5月12日(土) LAZYgunsBRISKY
解散公演。
とはいえ、見るのは2回目。
2回目なのに東京まで遠征するという暴挙。
BORZOIQ 2012年2月22日(水) 名古屋CLUB UPSET
BORZOIQ 4月7日(土) 名古屋LIVE HOUSE Tiny7
LAZYgunsBRISKY 4月27日(金) 名古屋ROCK N ROLL
BORZOIQのLUCYちゃん入りからのLAZYgunsBRISKY。
知ったときにはもう解散するというので慌てて名古屋を観に行った。
で音源持ってないのに東京までライブ遠征。
当然曲は2曲くらいしか知らない爆。
今回は LAZYgunsBRISKY / KiNGONS の2マン。
ラストだからワンマンだろうと思って入ったらカラフルなシャツの長髪4人組のオトコバンドが。えっ誰?栃木からきたKiNGONSです!
なんていうから栃木ってどこだっけと一瞬。関東は全然知らないのだ。群馬と位置関係が未だにわからない汗。宇都宮?あ、日光東照宮のあるところだ。行ったのだっけ、そういえば。
そこからのMCがよかったのだな、若干話が長かったけど笑
しかもふり切れてるし。ちょっと氣志團を思い出した、関東の地方出身バンドの振り切れ感というか。あー、どっちかというと、センチメンタルな胸キュンメロディーをムサイ男がっていうあの感じ?でも若さっていうのはもうそんなものをも肯定してしまうわけで、そこがすごいというか。そうか、今考えたらライブ終わったあとみょーに切なくなったのは彼らの若さに中てられたせいだと。今気付いたわ。
しかし、東京のライブハウスっていうのはすごいねというか東京自体がすごいというか。完璧お上りさんだったのだが、ひさびさに来て街ぜんたいの利便性追求というかサービスにしてもレベルが地方都市とは段違いで。八戸からきた某バンドのリーダーが舞い上がっていっぱしに東京について能書き垂れたがるのもわかるというか酔ってしまうのもわかるというか。まあバイザのコウタくんなのだが笑。すごいところだわやはり。ずっとは住めないけど住めるもんなら住んでいたいと。ただずっと自分が若いままならば。
LAZYgunsBRISKYについては行ってよかったと。
2回目の人間にはもうそれだけしか書けないな。
なんかいろいろもったいないし、それぞれどうすんだろうと思ってたのだけど、Lucyちゃんはソロでやってくのね。そうか福島いわき出身なんだね。あの歌を聞いたときは知らなかったのだけど。ん?ちょっとまてよ、深沼氏も福島だったなそういえば。
女性ロッカー・Lucy、ソロデビューは“小説主題歌”「夜明け」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120513/ent12051315270007-n1.htm
BORZOIQもそのままで。枠は残しておいて欲しいなあ。
とはいえ、私は自分のために歌うと。そう言いきる、その潔さとケレンミのなさ。たぶん歌よりなにより自分が惹かれるのはそこなんだろうな。それぞれみんないろんなものをおっ被せて背負わせようとするからそう言い切らないといられない部分とかも含め苦笑
とはいえ、見るのは2回目。
2回目なのに東京まで遠征するという暴挙。
BORZOIQ 2012年2月22日(水) 名古屋CLUB UPSET
BORZOIQ 4月7日(土) 名古屋LIVE HOUSE Tiny7
LAZYgunsBRISKY 4月27日(金) 名古屋ROCK N ROLL
BORZOIQのLUCYちゃん入りからのLAZYgunsBRISKY。
知ったときにはもう解散するというので慌てて名古屋を観に行った。
で音源持ってないのに東京までライブ遠征。
当然曲は2曲くらいしか知らない爆。
今回は LAZYgunsBRISKY / KiNGONS の2マン。
ラストだからワンマンだろうと思って入ったらカラフルなシャツの長髪4人組のオトコバンドが。えっ誰?栃木からきたKiNGONSです!
