ダリのパン籠
ダリのパン籠。
ダリの画集をかった時、最初の見開きが確か『パン籠』だった。
(http://www.digistats.net/museum/2005/01/blog-post_13.htm)
なぜこの絵が?
「写実こそが超現実なのだ」とかなんとかいうのはダリの言葉なのだが。
はたして、この絵がダリの絵じゃなかったら注目されるのか。そういう疑問がある。
題材がパンである。
パンというのは、ダリの絵に多く出てくるモチーフの一つで、彼に霊感を与えるものだと。キリスト教的には、パンとぶどう酒はそれぞれキリストの体と血だったりする。スペインといえばもろカトリックだし。
先日の蓮實の描写についてのコメントは、村上龍のクローム鍋の話の後に。
青山真治の映画の話をからませると、描写というのは必ずしも主題の対象そのものの描写ではないように思う。
あるいは別の視点。蓮實が『反=日本語論』で書いているのは修得する側にとって、言葉はどのように修得されるのか。
ダリの絵と知らずに見て、自分はなにを思うだろう。
それはモノを認識する際の自分を考えればわかる。
「パンだね」。判ればそれで終わり。
だが、はじめてパンを見た自分はそれをどう感じたのだろう。
とりあえず口にいれたかもしれない。そしてそれが食べ物であること。柔らかいこと。
給食の記憶だったり、机の中にほったらかしで固くなってボロボロこぼれる感じとか。
経験の中でパンはいろんなものと関係性を持つようになる。
それを踏まえて「パンだ。」と認識する。
そしてそれで終わり。いつもそれで終わる。パンはパンであると。
しかし、これがダリの作品で、パンが彼に与える霊感だとか、キリスト教の話を知っていると、「ん?なんだ?なぜこの絵を彼は描いたのか?」と考え始める。
彼にとって、パンとは何かとかなんとか。柔らかくて、固いとかかんとか。それってカニバリズムじゃねえか?とかどうとか。
シュールレアリズムとは関係性の暗示である。
もしくは、それを再発見するときの恍惚。アハ体験。脳神経のシナプスの繋ぎ換え。アセチルコリン、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンなどの生体アミンの放出とそれに伴う快感。モノを思いだしたときの快感。記憶のチェーンリアクション。瞬間的な痙攣。いわゆるビビッとくるってヤツ。あるいは直観がはたらくとき。
結局、メタファーもこれと同じで、跳躍の快感だと思うのだが。。
描写が表現を超えるというのはそういうことを言っているのだと思う。
言葉は単独では存在しえない。知らない単語を認識するのは、その単語と自分にとって既知の言葉との関係性を認識することによってはじめて成立する。そのために、言葉を尽くすわけでその努力がメタファーのようにだらしなくなくてってことなんだと。打たせて獲るより三振の美学というか。。
さあ、そしてこのパン籠を見る。何が見えるか。
ダリにとってのパンとは何か?
その関係性を認識するという作業を『パン籠』は鑑賞者に強いているようにしか思えない。果たして、それは表現方法として上等なのか。
見てても快感を伴わない。
彼が何を伝えたいのか私にはわからないから。
それを一発の絵で納得させるためには、鑑賞者がそれを覗きこむような工夫が必要で、それが主題を隠すというクローム鍋での村上龍の表現だったり、青山真治の観客の視線を切るという映画カットの表現だったり、犬塚勉の主題がみえない絵だったり。そして訪れる跳躍の瞬間。
そのための写実であって、ただ単に写実をするというのはダリの自尊心に似て配慮が足らない。ように思える。ただ、描写が細密なのでしげしげとは眺めるかもしれない。だがそれも含めて自意識過剰というか、自惚れというか、自慰的というか。そして彼は上述のように語るわけだ。「写実こそが超現実なのだ」とかなんとか。そして、オレさまを知れと。理解しやがれと。
