象の夢を見たことはない -146ページ目

3年B組

そういえば、自分は中学校のとき3年B組だったのだ。
そんなことを想い出した。

まあ、JINの続きなのだけど。
ずっと坂本龍馬に憧れながら、ここぞというときには31歳で亡くなった龍馬を演じるには…という。縁というのはなかったときに余計にその存在を確認したくなるというか。それでも「敢えて…」という問いを立てたくなるものだったりするのだろうか。

岩の一年、苔をも…
おや、まてよ。おかしいな。
苔の一年岩をも通すというけれど。
ん?これも間違いだとか。国語を知らないなあオレ。

「こけ」は「虚仮」。本来は仏教用語で、うそ、そらごとの意。
転じて、愚か、愚か者の意に用いられた。
とのこと。

向田邦子さんがエッセイで金八先生、武田鉄矢について書いていたのだけど、今手元にその本はない。若い頃の武田鉄矢氏は、クランプアップのときに記念撮影の撮影役を買って出て、若手の頃はそんなふうな感じで先輩方に気を使って現場を和ませるのがすごく上手だったなんてことが書いてあったのだ。まあ、こないだのNHKの大河では福山雅治にえらく煙たがられていたそうなのだが苦笑

そして今JINを見ている。
そしてここでも坂本龍馬役は内野聖陽なわけで笑
想いというのは縁を引き寄せることもあるけど遠ざけることもあるというか。
結局それは自分より自分以外の誰かによって、引き合わされたり。あるいは押しつけられたり。そういう部分も多々あるというか、

年を取ってから考えてみると、逆にそれによって自分が生かされることのほうが多いことに気づく。そういうことが若いときにわかっていればと思ったりもするのだけれど。
なんてことを、この記事を読んで思ってしまった。

良い役をしているのだ。このドラマで。
そういう星まわりなのだろう。自身のことは自身より周りの人のほうががより良く知っていて、そういうことも含めて周りに生かして貰える人になっていればそれはそれで幸せだと思う。ただ、本人は常に自分自身を生きているからそれはわからないのかもしれない。自分を見てそう思う。
なんて歯がゆい話なんだろうねえ。

すいません。嘘をついていました。
果たして自分は人に生かしてもらえるほどの人生すら歩んでいない。
精一杯生きることというのは、死ぬ前の自分の回想ってことではなくて、もしかしたら人に生かして貰える人生を歩んでいるかどうかってことなのかもしれない。そんなことをふと思った。

虚仮の一念岩をも通す。通せた一念というのは果たして自分にとっては最上であっても、他者にとっては最低のモノであったりすることもあると今回の福島の事故を見て想う。仕事というのは、そういうものでもあり、末代まで他者に恨まれることもあり得ると。まああれは、一念云々ではなく、自身のそれまでの社会貢献というものでは済まない、それすら吹き飛んで先祖から子孫まで何代ものレベルにわたっての社会貢献を無にするレベルの仕事上での怠慢でしかないとオレは想っているけれど。何かに目を瞑り続けるということを何十年もし続けているとそのレベルでは済まないことが起こり得るわけで。

それはまあどうでもいい。その人が考えるべきことだ。
要は、自分の使命を他者に背負わされたことを自覚した人間が果たして、それを受けて他者の望む最高レベルまで自分を高めていくことが出来るだろうかということで。

多分、たぶん、答えは否だと思う。
自らが自らの想うことに従って生きることでしか、それは達成できないんじゃないんだろうかと。そんなふうにも想う。なんてやっかいな話。

「JIN -仁-」

前に書いたのだけど

アル・ガザーリー(1058-1111)は、「知」と「信」の領域を分けて考えた。

「知」は悟性の領域であるのに対し、「信」は信仰の領域である。知は厳密な証明によって何人にとっても同様に現れるものではならない。
ガザーリに在っては、知の領域は、5+2=7、「同一の物体は同時に二つの場所を占めることはできない」というような数学的な、論理学的な異議のない命題しか含まない。

そうでないもの、人々の間に異論のあるようなものは全く「知」の世界から排除されて悉く「信」の世界に入れられてしまう。だから、思弁的神学や形而上学は悟性的であるようで、実は信の世界に属するのである。
「もし形而上学が数学や論理学の如く、完全な論理的証明にもとづくものであるならば、形而上学者の間に意見の衝突は起こらなかったであろう」。幾多の仮説、異論、憶測を含む神学や形而上学は知の世界に入ることはできない。これらは信の世界に入らねばならぬ。

信の世界は雑然たる世界である。この信の世界の特質がどこから来るのか。それは信仰が個人の心の問題であるからである。個人はその体験の深浅により、また実践の大小により、それぞれ自分の信仰を獲得するのである。

ガザーリは言う。この二つは本質的に違ったものである。両者を混同することは許されない。知の世界は飽くまで知の世界であり、信の世界はどこまでも信の世界である。ところが世の思弁学者や哲学者は明らかに二つを混同している。そこに彼らの救い難い欠陥が存するのである。


イスラム思想史の中の話。
恥ずかしながら40過ぎて知ったのだ。イスラムの思想史。。現在の日本で習う世界史は西洋思想に覆われていて、隠れたイスラム思想というのが見えない。井筒俊彦氏のおかげでなんとかねという。そのうえ、太平洋戦争の侵略うんぬんの『情』でマスコミによって注目されるべき部分がどうだとか歪められていて。まあ、実際には近代史なんてセンター試験とかでも点数つかないから、高校授業ではしょられたりするわけだけど苦笑。とはいえアジアを旅すればそういう戦争の歴史を肌で感じることもあり。それは大人になって実際に現地の人の日本人に対する目を感じればわかるからよい。ただ倫理・社会でもイスラム思想史が端折られているのはなんだかなあと思う。今現在の世界の有り様のみで、過去の歴史について偏った学び方をしているところってある。

