LOVE &HATE & PEACE な国
インドの友人からメール。
赤ちゃんが生まれたそうだ。男のコだったそうでなによりである。
写真が添付されたのだが、すげーかわいらしかった。元気なコに育って欲しいものである。
一緒に苦しいときを過ごした友人と呼べるのは、彼だけかもしれない。まあ、いろいろその分あったのだけれど。。そういうコとはどっかでつながっている。
日本語教師の知人も言っていたのだけれど、インド人と付き合っているとお気楽でいいと。
要は、彼らや彼女たちはいろいろ日本人とはちがった苦労をしているところがあって、それが自分たちを安心させる。ちょっとした慰めの言葉でも、重みがあったり温かみを感じると。
不思議なのだが日本人に対してはあんましそういうのを感じない。親友と呼べる日本人の友人がいないからかもしれないし、そうでないかもしれない。まあ、いいや。
インドには思いはいろいろあるのだけれど、濃いし、いろいろあり得ないし、ドリフの国だったり、行くと絶対腹立ったりもするのだが、やっぱりそういうのもひっくるめて、なんだろ。。まあ、そういう思いをずっとこれからも持ち続けていたい国である。
PEACE
赤ちゃんが生まれたそうだ。男のコだったそうでなによりである。
写真が添付されたのだが、すげーかわいらしかった。元気なコに育って欲しいものである。
一緒に苦しいときを過ごした友人と呼べるのは、彼だけかもしれない。まあ、いろいろその分あったのだけれど。。そういうコとはどっかでつながっている。
日本語教師の知人も言っていたのだけれど、インド人と付き合っているとお気楽でいいと。
要は、彼らや彼女たちはいろいろ日本人とはちがった苦労をしているところがあって、それが自分たちを安心させる。ちょっとした慰めの言葉でも、重みがあったり温かみを感じると。
不思議なのだが日本人に対してはあんましそういうのを感じない。親友と呼べる日本人の友人がいないからかもしれないし、そうでないかもしれない。まあ、いいや。
インドには思いはいろいろあるのだけれど、濃いし、いろいろあり得ないし、ドリフの国だったり、行くと絶対腹立ったりもするのだが、やっぱりそういうのもひっくるめて、なんだろ。。まあ、そういう思いをずっとこれからも持ち続けていたい国である。
PEACE

すべる話
「すべらない話」を見ていた。
次長課長の河本くんとかメッセンジャーの黒田くんの話を聞いてて、やっぱり、悲喜劇話の威力はすごいなあと。
うける話っていうのはどっかやっぱり共感ができる悲劇が入ってないと残らない。
千原ジュニアの「兄・靖史が如何にバカか?」の話もキレがあって面白いのだけれど。
松本人志の『大日本人』は、そういう哀愁が伴ったどっか笑ったあとに目じりに涙がうっすらとなんていうのを追求したものらしいのだけれど、そういうものを意識して作ってしまおうというのはもう男の業というしかないんじゃねえかしらと思わないでもない。まだ、見てないが。。
『笑い』について、ベルクソンが書いていた。
「おかしみは人が物に似てくる人のもつあの面であり、全く特殊な一種のこわばりによって、ピンからキリまでの機械仕掛け、自動現象、つまり生のない運動を真似する人間的出来事のあの様相である。だから、それは焦眉の矯正を促す個人的あるいは集団的の不完全性を現すものである。笑いはこの矯正そのものである。笑いは人間ならびに事件の或る特殊な放心を指摘し阻止する一種の社会的身振りである。」
あるいは、笑いの中の機智という代物についても同じ本の中でベルクソン語っているのだけれど、そういうふうに分析して、台無しにしてしまおうという男独特?の業自体、ベルクソンや松本人志の悲喜劇だったりする。
そんなおっさんの想いというのはどうにも重い。
子供のときだったり若いときにしかそういう悲喜劇ネタでオモロイものは生まれない。
水泳の大会でレースに出たときも、前半の意識がないときのほうがタイムが速かったりする。
なんかそういうとこと相似だったりするのか。キレっていうのはそういうもので、意識というのはワンテンポトロくさい。
芸や芸術では、意識はいっつも邪魔ものであって、そんなものが見えるようになると大御所と呼ばれるようになるらしい。味っていうのはそんなとこに出てくるのかも知れないが。まあ、悲喜劇もそういうもんだけれど。
