無間道
時効警察を観てた。
その前に維新・西田薫議員卒業式で不起立教員を愚弄、PTAの抗議を受け謝罪っていう記事を読んで。そしてその問題のブログも。
時効警察のいいところは、日常の些細なところをつっこんでいるあの感じで。
ほんとはみんないろいろあるんだよ、たいへんな問題とか、人に言えない大きな悲しみとか。そういうのも含めてね、それぞれの人の生活があるわけで。
少なくとも、昨年の今日に多くの人のそういう生活がいきなり無くなってしまったわけで。犠牲者の多寡でなにかが決まるわけではないのだろうけれど。
インファナル・アフェアっていう映画を観たときに、
無間地獄というのについて「はっ!」と。
無間道っていう中国の題名なのだけど、香港映画なので。
この世は無間地獄だっていう映画なのだが。
輪廻思想を前提としているのだけど、はたしてそれを地獄と思うか極楽とおもうのかっていうのは、あたりまえのようにその人次第なのだけれど。
そんなふうな個人の尊厳を演台の上から語る人っていうのは。。
ああいう台の上にあがってしまうと、遠くを見渡せるようで、実は逆に目の前にあることしか見えなくなるってことがよくあるらしいんだよね。
自分のオヤジは町会議員だったのだけれど、演台の上に上がるのが大嫌いで。
こういう卒業式なんかの場で喋らなくてはいけない場合も、生徒と同じ床の上で同じ目線で話をしていたと。自分はオヤジは大嫌いなのだけど、そういう人としての基本的な筋を通す姿勢というのは尊敬している。
それぞれの人にはそれぞれの生まれ育ってきた道があって、それぞれの生活があって、それぞれの喜びや悲しみがある。それとは別に多数決で決められた正義というものもある。
それはそれ、これはこれ。当たり前のような生活の中でそういう社会的な賞罰も含めてのそれぞれの人の生であるわけで。
こんなふうに何かを言えば何かが返ってくる。言いようのない怒りを覚えたり、わけもない自己嫌悪に陥ったり、他者を恨んだり嫉んだり、こらえようの無い悲しみに打ちひしがれたり、しょうもないことで腹立ったり、そんなこともあたりまえのように享受できていること自体、生きている自分にとっては幸せなことだとしか今は思えない。だから、いろいろあってもこの世は無限に続いて欲しいのだよね。
心からご冥福をお祈りいたします。
その前に維新・西田薫議員卒業式で不起立教員を愚弄、PTAの抗議を受け謝罪っていう記事を読んで。そしてその問題のブログも。
時効警察のいいところは、日常の些細なところをつっこんでいるあの感じで。
ほんとはみんないろいろあるんだよ、たいへんな問題とか、人に言えない大きな悲しみとか。そういうのも含めてね、それぞれの人の生活があるわけで。
少なくとも、昨年の今日に多くの人のそういう生活がいきなり無くなってしまったわけで。犠牲者の多寡でなにかが決まるわけではないのだろうけれど。
インファナル・アフェアっていう映画を観たときに、
無間地獄というのについて「はっ!」と。
無間道っていう中国の題名なのだけど、香港映画なので。
この世は無間地獄だっていう映画なのだが。
輪廻思想を前提としているのだけど、はたしてそれを地獄と思うか極楽とおもうのかっていうのは、あたりまえのようにその人次第なのだけれど。
そんなふうな個人の尊厳を演台の上から語る人っていうのは。。
ああいう台の上にあがってしまうと、遠くを見渡せるようで、実は逆に目の前にあることしか見えなくなるってことがよくあるらしいんだよね。
自分のオヤジは町会議員だったのだけれど、演台の上に上がるのが大嫌いで。
こういう卒業式なんかの場で喋らなくてはいけない場合も、生徒と同じ床の上で同じ目線で話をしていたと。自分はオヤジは大嫌いなのだけど、そういう人としての基本的な筋を通す姿勢というのは尊敬している。
それぞれの人にはそれぞれの生まれ育ってきた道があって、それぞれの生活があって、それぞれの喜びや悲しみがある。それとは別に多数決で決められた正義というものもある。
それはそれ、これはこれ。当たり前のような生活の中でそういう社会的な賞罰も含めてのそれぞれの人の生であるわけで。
こんなふうに何かを言えば何かが返ってくる。言いようのない怒りを覚えたり、わけもない自己嫌悪に陥ったり、他者を恨んだり嫉んだり、こらえようの無い悲しみに打ちひしがれたり、しょうもないことで腹立ったり、そんなこともあたりまえのように享受できていること自体、生きている自分にとっては幸せなことだとしか今は思えない。だから、いろいろあってもこの世は無限に続いて欲しいのだよね。
心からご冥福をお祈りいたします。
ボルゾフ
まあ、じゃあ、書いてみるかね。
基本同じ文章を書くのは嫌いなんだよ。
なんだかさー、サービス足らない感じがして。
だからmixiと共用させてないんだけどね。
それはなんなんだろうなあ?