なんていうから栃木ってどこだっけと一瞬。関東は全然知らないのだ。群馬と位置関係が未だにわからない汗。宇都宮?あ、日光東照宮のあるところだ。行ったのだっけ、そういえば。
そこからのMCがよかったのだな、若干話が長かったけど笑
しかもふり切れてるし。ちょっと氣志團を思い出した、関東の地方出身バンドの振り切れ感というか。あー、どっちかというと、センチメンタルな胸キュンメロディーをムサイ男がっていうあの感じ?でも若さっていうのはもうそんなものをも肯定してしまうわけで、そこがすごいというか。そうか、今考えたらライブ終わったあとみょーに切なくなったのは彼らの若さに中てられたせいだと。今気付いたわ。
しかし、東京のライブハウスっていうのはすごいねというか東京自体がすごいというか。完璧お上りさんだったのだが、ひさびさに来て街ぜんたいの利便性追求というかサービスにしてもレベルが地方都市とは段違いで。八戸からきた某バンドのリーダーが舞い上がっていっぱしに東京について能書き垂れたがるのもわかるというか酔ってしまうのもわかるというか。まあバイザのコウタくんなのだが笑。すごいところだわやはり。ずっとは住めないけど住めるもんなら住んでいたいと。ただずっと自分が若いままならば。
LAZYgunsBRISKYについては行ってよかったと。
2回目の人間にはもうそれだけしか書けないな。
なんかいろいろもったいないし、それぞれどうすんだろうと思ってたのだけど、Lucyちゃんはソロでやってくのね。そうか福島いわき出身なんだね。あの歌を聞いたときは知らなかったのだけど。ん?ちょっとまてよ、深沼氏も福島だったなそういえば。
女性ロッカー・Lucy、ソロデビューは“小説主題歌”「夜明け」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120513/ent12051315270007-n1.htm
BORZOIQもそのままで。枠は残しておいて欲しいなあ。
とはいえ、私は自分のために歌うと。そう言いきる、その潔さとケレンミのなさ。たぶん歌よりなにより自分が惹かれるのはそこなんだろうな。それぞれみんないろんなものをおっ被せて背負わせようとするからそう言い切らないといられない部分とかも含め苦笑
日記 5月12日(土)
東京へライブ遠征
せっかくだからと鎌倉まで足を延ばす。
横浜駅から案外近かったと思ってたけど20分ちょっとなんだな。
大船とか戸塚とかなんか結構車窓の印象変わるのでもうちょっとかかるのかと思ってた。
良い天気だった。
鶴岡八幡宮。

参道からの眺めを。ここへ来るとああ鎌倉に来たんだなといつも思う。

気がつかなかったのだけど、境内から海まで見えるのか。
鎌倉で一番いい景色を見ておられるというか。
参道もスポーンと真直ぐ遠くまで伸びていて、綺麗なところだなあ。

大銀杏は移植された木はそのまま残っていたけれど、元の木から伸びていたひこばえは養生はされていたようだけど姿を消していた。ナウシカっぽくいかないというか、植物が成長するのもそう簡単な話ではないというか。希望という言葉だけではそううまくはない何か。でも失望するだけではいけないわけで。それでも養生し続ける。日々の仕事とか生活とか、たゆまないそういうものってのがやっぱり大事だ。
せっかくだからと鎌倉まで足を延ばす。
横浜駅から案外近かったと思ってたけど20分ちょっとなんだな。
大船とか戸塚とかなんか結構車窓の印象変わるのでもうちょっとかかるのかと思ってた。
良い天気だった。
鶴岡八幡宮。

参道からの眺めを。ここへ来るとああ鎌倉に来たんだなといつも思う。

気がつかなかったのだけど、境内から海まで見えるのか。
鎌倉で一番いい景色を見ておられるというか。
参道もスポーンと真直ぐ遠くまで伸びていて、綺麗なところだなあ。

大銀杏は移植された木はそのまま残っていたけれど、元の木から伸びていたひこばえは養生はされていたようだけど姿を消していた。ナウシカっぽくいかないというか、植物が成長するのもそう簡単な話ではないというか。希望という言葉だけではそううまくはない何か。でも失望するだけではいけないわけで。それでも養生し続ける。日々の仕事とか生活とか、たゆまないそういうものってのがやっぱり大事だ。
ツバメの季節
最近ツバメ見た? 全国的に減少
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120509-OYT1T01193.htm
燕。なんでこんな漢字なんだろう?結構、この為だけに作ったような漢字ですな。と寿司屋のネタの湯飲みをふと思い出す。あの漢字の当てつけ感は、お茶屋のお遊び的な延長にあるんだろうか?