そう考えると、それを越えて年取って最後は子供みたいになるっていうのはある意味正しい年の取り方のような気もしないでもない。芸事なんかは特に。けっこう年をとるのもめんどくさい。
次長課長の河本くんとかメッセンジャーの黒田くんの話を聞いてて、やっぱり、悲喜劇話の威力はすごいなあと。
うける話っていうのはどっかやっぱり共感ができる悲劇が入ってないと残らない。
千原ジュニアの「兄・靖史が如何にバカか?」の話もキレがあって面白いのだけれど。
松本人志の『大日本人』は、そういう哀愁が伴ったどっか笑ったあとに目じりに涙がうっすらとなんていうのを追求したものらしいのだけれど、そういうものを意識して作ってしまおうというのはもう男の業というしかないんじゃねえかしらと思わないでもない。まだ、見てないが。。
『笑い』について、ベルクソンが書いていた。
「おかしみは人が物に似てくる人のもつあの面であり、全く特殊な一種のこわばりによって、ピンからキリまでの機械仕掛け、自動現象、つまり生のない運動を真似する人間的出来事のあの様相である。だから、それは焦眉の矯正を促す個人的あるいは集団的の不完全性を現すものである。笑いはこの矯正そのものである。笑いは人間ならびに事件の或る特殊な放心を指摘し阻止する一種の社会的身振りである。」
あるいは、笑いの中の機智という代物についても同じ本の中でベルクソン語っているのだけれど、そういうふうに分析して、台無しにしてしまおうという男独特?の業自体、ベルクソンや松本人志の悲喜劇だったりする。
そんなおっさんの想いというのはどうにも重い。
子供のときだったり若いときにしかそういう悲喜劇ネタでオモロイものは生まれない。
水泳の大会でレースに出たときも、前半の意識がないときのほうがタイムが速かったりする。
なんかそういうとこと相似だったりするのか。キレっていうのはそういうもので、意識というのはワンテンポトロくさい。
芸や芸術では、意識はいっつも邪魔ものであって、そんなものが見えるようになると大御所と呼ばれるようになるらしい。味っていうのはそんなとこに出てくるのかも知れないが。まあ、悲喜劇もそういうもんだけれど。
そう考えると、それを越えて年取って最後は子供みたいになるっていうのはある意味正しい年の取り方のような気もしないでもない。芸事なんかは特に。けっこう年をとるのもめんどくさい。
『脳はなにかと言い訳する』 池谷裕二
さーっと読んだ。1時間程度で読める。どっちかというと『海馬』やBLUE BACKSの本のほうが個人的にはおもしろかったが、いろいろ被ってるからかもしれない。
とっつきやすいので、池谷氏の本を読んだことない人にはよいかとも思います。
以下、とっついた点。ええ、しっかり、とっついてしまいましたが何か?
文は短縮してまとめちゃってるので、ニュアンスは原文とかなり違うと思います。興味がある方は、買って読んでみてくだされ。
報酬にたどりつくまでのステップ数が多くなると仕事のエラー率が高くなる。また、工程が進み、報酬にありつけるまでの残り作業が少なくなると失敗は減る。
仕事の精度を高めたければ、多くの工程をひとまとめにせず、細かなステップに分けそのたびに報酬を与えるほかない。【④ 脳はなにかとやる気になる】
細かいステップにわけるのは手戻りを少なくするというあたりまえな利点だけではないというのがほーって感じ。仕事の達成感とかじゃなく、実際の目に見える報酬で釣るほうがよさげ。
大脳皮質がいちばん外側にあるのは「構造的に非効率」※1。配線コストがかかるから。「生物は効率的で、すべての構造や機能にはなんらかの合理的な意味があるのだ」というのはダーウィニズムの悪影響だ。「自然淘汰で勝ち残ってきたからには、私たちはさぞかしすばらしい生物に違いない」という思い込みが根強い。【⑤ 脳はなにかと理性を失う】
ちなみに免疫でもT細胞を胸腺で作るとき、96~97%は胸腺から出て行くことなしに胸腺のなかで死ぬ。壮大な無駄と冗長性がいろんなところに見られる。池谷氏は言いすぎだと思わなくもないが「合理的じゃないけど、なんかこんなんでましたけど」っていうレベルのものはフラクタルみたくどこにでも存在するんだろう。ダーウィンすらキリスト教的世界観からは自由でなかったのはある意味皮肉な話ではある。
