forever youth forever young
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)
物語についての議論、あるいはナラティブと現在は言葉を変えられているけれど、それはユングからだと思っている。河合隼雄から村上春樹への啓示があり、現在書き進められている騎士団長殺しについては、それから先の話があるように思える。
すなわち、物語、あるいはナラティブを知ってしまったあとの我々という文脈。
癒しという地平を得ても、どうやら満足はせずそこから先に何があるのかという旅に出てしまう。DNAの先に、それらが発現するか否かは環境に依存するという事実を知ってしまった私たちはさらなる探求へ向かうように、物語の先がいま求められている。
騎士団長殺しについては、穴に入って穴から出るという典型的な物語がすでに提示されている現在(例えば、村上龍『共生虫』)、そこから次に何があるのかということが期待されていたりする。
クリント・イーストウッドの『運び屋』を観ている。
これまでの映画のパターンの場合、主人公が無一文になって、そのあとひょんなことで大金を得る。そして、ある事件に巻き込まれそれを失う。失ったそれを取り戻そうと悪戦苦闘する。その過程で、失ったもの以上の何かを得る。
そんなふうな定型を我々は得てしまっている。ただそれは若い人の物語だ。年寄には無理だ。
無一文になるというのは、どこかに健全なものを含んでいる。
そこに何を見つけ、何を得るのか。
河合隼雄氏は中年のクライシスとして、子供のときのような反抗期を定義していたように思う。大人の反抗期の物語。人生が長くなってしまい、それがいま必要とされているけれど、それが提示されていないのが現代の問題だと。大人の反抗期はやばい。なぜならそれは命懸けになるからだと言われていた。
命懸けであることというのは、実は問題じゃない。なぜなら、そういう人は一回死ぬような目に合っている。無一文にもなる。ただ、そこから先にも生きていればどうやら何かあるようだ。
そう、途中まではそれを期待するものが映画の中にあったのだけれど、ハリウッド的なありふれた結末で最後は終わってしまう。
穴に入って、穴から出る。型からはみ出るのは難しい。
死を感じたときに何が大事なのかがわかるというのは、例えばせかちゅうとか、死ぬまでにしたい10のこととか。そういう提示がもうすでにある。何も年寄の特権でもない。死ぬことと生きることは表裏一体とよく言われるけれど、死に物狂いで生きること。頑固に生きることを選ぶこと。それでも生きることを選ぶこと。
おひとりさまとおてんとさま
ネコフェス、BUGY CRAXONEを見に行ったのだった。
柄本明氏が「ダウンタウンなう」に出ていて、息子とのエピソードに最初話題は集中していたのだけど、その後亡くされた奥さんの角替和枝さんの話になり、笹野高史さんのコメントがあってその中で最後に、「柄本明これからどうするのかが試されている」っていう言葉に響くものがあり。
気づいたら一人というのはなかなかの恐ろしさで、夜中のメンタルはそっちに傾きがちだ。それでも、朝が来て、朝日がさして一歩家の外に出たら、まっさらな朝の空気や顔にあたる風で気分が変わる。なんて、人間って便利にできているんだと、この頃になってよく思うし、その単純さがありがたい。
そんなことより朝そのものだ。
そういうことだ。
これから先が長いと知ってるお年頃。
楽しまなくちゃ続かない。
なめんなよ。ぼくたち わたしたち。
絶望的な断絶
高校生のときは自分に自信がなくて、誰かを、物語の主人公を、詞のフレーズを芯にして何かを乗り越えていたように思う。あるいは乗り越えなくちゃという想い自体に支えられていたのかもしれない。
根暗という言葉が流行った時代で、それは蔑視を含んでいたけどある種の肯定がその底にあったように思う。「昏さ」というのが若者の特権だということが、大人にある種の畏怖を抱かせていた。昏さに耐える力を大人は持てない。持久力の圧倒的な違い。
「昏さ」というのは希望の裏返しで。今の時代は希望が見えないのではなくて、「昏さ」が暗黙の市民権すら得ていないと。そう思っていた。あるいは持久力の価値が見えない時代。あるいは持久力というものが若さの定義にない。
MOROHAをチキンジョージで見たのはグドモを太陽と虎で見てからだった。
太陽と虎では、若いコたちが同じ手の動きで何を共有しようとしていたのだけど、同じ手の動きで何かを排除しようとしていた。空気を読むのが得意な彼らは、空気を読まない他者を排除しようとする。しかし、圧倒的な空気に対する「反抗者」に憧れる。
昏さというのも、いろいろある。
共感は世代を超えない。
畏怖を抱いたかと言われれば、それはそうだけど、今の若者に対する怖さというのが彼らが持つ若さや持久する爆発力に対する怖さというより、薄気味悪さや排除する怖さといわれればそっちに近い。自分たちの上の世代も、自分たちに対してそう感じていたのだとしたら、世界はそんなふうに廻っていたのだろうと今になって知る。
クリムト展@東京
そういえば、名古屋の松坂屋だったかで、ベートーヴェンフリーズを見たのだった。
同じものがあったのだが、はたして前にみたときも、ああこんなものかと。
複製でなければ違うのかもしれない。
絵は本物を見ろと言われる。図版でみるとべったりとした印刷でしかない。