自分ですらよくわからない。
まあ、でもその主義は貫くのだ。
BORZOIQ。
ボルゾフっていう犬がいたよね。
と思い出したらやっぱりそうだったのね。
深沼氏らしいわ笑。
んなわけでさ、前にも紹介したBORZOIQ。
新人バンドなわけで笑。
PVなかったんだけど、最近ようつべにうっぷされたので。
で歌詞に
「前髪を切り過ぎたこと」
ってのがあるんだけどさ。
わかるんだけど、正直おとこ的にはかわいいと思ってしまう萌えポイント。
のはずなのだが。。どうなんだろう?
まあ、そういうものだよね笑
いいのだよ。意外と。
この服も。
チマチョゴリっぽいニュアンスなんだけど。
こういうアレンジっていうのがわからん男多過ぎ!
しょうがねえなあ、おとこどもよ。
もっと勉強せえよとマジ思う
さいきん若い男衆とそういう話をしてない。どう思う?的なさ。
飲みに行ってない。きゃつらに聞かなくちゃ。明日oilに聞いてみるか。
Jake stone garageのDrの岩中くんのドラムをさ、この前ガン見してたのだけど名古屋UPSET。
MV見てて彼に深沼氏が目をつけた理由というのが分かるわ。
クラッシックなのだよね、フィルインが。すげぇ馴染む。
GHEEEと違ってリズム隊バランス取りたかったとか笑。
こういうドラミングが今Jakeで若いコたちに評判がいいってのもなんかある意味イイ感じ
※ドラム
クラッシックとは言えどもなのだが。
Jakeの
ラストデイズの出だしが、あのモーモールルギャバンの
サイケな恋人の変則極まりないドラムに似ているのだ。でも、ことこれに関してはゲイリー・ビッチェこと矢島くんのほうがイッチマっててはるかにカッコいいと思う。ヘンタイであることの天才性というか。。やっぱ爆発しないと。バランス壊れるけど苦笑。それがまぁ言っちゃえば深沼氏共々2枚目を捨てきれない甘さというか笑。不細工のひがみか苦笑
絵画的なあるいは美術的なものに対して、作った作品に対する自惚れというのは必要だと思うのだけど、キワキワまで作るという上においては。
でも、音楽のような時間芸術的なものについては、自惚れている時間そのものがタイムラグになる。実際提供される音にその自惚れタイムの歪みがでることがあるというか。そこでもうひとつっこみが足らないというか。
今の時代は、音楽すらRECのときは時間芸術ですらなくなって、切ったり貼ったりのシミュレーションが出来てしまうのだけど。リアルタイムで聴いているライブなんかだと、やっぱり「おまえ、自分に酔ってるだろ?」っていう時間がウザいっていうか。
でもね、逆にそれこそが必要だったりすることも多いわけで、カタルシス的に。
あるいはそれこそが、聴く人にとって絶妙な「間」になってたり。
まあ自分は、感情をさらけだしながら、一瞬一瞬それを置き去りにして突っ走る人が好きなのだ。
ほんと、解なんてないんだよなぁ。たぶん。人それぞれの価値観なんだよ。ほんと人によって違う。
ただね、飾らないその人そのものがそこに出ていれば、聴き手がそれを見分けて、その人自身を愛でることが出来れば、それで充分であって、それでいいんじゃないかと思うんだよね。
逆に言えば、自分も自分自身を相手にさらけ出せる。
そして相手の評価をあるがまま受け入れられればそれでいいと。
ただそう思うわけであることよ。まる
して、それが出来ないから苦労しているわけで苦笑(北の国から風)
てことですかねぇ。と無理やりまとめてしまおう。いぇい!
基本同じ文章を書くのは嫌いなんだよ。
なんだかさー、サービス足らない感じがして。
だからmixiと共用させてないんだけどね。
それはなんなんだろうなあ?