説明が必要な芸術ってどうなのよ。ただ、それも含めてダリなので。
(甘ったれで、かっこつけで臆病。なので母なるガラを必要とした。誰かと似てるな…)
だが、この絵だけが買った画集の中で印象に残っている。
それがなぜだか未だにわからない。
意志の力は描写を超えるのだろうか。
ダリ、実は嫌いではない。
煩悩ほど人を惹きつけるものはない。それが昇華される瞬間。
悟りそのものには意味はない。目覚めの一瞬前。それが究極。
ダリのソレはいただけん、説明くさいから。至高はシヴァ神のリンガだね。
でも、やっぱり生じゃないと。lifeじゃなくlive!!!
<ダリの見方>
ダリのパン籠、解説ですごくいいなあ、すげえなあと思ったのはコレ。脱帽。ただ、ここで解説されてるパン籠は1926年のもの。ダリの見方についていろいろ気付かせてくれます。さすがプロフェッショナル。ここまでくるともう、モノの見方はモノの見方でひとつの作品のように思えます。
ダリの画集をかった時、最初の見開きが確か『パン籠』だった。
(http://www.digistats.net/museum/2005/01/blog-post_13.htm)
なぜこの絵が?
「写実こそが超現実なのだ」とかなんとかいうのはダリの言葉なのだが。
はたして、この絵がダリの絵じゃなかったら注目されるのか。そういう疑問がある。
題材がパンである。
パンというのは、ダリの絵に多く出てくるモチーフの一つで、彼に霊感を与えるものだと。キリスト教的には、パンとぶどう酒はそれぞれキリストの体と血だったりする。スペインといえばもろカトリックだし。
先日の蓮實の描写についてのコメントは、村上龍のクローム鍋の話の後に。
青山真治の映画の話をからませると、描写というのは必ずしも主題の対象そのものの描写ではないように思う。
あるいは別の視点。蓮實が『反=日本語論』で書いているのは修得する側にとって、言葉はどのように修得されるのか。
ダリの絵と知らずに見て、自分はなにを思うだろう。
それはモノを認識する際の自分を考えればわかる。
「パンだね」。判ればそれで終わり。
だが、はじめてパンを見た自分はそれをどう感じたのだろう。
とりあえず口にいれたかもしれない。そしてそれが食べ物であること。柔らかいこと。
給食の記憶だったり、机の中にほったらかしで固くなってボロボロこぼれる感じとか。
経験の中でパンはいろんなものと関係性を持つようになる。
それを踏まえて「パンだ。」と認識する。
そしてそれで終わり。いつもそれで終わる。パンはパンであると。
しかし、これがダリの作品で、パンが彼に与える霊感だとか、キリスト教の話を知っていると、「ん?なんだ?なぜこの絵を彼は描いたのか?」と考え始める。
彼にとって、パンとは何かとかなんとか。柔らかくて、固いとかかんとか。それってカニバリズムじゃねえか?とかどうとか。
シュールレアリズムとは関係性の暗示である。
もしくは、それを再発見するときの恍惚。アハ体験。脳神経のシナプスの繋ぎ換え。アセチルコリン、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンなどの生体アミンの放出とそれに伴う快感。モノを思いだしたときの快感。記憶のチェーンリアクション。瞬間的な痙攣。いわゆるビビッとくるってヤツ。あるいは直観がはたらくとき。
結局、メタファーもこれと同じで、跳躍の快感だと思うのだが。。
描写が表現を超えるというのはそういうことを言っているのだと思う。
言葉は単独では存在しえない。知らない単語を認識するのは、その単語と自分にとって既知の言葉との関係性を認識することによってはじめて成立する。そのために、言葉を尽くすわけでその努力がメタファーのようにだらしなくなくてってことなんだと。打たせて獲るより三振の美学というか。。
