象の夢を見たことはない -150ページ目

今日の戦利品

ジムの受付でもらった

$ニャンちゅうなブログ-受付

チョコレート2つぶ。

あぁ、時が見える・・・

兄貴ぃー!しっかり!

ギブ!!

$ニャンちゅうなブログ-チョコレート

もっと、進駐軍みたいに!

兄貴ぃー!

ゴースト

矛盾する思想が人の中に同居しているのはなぜなんだろう?

『EV.CAFE』をずっと読み直していた。
坂本龍一も村上龍もまったく彼ら自身の中で矛盾しているのだけど、それを敢えて無視しようとしてるのか、そこは見えないように自動的にマスクされてしまうのか。

自分の中にもそれはあって、とくに好き嫌いの部分の中に。
例えば、中島みゆきは好きで長淵剛は嫌い。
どう考えてもどっちも演歌だし。
どっちも自分に酔っているし。
どっちも歌唱的にまとわりついてくるし。
そんなふうに自分の中で分析していくとまったく矛盾してしまう結果に終わる。

好きとか嫌いに理由はなくて、もっともらしい理由は後付けで自分の脳がでっちあげたものだと。
そういう話が池谷裕二氏の本の中にある。
脳科学的にはそうらしい。

結局、後付けで考えた話だからどこかで破綻するわけだけど、まったく相矛盾する帰結を生む結果になってしまうのはなぜなんだろうと。

それぞれの人の中には、コンプレックスとかトラウマとは違う、それよりもっと根源的で生理的な本能的なコアがある。
それはまったく相矛盾するベクトルを持っていて、それによって、これはこっちに、それはあっちに無意識的に振り分けられてしまうとか。磁石のN極S極の境目みたいのがあって、そこで全く逆転してしまう。そこの振り分けはとっても強固で。だから、矛盾してしまうとか。そんなふうにそれは表裏一体になっていて、それこそが生物の宿命で、宇宙の根源的な成り立ちがそうだからとか。

やっぱ、この本を読んでると病むわ。哲学ってほんと無駄な学問だなあ。
無駄じゃ無駄じゃ。
もっと動物的に生きるほうが健全だよ。

もうういい、わかった。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
それでいいことにする。
理由なんてどうでもいい。
所詮欲望なのだ。
欲望に高尚もへったくれもない。
相矛盾するコアで決定されるなにかに理由づけなんてできるわけはないのだ。
そういうことにしておこう。

だからいいのだ。



モンキー、モンキー、猿は猿
ティファニーで朝食を食べたとしても。

後記 2.11 AM11:51
ああ、そうか、やっとわかった。
脱構築のあと、世界にまともな哲学潮流がなくなった理由が。
基本的にあそこですべて解体されたのだ。

あるいは彼らが意図して解体した節がある。
そして『知の欺瞞』でその衒学部分にとどめを刺された。物理学者によって。
それにいちはやく反応したのが日本では浅田彰だったというのもなんだかよくわかる。

85年の時点で彼も既に脳科学を暗黙的に希求しているように思う。
浅田彰の『構造と力』は意図してるのかしてないのかわからんが、言ってることが現象学的に脳科学というか神経システムを社会モデル化しているようにしか思えないし、蓮實重彦もどうやらそういうものを希求してるのを自身で薄々わかってた。だが文系の学者という立場上自分から白旗を揚げる訳にはいかないわけで。。だから結論がいつもぼやけてたのか。


後記 2.12 15:39
シナプスの長期増強や長期抑圧などによって神経回路それ自体を形成するための重みが内的に決定されるその要因というのは扁桃体によるもの?情動的な出来事に関連付けられる記憶の形成と貯蔵における主要な役割を担う扁桃体。結局それは遺伝子によって決まってしまっているのだろうけど、それ自身の決定に作用を及ぼすフィードバック機構もある筈で。結局、脳深部の機能なので好悪の感情を大脳がロジカルに意味づけなんて出来ない。でも、人間の活動の中で相互影響しながら育っていくわけだから、丹念に自分の中を追っていけば自分の好みはわかってくる筈で。でもそんなふうな後付けのものよりやっぱり直接的な生理的嫌悪みたいなもののほうが強くて女性の方が平均するとそっちの影響が強いっていう気がする、人によるのだろうけど。そういう正直さというのはやはり生きる上で強いんだろうと思うのだが、まあそれがやたら強い場合学習出来ないという面もあるので、あながちそうだとは言い切れない。まあそんなとこだろう。だから学習された美というのは当然あるわけで、それがその社会において高尚であるとかどうか、いろいろ喧々諤々されているだけなんだろうけど。ただそれだけの話。どっちもあっていいんだよ、結局。多様性というのが生物にとってその種が生き延びるための真理だから。どっちにしても、他人の評価は他人の評価、自分は自分。自分的には、可塑的な面も持ちながら自分をきっちり追い求めて成長できる人がやっぱりカッコいいなあ。

