試論 村上春樹の空白性について | 象の夢を見たことはない

試論 村上春樹の空白性について

1. 村上春樹の自己(セルフ)について

<村上春樹の考える自己(セルフ)>
春樹:外界からセルフを押すんですね。外界からの圧力。それに対してエゴが押し返すというふうに捉えていくと、日本の戦後文学は以外にわかりやすく読める側面があったわけです。この力のいなしかたで、それぞれのスタイルができてくる気がしたんです。…。そういうふうに読んでいくと、やっぱり夏目漱石の時代とは変わってきてるんだなと実感できた。でも現在そこからまた更に、小説は大きく変わってきている。…
簡単に言うと、葛藤をフリクションとして捉えるのでなく、セルフという自我を含んだもうひとつ大きいエリアを自分の中に設定することで小説を書こうとしているんじゃないかと。

$ニャンちゅうなブログ-春樹のセルフ

河合:このセルフの中には[it]をうまく込めてあるというふうに考えたらいいんじゃないでしょうか。エゴの周りにこれをこめてね。それがやっぱり自分と考えて、うまくやっているというふうな考え方をしてもいいし。
春樹:一種のトワイライトゾーンとして設定してるわけですね。
(『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』河合隼雄 新潮文庫)

この場合の[it]というのは、たとえば、出来ゴコロで万引きをしてしまった。なんで、それをやったのか自分でもよくわからない。そういうときの心情をあらわすときに「わては、それにやられましてん」というのがいちばんしっくりくる場合がある。その時、突然それがやって来た。だからやってしまったと。そういう意味の[it]で、フロイトでいう自我=イッヒに対する「エス(es)」。名前のつけようのないナニモノかのこと。

<ユングの考える自己(セルフ)>
自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。

$ニャンちゅうなブログ-ユングのセルフ

自己は、意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。(『ユング心理学入門』河合隼雄 培風館)

2.描写について

<メタファー>
 :正確な文章を書く方が難しい。メタファーは結構、簡単といえば簡単なのね。
坂本龍一:メタファーはだらしないよね。
 :うん、なんだかだらしないね。比喩がうまい作家はいい文章を書くとかいうのは俺は違うとおもうね。
(「ヴァーチャルな恋愛と鎖国化のシステム」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)

<残酷な視点を獲得するために>
蓮實:描写してるとなにが起こるか。過不足ない言葉をやはりある程度は、重ねていきますよね。描写すべき対象にそぐわない言葉は排しながら、ある種の過不足のなさに近づいていきながら、描写を重ねていくうちに、その過不足のなさが不意に消えるんですね。例えばミシェル・フーコーが「図書館の幻想」ということを言っていて、図書館というのはあらゆる知が過不足なくあるところなんだけれども、それに必死に、というかほとんど偏執狂的にその過不足のなさにグイグイ入りこんでいくと、ある種の「幻想」に至る。正当な言葉遣いに徹していると、ふとその正当さが超えられてしまうということが描写の原理じゃないかと思います。どこがで描写されている対象とは違ったものになっちゃう。これだけの言葉を連ねれば、これだけのことがわかるはずだという、これをどこかで超えてしまう。
蓮實:(『五分後の世界』の話)…。それとほとんど同時に読んだのが村上春樹氏のもので、これは本当に駄目でしたね。
:『ねじまき鳥のクロニクル』ですか?
蓮實:この人は、小説は今後書けないんじゃないかという気がしますね。
:僕も一種、薄ら寒いものを感じましたけど。
蓮實:僕は、はじめから村上春樹は小説家ではないという理由のない確信がある。何か違うことをしたいと思ってるのに、この人はこれをやっているというね。だから『ねじまき鳥』を読んで、自分は間違ってなかったという感じがしたんですね。何をやりたいんでしょうね、あの人は。
:春樹さんのことはちょっと置いておくとして、…
(「残酷な視点を獲得するために」@『対談集 存在の耐えがたきサルサ』村上龍 文春文庫)

3.村上春樹の空白性について

<まとめ>
村上春樹の小説の場合、大した通過儀礼もなく、あっちの世界へ行き、こっちの世界に帰って来る。でも帰ってきたときには、もうなにかが損なわれている。あるいはなにかが大きく変容してしまっている。なにが原因かは読者にはまったくわからない。なぜそれが損なわれてしまったのか。なぜ変容してしまったのか。その過程がまったく見えない。どうしてそうなってしまったのか。まるで彼の比喩のようで、なんとなくわかるような気がする。けど、本当のところは、まったくわからない。ぼんやりとしたトワイライトゾーンをはさんで、エゴと外界が存在している。コンフリクトがないままに、結果が提示される。
それが、彼の小説が空白性を軸としていると考えた理由。
これってすごく日本的なあいまいさだと思う。

そしてそのあいまいさ、厳密性の追求のなさ(のように見える)が蓮實重彦や柄谷行人や浅田彰をいらだたせている原因のように思える。彼らはいずれもそういう日本人のメンタリティに対して愛想をつかしている。

河合隼雄は、このあいまいさがやはり日本人の特徴であることを見抜いていて、それは彼の「中空構造日本の深層」という考え方とも一致している。いざなぎ、いざなみ的な神話的物語性。それがまったく意図せざるモノとして、村上春樹からつむぎ出されている。それに対して心理学的に一定の評価をしている。