象の夢を見たことはない -284ページ目

『真夏の死』 三島由紀夫 新潮文庫

三島由紀夫の『真夏の死』をやっと読み終えた。

中学校のとき太宰治の『人間失格』を読んで目が眩むような思いがした。いまだにそれ以上に、自分の足元をすくうような本には出会ってはいない。多感な時期に読んだからだろう。

もう何を読んでも足元はふらつくことはないが、それでも『人間失格』にあった、人が持つ動物としてのサガを鷲づかみにして手元で見せられるような、そんな感じは体のどこかが覚えていた。それを思い出した。人の持つ業などではなく、もっと直接的で動物的ないやらしさ、それを目の当たりに見せられる。自分の中に呼応するものがある。それを知る。それに対する嫌悪。

三島の短編は違う。毒の種類が違うのである。頭を通して効くのではない。もっと直接に体に直に効く猛毒。いっきに体に来る。なので甘美と恍惚を伴う。それらがない交ぜとなって体が震える。

いずれにせよそんな経験をさせられる小説はいまのところ自分にとってはこの2冊しかない。まあ、本というものを読んでないからかも知れない。

表題作の『真夏の死』は、巻末で三島自身が語っているとおり、眼目は最後の一行にある。海を眺める朝子にはない。それを見た勝の反応である。なぜ、子供の手を握ったのか、それが体で直感できないと朝子にしか目が行かない。

「それは待っている表情である。何事かを待っている表情である」。そう思った主体が誰かということを見透かせないようだと、つまり、これを朝子側の「業」と読み違えるようでは、見方が浅いとしかいいようがない。あるいは深すぎるのか。朝子ではなく、それを直観した夫が待っている。即ち、三島自身が待っている。そしてそれに自分が気づいた瞬間、本能的に子供の手を握った。自分自身におののいて。それはもうギリシャ神話的な人間の業などという高尚なものではない。もっと身体的なものだ。

業というのは頭を通して作られる。ある種の幻影である。そういう意味で「神」と同じ種類の言葉だ。そんなものにこの二人、太宰も三島も興味などない。

倉橋由美子は、「三島由紀夫は尋常ならざる作家で、…その短編は『悪』の濃度が高く、毒薬を口に含んで味わうような趣があります」と言っている。そう、ゆるい毒ではない。頭を通した後から効いてくる、そんなふうにゆっくり効くような毒じゃない。もっと純度が高い猛毒である。

これを中学のときに読んでたとしたら、はたしてそこまでわかったろうか。たぶん10年前でもわからなかったかもしれない。

さらに倉橋は続ける。「読み終わってそれを吐き出すか、そのまま飲み下すかは読者の自由です。私としては、「きき酒」の要領で、一度吐き出しては次々に三島由紀夫の短編を楽しむことをお薦めします」と。

再度言う。彼の毒は体に直接効く。頭を通して効くのではない。どうやら、飲んでも効かないような耐性をもった体の人もいるようで、それは頭に抗体を持っているのか、もともとそれに反応するものを体に持っていない人らしい。

まあ、自分も飲み干しても死なないようで、それは読むタイミングが悪かったのか、あるいはそれが嬉しいことなのか悲しいことなのかも、はかりかねているところである。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)/三島 由紀夫

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幽霊子育て飴

そうだ、京都に行こう熱発生。

清水の舞台からとびおりるつもりで西芳寺に行くことにした。
写経含めて拝観冥加料三千まんえ~ん。。うそ。3千円。
むかーし、大原三千院の拝観で写経したことがある。
そんときは字をなぞるだけだったが。

清水といえばこんな話があるらしい。

京都・魔界巡り (らくたび文庫 No. 32)/友野 茂

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京都に鳥辺野という場所がある。清水寺のあるあたり。
ここは、都の死人が運ばれてくる場所であったという。あの世への入り口があると信じられていたとも。

この鳥辺野で夜になると決まって飴を買いに来る女がいた。
その頃、土の中から赤ん坊の声がする場所があった。
掘り返してみると、女の遺体の横で生まれたばかりの赤ん坊が発見され、救出された。
それ以降、女が飴を買いに来ることはなかったという。女はわが子のいのちをつなぐ飴を買いに来ていたのだ(※1)。

伝えられて残ってきたことにはある真実が隠されている。そんなふうに思う。

「科学が発達した今、そんなことを信じられるひとはいない」。そういうことを言う人がいる。
だけど、こんなことを昔信じてた人が果たしていたのだろうか。
自尊心は目を曇らせる。それほど昔の人はバカではない。

「昔はよかったとよく言う人がいる。昔は、衛生状態も貧困もひどかった。無知と貧困。それを考えれば、今のほうが絶対いいんだよ」
村上龍はよく言うのだが、「昔はよかった」となぜ言う人がいるのかを深くは考えてない。
ノスタルジーだけではない。ノスタルジーという言葉は都合がよい。都合がよい言葉というのはいろんなものを隠蔽する。

