象の夢を見たことはない -144ページ目

Mansion

マンションっていうのは、海外では

A mansion is a very large dwelling house. U.S. real estate brokers define a mansion as a dwelling of over 8,000 square feet (740 m2).(from wikipedia)

であって。まあすごい豪邸を指すわけで。
インドから長期出張で来るコたちは、ウィークリーマンションだったり。
ライオンズマンションとか。マンションなわけである。
しかもご丁寧にライオンまで付いている。
ライオン、百獣の王なわけで。

そして来日。
あまりの部屋の狭さにがっかり。
あの落胆具合っていうのはほんと…
だいたい、どんな都市のどんなアパートメントでも海外へ出張となると日本のアパートなんかよりは断然広いわけで、こっちからお邪魔する場合はなにより広さに大満足。まあ、中身はうーん…と唸ることのほうが多いけど。

逆の場合は推して知るべし
死して屍拾うものなし

$ニャンちゅうなブログ-インドの週決めマンション
(おいらがインドの滞在時に住ませて貰ってたマンション)

いやー、なんとかなんないもんかねー。
まあ。いいんだけどさ。
長期出張から帰って、空港から自宅まで。
まず目についた街並みがあーいう感じだとね。

なんかがっかりするんだよ。
そんなわざわざ狭いように作らなくたっていいじゃん?と。
寄り添うことが苦手なB型。

花束

acari「花束」



名曲!。 全体的な音作りも我ながら良い仕事できたかと

深沼氏がこういうこと言うのもめずらしいかと。

たしかに。

出来たてだよ。

旬っていうのはその場で食べないとね。

同じ太陽を見ていた

SADE CHERISH THE DAY 



I CHERISH THE DAY
I CHERISH THE DAY
I CHERISH THE DAY


ヒューマン・ネイチャー

ツリー・オブ・ライフ』という映画を観ている。



内容とは別に映像がすごく綺麗なのだ。
自然とか宇宙とか。
本当に美しいものは人を拒絶すると。

特にこういう映像をみると思う。
人が生きていけない環境ほど綺麗に思えてしまう。

飛んで火にいる夏の虫というけれど、
そしてこういう宇宙なんかを観ると、そこに入ってしまったら死ぬのはわかっていて、でも惹かれてしまうわけで。虫だって死ぬのをわかってて入ってしまうのかもしれない。

タナトスではないとおもうんだけど、ではなぜなのか?
不思議だねぇ。

厳しい父親なのだ。そういう映画。
厳しさというのはそういうものなのだろうか。
なんかどこかで少し違うと思うのだけど
それってどこかに共通点はあるのだろうか?
たぶんそういう意味合いなのだと思う。

気高さとかね。孤高とか。
いろいろたぶんそういう美の基準というのがあるのだろうと。
あるいはそういう根本的な美のイデアみたいなものというか。
プラトン読んだことないけど苦笑

アレってなんなんだろうなあ。

ん、ちょっとまてよ。
逆に、汚いもの、醜いものというのはすべて人の中にあるということか?
なんかそんな気がする。あー、そんな気がする。
うーむ、そういうことなのかも知れないな。


<追記 5/20 22:26>
父性の美に対するもう一方の美というのは、母性の美で、生命の美というか。それは美ではなくて本質は愛しさだと思う。いのちに対する愛しさが美として認識される。育まれるもの。育むこと。そっちの方をより深く多く映像としてこの映画は描写している。

こういう映像だけで哲学を表現する映画というのははじめて観た気がする。一部で表現してる映画はあるけれど全編がそういうことを意図している。

日本人の映像感覚の稚拙さをこの映画を観て改めて思う。陰影だとか光そのものだとか。手や耳を透かす光。人の肌の色が一色ではなく油絵のように青だとか緑だとか光の具合でみえることとか。あいまいなものをあいまいなまま、それでもきちんと捉える。

日本人にはそういう文化がなかった理由はそういう感覚が未分化なままだから?もしくは遺伝的にそういう能力が欠落している?立体を2次元的に捉えてしまうというか。風景の立体を立体のまま把握できないというか。マンガ的に変換してしまうとかあるいは絵巻物的な鳥瞰図にしてしか把握できないというか。映像とか絵とか写真とか、なんだか表現しようとするといつのまにか平板なものになってしまう。