さあ、そしてこのパン籠を見る。何が見えるか。
ダリにとってのパンとは何か?
その関係性を認識するという作業を『パン籠』は鑑賞者に強いているようにしか思えない。果たして、それは表現方法として上等なのか。
見てても快感を伴わない。
彼が何を伝えたいのか私にはわからないから。
それを一発の絵で納得させるためには、鑑賞者がそれを覗きこむような工夫が必要で、それが主題を隠すというクローム鍋での村上龍の表現だったり、青山真治の観客の視線を切るという映画カットの表現だったり、犬塚勉の主題がみえない絵だったり。そして訪れる跳躍の瞬間。
そのための写実であって、ただ単に写実をするというのはダリの自尊心に似て配慮が足らない。ように思える。ただ、描写が細密なのでしげしげとは眺めるかもしれない。だがそれも含めて自意識過剰というか、自惚れというか、自慰的というか。そして彼は上述のように語るわけだ。「写実こそが超現実なのだ」とかなんとか。そして、オレさまを知れと。理解しやがれと。
説明が必要な芸術ってどうなのよ。ただ、それも含めてダリなので。
(甘ったれで、かっこつけで臆病。なので母なるガラを必要とした。誰かと似てるな…)
だが、この絵だけが買った画集の中で印象に残っている。
それがなぜだか未だにわからない。
意志の力は描写を超えるのだろうか。
ダリ、実は嫌いではない。
煩悩ほど人を惹きつけるものはない。それが昇華される瞬間。
悟りそのものには意味はない。目覚めの一瞬前。それが究極。
ダリのソレはいただけん、説明くさいから。至高はシヴァ神のリンガだね。
でも、やっぱり生じゃないと。lifeじゃなくlive!!!
<ダリの見方>
ダリのパン籠、解説ですごくいいなあ、すげえなあと思ったのはコレ。脱帽。ただ、ここで解説されてるパン籠は1926年のもの。ダリの見方についていろいろ気付かせてくれます。さすがプロフェッショナル。ここまでくるともう、モノの見方はモノの見方でひとつの作品のように思えます。
いまさら、野暮だけど…
中上健次は最後の作家と呼ばれていて。
村上龍、柄谷行人らとの親交とか含め、彼らから敬意を持たれていたわけで。
無知、貧困、被差別…。社会に対する憎悪と愛情。アンビバレンツな葛藤という意味で明確な外部が存在しているのだけど、今はそんな時代じゃない。モノも情報もあふれ、価値観が多様化し、明確な葛藤の対象がわからない。戦争もなく、焼け跡すらなく、通過儀礼なくやり過ごせる平和な時代に果たして小説は必要なのか。
21世紀にロックンロールは必要か?なんて…
汚いオヤジが道で寝る。悪臭に覚える殺意。慣れるんだよ。感じなくて正常。
あらためて、やはり世代がそっちサイドだな彼も。なので惹かれるのかもしれない。
でもそれも彼の中の一部。実際にはそんな簡単な構図を持ってるわけでも、持てるような単純な世の中でもない。そんな世代と上の世代が混ざることはない。
かといって大過なくやり過ごせる人生でもない。バブルが崩壊し、共通の価値観が崩れて複雑化。ベルリンの壁はとっくに崩れてしまっていて、世界はオープンだ。情報は掴み放題だけど、まん延して錯綜している。そんな世界は、ある意味で無知や貧困が覆っていた過去よりも生きるのが難しい。
すくなくとも無知ではない。自由にみえて不自由というより、自由の観念すら消えた。尾崎豊って何?って感じ。対立する概念が見えにくく、でも差分だけがある。関連はわかるが基準はわからない。そんな世代に受け入れられる小説が上の世代にわかるわけはない。
だけど、そういうときに表に出てくるのは本来の日本人のネイチャーなのかも知れない。
