステップへ至るにはOSという話になる。全体の処理スループットや記憶量の話ではなさそうだ。

 

では、OSである。今のAIが意識の統合を持ちえるのか。

要はそれが問題であって、シンギュラリティなんてどうでもいいレベルの話だ。

少なくともそれはアウトプット的には、人にとってのペットレベルではありそうだ。アウトプットされる、要は他者に感知できる程度にはそれは意識をもっているように”見える”。

 

だが、それを意識と呼ぶことはまだ難しい。それが、私たちの飼っている犬や猫ほどの統合性をもっているかということが疑わしい、そういう予感を抱かせるのは、あるいはどこかでその統合性が破られるという恐怖感があるからかもしれない。エイリアンでそれは描かれているわけだけれど。

 

ところで、牛は4つの胃をもっている。4つめの胃が本来、人間の胃にあたるもので、1つめから3つめまでは、人で言う食道が変化したものだとか。牛的には進化と呼ぶだろう。その1つめの胃は、反芻(要は稲わらなどを発酵するための胃)のために使われるのだけど、そこには10,000,000,000,000,000もの微生物が居候している。

 

1頭の牛に1京もの微生物がいる。人が牛を増やせば増やすほど、その数が増えていくわけだ。人は進化というものを複雑さの観点で捉える。人のいう複雑さとは、胃の数ではないのだけれど。

 

記憶は遺伝するか?

羊の夢を見るように、ネズミは桜の夢を見るのだろうか。

獲得形質の遺伝なんていう箱舟が必要なのであれば、また別次元のシステムが必要だったりするのかもしれない。

 

 

 

 

 

無影灯

三上博史とガラスの仮面の作者のSWITCHインタビュー。

 

昔からなぜか三上博史には惹かれているのだが、なぜかはわからない。

好きな人と嫌いな人というのは、どこかでその理由を言語化できるはずなのだが。。

 

自己中の人間が昔から嫌いだった。それは、自分の父親がそうであったからだと思う。多かれ少なかれ、人は自己中でしかないのだけれど、度を越したそれは影を生む。影というのは、光があってのことだが、その光の実態を見た人はいない。影は相手に落ちるもので、その人はそれを自分の影だとはわからない。

 

自己中であることを否定しまくっていたら、世界中のあらゆる人を否定することになるらしく。何だか最近敵だったり傷つけてしまう人が多かったりするのはそのせいか。多様性を受け入れるということは、唯我独尊なヒトを全否定するということで結局破綻するらしい。

 

影が出来ないようにするには、無影灯が必要なのだが、どうやらそれは外にあるものではなく、自分の中に必要であって。そんなものが持てる人は、自己は持ちえないだろう。平衡というのが死であるのと同義なように。

 

多様性を維持するというのは、結局自己中という個性の一つでしかなく、それは究極の答でもなんでもないのだ。度を越した多様性の維持というのはそういうものらしい。

 

 

スポ根

モンキーターンを借りて読んでいたのだが(今20巻目)、どうやら90年代のあの時代は自分にとっては、スポ根時代で、1960年代から70年代にかけての一種のリバイバルだったのかもしれない。

 

 

80年代は、コマーシャルの時代で華やかであるが虚飾であった。

ゆえにその反動でリアルなものが求められたとか。

それが2000年代に入って、脱構築された。

階層的な二項対立が崩されてすべてが併置された。

 

たぶんその分かりにくさがめんどくさくなったのだと思う。

めんどくさいことはめんどくさいままで置いておいて。

とりあえずシンプルな昔を見てみようと思ったからか。

 

モンキーターンも20巻まで読み進めると昔の価値観がムクムクと復活したらしく、

パンクラスのビデオ(今時!)までひっぱりだしてみてしまう。

そして今、1994.10.15 船木誠勝×鈴木みのるのパンクラス旗揚げ後の直接対決。観ていて思ったのは、これはスポ根マンガの実写版、リアルなやつだった。

そりゃ夢中になったのも当然だったなと。

 

 

ただ、脱構築された目で見るといろいろ面白い。

これはBLじゃないかとか、ある種AVだとか。今のAV男優はこの頃のパンクラシストの体をめざしてるんじゃないかとか。

 

でも今、ジムへいくとこういう体目指しているんじゃなかろうかと思えるコたちが、男にも女にもいて。このブームは一体。。でも、なかなか嫌いではない。

競艇にも行ってみたくなった。津競艇、近いのよね。