象の夢を見たことはない -15ページ目

Stock4500

 

 

高校生用の単語帳は安くてコスパがいい。

TOEICとか英検とかの半値とか下手すりゃ1/3の価格で買えるし、正直それらの単語帳買うくらいなら、と思えてしまう。英検なら準一級くらいならこれでいけそう。

 

だがしかし、英語の先生はこれを勧めたがるのはわかるけど、高校生には一部評判は悪いかも。滋味があって、噛めば噛むほど的なのだが、そしてそれが先生が唸る部分なのだが、即効性がないというか、この単語ホントにいる?っていう単語がやたら多い。

 

実は、ここ数年で大学入試の問題も大分変わってきていて、私大の入試問題だと、経済学部は経済学系の専門雑誌だったり、そっち系のトレンドだったり、学部ごとに色が出始めてきていて、昔ながらのっていう単語帳では押さえられてない単語が散見されるようになってきていて。

 

そういう単語も加味して入れている。なので、シス単とかターゲット1900とか使って英単語を覚えてきた高校3年生が見たらちょっとひくレベルの異色な単語の羅列が。

 

で、一番の問題は情報が高校生には多すぎなのだ。ただでさえ、数学やら古文やら世界史やら物理やらで時間がない高校生がいちいち「記憶ブースター」とかいう欄まで読めないし、とにかく一定レベルまで実力上げてから、さらに時間があればっていう使い勝手の良さがない。

 

が、受験という縛りがない先生にとっては読み物として面白い。おおっっていう発見が随所にあって。そういうことだったのか的な。それは鉄壁とはまた違う。

鉄壁の場合は、載っている単語は実はシス単とかターゲットとかとさほど差がないのだが、派生語とか関連語、反意語とかがまとまって網羅的な樹を成しているので、語源とか接尾、接頭語なども含め、語学として面白いし、興味が出るという点での読み物として面白いのだが、Stockは、英語の雑学としての面白さがある。

 

なので大人の人で、英語が好きな人には読み物として、TOEICの金フレみたいなニュアンスで、面白いと思う。たかだか、1000円くらいで買えるので、もう一回単語を覚えなおしてみようかと思っている人にはおすすめかも。もっともStock3000のあとにやるレベルの単語帳なので高校1年生とか中学生には全く勧められないけれど。

 

かくかく

二軒裏の無人の人家に鹿がいるとオヤジが田んぼの見廻り帰りに。

「こんな角をしたお前よりでかい鹿」だと。トムとジェリーでよくある角の表現だ。

時刻は夜の2時。ぜひ行けとの暗示だったので、懐中電灯を持って見に行った。

 

懐中電灯を持っていけというのもオヤジの指示だ。まあ、人を試すのもキャツの趣味なのだが、そこまで言われたら見に行かざるを得ないわな。

 

言ってみると、件の家の前の家のモーションセンサーライトが灯っている。

まだ、その辺りにいるという証拠だ。

なかなかのビクビクもので辺りを照らしたが、いない。

みかんの木のそばにいたらしいのだが、肝心のみかんの木の位置などうろ覚えである。そんなに近隣の家の庭に興味がない。

 

結局、見つからなかった。

 

日本の小麦

前々回だったかに日本の小麦の話をしたのだが、なぜ少量だと困るのか書いてなかったのでここで。これは農大時代の県職(要は農大の先生)の話のうけうりなのだが。。

 

小麦は製粉会社によって製粉されるのだが、その製粉のロットがでかいのだ。

自分が子供の頃は、自分の住んでいる地区ではないが、それを含んでいる町内にうどんを作っている個人があって、水車なんかを利用して小麦を挽いていた。

 

個人レベルなのでロットとしては小さいため、個人の農家の少ない量の小麦でも切りよく、その個人分の小麦から作ったうどんとして作り切りすることができたが、そういう個人は平成くらいで消滅している。

 

結局、残るのは大きな製粉会社だけなのだが、そういう会社はロットがでかいので個人対応はしてくれない。なにせ、機械がでかいので、一度に製粉できる量がハンパない。ハンパないのは、大量生産のための低価格化としては必須項目なのでしょうがないのだが、結局その1回の処理の中には複数の農家の品質のバラバラな小麦を混ぜて、一回のロットとして処理せざるをえない。

 

必然的にモノは均質化され、旨くも不味くもない小麦製品が市場や家庭で使われる。今、時代は多様性を求めることを推奨しているが、実態というのはそんな風な経済原理に支配されている。実は米も、そうなりつつあって、モノの値段の低価格化を目指す市場原理と多様性というのは相容れない。

 

当たり前のようにわかっていた話だが、だがしかし、結局のところ多様性というのは、個人が己の力で成し遂げることでしか成立しえないし、そんなものはその人の経験によってしか得られない何かを確実に孕んでいる。共有できない何かというのが多様性のもう一つの本質であって、それが最も大事なことだろう。共感などは要らないし、逆に入りえない世界がその究極のモデルかもしれない。が、それが並列に存在する。だとしたらすばらしい世界だし、すごいことだ。

 

みんなの願いは同時には叶わない。

 