※1 あとで考えてみたら、生命維持に必要がない部分のほうが外側になるのは理にかなっている。やはり意識とか科学とかそういうものを重要視してしまう。そういうきらいは科学者や哲学者にはありがちだ。
記憶を呼び戻すきっかけのことをプライミングという。ど忘れした内容も多くはプライミングで呼び戻せるのだが、その方法は一般的に「ど忘れする前と似た状況を作る」ことが最適なプライミングであるとされる。なにしてたかわからんくなったときは、元の場所に戻るとか。【⑥ 脳はなにかとド忘れする】
忘れるというのは、自分が焦点を当てている事だけではないと思う。状況すべてにおいて人の短期記憶の範囲は限られているから、現場に戻るとか現場主義なんていうのはもうあたりまえのように是であると思える。
迷路テストをすると「できるマウス」と「できないマウス」がかならずいる。さらに面白い事実は、できるマウスはどんな種類のテストが課されても「平均的によくできる」ということである。この理由を詳細に調べ上げたのがメイツェル教授の研究で、博士によるとこうした「なんでも一様にできる能力」が、個々の仕事ができる・できないの約50%を決定しているという。なにが脳の出来・不出来を決定しているのか。メイツェル博士は、個々の「行動性(どれだけ活発に動き回るか)」や「体重」は知能には無関係であると。むしろ「好奇心」や「注意力」の個人差が重要なファクターになっているという。つまり、どんな仕事でもよくこなす人は「集中力」が高いというわけだ。【⑧ 脳はなにかと熱中する】
生物学は解釈学なのでというと語弊があるがこういう実験にしろ、この本全体にも言えることだが誤謬があることは免れない。が、その内容には一定の真実はかなりの割合で含まれると思う。(←何様!まいどのことですいません)
好奇心と注意力はまさにおっしゃるとおりだろうと。それを集中力と解釈してしまうところがいつもながらの池谷氏の危うさなのだが、たしかにそのとおりだと思う。
ヒトも動物も、なぜか「赤」が勝負強い。【⑨ 脳はなにかと錯覚する】
オーラの泉で岡崎朋美が出たとき、スケートの勝負服は赤にしろ、そのほうが勝てると言ってたのだが、統計的にあたりまえの話だった。まあ経験則ってのはだいたいそういうもんである。この本に書かれているのはほとんどそういうことだったりするが、データが大事であるのはいうまでもなかろう。それも解釈でゆらいだりするのだけれど。。そういう危うさが生物学のオモロイとこだったりもする。
あと柔道着は白より青のほうが勝てるとか。池谷氏と違って感覚的にこれにも同感。あと鳥や哺乳類のもっている色素はメラニンだけで、クジャクの羽は表面構造でああいう色に見えるとか。たしか蝶の羽もそうだったような。
サルにAとBを選ばせる。Aを選ぶと150ccのジュース、Bだと200ccか100ccのどちらかのジュース。サルはBを選ぶ傾向がある。Bを250ccか50ccとするとBを選ぶ傾向はさらに高まる。
さらにこの実験の面白い点は、Bを3分の1の確立で200cc、3分の2を100ccとしてもサルは依然Bを選び続けるという事実。【⑩ 脳はなにかと期待する】
うける!(柳原可奈子ふうで)
ダジャレをもっとも頻繁に口にするのは幼児から小学校にかけての年頃で、山登りでも登山中より下山中の会話でダジャレが多いことが知られている。疲労で言葉の内容を考えずに、単語の表面、音だけに脳がより反応するようになっている。親父ギャグを連発する人は仕事で疲れていて脳が子供化しているのでしょうか。。【⑬ 脳はなにかとダジャレを言う】
うける!あ、もういいですね。すみません。疲れてきたようです。
てか、こないだ横トリで展示会場を歩きつかれたらしい女のコ二人組みが、「みぃ~たいなっ」というキング・オブ・コメディネタを力なくお互いに連発していました。気持ちはよーくわかりました。
脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?/池谷 裕二

¥1,680
Amazon.co.jp
とっつきやすいので、池谷氏の本を読んだことない人にはよいかとも思います。
以下、とっついた点。ええ、しっかり、とっついてしまいましたが何か?