自分ですらよくわからない。
まあ、でもその主義は貫くのだ。
BORZOIQ。
ボルゾフっていう犬がいたよね。
と思い出したらやっぱりそうだったのね。
深沼氏らしいわ笑。
んなわけでさ、前にも紹介したBORZOIQ。
新人バンドなわけで笑。
PVなかったんだけど、最近ようつべにうっぷされたので。
で歌詞に
「前髪を切り過ぎたこと」
ってのがあるんだけどさ。
わかるんだけど、正直おとこ的にはかわいいと思ってしまう萌えポイント。
のはずなのだが。。どうなんだろう?
まあ、そういうものだよね笑
いいのだよ。意外と。
この服も。
チマチョゴリっぽいニュアンスなんだけど。
こういうアレンジっていうのがわからん男多過ぎ!
しょうがねえなあ、おとこどもよ。
もっと勉強せえよとマジ思う
さいきん若い男衆とそういう話をしてない。どう思う?的なさ。
飲みに行ってない。きゃつらに聞かなくちゃ。明日oilに聞いてみるか。
Jake stone garageのDrの岩中くんのドラムをさ、この前ガン見してたのだけど名古屋UPSET。
MV見てて彼に深沼氏が目をつけた理由というのが分かるわ。
クラッシックなのだよね、フィルインが。すげぇ馴染む。
GHEEEと違ってリズム隊バランス取りたかったとか笑。
こういうドラミングが今Jakeで若いコたちに評判がいいってのもなんかある意味イイ感じ

※ドラム
クラッシックとは言えどもなのだが。
Jakeの
ラストデイズの出だしが、あのモーモールルギャバンの
サイケな恋人の変則極まりないドラムに似ているのだ。でも、ことこれに関してはゲイリー・ビッチェこと矢島くんのほうがイッチマっててはるかにカッコいいと思う。ヘンタイであることの天才性というか。。やっぱ爆発しないと。バランス壊れるけど苦笑。それがまぁ言っちゃえば深沼氏共々2枚目を捨てきれない甘さというか笑。不細工のひがみか苦笑絵画的なあるいは美術的なものに対して、作った作品に対する自惚れというのは必要だと思うのだけど、キワキワまで作るという上においては。
でも、音楽のような時間芸術的なものについては、自惚れている時間そのものがタイムラグになる。実際提供される音にその自惚れタイムの歪みがでることがあるというか。そこでもうひとつっこみが足らないというか。
今の時代は、音楽すらRECのときは時間芸術ですらなくなって、切ったり貼ったりのシミュレーションが出来てしまうのだけど。リアルタイムで聴いているライブなんかだと、やっぱり「おまえ、自分に酔ってるだろ?」っていう時間がウザいっていうか。
でもね、逆にそれこそが必要だったりすることも多いわけで、カタルシス的に。
あるいはそれこそが、聴く人にとって絶妙な「間」になってたり。
まあ自分は、感情をさらけだしながら、一瞬一瞬それを置き去りにして突っ走る人が好きなのだ。
ほんと、解なんてないんだよなぁ。たぶん。人それぞれの価値観なんだよ。ほんと人によって違う。
ただね、飾らないその人そのものがそこに出ていれば、聴き手がそれを見分けて、その人自身を愛でることが出来れば、それで充分であって、それでいいんじゃないかと思うんだよね。
逆に言えば、自分も自分自身を相手にさらけ出せる。
そして相手の評価をあるがまま受け入れられればそれでいいと。
ただそう思うわけであることよ。まる
して、それが出来ないから苦労しているわけで苦笑(北の国から風)
てことですかねぇ。と無理やりまとめてしまおう。いぇい!
縁なき衆生は度し難し
ニャンコ先生と聞いて風大左衛門を思い出すおまえ。
風大左衛門と聞いていなかっぺ大将を思い出すおまえ。
さいきんの若いヤツ、きもちはふあふあ、わうわう。
おまえとおまえはかえってよし。
帰ります!笑
東京コミュニケーショーンw
風大左衛門と聞いていなかっぺ大将を思い出すおまえ。
さいきんの若いヤツ、きもちはふあふあ、わうわう。
おまえとおまえはかえってよし。
帰ります!笑
東京コミュニケーショーンw
『東京公園』
ていうかさ。
恋っていうのが不条理なものなのよ。
恋をしようぜ!
青山真治。
女優のとよた真帆と結婚。
口説き文句は「結婚を前提に、Hさせてください!」だった。
ええなあ、そうでなくっちゃだわさ、男は。
バカな男のほうが美人にモテるのである。
というか扱いやすくて楽!ってことなのか苦笑
今日は楽しいひな祭り♪
東京公園 [DVD]/三浦春馬,榮倉奈々,小西真奈美

¥3,990
Amazon.co.jp
恋っていうのが不条理なものなのよ。
恋をしようぜ!
