ゼラチンシルバープリント
美術館の写真展に行くとよく展示されている写真の説明文の中に『ゼラチンシルバープリント』と書いてあって。最初はいまいちピンとこなかった。というか、美術というのは一般的にそのものにあった「モノの見方」というのがあるらしく。たとえば、陶磁器にしても、書にしても、多分音楽もそうだとおもうのだけれど、何度も何度も繰り返し見たり、聞いたり、それもいろんなものをできるだけ多く。それを繰り返すことによって目や耳が出来てくる。それをしないで、いきなり一流のモノをみたり聞いたりしてもピンとこない。そういう部分がどうしてもある。
その道筋はさまざまで、それぞれの好みというものはあるけれど、蛇の道は蛇的に極められたものというのは、ものを多く見るにしたがっておのずと定まってくるように思う。たぶんそれは人そのものの動物的な機能というか生物的な基盤の有り様というか、脳神経が分化し伸びていく有り様に直接関わり合っていて、個体差を超越した領域に根ざしているのだろう。

京都で桜を見る。あるいは紅葉を見る。庭を見る。建物を見る。あたりまえのようにそこに存在する一流のモノというのは、さまざまな職種の人の絶え間ない努力によって成り立っている。それぞれの職種でそれぞれに極められるべき道があって、そういう価値観の体系によって成立していて。
それは時代とともに変遷するのだが、過去に比べて今のほうがどうしても落ちるというか、もうなくなってしまって再現しようがないものとか。それは、一つの職種だけで成り立っているものではなく、その当時の技術体系の中でしか生まれなかったものだけに、一人の人間が、あるいは一握りのグループの人達だけでは再現しようがないなんてものがいくつもいくつもあって。
ゼラチンシルバープリント。
今回観に行った石元泰博写真展にも多く、いままでゼラチンシルバープリントってよくわからなかったのだが、手元の図版をみて明らかにモノが違うのはそのせいだったというのが今はっきりとわかった。モノクロなのだが、美術館で見たときは写真の中にある苔とか石とか、そのもの自体があわい光をもっているように見えて、よくみると光のつぶつぶが見えてくるようなそんな印象だったのだが、図版をみるとあきらかにのっぺりしてしまって、目に風景が刺さってこない。だから、ぜんぜん心に響いてこない。
ゼラチンシルバープリントが、銀塩写真といわれるのは、そういう特性からで、光に反応した銀粒子をぶちまけたような、あるいはそれが目を通してはじめて風景として心の中で像を結ぶというか、ある意味印象派の網膜結合的なのだけど、それが銀粒子のつぶつぶによって、目に刺さってくるというか。
「20世紀後半はモノクロームのゼラチン・シルバープリントのクオリティーが頂点を極めた時代」だったとのことで、デジタル化しようとしても今の技術ではできないらしく。そういうことってほんとに山ほどあるのだけれど、進化という自尊心に心地よい言葉ですべて覆い隠されているのがあまりにも愚かなことだと最近よく思う。
その道筋はさまざまで、それぞれの好みというものはあるけれど、蛇の道は蛇的に極められたものというのは、ものを多く見るにしたがっておのずと定まってくるように思う。たぶんそれは人そのものの動物的な機能というか生物的な基盤の有り様というか、脳神経が分化し伸びていく有り様に直接関わり合っていて、個体差を超越した領域に根ざしているのだろう。

