心霊写真
シンクロニシティというのは乃木坂の歌のことではない。
ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」のことだとwikipediaは言っている。
日本語では「共時性」「同時性」「同時発生」と訳される。例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ[1][2]。(by wikipedia)
一方で、人は同じような事象から共通項を見出そうという性質がある。
それは、危険を避けるために身についた手段だと思うのだが。
同じような状況を避けるために。身を守るために。
果たしてその性質・資質が、偶然の共時性を見つけようとするエンジンであるとするならば、例えば写真に写った目と口とかに似た何かから、何かを見つけたような気になることと、それは相似なことだと言えないだろうか。
cookieというのは、足跡なのだけど、自らの足跡をなにかと勘違いするというのも、人の誤動作だったりするのかもしれない。
もちろん、そうではない何かを信じることもその反作用として持っているだろう。
オカルトではないどこかへ。
夏の終わりに。
信じることと生きること。
知ることなしに生きることはたやすい。むしろ知らないほうが生きやすいことも多い。
しかし、信じることなしに生きることなどできない。常に何かを信じていないととたんに生きることが難しくなる。
だが、この炭焼きの不幸は、知らないことから来ているし、この炭焼きの子供たちの不幸もそこから来ている。知ろうとしないことによる悲劇であって、必ずしも秀雄が言うような美しい話ではないと思うし、それはたしかに人生だろうが全うな話でも健全だとも思わない。
ただ、全うで健全な人生など面白くもおかしくもない。
これも夏の終わりに。
cookie
ドニーダーゴ2を見ていたら、設定が1995年で劇中の映画館で12モンキーズがかかっていた。そのあと、知らずに見ていたDr.パルナサスの鏡。ヒース・レジャーの名前につられて借りたのだが、監督がテリー・ギリアム。次は、モンティパイソンでも借りるかね。
カンガルー・ナイト
村上春樹『象の消滅』の中に「カンガルー通信」がある。
最初にrecording memoというメモ用紙が貼り付けられているのだが、こういうコラージュ的な手法って。そういうところから入ることといい、一人称の告白という文体といい、なぜか安部公房を思い出す。
| 箱男改版 (新潮文庫) [ 安部公房 ]
561円
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そういえば、安部公房と河合隼雄氏の対談で、河合氏が安部公房の『カンガルー・ノート』は、小林秀雄の『考えるヒント』から来ていて、それの有袋類バージョンではないのかと言っていた。有袋類というのは、動物の亜類で、それらの袋を持っていないバージョンはすでに世界にあるのだと。安部公房には「人間そっくり」という小説もある。彼と村上春樹の共通点。
調べていたら、面白い書評があった。
もれなくついてくる何か:カンガルー日和/村上春樹 - livedoor Blog
そうか『中国行きのスロウボート』だったっけ。この短編集は彼の短編集の中では一番好きなのだがそれはさておき、カンガルー日和にも同じ4匹のカンガルーは出てくるらしい。雄のカンガルーと雌のカンガルー2匹、そして子供のカンガルー。どっちの子供かというのがポイントで、これも村上春樹のドッペルゲンガー(あるいは鼠)とか双子の話の変形バージョンなのだろう。当の「カンガルー通信」のアイデンティティの話はこの書評に書かれている。
| 中国行きのスロウ・ボート改版 (中公文庫) [ 村上春樹 ]
616円
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今、河合隼雄氏の「影の現象学」を読み直している。そのせいかもしれない。影というのは、小説に現れるときには、いろんな形態をとる。
影と統合失調症とか、片頭痛とドッペルゲンガーとか。いろいろなレベルでなにかの関連はあるのか。
ただ「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」というのもあって、それはそれで面白い。そっちも含め、この世界の成り立ちについて、人の在り様からオカルトに考えるためのヒントだろう。
清濁
今、松阪牛を育てているところにいる。
そこの副社長は、コーヒーの味はわからんが、牛肉の味は分かると豪語している。
実際、ブラックコーヒーは飲めない。砂糖を入れないと飲めない。
こないだ、松阪牛のすき焼きで有名な某料亭へ視察の途中で寄ったそうだ。
視察のグループは、松阪牛の卸業者のツワモノたち。
みな、肉が固いと裏で吐いていて、店主が怒ったそうだ。
代が変わるとそういうことはよく起こる。
私は味がわからない。どんなものでも美味しいと感じる味音痴だ。
だが、美しいとか美しくないとかに関してはかなりシビアだと思っている。
自分自身のシビアな感覚のほうから、自分自身の音痴の方を鑑みると結構あり得なくて笑えるのだが、案外音痴の方も旨い不味いはわかっている。単に許容範囲が広いだけなのかもしれない。どっちが幸せなのかというのは、なかなかに難しい。
あたらしく牛舎に子牛が入ってくる。子牛といっても、生後10か月も経つと200kgを超えているものもいてかなりでかい。トラックから降ろすとき、自分のところに降ってきたら、あきらかに潰される。そんな大きさだ。でも子牛はかわいい。そこから2年育てた牛と比べると顔なんて半分くらいで、すごくちっちゃい。かわいらしいのだ。
たとえ、それが2年後には屠殺されるのを知っていても。
残虐で、恐ろしいことだが、草木にはその感情は起こらないというのもあまりにウソくさい話だと思う。
牛のタンはお店で出てくるとピンク色だけれど、牛ごとにその表面の色は違う。
ある牛は黒が多いし、そうでないものもいる。人の皮膚と同じだ。
事務で入った女のコは、牛はタンしか食べられないのだが、実際に直近で黒い牛の舌を見て「黒い舌の牛っているんやな」とか「これからタンも食べられないわ」とか言っていた。生理反応というのはそういうもので、善とか悪とかはない。