青山真治。
女優のとよた真帆と結婚。
口説き文句は「結婚を前提に、Hさせてください!」だった。
ええなあ、そうでなくっちゃだわさ、男は。
バカな男のほうが美人にモテるのである。
というか扱いやすくて楽!ってことなのか苦笑
今日は楽しいひな祭り♪
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『愛のむきだし』
鈍牛倶楽部ええなあ。
『愛のむきだし』を観ていたのだ。園子温監督の。
『冷たい熱帯魚』を観てからの『愛のむきだし』である。
ははーんと。そういうことかいなと。すげえぜと。
予定調和とか物語性とか、そういうものの無力さというか形骸化というか。
村上春樹の『アンダーグラウンド』も結局途中まで読んで捨ててしまった。
たぶんあれは未完であると。おそらく、カフカであると。
松岡正剛の千夜千冊『城』フランツ・カフカ(クリックで飛びます)
ボルヘスは、これではカフカの物語は必ず未完におわると決めつけた。
障害性が物語のプロットをつくるはずなのに、
その障害性そのものが作品の本質であるとすれば、
その物語はつねに未完でなければならないからだ。
それが村上春樹でもあるということ。
河合隼雄氏と村上春樹の対談では、村上春樹の小説の物語性が暗黙的に語られていた。
個人の井戸を掘っていけば、逆にすべての人の無意識と通じることになる。
井戸の壁をすり抜けて他人の井戸と繋がる。それが壁抜けの話。
無意識で通じる。だからそれによって癒されるのだと。
今考えるとそれはどうなんだろうと。
確かにユング派であるならば結論はそうなるのだ。
統合的な人格形成という遠い遠い道のり。
それは自分の井戸を掘ることによって果たされる。
その井戸掘りが、つらい果てしない希望の見えない道のりであっても、それは必ずやいつの日にか果たされるであろうという希望。モノガタリはそのために紡がれるのだという。あるいはその過程そのものが物語として古来著されて来たのだと。人類共通の物語として。
それがユング心理学の本質であって、ある意味「祈り」でもあるのだけれど。
それはまた、ドイツロマン派の本質でもあって。
ドイツいい国だよな。救いがある、筋も通っているし。
カントを輩出した国の本質というか。
でも、それは果たして正解なのかと。
村上春樹の小説の行く末として。あるいは彼の小説の読み方として。
救いなどない。彼の小説に物語性はない。
それがボルヘスの言葉から導かれる結論。
もっと言えば、人の心の運動には物語として帰結しないものがある。出口などない障害性そのものがその本質であるもの。むしろそっちの方が多いかもと。出口があるように見える物語にしたところで、あるいは、それはただの脳ニューロンの創発であるかもしれない。
創発 wikipediaより抜粋
局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。
物語の構造というものは脳ニューロンによる創発によって作られるある特定の脳の振る舞いであると。
だから、それがある世界観を表すように見えても、その物語には意味なんてない。よしんば、物語がそれぞれある特定の精神の状態のときに現れるティピカルな形式を持つ像であったとしても、それ自体が逆に下層であるココロの状態を変容させることなどない。だから、それを読めば読者が救われるなんて話は嘘っぱちで、あるいはそれを小説として書くことによって心が救われることもない。すくなくとも心の病が治るなんていう魔法のような話はないだろう。物語それ自体には人を癒す力などもともとないのだと。
まず、それは横に置いておこう。
『愛のむきだし』には新興宗教団体「ゼロ教会」というのが出てくる。必然的にオウム真理教を想い浮かべてしまった。オウム真理教についていまだにいろいろな法則を得ようとしている人たちがいるのだけど、たとえば入信してしまう人の共通点であるとか。ずいぶん、あのときはそういうものの見方というか考え方というかが巷にあふれたし、今でもその傾向はマスコミをみると変わっていない。マインドコントロールされやすい人だとかね。実際、多くの人もそういうものの見方をしているし。安心を得ようとして。自分には、結局それは安易に物語的結論を得ようとしている方法論とどこかで被って見える。障害性の原因を突きとめようというか。
村上春樹の『アンダーグラウンド』も結局はそれをめざして書かれたもので、それが被害者側の立場でのドキュメントであったのは、損なわれたもの、損なわれる理由、損なわれる過程が彼にはいつも興味がある対象だからだと。そういう意味で結局これも彼の小説と同じ。
障害性そのものが作品の本質であるとすれば、
その物語はつねに未完でなければならない
