ショック・オブ・ダリ
笑かしにきてるダリ。
見たことないんだけど、軽すぎ。
もはや、ダリとかピカソだとか、有名な作家の絵は記号化している。実際にモノを見に行かないと実体がわからない。見に行っても記号にしか見えない絵は、ホンモノではなく。この展示会のポスターの絵なんかその典型だと思う。
そう言えば、ダブルイメージだった。
あるイメージを執拗に眺めていると全く別のものに見えてしまう現象を、妄想や記憶という無意識の世界の反映ととらえて積極的に絵画制作にとりいれた。 この方法によって生みだされた、ひとつの形から複数のイメージが浮かぶ「ダブル・イメージ」が、ダリの想像世界を形作った。とか。
映像がエコーすると書いてあった解説もあり。エコーねえ。強い心的ダメージを受けたときに、何かが二重化するというのは村上春樹的なのだけれど、なんらかの喪失によってそういうのが誘発されるんだろうか。母の喪失とか、直子の死とか。
村上春樹もそうだけど、正直よくわからない。
だが、やっぱり天才だわと。物の見切り方。その切れ味。そこでそうやっちゃうんだというあり得なさ。そういう絵もあり。
それに比べて、影響を受けた日本の作家の絵は、ダリの表現に取り込まれてしまったものとか、逆に触発されすぎていたり、ある種のいびつさが見えてしまう。
気になったダリの作品
パッラーディオのタリア柱廊
まじかで見ると足、前列の右の白い足とか、壁の上部の物質の透きとおり具合。
肉体表現の独自性というのが天才の条件の一つ。エゴン・シーレとかジャコメッティとか。
日没大気の寓話
雲を接近して眺める。グレコ風味の天界部分も接近して眺めるべし。あと肉体のあばら骨のデフォルメ具合。実物をみると唸る。ひそかに、テオ・ヤンセンの風の力で動くアレみたいでくすっとひと笑い。
炸裂する頭部
線のスピード感。とにかく線がエグい。線だけで作る立体の造形具合。面と線とは?
反陽子的聖母被昇天
今回の展覧会の白眉。
しげしげと歩み寄ってみると、すごいとしか言えない。画面を伝って眺めていくと、異物が現れて、それが別の部分からの飛来物だったり。接近して眺めていると、もはや異次元に飛んで行きそうになる。3次元的な遷移の具合が2次元に現れているのだけど、なんでこんな絵を思いつくんだろうと。
この絵の手前に飾られていた絵も、作品名がわからないのだが、破墨かたらし込みみたいな技法を使っているのか、そういう部分があって。もしかして水墨画も研究していたんだろうかと。いろいろな発見があった。
「蛸」 1963年 インク・紙 公益財団法人諸橋近代美術館 が裏の白眉だと個人的には思った。吸盤やばい。描く・描かないの見切り方やばい。この人の目のカメラ具合、ヤバすぎる。
番外としては、オーダスもポップアート臭くて、シャネルの瓶の写真をコラージュしているのが、ウォーホル意識してるのか、お金大好きで金満主義のダリっぽくて面白かった。そういえば、諸橋近代美術館の館長ブログみたいなの三重県立美術館の館長もやればいいのに。
写真の意味 ライブの意味
もともとは、アポロシアターという名前であった。
ニューヨークのハーレムにあったR&Bのメッカと同じ名前である。
会社が新栄にあって、先輩が見つけてきた。1990年か1991年の頃だったと思う。
ちょっと飲みに行こうとなって、最初に店にはいったときは、入り口から地下へ続く階段には、黒人のR&BのLPが飾られていた。Wilson Pickettとかそんな感じだった。
ドアをあけたら、ステージとテーブル、バーカウンターがあった。
ライブが目的ではなく。普通にお酒が飲める店だったように思う。
それから、しばらくしたらその店はなくなり、ライブハウスになっていた。
そこに足を再び踏み入れたのは、10年以上たってからのことだ。
HATE HONEYのラストツアーも、SHACHIのラストツアーもここで観たし、UNLIMITS、G4N、BYEE THE ROUND、WHITE ASH,QUATTLO、アルカラ、NACANO,→SCHOOL←、aquarifa、33IVとか、いろいろな演者をここで観た。
そのとき、その場所で。
だがそれは一瞬にして消え去ってしまう。
想い出というのは、あるいは記憶というのは不確かなもので。
その不確かさというものに気づくのは、若かった頃からだったのか、年をとってからだったのか。
夢に出てくる知り合いはほとんど自分が知っていた若い頃の姿なのだが、場所の記憶というのもそうなのだろうか。あるいは、自分が知っている何かを理想化して覚えているものだろうか。
写真は残しておくべきだ。写真は、嘘をつかない。
写された細部に想い出の神が宿っている。
狩り
狩りという。
もともと、人は狩猟採取民族だったと。
狩りをし、森の木の実を食べ、移動しながら生きてきたと。
その後、小麦やら稲やらを育てて決まった土地に定住する民族になったのだと。
だが、本質は狩りをする動物なのだと。
果たして狩りをする種族として生きながらえたのか、作物を育てることで生きながらえたのか。どちらかが死に絶えて、どちらかが種として残ったのか。あるいはそれが混在しつつの在り様なのかとか。どちらかが先祖返りで強く現れるのかとか。
正直そんなことはどうでもよい。
自分がどうであるかは、直観に、あるいは直感に従うべきだ。
猫を飼っている。
人は世代によって、特化した能力は異なれど、総量としての人というのは変わらない。そういうことを村上春樹は「職業としての小説家」で言っていた。小林秀雄もどこかで同じようなことを言っていた記憶がある。
進化というのは、果たして人間だけにとってのものではなく。そして、それは進化という言葉に潜む自己中な信仰でしかないとすれば、動物と人とは総量として変わらないとも言える。
猫を見ていて思う。あの個体に潜む直感力は、人をはるかに凌駕している。何日もどこかに出かけていることが冬場にある。ケロッとした顔で帰ってくるときもあれば、足をひどく咬まれてビッコをひいてずぶ濡れで帰ってきたこともある。
果たして、落合陽一も村上龍もそんなふうに瀕死で家に辿り着いたことがあるのだろうか。狩猟民族起源説を唱える彼らは、怪しいもんだと思う。
世界で通用する人がいつもやっていること
決まった儀式を行う
食べ物で脳をチューンナップする。
よく寝る。
自己診断書を作る。
欠点を悠々と受け止める。
ニコニコしながら主張する。
敵を味方に変えていく。
空気は読まない。
流れ星に願い事が必ずできる。
嫌いな仕事は他人に振る。
脳内に検索タグを貼る。
適度なストレスを与える。