そういうことが改めてよくわかった。たかが2次元のもつ世界観なのだが、やはり違う。
印象派が日本人に受けがいいのは2次元の絵だからで、それは日本画も同じだ。浮世絵がヨーロッパで爆発的に流行ったのは、彼らが2次元の絵の見方がわかったからだろう。装飾としての絵の面白さ、版画というのは、紙が豊富だった日本だから、あるいは和紙というものの持つ特性によるもので、彼らにとってはいわゆるポップアートみたいなものだったのかもしれない。大量生産されうるというのは、壁紙とかもそうで、アーツ・アンド・クラフツなんていうのも考えてみれば同じ時代の産物だし。
まあそんなことがいいたいわけではなく。クリムトの図版を持っているのだが、それではまったく気づけなかった。最初の驚きはこれだった。
図版だとただのポスターにしかみえないが、この水色の背景が曲者で細い線で描かれている。クリムトの女の人への執着はまず髪であって。
ヘレーネ・クリムトの肖像の髪は、少女時代の女の人がもつ髪の美しさにまず惹かれる。言ってしまえば、「天使の環」ってやつなのだが、どこまでもその印象が際立つ。これも図版だとよくわからない。
基本的に絵描きは見たものをそのまま描いているわけではなく、いったん吸収して画面の中で再合成しているのだろうけど、彼の2次元の絵の再合成の仕方はすごく面白い。まだ自分の中で整理できていないけれど、その面白さを感じたのはこの絵である。これも図版だと良さが全くでない。
要は画面構成なのだ。そして、髪の毛。あるいは髪の毛のような線。
女性への執着が半端ない。髪、髪、髪である。どんなけ細い線を何本もかいているか。おまえは草間彌生か!ってな感じである。彼女の絵の細かさを思い出す。そう言えば、あの植物の気孔みたいなエロいマークもそうだな。なんぼほど描いてん!細かいねん!って感じ。
この絵の近くに「アッター湖畔のカンマー城」があって。
この絵は望遠鏡を使って描いたらしいのだが、後ろの赤い屋根は、画面をより平面に見せるために後から加えたのだそうだ。画面構成として見ると、手前がまるっきり印象派の水面で木をはさんでべったりとした壁になっている。
画面の質感を変えているのだ。変拍子のように。これも図版だと全く、これみよがしに分からないし、良さが全くでていない。0%であることよ。このブログでわかる通りである。
1つのキャンバスを複数の画面に分割して、各々の質感を変えるという手法。
それに気づいたのは馬小屋の絵なのだが、これは手元に資料がない。
手前の巻き藁が暗い場所にありピントが合っていない状態で、後ろの馬のいる部屋は窓からの光のせいでキレイに見えている。その対比がやばい。ああ、そういうことかと。もう一遍2階の最初から見直しました。そうしたら、彼がキャンバスでやっていた実験がかなり幅広いことに気づく。やばい。この人。クリムトなめてました。
東京の美術館は平日の金曜の午前だというのに、人が一杯で。入ったとたん長蛇の列、「並んでぞろぞろ見なくちゃいけないのか、これじゃ美術館じゃなくて回廊だ」とげんなりしたのだけど、それも1階だけで、メインとなる2階、3階はまだ比較的自由に見れたので良かった。最近のというかクリムトだからなのか、土産物売り場はすごい人。洒落乙なグッズが並んでいて、欲しいものがあったけれど、物欲には負けるまいと踏ん張った。だいたいからして、むかーし美術館で買ったTシャツやらバックやらは今ではどこかにいってしまっているし、たいして使った覚えもないのである苦笑。と負けず嫌いを吐いておこう。
隣の博物館で東寺の仏像(立体曼荼羅)を見れるというので、そっちもみようをおもったのだけど、じじばばが一杯チケット売り場に並んでいて諦めた。じじばばの観光コースなのかしら。仏像を360°から見れることってまずないのだけれど、今考えると本寺の東寺の立体曼荼羅って結構な角度からまじまじ見れたのだったわ。これも悔し紛れの負け犬の遠吠え。じじばばが羨ましかっただけ。
いろいろあるけど、みんなでがんばろうぜ
まったくだ。これに勝る言葉はねえな、
人間だものだ。
2019/5/30 木
下北沢shelter
wash?/BUGY CRAXONE
wash?はというか奥村氏は相変わらずで。
相変わらずというほどライブは行ってないけど、
敢えてそう言いたいくらいな夜。
だいたいからして、前回はhurt meのお披露目のときだったし苦笑
今さら思うが名盤だ。ライブで演奏されているのを聞くとそう思う。
http://wash-wash-wash.com/disc/hurt
買ってて良かったってやつ。
ライブに行くと生き返る。そんなあたりまえっちゃあたりまえな感覚を思い出した。
とはいえ普段は死んでいるわけでもないはずなのだが。
久々に地下室に戻る。
で、行く前に、ドラムの杉山氏脱退のツイートを思い出す。
そうだった。えっー。
とおもったら、ライブ終わりにサポで入っていたオダ氏ドラムサポート終了の挨拶
で。再度、えっーからのwash?加入発表。まったく。
いろいろあるけどがんばろうって地で言ってたわけで。
奥村氏のツイート見たらまあそれだけじゃなかったらしいんだけど。
困ったことになかなかライブいけない。
東京では、どんなじじいがライブにいても誰にも気にされないので楽。
そんなことも実際に行って思い出す。
遠い天国。遠い地下室。