そう感じて途中で読むのを辞めてしまった。得られるものなどないと。
つまり障害性そのものが本質であるならば、そういう方法論も未完に終わるだろうと。
物語と同じく。
「下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。」それはまた、単純な因果などみつからないという結論になる。
結局、今の時代性というのと合致してるんだろうと、村上春樹の小説は。癒しを得るための物語は終わってしまったと。魔法は失われてしまったと。神は死んだ。彼の小説がもつ障害性、それが今の世界を暗黙的に象徴しているから、そして世界中の多くの人が無意識的にそれを認識しているから、そういう人に世界各国で読まれているのかもしれない。穿った見方をすれば。
で、『愛のむきだし』に戻る。
そう前提してしまえば、それがこの映画の見方としてより正しいんじゃないかと。
そういう物語をこの監督は作りたかったんじゃないかと。
結局、うまくまとまらなかったのでこんな長尺になってしまって、しかもああいう終わり方になってしまったけど、言わんとしていることはわかるだろうと、だから、まあ、そのまま出してしまえと。そんな感じなのかなあと。DVD上下2巻たっぷりだよ。しんどかったわ。
ほんとはね、よりもっと「因果というものから外れたものであっても、その人の中にはその人の生というものがあって、そういうカオティックさを呑み込めないお前ら!そのお前らの精神の脆弱を突き付けてやるぅぅー」的なものであってもよかったのにと。でもだいたいそういう映画だったけど。
しかし、まだその点は日本映画界がそういう作品を認められないという未成熟なマーケットの上に成り立っているというか、結局いつの時代もそうなのだろうけど。だから、ああいうふうにコメディーっぽくというか、ドタバタにならざるを得ないのだろうと。けど、この映画の本質はそういうことで。
自分がははーん、そういうことかいなと思ったのはそういうことで。
癒しの拒否を撮ろうとしてるだろうなと。
いやあ、すごいわ、この監督。すごいよ。マジもんだわ。
あの東北大震災の後だからそんなふうに思うのかもしれないけれど、正義だとか、頑張ろうとか、人の絆だとか、そういうものに否を唱えてしまうことから始めないとほんとはダメなんじゃないのか?臭いものには蓋的な安直な安心感を得ようとする方法論とか癒しとか。それってとっくに終わってるよなあと。確かに未だにそれは必要で、実際助けられることも多いんだけどね。信仰と同じで。けど、ほんとはそうじゃないんじゃねえかと。そんな物語性から外れたものもあると。ただの善と悪の闘いなんていうアホウみたいな視点じゃなく、あるいは単純な因果的原因をエセ科学的に求めようとかじゃなくてね。そういうカオティックな視点もあってしかるべきなんだよね。表面的に利発であろうとすること、道徳的であろうとすることで、見かけの嘘を信じてしまうとかさ、あるいは自分の価値観を他人に無神経に押し付けてしまうこととかね。物語を信じてしまうことの愚かさとかさ。ある意味、もっと人間バラバラでいいし、そのためにドンくさかったっていいんじゃねえのかなあと。
もっというと、自分にはそれが物語に変わる新しい救いになるんじゃないのかなあと。そんなふうに思えたんだよね。たぶんそういうことをこの監督は言いたいんだろうなあと思っているのだが、違うかなあ。まあ、考えすぎかもしれないけどさ。『冷たい熱帯魚』観て『愛のむきだし』観るとそういうふうに思えるんだよね。それだけしか園子温監督の作品は見てないんだけど、どっちもそんなふうな安易な癒しに対しての拒否というか絶対的な拒絶を感じたというか。
ということで『愛のむきだし』。コイケ役の安藤さくらがみょーにエロくてよい。全然美人じゃないのだが、ソソられるのだ。調べたら、鈍牛倶楽部所属だと。何?鈍牛倶楽部っててさらにググったら、そういう事務所なのねと。自分がなんとなく、この人ええなあと思ってた人がいっぱい所属してて。いやーむっちゃ好みな事務所やわ。そういう巡り合わせというか類は友を呼ぶというか、この俳優陣ってそういうものだなと。そう、つまりそういうものはやっぱり単純な創発だけでは説明なんて出来ないのだよ。
まあ、卑近な例で言えばそういうこと。自分的にはそんな巡り合わせが人の世にはあるってことを信じている。自分だけの信仰。自分の、自分による、自分のための信仰。それが新たに見つかるだけかもしれないけれど、オマエの神とオレの神は違うというかさ。そこではじめて人と人として向き合うというかさ。それを見つければいいじゃん!っていうそんな映画だったように思うんだよね。もっと愛をむきだそうぜ!っていう話ね。血みどろになってもさ。だからコイケはカッコいいのだよ。エロいのだ。エロす。アガペーなのだ。彼女こそが新世界のマリアなのである。「であった」というべきだけど。それ以上言うとネタばれになるから詳しくは本編をみられよ。アーメン。