そういうのはもはや日本人の種としての目の違いのように思える。

東南アジア系の画家の絵もそうで、ただ彼らの絵はもっと幼児的なものの見方に支配されているところがある。顔だけを大きく描いてしまうとか。日本の浮世絵なんかもそうなんだろうけど。。なんなんだろうねえ?あれ。何か認識値を決定する感情の元になっている本能的な重みに感覚が引っ張られてしまうというか。歪んでしまう。

それは一つの日本的な味なんだろうけど、クールジャパンというのはもともとその有り様としてニッチなのだよね。ユニバーサルではなく。。

日記 5月13日(日)

東京に1泊した翌日の早朝。

『チャギントン』を見た。こんな時間に起きたことないわ。旅先でしか経験しない早起き。でそのあとの『はやく起きた朝は・・・』の女同志のシビアなやりとりで日曜の朝早くからゲンナリ。そうそうに切り上げて7時にチェックアウト。

で祐天寺から渋谷。山の手線で上野。
途中で地下鉄の選択肢もあったことに気づいたが、やはり朝は光の中を。
向かった先は国営ひたち海浜公園。

数年前からこの時期に機会があればと思っていて。
緑化運動の日だとかで入場無料だった。
けど、こないだの雹(ヒョウ)で結構やられたそうで。
時期も盛りは過ぎてたのだけど。

$ニャンちゅうなブログ-ひな壇

これってやっぱり黒澤明の『夢』?
似たシーンがあったっけ。キツネの嫁入りか桃畑か。そういう色彩だった。
きれいだった。けれどどこか人工的で。
おそらく天国というものがあるならば、すべからく人工的なのだろう。
この日は雨はなかったのだけど、虹でも出ていたら出来過ぎな感。

この距離からこんな感じだったのでやはり上のほうは近くでみると疎らで。
ネモフィラって名前…なんだかなあ。
和名は瑠璃唐草なんだそうだけどそれもうーむという感じ。
ナス目だそうだ。なるほどね。ハゼリソウ科。もしくはムラサキ科。

$ニャンちゅうなブログ-ネモフェィラ群生

でも下のほうは綺麗だった。
影が作るグラデーションがよいなあと思って。

$ニャンちゅうなブログ-ネモフェィラ

なんかやっぱあれだ、へたするとウインドウズの世界というか苦笑。
そういやあれって絵だと思ってたのだが写真だったんだね。
歩いている人の会話を聞くともなしに聞いてたらやっぱりこの時期以外は花はなくて、来てみたら一面緑なだけだったと笑 

ジャスト・イン・タイム。
それってやはり人生の極意でかなり上位のもののような気がする。
そしてかなり難しい。

考えてたら時期を逸する。
けど、たまたまだとそのほんとの価値はわからない。
あの時がそうだったのかともう一度行ってみても扉は閉まってる。
レット・イット・ビーだとやっぱダメなんだよ。
しっかりオレ!

だが黒澤明の『夢』。
周到に作られたものはどこかで生そのものを逸してしまう。
生の本当の喜びはたぶんそこにはない。
過ぎたるはなお及ばざるがごとし
いやむしろ生きることすべてを葬り去ることもある

一瞬の生、その場で出し切ることができるかどうか。
そういうところに生きるよろこびがあるのかも。
男の場合は特にそうかもしれない苦笑。
必然と偶然がないまぜとなった時間。
そんな瞬間をいくつ数えられるか。
多分それが自分にとっての人生の価値なんだと思う。

あーまたいらんこと考えてるなあ。
まあいいや。

準備を少しづつ整えながら
混乱のレンゲ畑からたった1本
オマエにだけぴったりと似合う
新鮮なレンゲを摘み上げてみよう
やがて若くてきれいなその夢も
アンティークなリズムを奏ではじめてしまう


        by 佐野元春 from ビジターズ N.Y.C 1983~1984