コンフリクトがなく、空気感だけがある。内部で醸成されて、外部の人間はその空気を共有しないかぎり差分すらわからず、内部にいながら他者であることを強いられる。ただ差分だけがあり、それを意識して生きている。しかし、それさえわかっていればぬるま湯につかるように過ごせる。基準という考え方が成立しないので、中心もない。だから革新的なイノベーションなど起こるわけがない。外部はあいまいで、価値観がまったく異なるものへの対処の仕方がわからない。なので過剰に反応したり、まったく従順だったり、ないものとしたりの極端な反応しかできない。外交ができない。対決や結論は先に延ばされる。今の民主党政権というのは、今の日本人そのもの。かといって自民党も同じようなもの。過去の価値観へ戻ることはない。ロックンロールは必要だと思う。だが、それがすべてではなくなった。
新しい国は、自分で自分の中に打ち立てるしかない。
村上龍、柄谷行人らとの親交とか含め、彼らから敬意を持たれていたわけで。
無知、貧困、被差別…。社会に対する憎悪と愛情。アンビバレンツな葛藤という意味で明確な外部が存在しているのだけど、今はそんな時代じゃない。モノも情報もあふれ、価値観が多様化し、明確な葛藤の対象がわからない。戦争もなく、焼け跡すらなく、通過儀礼なくやり過ごせる平和な時代に果たして小説は必要なのか。
21世紀にロックンロールは必要か?なんて…
汚いオヤジが道で寝る。悪臭に覚える殺意。慣れるんだよ。感じなくて正常。
あらためて、やはり世代がそっちサイドだな彼も。なので惹かれるのかもしれない。
でもそれも彼の中の一部。実際にはそんな簡単な構図を持ってるわけでも、持てるような単純な世の中でもない。そんな世代と上の世代が混ざることはない。
かといって大過なくやり過ごせる人生でもない。バブルが崩壊し、共通の価値観が崩れて複雑化。ベルリンの壁はとっくに崩れてしまっていて、世界はオープンだ。情報は掴み放題だけど、まん延して錯綜している。そんな世界は、ある意味で無知や貧困が覆っていた過去よりも生きるのが難しい。
すくなくとも無知ではない。自由にみえて不自由というより、自由の観念すら消えた。尾崎豊って何?って感じ。対立する概念が見えにくく、でも差分だけがある。関連はわかるが基準はわからない。そんな世代に受け入れられる小説が上の世代にわかるわけはない。
だけど、そういうときに表に出てくるのは本来の日本人のネイチャーなのかも知れない。
コンフリクトがなく、空気感だけがある。内部で醸成されて、外部の人間はその空気を共有しないかぎり差分すらわからず、内部にいながら他者であることを強いられる。ただ差分だけがあり、それを意識して生きている。しかし、それさえわかっていればぬるま湯につかるように過ごせる。基準という考え方が成立しないので、中心もない。だから革新的なイノベーションなど起こるわけがない。外部はあいまいで、価値観がまったく異なるものへの対処の仕方がわからない。なので過剰に反応したり、まったく従順だったり、ないものとしたりの極端な反応しかできない。外交ができない。対決や結論は先に延ばされる。今の民主党政権というのは、今の日本人そのもの。かといって自民党も同じようなもの。過去の価値観へ戻ることはない。ロックンロールは必要だと思う。だが、それがすべてではなくなった。
新しい国は、自分で自分の中に打ち立てるしかない。
試論 村上春樹の空白性について
1. 村上春樹の自己(セルフ)について
<村上春樹の考える自己(セルフ)>
春樹:外界からセルフを押すんですね。外界からの圧力。それに対してエゴが押し返すというふうに捉えていくと、日本の戦後文学は以外にわかりやすく読める側面があったわけです。この力のいなしかたで、それぞれのスタイルができてくる気がしたんです。…。そういうふうに読んでいくと、やっぱり夏目漱石の時代とは変わってきてるんだなと実感できた。でも現在そこからまた更に、小説は大きく変わってきている。…
簡単に言うと、葛藤をフリクションとして捉えるのでなく、セルフという自我を含んだもうひとつ大きいエリアを自分の中に設定することで小説を書こうとしているんじゃないかと。