メレ山メレ子氏のブログだったかで、東北の遠野の旅行記があって、カッパ淵とかの記録に混じって、卯子酉様の写真が載っていた。あまりにも禍々しい赤色の布を見たとき、写真ながら、恐ろしく生々しい念を見たような気がして、腕の毛が逆立つような気がした。

 

当然、恋敵同士の布が掛けられることもあろうということに想いは至るわけで、果たしてそれらは同時にはかなわないと。

 

多様性とかダイバーシティとか、それを肯定しようというのはまだわからないでもないが、それらが訪れることが正義であると誇張する世界観は正直怖い。朝の情報番組に出ていたはるな愛を見ていて守秘義務などなんにも考えていないんだろうなと思いつつ。すべては、多様性のもとに破壊されうるし、それであって然るべき世界を望んでいるのに、答えはあさっての方へ行ってしまっている感が恐ろしい。

 

だが、世界が詩であることを前提とするなら、あるいは世界が詩であるということを受け入れろというのであるなら、この年になってやっと、「ああ、そういうことだったのか」とわかる気がして来た。老いた身をもって、しみじみと思う。そういうことを言っているのかと。そういう深い話だったのね、トレンドとしてのそれって。

 

それならば、賛成せざるを得ない、醜い老いた身であるものとして。

世界は詩である。そういうことであると。

詩を紡ごうと。それぞれの詩を紡げと。ありがたい話であることだ。

 

 

 

実装について。

特に英語学習者を増やしたいわけではない。

 

 

インドにいたとき、それこそ、ネパールに住んでいた日本人のコとか、自分のあとにインドに来て、インド人の家庭教師を雇って、カナラ語(カンナダ語)を学んだコとかがいて。それなりにヒンディー語とかも理解したりする。単語レベルだけれど。

 

そういう片言レベルでも、結構死活問題で、列車で旅しているときに、誰かがしゃべる言葉とか、その時、その場で状況に応じて判断して動けるか動けないかというのは、そのあとの自身の場所というか在り様というかに直接かかわって来る。

 

それを意識するから、海外旅行に行った後は、英語を勉強しなくちゃとか、フランス語を勉強しなくちゃという気に一時的になる。

だが、行ったあとのそんなモチベーションというのは、大抵日本の空港についたときくらいまでで、空港を出るリムジンバスに乗ると消えてしまうのが常である。

 

その場所に居続けること。何かを習得するのに一番大切なのはモチベーションなのだろうけど、それもその場所に居続けることで維持できるし、だがら離脱してはいけない。そして、居続けるために必要なことが実装。

実装というのは、そういうふうにして作られる、あるいは作るものであって、現場でしか醸成されない。楽な方法など実はない。抽象化というより、実はニックさんがやっているのは具体化なのかもしれないとふと思った。

抽象化するということは、非常に大切なことだし、勉強するときには、それが成績を上げる鍵となってくるのだけれど、言葉というのは、具体的なものであるというのを忘れてはいけないんだと。これからの時代、そっちのほうが大切になる気がする。

to 不定詞と動名詞

東京書籍の中学校の英語の教科書が劇的に変わっている。

 

数学の教科書はそうでもないらしい。

そういう足元での変化っていうのは、教育界では重要な話だと思うのだが、教育の世界でも、英語を専門としない先生たちには伝わってはいない。

 

英語というのは道具でしかないのだが、道具というものが本質的なOSを根本的に変える時代がやってきているのかもしれない。スマホやネットが生活だけでなく、意識も変えたように。

 

意識がすべてだと思っていた西洋の学問が、無意識というそれを含む全体性に支配されているという事実に気づいたのが20世紀であるなら、他者のそれを環境因子として、意識と無意識という個人の在り様を外部が変換していくことまで含めて考えていく必要があるというのが、21世紀の学問の在り様なのか。

 

あまりに大きく出たが、要は環境によって、私たちのOSだと思われていた意識が変わる。要は、意識はアプリケーションレベルのものでしかないので、そんなものに拘泥する必要はなく、気分であろうが、感情であろうが、そんなものにこだわっているのはあほらしい。意識は変えられるし、そうしなければ生き残れない。

 

変化のスピードが速くなっている現在には、実装を変えていくことが肝心であって、ますます現地現物主義っていう、ある種20世紀の遺物であるトヨタ方式の金言が重要になっていく世紀になる。

 

 

 

なんていうふうに、全然関連のない事象まで帰納してしまうほどに、最近読んだ本にモロ影響されて考えてしまっている。

 

 

やばいね、この本。

すぐ、回答を欲しがる欲しがり屋さんの人にはお勧めしないけれど、考えるヒントを常に探している人にはおすすめ。

 

ちなみにTO不定詞は未来志向で、動名詞は現在・過去志向というのは最近定番のYOUTUBE 英語屋さんの話ではあるのだが、動名詞自体には、物事を抽象化するという機能もあって、「~すること」という抽象化事象については未来であろうが、現在であろうが、関係ない的な差し込み記事もブレークスルーなんかの参考書には書いてあるわけで、流行りが必ずしも正解ではないのは、若い「自己中・セルフ世代」への年寄からの反語だったりもするし、その逆でもあったりする。。まあ、そのあたりもこのATSU君みたく現地・現物でちゃんと修正していったりするのが、最近のコたちの在り様なのかもしれないがそうであればいいなあと。死にかけのじじいの戯言。