つばめは人の家の軒先に巣を作る。縁側の上の軒先なんか日当たりを避けながらもあたたかい良い環境なのだけど、軒先にフンをするのだね。それを嫌がることが田舎でも増えている。都会ではもう数十年前からそういうことで巣を掛けられないからいないんじゃないの?とふと記事に批判したくなった。田舎の人間にだけ自然と共存なんてしわ寄せするなよ、身勝手な話だなあって思ってしまう。それじゃたいして、なんとかピースって団体と心根は変わらねえじゃねえかよなんて思う。
ツバメは稲につく虫を食べてくれるから田舎では大事にされてきたんだけど、そういうトレードオフもずいぶん昔から農薬の発達で無くなってたのだけど、それでも心はそのまま残り続けてきたのは、そういう世代がいたから。世代が変わるとなくなるのだね。家にツバメが巣を作るとその家は栄えるなんていうこともよく言ったわけで、それはまあ、フンガイは始末がたいへんですなあ、お互いがんばりませう的な励ましもあったというか。まあ実際、軒先の人の出入りが多いところにわざわざ巣を作るのもそういう諺の理由であながちウソってことでもないらしい。
うちの実家にもツバメが軒先に巣を掛けていて、雨縁の縁石にフンがかかるのでブルーシートなんぞをかぶせて、それでも遠路はるばるやってくるツバメを愛でていたりしたのだけど、ここ数年カラスがヒナが育ったところを見計らって軒先の巣にジェットストリームアタックばりの体当たり。落ちたヒナを食べるなんていう所業に出てて。ツバメが巣をかける年が少なくなってきて。
腹を立てた親父は、巣箱を軒先に作ってそこにツバメが巣を作れるようにしたのだけど、なかなかね、巣箱って難しいんじゃない?と言ったのだけど、今調べたらツバメは巣箱に入らない種類の鳥なのだとか。若い頃は傍若無人で動物の命にもまったく無関心だった人間が年とってそんなふうなことをしているのは息子からみたら滑稽極まりない。あまりの身勝手さにあきれて、「巣箱の穴が大きすぎ!」とかケチをつけてやったのだが。
まあ、しょうがない、カラス対策の話をネットで拾って教えてやるかな。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120509-OYT1T01193.htm
燕。なんでこんな漢字なんだろう?結構、この為だけに作ったような漢字ですな。と寿司屋のネタの湯飲みをふと思い出す。あの漢字の当てつけ感は、お茶屋のお遊び的な延長にあるんだろうか?