河合:このセルフの中には[it]をうまく込めてあるというふうに考えたらいいんじゃないでしょうか。エゴの周りにこれをこめてね。それがやっぱり自分と考えて、うまくやっているというふうな考え方をしてもいいし。
春樹:一種のトワイライトゾーンとして設定してるわけですね。
(『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』河合隼雄 新潮文庫)
この場合の[it]というのは、たとえば、出来ゴコロで万引きをしてしまった。なんで、それをやったのか自分でもよくわからない。そういうときの心情をあらわすときに「わては、それにやられましてん」というのがいちばんしっくりくる場合がある。その時、突然それがやって来た。だからやってしまったと。そういう意味の[it]で、フロイトでいう自我=イッヒに対する「エス(es)」。名前のつけようのないナニモノかのこと。
<ユングの考える自己(セルフ)>
自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。

自己は、意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。(『ユング心理学入門』河合隼雄 培風館)
2.描写について
<メタファー>
龍 :正確な文章を書く方が難しい。メタファーは結構、簡単といえば簡単なのね。
坂本龍一:メタファーはだらしないよね。
龍 :うん、なんだかだらしないね。比喩がうまい作家はいい文章を書くとかいうのは俺は違うとおもうね。
(「ヴァーチャルな恋愛と鎖国化のシステム」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)
<残酷な視点を獲得するために>
蓮實:描写してるとなにが起こるか。過不足ない言葉をやはりある程度は、重ねていきますよね。描写すべき対象にそぐわない言葉は排しながら、ある種の過不足のなさに近づいていきながら、描写を重ねていくうちに、その過不足のなさが不意に消えるんですね。例えばミシェル・フーコーが「図書館の幻想」ということを言っていて、図書館というのはあらゆる知が過不足なくあるところなんだけれども、それに必死に、というかほとんど偏執狂的にその過不足のなさにグイグイ入りこんでいくと、ある種の「幻想」に至る。正当な言葉遣いに徹していると、ふとその正当さが超えられてしまうということが描写の原理じゃないかと思います。どこがで描写されている対象とは違ったものになっちゃう。これだけの言葉を連ねれば、これだけのことがわかるはずだという、これをどこかで超えてしまう。
蓮實:(『五分後の世界』の話)…。それとほとんど同時に読んだのが村上春樹氏のもので、これは本当に駄目でしたね。
龍:『ねじまき鳥のクロニクル』ですか?
蓮實:この人は、小説は今後書けないんじゃないかという気がしますね。
龍:僕も一種、薄ら寒いものを感じましたけど。
蓮實:僕は、はじめから村上春樹は小説家ではないという理由のない確信がある。何か違うことをしたいと思ってるのに、この人はこれをやっているというね。だから『ねじまき鳥』を読んで、自分は間違ってなかったという感じがしたんですね。何をやりたいんでしょうね、あの人は。
龍:春樹さんのことはちょっと置いておくとして、…
(「残酷な視点を獲得するために」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)
3.村上春樹の空白性について
<まとめ>
村上春樹の小説の場合、大した通過儀礼もなく、あっちの世界へ行き、こっちの世界に帰って来る。でも帰ってきたときには、もうなにかが損なわれている。あるいはなにかが大きく変容してしまっている。なにが原因かは読者にはまったくわからない。なぜそれが損なわれてしまったのか。なぜ変容してしまったのか。その過程がまったく見えない。どうしてそうなってしまったのか。まるで彼の比喩のようで、なんとなくわかるような気がする。けど、本当のところは、まったくわからない。ぼんやりとしたトワイライトゾーンをはさんで、エゴと外界が存在している。コンフリクトがないままに、結果が提示される。
それが、彼の小説が空白性を軸としていると考えた理由。
これってすごく日本的なあいまいさだと思う。
そしてそのあいまいさ、厳密性の追求のなさ(のように見える)が蓮實重彦や柄谷行人や浅田彰をいらだたせている原因のように思える。彼らはいずれもそういう日本人のメンタリティに対して愛想をつかしている。
河合隼雄は、このあいまいさがやはり日本人の特徴であることを見抜いていて、それは彼の「中空構造日本の深層」という考え方とも一致している。いざなぎ、いざなみ的な神話的物語性。それがまったく意図せざるモノとして、村上春樹からつむぎ出されている。それに対して心理学的に一定の評価をしている。
<村上春樹の考える自己(セルフ)>
春樹:外界からセルフを押すんですね。外界からの圧力。それに対してエゴが押し返すというふうに捉えていくと、日本の戦後文学は以外にわかりやすく読める側面があったわけです。この力のいなしかたで、それぞれのスタイルができてくる気がしたんです。…。そういうふうに読んでいくと、やっぱり夏目漱石の時代とは変わってきてるんだなと実感できた。でも現在そこからまた更に、小説は大きく変わってきている。…
簡単に言うと、葛藤をフリクションとして捉えるのでなく、セルフという自我を含んだもうひとつ大きいエリアを自分の中に設定することで小説を書こうとしているんじゃないかと。

