すべる話 | 象の夢を見たことはない

すべる話

「すべらない話」を見ていた。

次長課長の河本くんとかメッセンジャーの黒田くんの話を聞いてて、やっぱり、悲喜劇話の威力はすごいなあと。

うける話っていうのはどっかやっぱり共感ができる悲劇が入ってないと残らない。

千原ジュニアの「兄・靖史が如何にバカか?」の話もキレがあって面白いのだけれど。

松本人志の『大日本人』は、そういう哀愁が伴ったどっか笑ったあとに目じりに涙がうっすらとなんていうのを追求したものらしいのだけれど、そういうものを意識して作ってしまおうというのはもう男の業というしかないんじゃねえかしらと思わないでもない。まだ、見てないが。。

『笑い』について、ベルクソンが書いていた。

「おかしみは人が物に似てくる人のもつあの面であり、全く特殊な一種のこわばりによって、ピンからキリまでの機械仕掛け、自動現象、つまり生のない運動を真似する人間的出来事のあの様相である。だから、それは焦眉の矯正を促す個人的あるいは集団的の不完全性を現すものである。笑いはこの矯正そのものである。笑いは人間ならびに事件の或る特殊な放心を指摘し阻止する一種の社会的身振りである。」

あるいは、笑いの中の機智という代物についても同じ本の中でベルクソン語っているのだけれど、そういうふうに分析して、台無しにしてしまおうという男独特?の業自体、ベルクソンや松本人志の悲喜劇だったりする。

そんなおっさんの想いというのはどうにも重い。

子供のときだったり若いときにしかそういう悲喜劇ネタでオモロイものは生まれない。
水泳の大会でレースに出たときも、前半の意識がないときのほうがタイムが速かったりする。
なんかそういうとこと相似だったりするのか。キレっていうのはそういうもので、意識というのはワンテンポトロくさい。

芸や芸術では、意識はいっつも邪魔ものであって、そんなものが見えるようになると大御所と呼ばれるようになるらしい。味っていうのはそんなとこに出てくるのかも知れないが。まあ、悲喜劇もそういうもんだけれど。

そう考えると、それを越えて年取って最後は子供みたいになるっていうのはある意味正しい年の取り方のような気もしないでもない。芸事なんかは特に。けっこう年をとるのもめんどくさい。