追記
本当はね、物語というのはその人にとって何かに気づくための道筋になっている。たとえば障害性そのものがその物語の本質である場合、それに気付くための道筋になっていて。物語は癒しではなく気づきのためにあるのであって、非合理的な話のほうに人間の真実は隠れているということが、科学を盲信してしまうことに対する警告そのものだったりする。生命というものがうまく定義できないように、本質的により矛盾している話のほうに生命の真理は隠されているのかもしれない。
というか、物語というのは本質的に非合理なものを指し示しているのだけれど。無意識のうちに人は自分のための物語を探す力を備えている。それが如何に非合理的な物語であっても。ただそれは命掛けの話になる。物語というのは本来そういうもので。たぶんこの映画にしても云わんとしていることはそういうこと。
創発について
だいたい無限ループに対する割り込み処理ってロボットレベルのプログラムでも備えているつーの。創発パターンでループしたらそれを認識して回避するぐらい脳自身で出来るだろうよ?日常生活考えたらわかるでしょ?ただ、外部からキャンセルによる割り込みを発生させないとダメなケースがあって、その場合は下手すると命掛けになるのだね、ロボット当人にとっては。ある意味それは不条理な非合理的な出来事でしか解けないケースなわけよ。物語読んで気づける場合というか、それによって知らない間にフラグが外されてエラー状態から回復されるっていう自浄では救えないケースだとヤバイってこと。今巷で噂の洗脳っていうのは、非合理な要求を無理やり与え続けることによって意識レベルを混濁させてそういうエラー状態を作り出すわけで、会社の研修合宿なんかでやってるとこあるけどあれって下手すると人格崩壊してヤバくなる場合があるってわかってないアホな部長とか事業部長レベルの管理職はほんと死んだ方がいいレベル。
マインドコントロール
あえて言うなら、社会や人間の非合理性を認められない人というか、他人にとって筋が通っていても本人にとって筋が通ってないと感じることでもその人にとっては非合理なわけだけど、それによって抑圧されていることを常に意識している人はマインドコントロールされやすい。自尊心が強く、まじめな人ほど、あるいはかしこい人ほど。あるいはいきなりそういう状況に追い込まれてそれが永遠に続くと思える場合とか。結構誰にでも起こり得る話。
『愛のむきだし』を観ていたのだ。園子温監督の。
『冷たい熱帯魚』を観てからの『愛のむきだし』である。
ははーんと。そういうことかいなと。すげえぜと。
予定調和とか物語性とか、そういうものの無力さというか形骸化というか。
村上春樹の『アンダーグラウンド』も結局途中まで読んで捨ててしまった。
たぶんあれは未完であると。おそらく、カフカであると。
松岡正剛の千夜千冊『城』フランツ・カフカ(クリックで飛びます)
ボルヘスは、これではカフカの物語は必ず未完におわると決めつけた。
障害性が物語のプロットをつくるはずなのに、
その障害性そのものが作品の本質であるとすれば、
その物語はつねに未完でなければならないからだ。
それが村上春樹でもあるということ。
河合隼雄氏と村上春樹の対談では、村上春樹の小説の物語性が暗黙的に語られていた。
個人の井戸を掘っていけば、逆にすべての人の無意識と通じることになる。
井戸の壁をすり抜けて他人の井戸と繋がる。それが壁抜けの話。
無意識で通じる。だからそれによって癒されるのだと。
今考えるとそれはどうなんだろうと。
確かにユング派であるならば結論はそうなるのだ。
統合的な人格形成という遠い遠い道のり。
それは自分の井戸を掘ることによって果たされる。
その井戸掘りが、つらい果てしない希望の見えない道のりであっても、それは必ずやいつの日にか果たされるであろうという希望。モノガタリはそのために紡がれるのだという。あるいはその過程そのものが物語として古来著されて来たのだと。人類共通の物語として。
それがユング心理学の本質であって、ある意味「祈り」でもあるのだけれど。
それはまた、ドイツロマン派の本質でもあって。
ドイツいい国だよな。救いがある、筋も通っているし。
カントを輩出した国の本質というか。
でも、それは果たして正解なのかと。
村上春樹の小説の行く末として。あるいは彼の小説の読み方として。
救いなどない。彼の小説に物語性はない。
それがボルヘスの言葉から導かれる結論。