河合:このセルフの中には[it]をうまく込めてあるというふうに考えたらいいんじゃないでしょうか。エゴの周りにこれをこめてね。それがやっぱり自分と考えて、うまくやっているというふうな考え方をしてもいいし。
春樹:一種のトワイライトゾーンとして設定してるわけですね。
(『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』河合隼雄 新潮文庫)
この場合の[it]というのは、たとえば、出来ゴコロで万引きをしてしまった。なんで、それをやったのか自分でもよくわからない。そういうときの心情をあらわすときに「わては、それにやられましてん」というのがいちばんしっくりくる場合がある。その時、突然それがやって来た。だからやってしまったと。そういう意味の[it]で、フロイトでいう自我=イッヒに対する「エス(es)」。名前のつけようのないナニモノかのこと。
<ユングの考える自己(セルフ)>
自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。

自己は、意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。(『ユング心理学入門』河合隼雄 培風館)
2.描写について
<メタファー>
龍 :正確な文章を書く方が難しい。メタファーは結構、簡単といえば簡単なのね。
坂本龍一:メタファーはだらしないよね。
龍 :うん、なんだかだらしないね。比喩がうまい作家はいい文章を書くとかいうのは俺は違うとおもうね。
(「ヴァーチャルな恋愛と鎖国化のシステム」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)
<残酷な視点を獲得するために>
蓮實:描写してるとなにが起こるか。過不足ない言葉をやはりある程度は、重ねていきますよね。描写すべき対象にそぐわない言葉は排しながら、ある種の過不足のなさに近づいていきながら、描写を重ねていくうちに、その過不足のなさが不意に消えるんですね。例えばミシェル・フーコーが「図書館の幻想」ということを言っていて、図書館というのはあらゆる知が過不足なくあるところなんだけれども、それに必死に、というかほとんど偏執狂的にその過不足のなさにグイグイ入りこんでいくと、ある種の「幻想」に至る。正当な言葉遣いに徹していると、ふとその正当さが超えられてしまうということが描写の原理じゃないかと思います。どこがで描写されている対象とは違ったものになっちゃう。これだけの言葉を連ねれば、これだけのことがわかるはずだという、これをどこかで超えてしまう。
蓮實:(『五分後の世界』の話)…。それとほとんど同時に読んだのが村上春樹氏のもので、これは本当に駄目でしたね。
龍:『ねじまき鳥のクロニクル』ですか?
蓮實:この人は、小説は今後書けないんじゃないかという気がしますね。
龍:僕も一種、薄ら寒いものを感じましたけど。
蓮實:僕は、はじめから村上春樹は小説家ではないという理由のない確信がある。何か違うことをしたいと思ってるのに、この人はこれをやっているというね。だから『ねじまき鳥』を読んで、自分は間違ってなかったという感じがしたんですね。何をやりたいんでしょうね、あの人は。
龍:春樹さんのことはちょっと置いておくとして、…
(「残酷な視点を獲得するために」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)
3.村上春樹の空白性について
<まとめ>
村上春樹の小説の場合、大した通過儀礼もなく、あっちの世界へ行き、こっちの世界に帰って来る。でも帰ってきたときには、もうなにかが損なわれている。あるいはなにかが大きく変容してしまっている。なにが原因かは読者にはまったくわからない。なぜそれが損なわれてしまったのか。なぜ変容してしまったのか。その過程がまったく見えない。どうしてそうなってしまったのか。まるで彼の比喩のようで、なんとなくわかるような気がする。けど、本当のところは、まったくわからない。ぼんやりとしたトワイライトゾーンをはさんで、エゴと外界が存在している。コンフリクトがないままに、結果が提示される。
それが、彼の小説が空白性を軸としていると考えた理由。
これってすごく日本的なあいまいさだと思う。
そしてそのあいまいさ、厳密性の追求のなさ(のように見える)が蓮實重彦や柄谷行人や浅田彰をいらだたせている原因のように思える。彼らはいずれもそういう日本人のメンタリティに対して愛想をつかしている。
河合隼雄は、このあいまいさがやはり日本人の特徴であることを見抜いていて、それは彼の「中空構造日本の深層」という考え方とも一致している。いざなぎ、いざなみ的な神話的物語性。それがまったく意図せざるモノとして、村上春樹からつむぎ出されている。それに対して心理学的に一定の評価をしている。
日記
朝のフランス語講座。
からの
白湯ラーメン。