京都で桜を見る。あるいは紅葉を見る。庭を見る。建物を見る。あたりまえのようにそこに存在する一流のモノというのは、さまざまな職種の人の絶え間ない努力によって成り立っている。それぞれの職種でそれぞれに極められるべき道があって、そういう価値観の体系によって成立していて。
それは時代とともに変遷するのだが、過去に比べて今のほうがどうしても落ちるというか、もうなくなってしまって再現しようがないものとか。それは、一つの職種だけで成り立っているものではなく、その当時の技術体系の中でしか生まれなかったものだけに、一人の人間が、あるいは一握りのグループの人達だけでは再現しようがないなんてものがいくつもいくつもあって。
ゼラチンシルバープリント。
今回観に行った石元泰博写真展にも多く、いままでゼラチンシルバープリントってよくわからなかったのだが、手元の図版をみて明らかにモノが違うのはそのせいだったというのが今はっきりとわかった。モノクロなのだが、美術館で見たときは写真の中にある苔とか石とか、そのもの自体があわい光をもっているように見えて、よくみると光のつぶつぶが見えてくるようなそんな印象だったのだが、図版をみるとあきらかにのっぺりしてしまって、目に風景が刺さってこない。だから、ぜんぜん心に響いてこない。
ゼラチンシルバープリントが、銀塩写真といわれるのは、そういう特性からで、光に反応した銀粒子をぶちまけたような、あるいはそれが目を通してはじめて風景として心の中で像を結ぶというか、ある意味印象派の網膜結合的なのだけど、それが銀粒子のつぶつぶによって、目に刺さってくるというか。
「20世紀後半はモノクロームのゼラチン・シルバープリントのクオリティーが頂点を極めた時代」だったとのことで、デジタル化しようとしても今の技術ではできないらしく。そういうことってほんとに山ほどあるのだけれど、進化という自尊心に心地よい言葉ですべて覆い隠されているのがあまりにも愚かなことだと最近よく思う。
ジェネレーションギャップ
鎌倉。
近代美術館。
神奈川県立近代美術館鎌倉館。
ひっそりとしたこの美術館の佇まいが好きで。
鎌倉に行ったときに時間があれば立ち寄る。
近代美術というのは近頃は流行らないのかもしれない。
そういう微妙に時代に取り残された感じがよい。
モダンという時間が流れていたときに作られた。
そんな感じのハコ。
この前のトウキョウライブ遠征のときにここにも寄った。
初めてここを訪れたのは社会人1年目でそのときも写真展だった。
今回も写真展で、この日はあまり時間がなかったのだが、桂離宮とバウハウスというキーワードに惹かれて足がフラフラと。そういうときに生きた出会いはあるのだね。
石元泰博写真展 桂離宮 1953, 1954
開催期間 2012年4月7日~2012年6月10日
時間がないときにしかわからない良さというのがあるのかもしれない。
あせっているときほど濃密になにかを感じるというか。
会社の昼休みにヘッドホンで聞く音楽がみょーに心に沁みたりするのと似ているのか。
で、見終わって一階に下りた。
そこの景色にハッと。
映画『ノルウエイの森』、ロケでこの建物が使われたのだ。
うーむ、そうのなのだ。60年代のモダンさなのだ、ココ。
やはりあの映画のロケハンした人はタダものではない。
誰なんだろう?すごく知りたい。それはともかく。。
ギャラリーで展示されてた写真の図版が。印刷が間に合わなくて、でも予約はできるってことだった。もともと桂離宮の大きな写真が欲しかったのもあり図版を予約した。今日それが届いた。

廉価版で1400円だったのだ。安っ!
自分のすぐあとに外人さんがいて、予約というのがいまいちよくわからなかったらしく。すこしだけ話したのだが、だいたい勘のいい人というのはこちらに皆まで言わせない。自分の表現の拙さが浮き彫りになるかっこうで苦笑

で、図版を開いたのである。だが、…
そう、やはりあのとき現場で見たものとは違うのだ。
生きている時間のちからというのはすごい。
あるいはこういう見方もできる。
油絵の図版もたぶんそうなのだが、もしかしたら図版を見てから本物を見る。そういう順序で絵や写真や彫刻をみたら、そのホンモノがもつ質量を一生取り逃がしてしまうのかもしれない。
やはり美術の教科書というのはあまりよろしくなくて、特に今のような時代だと感覚で掴む前に頭で理解してしまうから、ホンモノを見たときにリアルな感動がなくなるというか。
世間では、今の日本のテレビの高画質化とか、グーグルのアートプロジェクトについて誤解しているんじゃないかと思うのだが、あれは見てる地平が違う。高度に技術を研ぎ澄ませていくと地平がまったく変わるポイントがあって。インフラや概念自体を変えてしまうことがある。
「クリスタルLED」「レーザー光」「4K」日本メーカーがめざすテレビの超高画質競争に未来はあるのか?
これはAR技術とはまったく違うベクトルをもっていて。
「仮想現実(VR)から拡張現実(AR)へ」というのがゼロ年代の日本社会の方向性だったんだけど、おそらくリアルな現実を体感するために人間自体が持つ能力を拡張させるというか、人がもつ生の感覚を研ぎ澄ませようという方向へ伸びていこうとしているように思える。それがたぶん2010年代の方向性なんだと思う。
ただ、そこを今の経営者が本当にわかっているかどうかが怪しく。すくなくともNHKの平清盛にああいうこと言う年代の人たちは、そういうことぜんっぜんわかってないんだろうねえ。正直もういらないんだけどあの世代。
だが、そういう年代に作られたのだ。この美術館。というか彼らの世代の前の人が作ったのだけど。坂倉準三(1901-1969)。結局、その後の世代、学生闘争で闘っていたのが菅直人とか。あの世代の人たちって、高度成長時代のすぐ後の世代で、消費だけしてた世代のような気がする。バブル期の自分はえらそーに言えないけれど。
近代美術館。
神奈川県立近代美術館鎌倉館。
ひっそりとしたこの美術館の佇まいが好きで。
鎌倉に行ったときに時間があれば立ち寄る。
近代美術というのは近頃は流行らないのかもしれない。
そういう微妙に時代に取り残された感じがよい。
モダンという時間が流れていたときに作られた。
そんな感じのハコ。
この前のトウキョウライブ遠征のときにここにも寄った。
初めてここを訪れたのは社会人1年目でそのときも写真展だった。
今回も写真展で、この日はあまり時間がなかったのだが、桂離宮とバウハウスというキーワードに惹かれて足がフラフラと。そういうときに生きた出会いはあるのだね。
石元泰博写真展 桂離宮 1953, 1954
開催期間 2012年4月7日~2012年6月10日
時間がないときにしかわからない良さというのがあるのかもしれない。
あせっているときほど濃密になにかを感じるというか。
会社の昼休みにヘッドホンで聞く音楽がみょーに心に沁みたりするのと似ているのか。
で、見終わって一階に下りた。
そこの景色にハッと。
映画『ノルウエイの森』、ロケでこの建物が使われたのだ。
うーむ、そうのなのだ。60年代のモダンさなのだ、ココ。
やはりあの映画のロケハンした人はタダものではない。
誰なんだろう?すごく知りたい。それはともかく。。
ギャラリーで展示されてた写真の図版が。印刷が間に合わなくて、でも予約はできるってことだった。もともと桂離宮の大きな写真が欲しかったのもあり図版を予約した。今日それが届いた。