もっと言えば、人の心の運動には物語として帰結しないものがある。出口などない障害性そのものがその本質であるもの。むしろそっちの方が多いかもと。出口があるように見える物語にしたところで、あるいは、それはただの脳ニューロンの創発であるかもしれない。
創発 wikipediaより抜粋
局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。
物語の構造というものは脳ニューロンによる創発によって作られるある特定の脳の振る舞いであると。
だから、それがある世界観を表すように見えても、その物語には意味なんてない。よしんば、物語がそれぞれある特定の精神の状態のときに現れるティピカルな形式を持つ像であったとしても、それ自体が逆に下層であるココロの状態を変容させることなどない。だから、それを読めば読者が救われるなんて話は嘘っぱちで、あるいはそれを小説として書くことによって心が救われることもない。すくなくとも心の病が治るなんていう魔法のような話はないだろう。物語それ自体には人を癒す力などもともとないのだと。
まず、それは横に置いておこう。
『愛のむきだし』には新興宗教団体「ゼロ教会」というのが出てくる。必然的にオウム真理教を想い浮かべてしまった。オウム真理教についていまだにいろいろな法則を得ようとしている人たちがいるのだけど、たとえば入信してしまう人の共通点であるとか。ずいぶん、あのときはそういうものの見方というか考え方というかが巷にあふれたし、今でもその傾向はマスコミをみると変わっていない。マインドコントロールされやすい人だとかね。実際、多くの人もそういうものの見方をしているし。安心を得ようとして。自分には、結局それは安易に物語的結論を得ようとしている方法論とどこかで被って見える。障害性の原因を突きとめようというか。
村上春樹の『アンダーグラウンド』も結局はそれをめざして書かれたもので、それが被害者側の立場でのドキュメントであったのは、損なわれたもの、損なわれる理由、損なわれる過程が彼にはいつも興味がある対象だからだと。そういう意味で結局これも彼の小説と同じ。
障害性そのものが作品の本質であるとすれば、
その物語はつねに未完でなければならない
そう感じて途中で読むのを辞めてしまった。得られるものなどないと。
つまり障害性そのものが本質であるならば、そういう方法論も未完に終わるだろうと。
物語と同じく。
「下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。」それはまた、単純な因果などみつからないという結論になる。
結局、今の時代性というのと合致してるんだろうと、村上春樹の小説は。癒しを得るための物語は終わってしまったと。魔法は失われてしまったと。神は死んだ。彼の小説がもつ障害性、それが今の世界を暗黙的に象徴しているから、そして世界中の多くの人が無意識的にそれを認識しているから、そういう人に世界各国で読まれているのかもしれない。穿った見方をすれば。
で、『愛のむきだし』に戻る。
そう前提してしまえば、それがこの映画の見方としてより正しいんじゃないかと。
そういう物語をこの監督は作りたかったんじゃないかと。
結局、うまくまとまらなかったのでこんな長尺になってしまって、しかもああいう終わり方になってしまったけど、言わんとしていることはわかるだろうと、だから、まあ、そのまま出してしまえと。そんな感じなのかなあと。DVD上下2巻たっぷりだよ。しんどかったわ。
ほんとはね、よりもっと「因果というものから外れたものであっても、その人の中にはその人の生というものがあって、そういうカオティックさを呑み込めないお前ら!そのお前らの精神の脆弱を突き付けてやるぅぅー」的なものであってもよかったのにと。でもだいたいそういう映画だったけど。
しかし、まだその点は日本映画界がそういう作品を認められないという未成熟なマーケットの上に成り立っているというか、結局いつの時代もそうなのだろうけど。だから、ああいうふうにコメディーっぽくというか、ドタバタにならざるを得ないのだろうと。けど、この映画の本質はそういうことで。
自分がははーん、そういうことかいなと思ったのはそういうことで。
癒しの拒否を撮ろうとしてるだろうなと。
いやあ、すごいわ、この監督。すごいよ。マジもんだわ。