つばめは人の家の軒先に巣を作る。縁側の上の軒先なんか日当たりを避けながらもあたたかい良い環境なのだけど、軒先にフンをするのだね。それを嫌がることが田舎でも増えている。都会ではもう数十年前からそういうことで巣を掛けられないからいないんじゃないの?とふと記事に批判したくなった。田舎の人間にだけ自然と共存なんてしわ寄せするなよ、身勝手な話だなあって思ってしまう。それじゃたいして、なんとかピースって団体と心根は変わらねえじゃねえかよなんて思う。
ツバメは稲につく虫を食べてくれるから田舎では大事にされてきたんだけど、そういうトレードオフもずいぶん昔から農薬の発達で無くなってたのだけど、それでも心はそのまま残り続けてきたのは、そういう世代がいたから。世代が変わるとなくなるのだね。家にツバメが巣を作るとその家は栄えるなんていうこともよく言ったわけで、それはまあ、フンガイは始末がたいへんですなあ、お互いがんばりませう的な励ましもあったというか。まあ実際、軒先の人の出入りが多いところにわざわざ巣を作るのもそういう諺の理由であながちウソってことでもないらしい。
うちの実家にもツバメが軒先に巣を掛けていて、雨縁の縁石にフンがかかるのでブルーシートなんぞをかぶせて、それでも遠路はるばるやってくるツバメを愛でていたりしたのだけど、ここ数年カラスがヒナが育ったところを見計らって軒先の巣にジェットストリームアタックばりの体当たり。落ちたヒナを食べるなんていう所業に出てて。ツバメが巣をかける年が少なくなってきて。
腹を立てた親父は、巣箱を軒先に作ってそこにツバメが巣を作れるようにしたのだけど、なかなかね、巣箱って難しいんじゃない?と言ったのだけど、今調べたらツバメは巣箱に入らない種類の鳥なのだとか。若い頃は傍若無人で動物の命にもまったく無関心だった人間が年とってそんなふうなことをしているのは息子からみたら滑稽極まりない。あまりの身勝手さにあきれて、「巣箱の穴が大きすぎ!」とかケチをつけてやったのだが。
まあ、しょうがない、カラス対策の話をネットで拾って教えてやるかな。
お月見
そういう題名の小林秀雄のエッセイが『考えるヒント』の中にある。
今日はスーパームーンだそうだ。
スーパーサイヤ人みたいなものだろうか。
もしくはスーパーカップ麺30%増量セール的なものだろうか?
文章はこんなふうなものだ。
京都の嵯峨で知人が一杯やってたのだが、そのときは五夜の夕だったとかで、たまたまその場に居合わせてにぎやかに酒盛りを始めた若いサラリーマン達がいた。
平素一向に月などに興味がない彼らのうちの一人がふと話の合間に山の端に目を向けるとこれにつられて他の者たちも目を向け始めた。期せずしてお月見の気配が場に満ちた。
そこまでなら普通の話である。
だがしかし、この席にはたまたまスイスから来た客人が何人かいた。
彼らは一変した座の雰囲気が理解できなかったのだ。
そんな書き出しで始まる一文なのだが。
結構おもしろい書きだしでしょ?
意識的なものの考え方がかわっても、意識できぬものの感じ方は容易には変えられない。そういう話に続いているのだけど。
小林秀雄の文章でほんとうに良いものは、評論ではなくて、説教くささがないエッセイなのだけど、なかなかね、そういうわけにはいかないのがこの人の人間臭さだったりする。オイラはその人間臭さが好きなのだけど。