文は短縮してまとめちゃってるので、ニュアンスは原文とかなり違うと思います。興味がある方は、買って読んでみてくだされ。
報酬にたどりつくまでのステップ数が多くなると仕事のエラー率が高くなる。また、工程が進み、報酬にありつけるまでの残り作業が少なくなると失敗は減る。
仕事の精度を高めたければ、多くの工程をひとまとめにせず、細かなステップに分けそのたびに報酬を与えるほかない。【④ 脳はなにかとやる気になる】
細かいステップにわけるのは手戻りを少なくするというあたりまえな利点だけではないというのがほーって感じ。仕事の達成感とかじゃなく、実際の目に見える報酬で釣るほうがよさげ。
大脳皮質がいちばん外側にあるのは「構造的に非効率」※1。配線コストがかかるから。「生物は効率的で、すべての構造や機能にはなんらかの合理的な意味があるのだ」というのはダーウィニズムの悪影響だ。「自然淘汰で勝ち残ってきたからには、私たちはさぞかしすばらしい生物に違いない」という思い込みが根強い。【⑤ 脳はなにかと理性を失う】
ちなみに免疫でもT細胞を胸腺で作るとき、96~97%は胸腺から出て行くことなしに胸腺のなかで死ぬ。壮大な無駄と冗長性がいろんなところに見られる。池谷氏は言いすぎだと思わなくもないが「合理的じゃないけど、なんかこんなんでましたけど」っていうレベルのものはフラクタルみたくどこにでも存在するんだろう。ダーウィンすらキリスト教的世界観からは自由でなかったのはある意味皮肉な話ではある。
※1 あとで考えてみたら、生命維持に必要がない部分のほうが外側になるのは理にかなっている。やはり意識とか科学とかそういうものを重要視してしまう。そういうきらいは科学者や哲学者にはありがちだ。
記憶を呼び戻すきっかけのことをプライミングという。ど忘れした内容も多くはプライミングで呼び戻せるのだが、その方法は一般的に「ど忘れする前と似た状況を作る」ことが最適なプライミングであるとされる。なにしてたかわからんくなったときは、元の場所に戻るとか。【⑥ 脳はなにかとド忘れする】
忘れるというのは、自分が焦点を当てている事だけではないと思う。状況すべてにおいて人の短期記憶の範囲は限られているから、現場に戻るとか現場主義なんていうのはもうあたりまえのように是であると思える。
迷路テストをすると「できるマウス」と「できないマウス」がかならずいる。さらに面白い事実は、できるマウスはどんな種類のテストが課されても「平均的によくできる」ということである。この理由を詳細に調べ上げたのがメイツェル教授の研究で、博士によるとこうした「なんでも一様にできる能力」が、個々の仕事ができる・できないの約50%を決定しているという。なにが脳の出来・不出来を決定しているのか。メイツェル博士は、個々の「行動性(どれだけ活発に動き回るか)」や「体重」は知能には無関係であると。むしろ「好奇心」や「注意力」の個人差が重要なファクターになっているという。つまり、どんな仕事でもよくこなす人は「集中力」が高いというわけだ。【⑧ 脳はなにかと熱中する】
生物学は解釈学なのでというと語弊があるがこういう実験にしろ、この本全体にも言えることだが誤謬があることは免れない。が、その内容には一定の真実はかなりの割合で含まれると思う。(←何様!まいどのことですいません)
好奇心と注意力はまさにおっしゃるとおりだろうと。それを集中力と解釈してしまうところがいつもながらの池谷氏の危うさなのだが、たしかにそのとおりだと思う。
ヒトも動物も、なぜか「赤」が勝負強い。【⑨ 脳はなにかと錯覚する】
オーラの泉で岡崎朋美が出たとき、スケートの勝負服は赤にしろ、そのほうが勝てると言ってたのだが、統計的にあたりまえの話だった。まあ経験則ってのはだいたいそういうもんである。この本に書かれているのはほとんどそういうことだったりするが、データが大事であるのはいうまでもなかろう。それも解釈でゆらいだりするのだけれど。。そういう危うさが生物学のオモロイとこだったりもする。
あと柔道着は白より青のほうが勝てるとか。池谷氏と違って感覚的にこれにも同感。あと鳥や哺乳類のもっている色素はメラニンだけで、クジャクの羽は表面構造でああいう色に見えるとか。たしか蝶の羽もそうだったような。
サルにAとBを選ばせる。Aを選ぶと150ccのジュース、Bだと200ccか100ccのどちらかのジュース。サルはBを選ぶ傾向がある。Bを250ccか50ccとするとBを選ぶ傾向はさらに高まる。
さらにこの実験の面白い点は、Bを3分の1の確立で200cc、3分の2を100ccとしてもサルは依然Bを選び続けるという事実。【⑩ 脳はなにかと期待する】
うける!(柳原可奈子ふうで)
ダジャレをもっとも頻繁に口にするのは幼児から小学校にかけての年頃で、山登りでも登山中より下山中の会話でダジャレが多いことが知られている。疲労で言葉の内容を考えずに、単語の表面、音だけに脳がより反応するようになっている。親父ギャグを連発する人は仕事で疲れていて脳が子供化しているのでしょうか。。【⑬ 脳はなにかとダジャレを言う】
うける!あ、もういいですね。すみません。疲れてきたようです。
てか、こないだ横トリで展示会場を歩きつかれたらしい女のコ二人組みが、「みぃ~たいなっ」というキング・オブ・コメディネタを力なくお互いに連発していました。気持ちはよーくわかりました。
脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?/池谷 裕二

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ポテトチップス関西風うどん味
見てこれ、ポテトチップス関西風うどん味。だったらはじめからうどん食うっつーの!