表面的にみえる事柄を否定する前に、人の心理の裏側を考えたほうがよい。

昔はよかったという人に対して。
そして、それを否定する村上龍に対しても、さらには「いまどきそんなことを信じられるひとはいない」という人に対しても。

人がなにかを言葉にするとき、かならず裏に「なんらかの心理」が働いている。
そっちのほうがゆるぎない真実だとそんな風に思う。

※1 検索してみた。人様のブログだけれど、こういう話だとか。ご参考。
http://kyotogoriyaku.blog24.fc2.com/blog-entry-115.html
なんか落語だと落ちがすべてを台無しにしているような気が。。
まあ、「そういう落ちでくるんどかないと…」という気持ちもちょっと考えればわかる。

約束

うれしい気配というのは、相手が見えてなくても寄ってくる足音でわかる。

今日、OCNの光フレッツを申し込んだ。
ビッグカメラでパソ見てたら、青い服のおなごが。なにげにパソの薦め方が店員っぽくない。
ふっと胸をみたら光フレッツの販促の人だった。いろいろ調べてくれて、今より安くなりそうだったのだが、契約には身分証が必要とのこと。後で来ると言って名刺だけもらった。

去年バリで現地の旅行会社にボロブドゥール遺跡ツアーを申し込んだ。電話したとき赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。家族経営の小さい小さい会社なのか。ちょっと不安になる。手続きのため明日ホテルまで来ると言う。
次の日にホテルの受付で待っていたが、セキュリティがしっかりしているホテルだったのでホテルの敷地内には業者は入れない。行き違いもあって、結局その旅行会社の人はホテルの前で2時間待っていたらしい。次の日に連絡が来て飛行機チケットを受け取ったときにその話を聞いた。申し訳なかったと謝ったのだが、ぜんぜん気にしてないと。ほんとに気にしてないような笑顔で。
ツアーの帰り、ライオンエアという怪しげな会社の飛行機はジョグジャカルタ空港を2時間以上遅れて離陸。デンパサール空港に着いたときには、すでに日付を跨いでいた。はたして帰りの迎えはないかもと腹を括ったが、ちゃんと迎えが待っていてくれた。

ベトナムの宿をこないだ予約したのだが、小さい代理店。予約確認のために送られてきたエクセル表にも誤りが。誤りを指摘して返送したら修正と謝罪メール。だいじょうぶかしらと思いながら、対応の早さにもメールにも誠意がみられたので次の日にままよと思いながら入金。そのまましばらくバウチャーの送付はなかろうと思っていたのだが、入金のあくる日にメールできちんと送付されてきた。

で、今日の話に戻る。
名刺をもらっていたし、こちらは名乗ってはいない。向こうも不安だろうと夕方に出向いた。
ちょっとウロウロ探してたら、うれしい気配がすっ飛んできた。
気配のあとから笑顔が。

約束は守らなければならない。

小さく手広くやっている会社ほど約束を破ったときのリスクが高い。そういう会社は大手などよりよっぽど信用できる。個人もそう。器のでかい人間ほど約束を大事にする。

会社対会社で、買い叩かれるとか、そういう経験を何度かすると、「まあいいや。この相手にはこの程度で」と値踏みをして手を抜いてしまう。仕事が手にあふれてくるとそうなってしまってくる。自分が大きい会社にいたりすると特に。そうなってしまっていた。

会社同士の約束というのも、自分が契約したなら、すべて自責である。

約束はたがえると言葉の呪のように自分に降りかかってくる。法則のように。
どんなかたちであれ、そこから逃げ切れることなどない。

結局は、すべて自分に降りかかる。どうせ、そうなら相手の笑顔をみるほうがいい。

あるブロガーさんは、目で約束したことも約束は約束だと。男前である。

ほんと約束っていうのはそういうもんだとあらためて今日心に誓ったのである。

うんざりと好奇心のはざまで

九枚の幸せそうな顔の写真のなかに、一枚だけ怒った顔を入れます。それをパッと一瞬見せられると、不思議とひとつしかない怒った顔に目がいきます。(『図解 心理分析ができる本』より)

危険を察知するための基本的な本能。
人間はマイナスの表情のほうに敏感に反応する。

表情だけではなくて文章やらいろんな表現に言える。

怒っている人には最初から近づかない。わっしは、おもしろそうなので眺めるのだが。

でも、それがいつものことだと飽きる。疲れているときはうっとおしい。

毒吐きまくりで愚痴が大半の文章も最初はものめずらしさで眺めるが、それが常態だと生活に入ってくるので必然的におとこは避けるでしょ、そんなひと。

なんとかしてあげたいという気持ちも醒める。というか、自分がおかしいことに気づいてないことが常態の人というレッテルを決定的に貼り付けて、確実に距離をとる。二度とそれは戻らない。

わかりきったはなしである。

へんな呼び込み

マレーシア。クアラルンプール。チャイナタウン。

露天が並ぶ。パチモンDVDやら香水やら財布、サングラス、Tシャツ、バッグ。呼び込みをする男。

「マスター、マスターァー」

意味がわからん。

男はマスターと呼ばれるらしい。ことごとくマスターと呼びよる。なんで?