『EV.cafe』

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を本屋でチラ見。
なんだか、対談文で(ここで、誰かが身をのりだす)的な動きが説明で入っているのが、個人的に読みにくい。何より、内容が思ってたものと違ったのでパス。オヤジが部室でダベってる感じ?
しかも会話が浅いというか、盛り上がりに欠けるというか。

芥川賞2作もチラ見したけど、もう芥川賞というのはムーブメントとして終わっているのかもしれない。同じ土俵で勝負してもあのオヤジどもが納得するものは書けないだろうし、彼らは自分達を破壊してほしいんだろうと暗に願ってるんだと思う。そしてそれはもはや文学ではないような気がする。
それがもうさんざんわかったから選考委員を辞退したり選考会を欠席したんだろう。

『EV.cafe』をチラチラ読み直している。
これ、やはり読んでて難しい。

当時の村上龍と坂本龍一の中で醸成された価値観があって、それを把握するのが難儀。
1985年のバブル期のもので、浅田彰、蓮實重彦が席巻してた頃なので、ポスト構造主義の時代なのだけど、村上龍と坂本龍一の主張を読んでいるとどうも、脱構築という運動自体が時代によって要請されていて、というか彼らの中にもそういう価値観があって、なにも例えば浅田彰が『構造と力』を書いたからムーブメントがおこったわけでないらしい。だからあんな哲学書?が売れたわけで。

まあいいや。
で、この中で音楽論について坂本龍一が語っているところが多くあって、そっちを読むほうが、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』よりずっとスリリングなんだよね。しかし、これ読んでるとわかるけど、村上龍ってほんとバカだなあと思う笑。対談するまわりの人間に賢い人たちが多いからだと思うけど。彼はこの本の中でもそうなのだが、基本的に舞台回しの役割なのよね。トリックスター的な。もしかしたら、そこが好きなのかなあ、オレ。

でも30代前半でこういうレベルの会話をこういう錚々たるメンツとするっていうのは凄過ぎ。昔の人ってそういう人ばかりでもないと思うのだけど、こういう年齢でこういう話を普通にできたんだろうか?自分は今でも出来ないし、今こんな会話が出来る30代の人っているのかなあ。

音楽やってる人は、最初の坂本龍一と村上龍との対話部分、あと吉本隆明と彼らの対談部分は読んだほうがイイと思う。とくに音楽で後世に名を残したいと夢想しているような人は、たぶんいまの自分の足元から崩壊し始めるだろうと思う。

EV.Caf  超進化論 (講談社文庫)/村上 龍

¥700
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イソップ童話の尻尾

北風と太陽って、最初は旅人の帽子をとる話で、太陽は燦燦と旅人を照り付けると、旅人はあまりにもの日差しで帽子をしっかりかぶり、次に北風が力いっぱい吹くと、みごと簡単に帽子は吹き飛んでしまった。というのがあるって今知った。

この話を聞かなければ、北風に対する愛の気持ちは少しはあったのだけどねえ。

なんだかさ、帳尻を合わせようとする行為っていうのは、逆にあざとく見える。
この話を聞いたとき、まず思ったのは潔くねえなあということで。
バランスなんていらないんだよ、感情にバランスは要らない。

逃げだよな、はっきり言ってそれは。
相手に対して留保される余地を残すというのは自分を守りたいためだけだという。
それって大人なようで全然大人じゃないなあと。
ただ小汚いだけだと。こぎたねーんだよと。

自分に対する甘えが自分にあるのはもうしょうがないと今では悟ってしまってるし。
そして必要のない敵もわざわざ作る必要なんてないけど。
自分が自身で守るべき場所はどこかでしっかり持ってないと、自分自身ですらなくなってしまう。

お互いがそうであるとお互いわかってれば男同志はそれでよいのだろうと。
喧嘩別れしたってそれでいい。

でも、北風と太陽って、しょうじきその関係は無理だったろうなと。
この話がなければね。
一勝一敗であり続けるっていうのも、しかも全力で。
それはそれで違う童話としてアリなのかもしれないと今ふとそう思った。