チャーシューとろとろ@

で、TowerRecord近鉄パッセ店。

買う。
シングルは買わなかったよ。
2枚で15%オフってレジで重ねて言われても…
関係ないけど、下の星野書店で16:30から、山田詠美のサイン会らしい。
ちょっとお顔を拝見したかったが、そこまで待てない、
そして、ひそかにBOMB FACTORYの棚をチェック!!!

ボムのベストが先週から少なくとも3枚は売れてた!!
棚から減ってた。G4Nファンかな
ライブの威力だね。あっ!そういえば…
ドラムのSHIRAちゃんがめずらしくまじめに
紹介記事を書いてたよ、どーしたんだ!!!それか?それなのか?
あと、レジで冊子もらった。

浅井健一じゃん。おなじくブランキーの照井氏と。PONTIACS?
11月10日(水)にアポロシアターでライブだと。
…チェック!!あ、売り切れっぽい。さすが。。
今日もいい天気。
からの
白湯ラーメン。

チャーシューとろとろ@

で、TowerRecord近鉄パッセ店。

買う。
シングルは買わなかったよ。
2枚で15%オフってレジで重ねて言われても…
関係ないけど、下の星野書店で16:30から、山田詠美のサイン会らしい。
ちょっとお顔を拝見したかったが、そこまで待てない、
そして、ひそかにBOMB FACTORYの棚をチェック!!!

ボムのベストが先週から少なくとも3枚は売れてた!!
棚から減ってた。G4Nファンかな
ライブの威力だね。あっ!そういえば…
ドラムのSHIRAちゃんがめずらしくまじめに
紹介記事を書いてたよ、どーしたんだ!!!それか?それなのか?
あと、レジで冊子もらった。

浅井健一じゃん。おなじくブランキーの照井氏と。PONTIACS?
11月10日(水)にアポロシアターでライブだと。
…チェック!!あ、売り切れっぽい。さすが。。
今日もいい天気。
Autumn In New York - ニューヨークの秋
村上春樹の『走ることに~』で、ニューヨーク・シティ・マラソンは大きな位置を占めるのだけど、ニューヨークを訪れるたびに、ヴァーノン・デュークの『ニューヨークの秋』を思い出すと。
あてなく夢見る人々はただ
その蠱惑の光景にため息をつくだろう
それがニューヨークの秋
私はまたここに戻ってきた
Dreamers with empty hands
May sigh for exotic lands
It's autumn in New York
It's good to live again
春樹氏の訳?
日本語って…ノロい。ていうか訳だから?
あと、映画の字幕でもたまに思うのだが、詩だと致命的になにかが欠落する。
ように思える。
曲は知らない。
ただ、empty handsとexoticで、スティングの
Englishman In New Yorkを思い出した。自分が異邦人であることを英国人に感じさせる街ニューヨーク。。寒そう。
ずいぶん昔、夏に一回だけ行ったことがある。天気がよくて楽しい街だった。
人も含めて、秋や冬にしか見せない景色というのはどこの土地にもあるってことか。
それはそのときに行かないとわからない。
『ニューヨークの秋』はジャズのスタンダード・ナンバーで、作詞は誰?
ビリー・ホリデーや
フランク・シナトラやいろんな人が歌っている。
雰囲気があっていい曲ですね…秋って感じ。
だから、こういう訳なのね…バカだなおれ。
秋はいいらしいニューヨーク。。
やっぱり一回こっきりの旅行者にはわからんのだ…悲しい。
ヴァーノン・デュークは、本名をヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ドゥケーリスキーと言い、ロシア帝国ミンスク省のパラフィアノヴォ生まれだそうだ。なげー。移民した異人さんね。で、ジャズ作曲?むむぅ。
ちなみに、原曲では
It's good to live it again
となっていて、わざとitを外しているらしく。本文のエッセイの内容と絡んでいる?自分なりの解釈はあるが、合っているかどうかは不明。
あと、sigh forは、long forと同意で「憧れる」の意だと。これもわざとこんなふうに訳してるっぽい。これも本文に絡めて。
こういう細かいトラップ、村上春樹氏らしく。
調べなかったら気付かなかった。まったく…。
短編じゃないんだから勘弁してほしい。
これ以外にも仕掛けがあるのかもだけど。。オレニハワカラン
(empty handにも? それだと予言になっちゃうし、考えすぎか。一度ハマると疑心暗鬼になる←めんどくさい性格!)