まあそういう話のついでにふと思ったのだけど、身体でしか感じられない、身体でしか深められない感じ方というのを極めることってのがあると思う。それは、こういう月見の風情の話ではなく、例えば男であれば仕事についてだとか。もちろんそれはあのバカな『見える化』だとかで共有することはできないようなモノのことを言ってるのだけど。それは純粋なその人の感覚的なもので。そういうものを他人に全て受け継ぐことなどできるわけなどなく、常に複数の世代を超えることはないと思っているのだけれど。
そう、つまり、それを果たして受け継ぐことができないのであれば、極めることに何の意味があるのだろうか?そんなことをふと考えてしまった。
どこかこの文章の小林秀雄氏のような少しはポジティブな方向へ考えたくもなったのだけれど、なかなかそれも難しいと達観してしまっている自分がどこかにいる。
そこをさらに踏み超えると、幽玄というかそういう境地があるのだろうか。あるのやもしれんし、ないのやもしれん、そういう間で遊ぶ的な。もし古来より日本にあるこういう類いの言葉が(結構いろいろあると思うのだが)、そういうことを言っているのだとすれば、それはそれで素晴らしい文化だなあとも思う。だとすれば、そういう幽境とやら、それはそれで一人で踊るのも楽しそうな気もしないでもない。
なんてことを幽玄には程遠いくそ若造が思ったりした苦笑
くそ生意気な話だ笑
でも正直今生きることの意味が見えないのだ。
この月見の話のように共有することはできない境地をそれとはなしに共有する。
それよりさらに先、さらに、さらに奥深い境地っていうのがあって、それをいつか極められたと思う瞬間とか、明らかに特定の人とそれを共有していると思える時間が何秒か続く、そういう直観というか、そんな時間が持てて、なんていうのならそれはステキなことだなあとそんなふうにも思う。誤解に基づく共感なんていうレベルじゃない深いところで。
まあ、そういう経験があるっちゃあるのだけど、せいぜい一瞬で、それも最近ないのだ。要は生々しく生きていないというだけのことか。あるいはこれまで生きてこなかったってことか。なんかそういう深みに欠けるんだねえ。
スーパームーンって…なんて浅い言葉なんだろう。最近なんかいろんなものがそんなふうに浅くしか見えないのはなんでなんだろう?
さて、それでは、さっきセブンイレブンに買い物に行ったときに見ようと思ってて見損ねた月をもう一度外へ出て眺めてみるかねぇ。

撮ってきた
そうそう、そうはわからないね。こないだの皆既月食のようにはいかない。天空にある月と地表近くにある月では目の錯覚で地表にある月のほうが大きく見えるのだけど、でもその錯覚が起こる理由については諸説あってわからないのだそうだ。人の情なんて、ある意味まあその程度のものなのだろうけどさ笑。所詮くそ若造なオイラはその程度しか考えられないわけだ苦笑 どんとしんく!ふぃいいいーる!とらいあげん!
今日はスーパームーンだそうだ。
スーパーサイヤ人みたいなものだろうか。
もしくはスーパーカップ麺30%増量セール的なものだろうか?
文章はこんなふうなものだ。
京都の嵯峨で知人が一杯やってたのだが、そのときは五夜の夕だったとかで、たまたまその場に居合わせてにぎやかに酒盛りを始めた若いサラリーマン達がいた。
平素一向に月などに興味がない彼らのうちの一人がふと話の合間に山の端に目を向けるとこれにつられて他の者たちも目を向け始めた。期せずしてお月見の気配が場に満ちた。
そこまでなら普通の話である。
だがしかし、この席にはたまたまスイスから来た客人が何人かいた。
彼らは一変した座の雰囲気が理解できなかったのだ。
そんな書き出しで始まる一文なのだが。
結構おもしろい書きだしでしょ?
