魂という嘘らしいもの
意識。
(以下その抜粋。)
光を感知すると電流が流れる、というフォトダイオードをもとにした電気回路システムは、光の有る無しの二つの可能性のどちらかを選択できるが、その情報量は、人の意識を支える大脳−視床システムとは比べ物にならない。一方で、単純なフォトダイオードをたくさんつなげて、デジタルカメラを作っても、デジタルカメラに意識は宿らない。それは、それぞれのフォトダイオードの間の相互作用が無く、意識を支えるのに必要な情報の統合がなされていないからである
無意識研究で扱われるのは、脳内の処理の中には意識にのぼらない処理があるのはなぜなのか、無意識の処理が行動にどのような影響を与えるのか、その影響は意識的な処理とは異なるのか、といった問題である。
意識にのぼらない神経活動の最たるものは、小脳の脳活動だ。小脳には、約800億個ものニューロンがある。これは、大脳−視床システムの約200億個に比べて4倍もの数である。しかし、小脳は、たとえば脳腫瘍などの症状によって、全摘出手術を受けたとしても、患者の意識レベル・意識の内容にほとんど影響を与えない。他にも、大脳基底核による複雑な運動制御、網膜などの感覚入力、運動野や脊髄による筋肉のコントロール、なども意識にのぼらない[36]。
昆虫や、植物に意識はない。
意識がないものに魂はない。それが西洋キリスト教的な考え方なのだろう。
ならば、意識がある・ないはどの生物あたりだろう。
人間だって何か月めからってことになる。
統合情報理論によると、昏睡・植物状態・深い睡眠や全身麻酔状態で、脳活動は失われず、かつ外部からの感覚入力にも反応できる脳に意識が宿らないのは、情報の統合が失われるからである(意識レベルの変化参照)。
多重人格者の場合、統合の中心がいくつかあることになる。
多重人格者には魂がいくつか入っているのだろうか。
夢を見ているとき、夢の中に出てくる他者は全く自分ではない何者かで自分自身ではない。明らかに彼らには人格があり。だが、それは自分が生み出したものであることに間違いはない。彼らは一体何者なのだろう。
自分の中に知らない魂が入っているのだろうか。
夢を見るたびに知らない人格の他者が出てくるのだが。。
統合されているように見える他者を一人と数える。だから、多重人格者をして多重人格者であるとみなす。であるなら、その私たちの認識は一体何をもってその人がその人であって、何をもって狐付きと称するのだろうか。付いた狐にもなんらかの統合を見出しているのだろうか。いや、それは違うな、それは統合を破っている何かでしかない。相手を統合された塊として認識する機能が魂という奴なのだろう。
グラスの底に顔があってもいいじゃないか。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)
常玉(サンユー|1895-1966)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)
白ということ。
白は自然界に存在しないとどこかの美術教師が言っていた。
自分が子供のときだ。
「何言ってるんだろう、この人」
絵具箱の白い絵具を見ながら、そう思ってたのだろうか。
そうは言いながらもなぜかその言葉は心に残った。
0という数字は自然界には存在しない。
それは概念だ。
そう理解するのははるか年月が経ってからで。
精神病院の壁の色は白だった。
それはすべてを拒絶する白であって。
1970年代の話である。
藤田の白。
世界はそう言ってもてはやしたそうだ。
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。
彼岸である。
彼らの白はよく見ると白ではなく。
それぞれの孤独と祈り。
0を意識してはじめて他者を意識する。ラカンの糸巻き(※)とどこかでつながっている。
0の発見は、インドとか言われているけれどそうではないのだ。
祈りは世界の人々に共通する文化だ。
それでいいじゃないか。
誰にも親はいる。それと同じだ。
愛というのは存在と同義で、さらに言えばそれを認識すること。
※ラカンの糸巻き
ラカンというより、自分の認識はフロイトのそれだろう。
ラカンになると糸巻きを投げるのは子供自身であって。そうなってくると、不在と在を決定する神は自分自身であるというふうになる。それも確かにそうではあるのだが。。じゃあそれを生み出したのは?ってなるのだな。
半眼訥訥
浅い午睡から覚めた時に半覚醒の状態となることが多い。
その瞬間に自分にとっての覚醒がある。
半眼というのは、そのときの目の形から来るんじゃないかとも思う。形を真似ることで入れる入り口はそういうもんだったりとか。
ユニット化することで一部で分断されても別のコネクションから供給は得られること。太陽光発電に皆が向かったのも、情報だけでなくエネルギーもっていう暗黙の意識があったからで。ユニット化しつつも結局は均質化しているんだったら、その先はどうなるのだろう。
物質は、同じ時間に2つの場所を占められない。シェアしながらというのはあり得るが、時間と場所は限定される。
と今日はここまでで終了した。半覚醒の時間は短い。
『起信論』の立場からすると、『真如』は、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。
しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での「真如」でもある。
こんなところまで覚醒するっていうのはどえらい話やな。
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最近まったく本を読んでいない。
マンガばっかり読んでいる。マイブームだから仕方がない。
今頃、桜木花道を読破する体たらく。
とはいえ、最近のマンガはうーんとうなる。
考えさせられるのだな。
昔のマンガで面白いやつ紹介して欲しいわ。
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さいきん読んだマンガ
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主泣きも好きだけど、よりも自分はこっちかな。
今を生きる
自分の身に起こっていることが、コントロールできているか、否か。
スキーをしていた、
コブを攻めた。
そのコブにそのときになって初めて対処する。
一方で、前を向いていて、目はもう先のコブを見ている。
足は勝手に現在のコブに対応している。
未来と現在。
その対応を、頭と躰に分けて与えていられる瞬間。
今を生きるというのはそういうことなんだろう。
回収されない物語
『僕らは奇跡で出来ている』
面白かった。「コップが存在しているのではない。存在がコップしているのだ」というのは河合隼雄氏の言葉で聞いたのだけど、彼の言葉の本質は井筒俊彦氏の『意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学』と『意識と本質―精神的東洋を索めて』を読むとその由来がわかりやすい。
私たちの存在を縁起として見る場合、私たちの本質はその関係性によって定義されるものであって。そういう観点で、自分を見直すのであれば、別に自身が想う「自分自身がどうあるべきか」っていうのって、正直どーでもいいし、どうあったって構わないのだ。変えれるのだし、なら変えちゃっていいじゃんっていう肯定文。
物語を回収するっていう観点で最近よく小説やドラマが評価されているのだけれど、回収されていることで評価するっていうのは、ある種の自己中心的な思い上がりのように思える。最近の若いコたちの社会的な自らの在り様の自己回収性もその根本は…。というか、彼らはそれで息苦しくないのだろうか。いつでも、自分の首を絞める犯人は自分自身だ。
というか、はじめから自らに線を引いたようでいて、相手に逆にその線を超えないことを要求していることの小狡さに腹が立つというのが本音なのだが。
中村中氏が「汚れた下着」っていう曲を昔歌っていた。今どうしているのだろう。
回収しそこなって溢れるくらいでちょうどいいし、それをぶっちゃける潔さにこそ、人として敬服する。どっちの下着のほうが実際は汚れているのかっていう。自らを回収できることになんら魅力など感じない。いいじゃん、生意気なままでと。もちろん、叩き潰すが笑
自分が大学生のとき、大阪在住の同級生が、自分のうちの近くの橋の下に「血みどろ」とペンキで書きなぐってあると。近くの暴走族のチーム名だとか。いいよなあ、「血みどろ」。お互いそうありたいのさ。