それはさておき。そこの話と絡むのだけど…。
「知」と「信」に加えて、「情」というのがやはりね…。

「信」というのは不完全なもので、やっかいなのは、体験の深浅により、また実践の大小によりという部分が比べられ得るという部分であって。なかなかね、相手の体験とか実践とかを認められないんだね、自尊心というのがあってさ。

ただね、それを補うのが「情」というもので、相手の気持ちになって考えることというのが「情」であって。決して自分の気持ちを押しつけることではないと、そんなふうに思う。そこで初めて「信」というのが理解できるわけで。

あたりまえだけど、それでもなお譲り合うことなど出来ない価値観ていうのはあるのだ。そこでどうするかというところが、「仁」という道なのだと思う。
当然、答えなどない。
だけれど、儒家の立場においては「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして考えられてきたとか。

ただ、それが人のなかにあるということだけでありがたいと思えるようになれればいいなあ。そんなふうに、いまさら、『JIN -仁-』を見て思う。

ええ、いまDVD借りて見てますが何か?笑
男が泣けるドラマだよなあ。

結局、近場

日曜に実家で花見に行った。

のだけど、結局あの惨事があったので祇園やばいとなり。
近場のダムへドライブがてら花見に行った。
運転は妹の旦那(´0ノ`*)
なので楽ちんだった。

というかこういうときドライバーは大変なのだよね。
家族皆乗ってるから気使うし。
道中の桜なんて見えやしない苦笑

$ニャンちゅうなブログ-ダム

終わった後は、そのかわりと言ってはなんだが、姪っ子どもを預かって小学校の校庭へ連れて行ってやった。校庭には姪っ子どもの小学校の友達がお父さん、お母さんと遊びに来ていて、正直そんなことを予想すらしていなかったので(←迂闊という)、まああれだ、公園デビューするおかあさんの気持ちを味わうはめに苦笑

こういうときってそれぞれの子供たちは子供たちなりに気をつかって、親同士を、というかオレは親ではないけれども、くっつけやすいようにふるまうのでおもしろい。

もののけ

お前達 破滅連れて来た

生き物でも人間でもないもの連れてきた

生き物でも人間でもないもの?

来たぁ



うえーん・゚・(ノД`)・゚・

トラウマ必至だな苦笑

春一番搾り

いちばーん!

とハルクホーガンが叫んでいた時代は過ぎ去り、もはや北斗の拳すらなにそれ?って感じなわけで。

犬山祭に行って来た。

$ニャンちゅうなブログ-御神燈

なんか街ぜんたいで提灯がそれぞれの家の軒先に。
絆がどうのとは言ってはいるけど、やはりいいなあと。
ただ、おずおずとつるされているのをみると、やはり日本人の奥ゆかしさを想うわけで。声高にスローガンみたいに叫ぶものでもないよなあ。人に押し付けるようなものでもない。さりげなくっていうのが粋だと思う。そしてその人の静かな誇りとなるようなもの。

日曜日も暮れかけた時間、そろそろ明日の支度に入ろうかなんていう時間に行ったのだ。山車に灯が入るまで、犬山城にでも登るかとおもったけど同じように考える人は一杯いて。

$ニャンちゅうなブログ-犬山城

まあ、この下にぐるぐる人は並んでいるのだけど。なので今回はパス。
そんなことをしてる傍から日はだんだんと落ち始めていくわけで。

$ニャンちゅうなブログ-夕方の犬山城

ちなみにこの犬山城の天守は現存する日本最古の様式を持っていて国宝なわけだけど。そういうのもやっぱり住んでる人には誇りだよなあ。
すぐ下の神社には各町内の提灯が。この数だけ山車が出るということかな?

$ニャンちゅうなブログ-ちょうちん

ということで時間が余ってしまった。城の裏手の川沿いを散歩する。

$ニャンちゅうなブログ-犬山城の裏手

いい街だけど、やはりここも裏手の坂を下ると高そうなマンションとかが立っていて。昔ながらの城下町からほんの一本の道を隔てるといきなりそんな建物が立っていたりする。綺麗な近代的な街にだんだんとなってきている。

ふたたび町へ戻る。
余坂天神社の前では、そろそろ山車の提灯に灯が入り始めていた。
上のほうから灯を入れていく。

$ニャンちゅうなブログ-灯が入る山車

そして夕方の空に浮かび上がる提灯。

$ニャンちゅうなブログ-夕闇が迫る

個人的にはこの時間の山車がいちばん綺麗だと思う。
またたく間に日は暮れていく、このほんの短い時間。
なにか期待と不安が交錯するようなざわつく時間。

$ニャンちゅうなブログ-夕方の山車

そしてさらに日が落ち、

$ニャンちゅうなブログ-日が落ちる

ゆっくりと始まった。



そう、なんだか張りがないでしょ?
あれだよ、日曜日の夕方のサザエさんの時間だからコレ苦笑
明日は月曜だし。そんな無理してもと。
そんな時代だけど。

ていうかオイラが疲れてるのか。
土曜の夜はBORZOIQライブ参戦してるし。

なぜか子供たちは元気だった。
そんなふうに目は若いものを追いかける。
やっぱ土曜日にこないとダメなんだろうな。

まあ、そんな張りがない映像もちょっとなんだかなあなんで、
イチローが出ているこれをお口なおしに。



うまく絞り出したいやね。オイラの人生も。
秋10月にも犬山祭 車山揃えがあるので、ご興味のあるかたは。

犬山観光情報
http://www.inuyama.gr.jp/