意識的なものの考え方がかわっても、意識できぬものの感じ方は容易には変えられない。そういう話に続いているのだけど。
小林秀雄の文章でほんとうに良いものは、評論ではなくて、説教くささがないエッセイなのだけど、なかなかね、そういうわけにはいかないのがこの人の人間臭さだったりする。オイラはその人間臭さが好きなのだけど。
まあそういう話のついでにふと思ったのだけど、身体でしか感じられない、身体でしか深められない感じ方というのを極めることってのがあると思う。それは、こういう月見の風情の話ではなく、例えば男であれば仕事についてだとか。もちろんそれはあのバカな『見える化』だとかで共有することはできないようなモノのことを言ってるのだけど。それは純粋なその人の感覚的なもので。そういうものを他人に全て受け継ぐことなどできるわけなどなく、常に複数の世代を超えることはないと思っているのだけれど。
そう、つまり、それを果たして受け継ぐことができないのであれば、極めることに何の意味があるのだろうか?そんなことをふと考えてしまった。
どこかこの文章の小林秀雄氏のような少しはポジティブな方向へ考えたくもなったのだけれど、なかなかそれも難しいと達観してしまっている自分がどこかにいる。
そこをさらに踏み超えると、幽玄というかそういう境地があるのだろうか。あるのやもしれんし、ないのやもしれん、そういう間で遊ぶ的な。もし古来より日本にあるこういう類いの言葉が(結構いろいろあると思うのだが)、そういうことを言っているのだとすれば、それはそれで素晴らしい文化だなあとも思う。だとすれば、そういう幽境とやら、それはそれで一人で踊るのも楽しそうな気もしないでもない。
なんてことを幽玄には程遠いくそ若造が思ったりした苦笑
くそ生意気な話だ笑
でも正直今生きることの意味が見えないのだ。
この月見の話のように共有することはできない境地をそれとはなしに共有する。
それよりさらに先、さらに、さらに奥深い境地っていうのがあって、それをいつか極められたと思う瞬間とか、明らかに特定の人とそれを共有していると思える時間が何秒か続く、そういう直観というか、そんな時間が持てて、なんていうのならそれはステキなことだなあとそんなふうにも思う。誤解に基づく共感なんていうレベルじゃない深いところで。
まあ、そういう経験があるっちゃあるのだけど、せいぜい一瞬で、それも最近ないのだ。要は生々しく生きていないというだけのことか。あるいはこれまで生きてこなかったってことか。なんかそういう深みに欠けるんだねえ。
スーパームーンって…なんて浅い言葉なんだろう。最近なんかいろんなものがそんなふうに浅くしか見えないのはなんでなんだろう?
さて、それでは、さっきセブンイレブンに買い物に行ったときに見ようと思ってて見損ねた月をもう一度外へ出て眺めてみるかねぇ。

撮ってきた

そうそう、そうはわからないね。こないだの皆既月食のようにはいかない。天空にある月と地表近くにある月では目の錯覚で地表にある月のほうが大きく見えるのだけど、でもその錯覚が起こる理由については諸説あってわからないのだそうだ。人の情なんて、ある意味まあその程度のものなのだろうけどさ笑。所詮くそ若造なオイラはその程度しか考えられないわけだ苦笑 どんとしんく!ふぃいいいーる!とらいあげん!
ハローワーク
ソフトウエアエンジニアの場合、ひらめく、ひらめかないで出来る仕事に雲泥の差があるというか月とスッポンというか。バカの壁っていうのはどこにでもあるんだろうけど、トラブル発生時にアタリをつけて調べるときなんかはモロにその差が出て、できるやつは1日でメドつけて修正してしまうのだけど、できないやつは1ケ月かけても悩んでいるとか。まあそこまではいかないけど近い状況は多々ある。
筋のいいプログラムを組めるヤツとそうでないヤツの違いの場合、そのプログラムの保守・修正を考えると自分ひとりじゃないレベルでかかる時間と費用に差ができてしまう。そんなふうに作る話まで考えてしまうとまるまる1年の複数人のプロジェクトが吹っ飛ぶなんてこともあり。それはその人のひらめきとかいう話ではなく、開発する上での方向性とか別の話になるけど。
会社としては費用対効果がバカにならないので、あたりまえのようにできるヤツを入れたいわけだけど、あれって努力うんぬんのレベルじゃないんだよね。