一応全部読み終わった。
まあ、読んでてトラップくさい違和感があったのはここだけだったのでここだけだと思うのだが、さすがに今は読み返す気力はない。面白かったけど。
あ
、そういえば、『中国行きのスロウ・ボート』…
あー、これは日本語の訳だけだ。ふー。
いや、これも多分なにかある。それについてはまた。←ばっくれ
あてなく夢見る人々はただ
その蠱惑の光景にため息をつくだろう
それがニューヨークの秋
私はまたここに戻ってきた
Dreamers with empty hands
May sigh for exotic lands
It's autumn in New York
It's good to live again
春樹氏の訳?
日本語って…ノロい。ていうか訳だから?
あと、映画の字幕でもたまに思うのだが、詩だと致命的になにかが欠落する。
ように思える。
曲は知らない。
ただ、empty handsとexoticで、スティングの
Englishman In New Yorkを思い出した。自分が異邦人であることを英国人に感じさせる街ニューヨーク。。寒そう。ずいぶん昔、夏に一回だけ行ったことがある。天気がよくて楽しい街だった。
人も含めて、秋や冬にしか見せない景色というのはどこの土地にもあるってことか。
それはそのときに行かないとわからない。
『ニューヨークの秋』はジャズのスタンダード・ナンバーで、作詞は誰?
ビリー・ホリデーや
フランク・シナトラやいろんな人が歌っている。雰囲気があっていい曲ですね…秋って感じ。
だから、こういう訳なのね…バカだなおれ。
秋はいいらしいニューヨーク。。
やっぱり一回こっきりの旅行者にはわからんのだ…悲しい。
ヴァーノン・デュークは、本名をヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ドゥケーリスキーと言い、ロシア帝国ミンスク省のパラフィアノヴォ生まれだそうだ。なげー。移民した異人さんね。で、ジャズ作曲?むむぅ。
ちなみに、原曲では
It's good to live it again
となっていて、わざとitを外しているらしく。本文のエッセイの内容と絡んでいる?自分なりの解釈はあるが、合っているかどうかは不明。
あと、sigh forは、long forと同意で「憧れる」の意だと。これもわざとこんなふうに訳してるっぽい。これも本文に絡めて。
こういう細かいトラップ、村上春樹氏らしく。
調べなかったら気付かなかった。まったく…。
短編じゃないんだから勘弁してほしい。
これ以外にも仕掛けがあるのかもだけど。。オレニハワカラン
(empty handにも? それだと予言になっちゃうし、考えすぎか。一度ハマると疑心暗鬼になる←めんどくさい性格!)

一応全部読み終わった。
まあ、読んでてトラップくさい違和感があったのはここだけだったのでここだけだと思うのだが、さすがに今は読み返す気力はない。面白かったけど。
あ
、そういえば、『中国行きのスロウ・ボート』…あー、これは日本語の訳だけだ。ふー。
いや、これも多分なにかある。それについてはまた。←ばっくれ