なんか見失ってるよね、お菓子業界。
昔、「小説なんて読まない。マンガでいろいろ人生教わった」っていうコがいた。
こないだ、「ドラゴンクエストって人生に似てるよね。あれで人生覚えた」というコが。
どちらも、すっごく感受性が豊かなコである。
いいんじゃね? ポテトチップス関西風うどん味。
だったらはじめからうどん食うっつーのっていうのもありだし。
そういうのはすごくシンプルで強いとこがカッコいいんだけど、関西風うどん味を知ってるコのほうがいろいろ人生応用力あるような気も最近したりするのである。
なんか見失ってるよね、お菓子業界。
昔、「小説なんて読まない。マンガでいろいろ人生教わった」っていうコがいた。
こないだ、「ドラゴンクエストって人生に似てるよね。あれで人生覚えた」というコが。
どちらも、すっごく感受性が豊かなコである。
いいんじゃね? ポテトチップス関西風うどん味。
だったらはじめからうどん食うっつーのっていうのもありだし。
そういうのはすごくシンプルで強いとこがカッコいいんだけど、関西風うどん味を知ってるコのほうがいろいろ人生応用力あるような気も最近したりするのである。
三渓園でのナニ 横浜トリエンナーレ
書き忘れてたので、横トリのラスト記事ということで。
インスタレーションとインタラクティブというのが最近の現代美術のキーワードの一つとなっている。らしい。
インスタレーションと連動するインタラクティブは、金がかかりすぎるので、個人でなにかを発見して創作するより、グループワークで資本投入できる企業体のほうが強そう。ゲームとかテーマパークとか。
ただ、「おっ!」と思えるようなナニモノかが見えるときがある。
使い方次第でアミューズメントパークとかでは使えるし、そういう貢献の仕方があってもいいような気がする。芸術ってそんな堅苦しく考えなくてもいいんじゃねえか?そういうほうがいろいろ底上げされると思うのだけど。(何様?まあ、素人はこわいものしらずということでひとつ。以下同文。)
なんてことを、三渓園の中谷芙二子の雨月物語-懸崖の滝とトリス・ヴォナ=ミッシェルの涵花亭にある展示を見ておもった。
中谷芙二子のブツは滝のあたりに設置されていて、まわりは林と薮。センサーに反応して人工の霧と稲光のようなライトが光る。残念ながら昼だったのであまりその良さがわからなかった。
一応写真はこんな感じ。なんだかさっぱりわからんでしょうけれど、まあ感じだけ。

自然の再提示なのだけれど、繊細なところは、内藤礼の横笛庵と共通するものがある。
内藤礼は、母型という題で、それまでの発電所美術館に続く一連のシリーズの一つなのか。
庵のなかに電熱器が2台とその上に紙の紐状のものがゆらいでいる。
すんません。ぜんぜんわかりません。母型という作品名と展示内容で言いたいことはわかるような気がしたけれど、繊細すぎ!発電所美術館のほうは人様のブログを見るとそれなりだったようでもあるのだが。
トリス・ヴォナ=ミッシェルのは涵花亭のまわりを歩くとセンサーが反応して草むらからつぶやく声が。涵花亭は池の入り組んだ島に作られたアズマヤみたいなので、こういう感じの場所。

(なお、写真はhttp://mirabeau.quu.cc/photo/sankeien/の無料写真の借り物です)
これはちょっとだけ面白かった。足元の草むらでブツブツいわれるのは夜だとけっこう気持ちのいいものではない。昼だったのでそうでもなかったが、係りの人がいなくて一人だったらどうだったろう。あ、これタネあかししたらマズかったのか。なお亭のテーブルの上に変な白い箱が置かれていたのだが意味不明。彼の家のミニチュア?だとしたら、子供っぽいのだが、全体の意味は、ああそういうことかとわかるけど、ううーん。。どうだろ。
このあたり、全部夕方だと多少は面白かったかも。まあ、でもどうなんかねえ。
インスタレーションにしてもインタラクティブにしても、観る者の存在というか、作品と観る者が対話式に、もしくは相互に影響を及ぼしあうことを前提としている。