13歳のハローワークっていう本があるのだけど、結局自分が何をしてるときに一番ヒラメクのかっていうのがたぶん仕事を選ぶときもっとも重要で。なにか起こった際とか、自信がなくなるほど落ち込んだときとかにそういうのを持ってない仕事を選ぶと悲惨な結果になる。
まあそれも現場で働く30代くらいまでの話で、その年代を超えたり管理職になるとそういう才能の差は違う能力で埋められるとかなんとでもなるというか目立たなくなるんだが。
けど、13歳のときってそんなことわかるのかなあ。
ヒラメクっていうのは、何かと何かを繋げる能力で、それってある程度大人にならないと発達しづらい能力のような気もする。ある程度知識を貯め込まないとつなげられないというか。下地ができないというか。というかその能力があると本当に見極められるまで時間がかかるというか。13才じゃ無理じゃね?てのがある。
どうなんだろうねえ。例えば、好きなことを仕事にすると、無意識のうちにそれに関することを目で追ってたりして、知らないうちに知識の下地ができていて、なにかを始めるときもそれを繋げてストーリーを引っ張ってこれるというか。結局、そういうとこで自身にあきらかに何かあると自覚するというか、自覚出来るというか。そこまでのレベルを自分で自覚できないとわかんねえんじゃねえか?って思ってしまうのだが。そしてやっかいなのはそれは座学してるだけではわからない。
そういうものと出会うにしたところで、その出会いにも下地が必要で。
一目惚れ的な何かっていうことにも下地があるんだと思うんだけどなあ。出会う前に出会っていたというか、出会うべくして出会った何かというモノとかコトって、それってやっぱり、それぞれの人の無意識のうちに何かを集める能力の枝分かれ具合で、それがすごく繁茂した部分でキャッチしてるというか、そういうんじゃないのだろうか。
でも、その能力のもとになる部分の分化具合って3才くらいで人それぞれで全然段違いだったりする、姪っ子どもを見ていると。あの歴然とした能力の差、あれって何?と。前世がどうのっていうのはあまりにも物理的、化学的な脳の有り様から離れているので信じてはいないのだけど。
いわゆる才能っていうやつ。その存在というか作られ方というか。
もしかして分化だけじゃなくて、何か違う要素が…あ!もしかしたら、乳幼児のときに持ってる能力って、成長と同時に捨て去られて消えてしまう能力があるのだけど、その相乗によってあれだけ極端な能力の方向の差が現れるのかも。なんかそれって前世がどうのっていうのよりは理にかなってるような。
大人でも負けちまう部分があの時期の子どもにすらあって。記憶する能力とか。そういう能力の自分との差を一緒に過ごしているとビシバシ肌に感じるときがあり。だとすると成長するうえで無くしていく能力って何?だとか能力を無くす無く仕方とか、なんかいろいろそっちもありそうな気がするな。うまく失くせないとダメだとか。あるいはうまく失くさないで持っている方法とか。もしかして発達心理学って、発達じゃなくて退化ってことにももっと目をむけないとダメなんじゃないのか?うまく退化させる方法とか。いや、実はもっと複雑でいろんな要素が絡み合っていてとか。だいたい、発達とか進化とかっていうのは、大人のてめえの自尊心から来てるもんだし、気持ちいいからね、そういう言葉。でもたまにムカつくんだよなあの考え方に。自分の中にもあるからだけど。今度調べてみよう。
そういや乳児って「1日の大部分を眠ってすごしながら、どんどん成長!」あれって寝ている間に脳の整理をしているんじゃないのだろうか、ハンパない外界の情報に生まれたとたん晒されるわけで、もちろん未発達で感知できない部分もあるんだろうけど、逆に大人が失った感覚をもっていてそれでっていうとこもある筈で。いやー、やっぱそれって調べることができない部分のような気がする。逆算して類推して…いやーむずかすいーだろうな。たぶん調べても出てこないような。
筋のいいプログラムを組めるヤツとそうでないヤツの違いの場合、そのプログラムの保守・修正を考えると自分ひとりじゃないレベルでかかる時間と費用に差ができてしまう。そんなふうに作る話まで考えてしまうとまるまる1年の複数人のプロジェクトが吹っ飛ぶなんてこともあり。それはその人のひらめきとかいう話ではなく、開発する上での方向性とか別の話になるけど。
