象の夢を見たことはない -32ページ目

いみしん いのちあらた

SWITCHインタビュー 達人達(たち)「井浦新×服部文祥」を見ていて、サバイバル登山家の言っていた、「自分が生きていると感じている瞬間」を、忘れていたことを思い出した。

 

正直ある種のうさん臭さというのは、どんな冒険家にも獣臭のようにまとわりついている。ホラのようなものなのだけれど。そういう生きることの生々しさというのは、この人にもあって。だが、ホラをホラで無くしていく作業というか。それが、彼らにとっての山登りという作業であって。リアルな生に向き合うためのホラというか。それが、役者という作業とどこかで共鳴したから、井浦新は無意識に彼を選んだのかもしれないとふと思った。

 

自分が生きていると感じる瞬間につながっていく。

旅をすることを思い立ち、そして自分を奮い立たせて、あるいは夢にうかされるように自分の思い込みや自分が自分自身についたホラにのぼせあがってしまうというのが、生きているという瞬間を感じ取るための必要な前ステップとしてある。

そしてうかされながら準備をして、現場へ。

 

で、現場と夢との差分。実際に肌で感じることをさらに強めるのが夢を見てうかされることの効用なのか。いや、たぶん、挑戦するために、自分自身にうそをつく。つかなければならない。それが、生きていることを実感することにつながるんだろう。

 

芸術家というのも同じで、イケムラレイコのインタビューを聞いててそう思った。

生きることの意味を考えることというのは、実際に生きることとは全く関係ないけど、それがきっかけになって、再び生きることの意味と生きることが不可分となった動物みたいに生きることができるようになることもある。のかもしれない。と生きることの意味などというくだらない考えにとらわれた過去の自分を正当化してみる苦笑。

 

半分、青い、な。

 

 

そういえば、内藤礼を思い出したのは、母型からで、それは豊島美術館のものではなく、横浜トリエンナーレの三渓園のものである。

 

 

彼女の作品のみなもとは、生まれなおすというか、産道から世界へという経験の再体験。だとおもう。

最初、三渓園で見たとき、このヒモなんなんだろうと思っていたのだけど、あれは「へその緒」だと豊島美術館ので気づく。豊島行ったことないんだけど。

 

 

ただ、それが、母の胎内のものなのか、外の世界からぶら下がっている「くもの糸」のようなものなのかはわからないけれど。

いわさきちひろ、イケムラレイコと内藤礼

”夢のようなあまさ”を超えて

 

というNHKの日曜美術館のいわさきちひろ特集。

 

これらの女性作家はどこかに夢のようなあまさがある。

そう思う。

 

そして、それらを超えて、

それぞれに、超えた何かがある。

 

 

 

なんなんだろう。これ。

男の作家はぜったい作れない。

あるいは辿り着かない。

 

 

 

英語参考書の流行り廃り

文化が異なればっていうのと、進化というものの最適解というのがわからない。

 

ロンリープラネットと地球の歩き方の違いというか、昔インド人にマニュアルを書かせたときにあまりに字ばかりだったので腹を立てたことがある。文字文化と図解文化の違いに収束するのだろうか。

 

ただ、最もアレだったのは、図解することによって、不確かな部分や抜けている部分が明らかになるということを彼が理解していないことだった。モジュールの上下左右とそれぞれのブラックボックスのインプット・アウトプットを図で表すことで、なにか不十分なものだとか、すっぽり抜け落ちているものが見えてくる。

 

彼らがもし60とか70%の完成度の製品でなく、85とか90%とかのレベルでモノを出してくれてたらそれでもいいと納得していただろうが。例えば、最終的に文章で判断できると彼らが判断すればそれはモノになり、文章でわからなければそれはダメなものだとか。残念ながらそうではなかった。

 

昔、サザンの桑田佳祐がアメリカのどこがでレコーディングしたとき、そのプロデューサーだかミキサーだかの大御所が、すっかすかのスピーカーを使っていて。こりゃダメだと思ったらしいのだが、そいつが言うには「このスピーカーでいい音が出なければ、それは大したモノにはならない。だから、これを使っているのだ」と言ったとか。

 

要は、スタンスというのは、手段であって目的ではなく。

目的を達成するために、手段の吟味をするのは理にかなっていないのだと。

手段の吟味をする秤というのは、その文化に根差したものであって、そもそもそれで結果を推し量ろうというのが無茶なのだと。

 

これに対する結論は自分にはまだ出ていない。

 

で、本題に戻るのだが、最近英語参考書についてのこのブログの記事を見ているコがいて、たぶん自分の生徒がどういうわけだかこのブログに辿り着いて見ているのかどうか知らないが。あれは、そのときの情報であるし、特にSAPIX式英文法123+ なんて人を選ぶので。

 

今、SWITCHインタビュー 達人達(たち)を見ているのだが、片方がインスタントラーメンで片方は家系ラーメンだ。どっちがいいか、どっちが好きかというので選ぶべき問題で、たぶんそれがその人にとっての人生の最適解なんだろうと思う。自分が目的に辿り着くために。最もその目的は、自分が当初思っている目的と違ったりするわけだろうが、その結果を不幸だと思うなら、それがその人の限界なんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三浦しをん原作 大森立嗣監督 『光』

三浦しをん「暗黒に輝いているみなさんの姿を観てほしい」―映画『光』公開記念!三浦しをんさん・大森立嗣さんトークイベントレポート

 

これに尽きるかな。

監督だけとか作家だけのお話しより、対談のほうがスが見えて面白い。

映画を見てから読むと、なお面白し。

 

個人的には、最初の島のシーンは、これって「白蛇島」なの?と勘違いしてしまうくらいに雰囲気がそれっぽく。孤島の雰囲気がすごく。

 

白蛇島 白蛇島
 
Amazon

 

ん、いや読んだのはこっちだったっけ。

 

 

「ウッドジョブ」とかも、この人が撮ったらまた違っただろう。

キャストは面白かったんだけど。これはこれで嫌いではないが。

 

 

それよりなにより、三浦しをんの暗黒面がやっと出たって感じで、それは「まほろ」でもチラッとは出てたりはするのだけど。まあ、美杉のコが立派になってというか、お父さんがそうなだけなのだが、そういう贔屓目も多少ありつつ。久々に、邦画で面白いものを観た感。

狂気と直感のハザマ 

ふと出ていくと、夕日が辺り一面に当たっていたと。

その夕日がいっぱい当たっている入り口で、

そのとき、その炭焼きがくらくらっとして。

 

っていうのが、柳田国男の言いたいことだと、だから、秀雄の描写がやたらここだけ詳しいのであって、彼が言いたかったのは、実は道徳的とかどうでもいい文壇の話とかではない。

 

『光』を見ている。

 

 

まだ、このシーンまで行っていないので、このPVも頭すら見ていないのだが。

 

健全とか、全うとかいう話は遠野物語にはないと個人的には思っている。

昔話というオブラートをいかに外せるかというのが、柳田国男の本来の読み方なんだろうと。

 

美しくもなければ、道徳的でもなく。かといって残酷と一言でかたずけるのはどうなんだかと。まだ、残りがあるので、感想はそののちに。

 

ところでそのハザマにこそ、神はいるとしたら、、