美術とか芸術ってなんでもそうなのだけれど。
かなり観る者のほうが踏み込まないとわからない。
ってか、作者の歴史とか知らんって。いやさ、作品単品で感じられないようなものは、正直どうなん?ていう気持ちもあるのだが。。
どうもどれもそんな感じなのだけれど、美術っていうのは全体そういうもので、慣れてくると作品の良さと悪さが見えてくる。これはすごいとか、これは凡作だとか。
やっとちょっとだけ現代美術が見えてきた。。気がする。
なんなんすかねえ。まあ、そういうこと自体、いろいろ世の中にはありますわ。
インスタレーションとインタラクティブというのが最近の現代美術のキーワードの一つとなっている。らしい。
インスタレーションと連動するインタラクティブは、金がかかりすぎるので、個人でなにかを発見して創作するより、グループワークで資本投入できる企業体のほうが強そう。ゲームとかテーマパークとか。
ただ、「おっ!」と思えるようなナニモノかが見えるときがある。
使い方次第でアミューズメントパークとかでは使えるし、そういう貢献の仕方があってもいいような気がする。芸術ってそんな堅苦しく考えなくてもいいんじゃねえか?そういうほうがいろいろ底上げされると思うのだけど。(何様?まあ、素人はこわいものしらずということでひとつ。以下同文。)
なんてことを、三渓園の中谷芙二子の雨月物語-懸崖の滝とトリス・ヴォナ=ミッシェルの涵花亭にある展示を見ておもった。
中谷芙二子のブツは滝のあたりに設置されていて、まわりは林と薮。センサーに反応して人工の霧と稲光のようなライトが光る。残念ながら昼だったのであまりその良さがわからなかった。
一応写真はこんな感じ。なんだかさっぱりわからんでしょうけれど、まあ感じだけ。

自然の再提示なのだけれど、繊細なところは、内藤礼の横笛庵と共通するものがある。
内藤礼は、母型という題で、それまでの発電所美術館に続く一連のシリーズの一つなのか。
庵のなかに電熱器が2台とその上に紙の紐状のものがゆらいでいる。
すんません。ぜんぜんわかりません。母型という作品名と展示内容で言いたいことはわかるような気がしたけれど、繊細すぎ!発電所美術館のほうは人様のブログを見るとそれなりだったようでもあるのだが。
トリス・ヴォナ=ミッシェルのは涵花亭のまわりを歩くとセンサーが反応して草むらからつぶやく声が。涵花亭は池の入り組んだ島に作られたアズマヤみたいなので、こういう感じの場所。

(なお、写真はhttp://mirabeau.quu.cc/photo/sankeien/の無料写真の借り物です)
これはちょっとだけ面白かった。足元の草むらでブツブツいわれるのは夜だとけっこう気持ちのいいものではない。昼だったのでそうでもなかったが、係りの人がいなくて一人だったらどうだったろう。あ、これタネあかししたらマズかったのか。なお亭のテーブルの上に変な白い箱が置かれていたのだが意味不明。彼の家のミニチュア?だとしたら、子供っぽいのだが、全体の意味は、ああそういうことかとわかるけど、ううーん。。どうだろ。
このあたり、全部夕方だと多少は面白かったかも。まあ、でもどうなんかねえ。
インスタレーションにしてもインタラクティブにしても、観る者の存在というか、作品と観る者が対話式に、もしくは相互に影響を及ぼしあうことを前提としている。
美術とか芸術ってなんでもそうなのだけれど。
かなり観る者のほうが踏み込まないとわからない。
ってか、作者の歴史とか知らんって。いやさ、作品単品で感じられないようなものは、正直どうなん?ていう気持ちもあるのだが。。
どうもどれもそんな感じなのだけれど、美術っていうのは全体そういうもので、慣れてくると作品の良さと悪さが見えてくる。これはすごいとか、これは凡作だとか。
やっとちょっとだけ現代美術が見えてきた。。気がする。
なんなんすかねえ。まあ、そういうこと自体、いろいろ世の中にはありますわ。