会社としては費用対効果がバカにならないので、あたりまえのようにできるヤツを入れたいわけだけど、あれって努力うんぬんのレベルじゃないんだよね。
13歳のハローワークっていう本があるのだけど、結局自分が何をしてるときに一番ヒラメクのかっていうのがたぶん仕事を選ぶときもっとも重要で。なにか起こった際とか、自信がなくなるほど落ち込んだときとかにそういうのを持ってない仕事を選ぶと悲惨な結果になる。
まあそれも現場で働く30代くらいまでの話で、その年代を超えたり管理職になるとそういう才能の差は違う能力で埋められるとかなんとでもなるというか目立たなくなるんだが。
けど、13歳のときってそんなことわかるのかなあ。
ヒラメクっていうのは、何かと何かを繋げる能力で、それってある程度大人にならないと発達しづらい能力のような気もする。ある程度知識を貯め込まないとつなげられないというか。下地ができないというか。というかその能力があると本当に見極められるまで時間がかかるというか。13才じゃ無理じゃね?てのがある。
どうなんだろうねえ。例えば、好きなことを仕事にすると、無意識のうちにそれに関することを目で追ってたりして、知らないうちに知識の下地ができていて、なにかを始めるときもそれを繋げてストーリーを引っ張ってこれるというか。結局、そういうとこで自身にあきらかに何かあると自覚するというか、自覚出来るというか。そこまでのレベルを自分で自覚できないとわかんねえんじゃねえか?って思ってしまうのだが。そしてやっかいなのはそれは座学してるだけではわからない。
そういうものと出会うにしたところで、その出会いにも下地が必要で。
一目惚れ的な何かっていうことにも下地があるんだと思うんだけどなあ。出会う前に出会っていたというか、出会うべくして出会った何かというモノとかコトって、それってやっぱり、それぞれの人の無意識のうちに何かを集める能力の枝分かれ具合で、それがすごく繁茂した部分でキャッチしてるというか、そういうんじゃないのだろうか。
でも、その能力のもとになる部分の分化具合って3才くらいで人それぞれで全然段違いだったりする、姪っ子どもを見ていると。あの歴然とした能力の差、あれって何?と。前世がどうのっていうのはあまりにも物理的、化学的な脳の有り様から離れているので信じてはいないのだけど。
いわゆる才能っていうやつ。その存在というか作られ方というか。
もしかして分化だけじゃなくて、何か違う要素が…あ!もしかしたら、乳幼児のときに持ってる能力って、成長と同時に捨て去られて消えてしまう能力があるのだけど、その相乗によってあれだけ極端な能力の方向の差が現れるのかも。なんかそれって前世がどうのっていうのよりは理にかなってるような。
大人でも負けちまう部分があの時期の子どもにすらあって。記憶する能力とか。そういう能力の自分との差を一緒に過ごしているとビシバシ肌に感じるときがあり。だとすると成長するうえで無くしていく能力って何?だとか能力を無くす無く仕方とか、なんかいろいろそっちもありそうな気がするな。うまく失くせないとダメだとか。あるいはうまく失くさないで持っている方法とか。もしかして発達心理学って、発達じゃなくて退化ってことにももっと目をむけないとダメなんじゃないのか?うまく退化させる方法とか。いや、実はもっと複雑でいろんな要素が絡み合っていてとか。だいたい、発達とか進化とかっていうのは、大人のてめえの自尊心から来てるもんだし、気持ちいいからね、そういう言葉。でもたまにムカつくんだよなあの考え方に。自分の中にもあるからだけど。今度調べてみよう。
そういや乳児って「1日の大部分を眠ってすごしながら、どんどん成長!」あれって寝ている間に脳の整理をしているんじゃないのだろうか、ハンパない外界の情報に生まれたとたん晒されるわけで、もちろん未発達で感知できない部分もあるんだろうけど、逆に大人が失った感覚をもっていてそれでっていうとこもある筈で。いやー、やっぱそれって調べることができない部分のような気がする。逆算して類推して…いやーむずかすいーだろうな。たぶん調べても出てこないような。