あの東北大震災の後だからそんなふうに思うのかもしれないけれど、正義だとか、頑張ろうとか、人の絆だとか、そういうものに否を唱えてしまうことから始めないとほんとはダメなんじゃないのか?臭いものには蓋的な安直な安心感を得ようとする方法論とか癒しとか。それってとっくに終わってるよなあと。確かに未だにそれは必要で、実際助けられることも多いんだけどね。信仰と同じで。けど、ほんとはそうじゃないんじゃねえかと。そんな物語性から外れたものもあると。ただの善と悪の闘いなんていうアホウみたいな視点じゃなく、あるいは単純な因果的原因をエセ科学的に求めようとかじゃなくてね。そういうカオティックな視点もあってしかるべきなんだよね。表面的に利発であろうとすること、道徳的であろうとすることで、見かけの嘘を信じてしまうとかさ、あるいは自分の価値観を他人に無神経に押し付けてしまうこととかね。物語を信じてしまうことの愚かさとかさ。ある意味、もっと人間バラバラでいいし、そのためにドンくさかったっていいんじゃねえのかなあと。
もっというと、自分にはそれが物語に変わる新しい救いになるんじゃないのかなあと。そんなふうに思えたんだよね。たぶんそういうことをこの監督は言いたいんだろうなあと思っているのだが、違うかなあ。まあ、考えすぎかもしれないけどさ。『冷たい熱帯魚』観て『愛のむきだし』観るとそういうふうに思えるんだよね。それだけしか園子温監督の作品は見てないんだけど、どっちもそんなふうな安易な癒しに対しての拒否というか絶対的な拒絶を感じたというか。
ということで『愛のむきだし』。コイケ役の安藤さくらがみょーにエロくてよい。全然美人じゃないのだが、ソソられるのだ。調べたら、鈍牛倶楽部所属だと。何?鈍牛倶楽部っててさらにググったら、そういう事務所なのねと。自分がなんとなく、この人ええなあと思ってた人がいっぱい所属してて。いやーむっちゃ好みな事務所やわ。そういう巡り合わせというか類は友を呼ぶというか、この俳優陣ってそういうものだなと。そう、つまりそういうものはやっぱり単純な創発だけでは説明なんて出来ないのだよ。
まあ、卑近な例で言えばそういうこと。自分的にはそんな巡り合わせが人の世にはあるってことを信じている。自分だけの信仰。自分の、自分による、自分のための信仰。それが新たに見つかるだけかもしれないけれど、オマエの神とオレの神は違うというかさ。そこではじめて人と人として向き合うというかさ。それを見つければいいじゃん!っていうそんな映画だったように思うんだよね。もっと愛をむきだそうぜ!っていう話ね。血みどろになってもさ。だからコイケはカッコいいのだよ。エロいのだ。エロす。アガペーなのだ。彼女こそが新世界のマリアなのである。「であった」というべきだけど。それ以上言うとネタばれになるから詳しくは本編をみられよ。アーメン。
追記
本当はね、物語というのはその人にとって何かに気づくための道筋になっている。たとえば障害性そのものがその物語の本質である場合、それに気付くための道筋になっていて。物語は癒しではなく気づきのためにあるのであって、非合理的な話のほうに人間の真実は隠れているということが、科学を盲信してしまうことに対する警告そのものだったりする。生命というものがうまく定義できないように、本質的により矛盾している話のほうに生命の真理は隠されているのかもしれない。
というか、物語というのは本質的に非合理なものを指し示しているのだけれど。無意識のうちに人は自分のための物語を探す力を備えている。それが如何に非合理的な物語であっても。ただそれは命掛けの話になる。物語というのは本来そういうもので。たぶんこの映画にしても云わんとしていることはそういうこと。
創発について
だいたい無限ループに対する割り込み処理ってロボットレベルのプログラムでも備えているつーの。創発パターンでループしたらそれを認識して回避するぐらい脳自身で出来るだろうよ?日常生活考えたらわかるでしょ?ただ、外部からキャンセルによる割り込みを発生させないとダメなケースがあって、その場合は下手すると命掛けになるのだね、ロボット当人にとっては。ある意味それは不条理な非合理的な出来事でしか解けないケースなわけよ。物語読んで気づける場合というか、それによって知らない間にフラグが外されてエラー状態から回復されるっていう自浄では救えないケースだとヤバイってこと。今巷で噂の洗脳っていうのは、非合理な要求を無理やり与え続けることによって意識レベルを混濁させてそういうエラー状態を作り出すわけで、会社の研修合宿なんかでやってるとこあるけどあれって下手すると人格崩壊してヤバくなる場合があるってわかってないアホな部長とか事業部長レベルの管理職はほんと死んだ方がいいレベル。
マインドコントロール
あえて言うなら、社会や人間の非合理性を認められない人というか、他人にとって筋が通っていても本人にとって筋が通ってないと感じることでもその人にとっては非合理なわけだけど、それによって抑圧されていることを常に意識している人はマインドコントロールされやすい。自尊心が強く、まじめな人ほど、あるいはかしこい人ほど。あるいはいきなりそういう状況に追い込まれてそれが永遠に続くと思える場合とか。結構誰にでも起こり得る話。