廉価版で1400円だったのだ。安っ!
自分のすぐあとに外人さんがいて、予約というのがいまいちよくわからなかったらしく。すこしだけ話したのだが、だいたい勘のいい人というのはこちらに皆まで言わせない。自分の表現の拙さが浮き彫りになるかっこうで苦笑

で、図版を開いたのである。だが、…
そう、やはりあのとき現場で見たものとは違うのだ。
生きている時間のちからというのはすごい。
あるいはこういう見方もできる。
油絵の図版もたぶんそうなのだが、もしかしたら図版を見てから本物を見る。そういう順序で絵や写真や彫刻をみたら、そのホンモノがもつ質量を一生取り逃がしてしまうのかもしれない。
やはり美術の教科書というのはあまりよろしくなくて、特に今のような時代だと感覚で掴む前に頭で理解してしまうから、ホンモノを見たときにリアルな感動がなくなるというか。
世間では、今の日本のテレビの高画質化とか、グーグルのアートプロジェクトについて誤解しているんじゃないかと思うのだが、あれは見てる地平が違う。高度に技術を研ぎ澄ませていくと地平がまったく変わるポイントがあって。インフラや概念自体を変えてしまうことがある。
「クリスタルLED」「レーザー光」「4K」日本メーカーがめざすテレビの超高画質競争に未来はあるのか?
これはAR技術とはまったく違うベクトルをもっていて。
「仮想現実(VR)から拡張現実(AR)へ」というのがゼロ年代の日本社会の方向性だったんだけど、おそらくリアルな現実を体感するために人間自体が持つ能力を拡張させるというか、人がもつ生の感覚を研ぎ澄ませようという方向へ伸びていこうとしているように思える。それがたぶん2010年代の方向性なんだと思う。
ただ、そこを今の経営者が本当にわかっているかどうかが怪しく。すくなくともNHKの平清盛にああいうこと言う年代の人たちは、そういうことぜんっぜんわかってないんだろうねえ。正直もういらないんだけどあの世代。
だが、そういう年代に作られたのだ。この美術館。というか彼らの世代の前の人が作ったのだけど。坂倉準三(1901-1969)。結局、その後の世代、学生闘争で闘っていたのが菅直人とか。あの世代の人たちって、高度成長時代のすぐ後の世代で、消費だけしてた世代のような気がする。バブル期の自分はえらそーに言えないけれど。
ともだち
インド人の男同志というのは仲がよい。
というか正直あっちの人ではないのかと思うくらいである。
ふつーに肩を組むとかそういう感じ?

なのでふつーなのだ。
というかこういうわざとらしく話をしているところのポーズというのも得意だ。
記念写真も好きである。
しかも結構凝る。一人一人がいろいろポーズをつけたりする。
自分の父親(昭和10年代生まれ)のアルバムを見たことがある。
写真では男同志ひとつのマフラーでつながってたり。
無意味に恰好をつけてたり。
今みると結構笑えるのだけど、本人達は悦に入っている。
なんかみょーなほのぼの感?
そういうところ似ているのである。
この写真、でももう8年も前になるのか。
こんなところも今では変わって来てるのかもしれない。
だとするとなぜだか少し残念だ。
でもたぶんインドは変わらない。
…と思う。
というか正直あっちの人ではないのかと思うくらいである。
ふつーに肩を組むとかそういう感じ?

なのでふつーなのだ。
というかこういうわざとらしく話をしているところのポーズというのも得意だ。
記念写真も好きである。
しかも結構凝る。一人一人がいろいろポーズをつけたりする。
自分の父親(昭和10年代生まれ)のアルバムを見たことがある。
写真では男同志ひとつのマフラーでつながってたり。
無意味に恰好をつけてたり。
今みると結構笑えるのだけど、本人達は悦に入っている。
なんかみょーなほのぼの感?
そういうところ似ているのである。
この写真、でももう8年も前になるのか。
こんなところも今では変わって来てるのかもしれない。
だとするとなぜだか少し残念だ。
でもたぶんインドは変わらない。
…と思う。


