江の電
季節外れ。
そういう言葉で思い出す。
そんな場所とかモノにどこか魅かれる。
なんなんだろう?
誰にでもあるんじゃないかって思うのだけど。
いろんな人に「あなたが思う季節外れの場所は?」って聞くと
多くの人が、「あぁっ…」っていう郷愁を感じる場所ってあるんじゃないかと。
そういうのって聞いてみたいし、その場所に対する想いをそれぞれに聞いてみたい気がする。
たぶん、多くの人が江の島電鉄に乗った経験はあって。
それに対する想いっていうのが季節限定であるような気がする。
サザンオールスターズのせいかもしれないし、そのほかにもいろいろあるだろうけど。
季節外れの江の島とか鎌倉とか逗子に対する想いって、結構多くの人が夏以外に抱いているとそんなふうに思うのだけどどうだろう?
そういう場所が全国各地にあるって思うと、なんだかその場所にその時にいなければならないというjust in timeでない、ゆるーいくくりでのその場所に行ってみたい気がするのよね。
なんていうのか、盛りを外したその場所でしか味わえない、でもどこか自分だけの豊饒な時間。
独り占めしたい空間。
そういう言葉で思い出す。
そんな場所とかモノにどこか魅かれる。
なんなんだろう?
誰にでもあるんじゃないかって思うのだけど。
いろんな人に「あなたが思う季節外れの場所は?」って聞くと
多くの人が、「あぁっ…」っていう郷愁を感じる場所ってあるんじゃないかと。
そういうのって聞いてみたいし、その場所に対する想いをそれぞれに聞いてみたい気がする。
たぶん、多くの人が江の島電鉄に乗った経験はあって。
それに対する想いっていうのが季節限定であるような気がする。
サザンオールスターズのせいかもしれないし、そのほかにもいろいろあるだろうけど。
季節外れの江の島とか鎌倉とか逗子に対する想いって、結構多くの人が夏以外に抱いているとそんなふうに思うのだけどどうだろう?
そういう場所が全国各地にあるって思うと、なんだかその場所にその時にいなければならないというjust in timeでない、ゆるーいくくりでのその場所に行ってみたい気がするのよね。
なんていうのか、盛りを外したその場所でしか味わえない、でもどこか自分だけの豊饒な時間。
独り占めしたい空間。
鴉空
うーむ、難しいのである。
正直、『レッド・カウンター』と『バーディー』をどんな顔で聞けばいいのか。
どんな態度で聞けばいいのか。

ソロであればよいのだ。
どんな歌詞であろうと。
どんな想いで謳っていようと。
わかっているのだよ。
知っているのだ。
そういうファンばかりだからさ。
ただ、音楽というのは善悪を超えたところで。
特にロックというのはそうなのだと思う。
だから解放されるのだ。
村上龍が言うように。
フタをされるのだよ。
だから困るのだ。
どういう態度で聞けばいいのか。
ほんとはね、『So』にしてもさ、歌詞を聴けばわかるのだけどね。
生きるとか、死ぬとか
そんなことはもういい
そういう他人の死に対する感覚や感情の断絶というのがあってもいいと。
それでいいと。
それも普通のことで
それでもなおと。それでもと。
そういうアンビバレンツを謳うから納得するわけで。
ギリギリなんだよ。
どっちに転んでもおかしくないという。
ただの平和のプロパガンダだったら、客は歌を突き放すよ。
ニヒリスティックにならざるを得ない。
オマエは現場に行ったのか?と。
そこにその場にいたのかと。
問わざるを得ないのだよ。
と、なんだか老婆心が先奔るんだね。
とくに板谷祐氏の有り様を知っている彼らのグループのファンとの温度差を感じるこんなライブだとね。彼はいつも自分自身に対してリアルだ。
だからVEZは、善悪を超えて解放してほしい。
解放されたあとの答えは、歌い手ではなく、聴く人の中にしかないのだから。
コミュニケーションっていうのは、説教じゃないからね。
自分が善悪ギリギリでなければ相手には届かない
一方的な想いじゃない。
お互いの想いの間でしか、しかもお互いがギリギリの状況でしか成り立たないものだと思う。
受け手というのはいつもギリギリにいるわけじゃないけれど。
そういう状況を仕事だったり恋愛だったりでさ、あるいは生活そのものの中であたりまえのように知っているわけで。
なんどもそんなシノギを削ってきている年齢の人たちだからね。
そういう相手に響くかどうかというところ。
それに対して客はお金を払ってるんだろうと思う。
夢の無い話をすると。
でもやりとりしてるのがお金だけだったら、すべてのライブハウスなんてとっくに潰れてるし。
そもそもそんな世界なら歌や音楽なんていらない。
そんなふうに誰でも思ってんじゃないかなあと思うのだけど。
特に女子達。
あの子たちはヤバイよ。
そんなことなんて1秒で見抜く。
男なんて一瞬で三枚に卸されるね笑
すげーから。
欲望にリアルだから。
いくいく、こいこいって笑
負けるぜ!ちくしょー!
つっか、なんだかんだって前の方にいる女の子たちって愛だよなと。
いつものように思ってしまった名古屋ライブ。
まじ負ける苦笑
VEZ
2012/3/20(祝) Ikebukuro Chop

あ
、そうか!X JAPAN!!
「お客さんがみんなセイイチさんのベーアンヘッドを写メしまくっていたから何だろう?と思って見てみたら、hideちゃんの写真が貼ってありました。泣けた…」
だそうで。。やっぱそっちなのか、強えぇなあ、X。
正直、『レッド・カウンター』と『バーディー』をどんな顔で聞けばいいのか。
どんな態度で聞けばいいのか。

ソロであればよいのだ。
どんな歌詞であろうと。
どんな想いで謳っていようと。
わかっているのだよ。
知っているのだ。
そういうファンばかりだからさ。
ただ、音楽というのは善悪を超えたところで。
特にロックというのはそうなのだと思う。
だから解放されるのだ。
村上龍が言うように。
フタをされるのだよ。
だから困るのだ。
どういう態度で聞けばいいのか。
ほんとはね、『So』にしてもさ、歌詞を聴けばわかるのだけどね。
生きるとか、死ぬとか
そんなことはもういい
そういう他人の死に対する感覚や感情の断絶というのがあってもいいと。
それでいいと。
それも普通のことで
それでもなおと。それでもと。
そういうアンビバレンツを謳うから納得するわけで。
ギリギリなんだよ。
どっちに転んでもおかしくないという。
ただの平和のプロパガンダだったら、客は歌を突き放すよ。
ニヒリスティックにならざるを得ない。
オマエは現場に行ったのか?と。
そこにその場にいたのかと。
問わざるを得ないのだよ。
と、なんだか老婆心が先奔るんだね。
とくに板谷祐氏の有り様を知っている彼らのグループのファンとの温度差を感じるこんなライブだとね。彼はいつも自分自身に対してリアルだ。
だからVEZは、善悪を超えて解放してほしい。
解放されたあとの答えは、歌い手ではなく、聴く人の中にしかないのだから。
コミュニケーションっていうのは、説教じゃないからね。
自分が善悪ギリギリでなければ相手には届かない
一方的な想いじゃない。
お互いの想いの間でしか、しかもお互いがギリギリの状況でしか成り立たないものだと思う。
受け手というのはいつもギリギリにいるわけじゃないけれど。
そういう状況を仕事だったり恋愛だったりでさ、あるいは生活そのものの中であたりまえのように知っているわけで。
なんどもそんなシノギを削ってきている年齢の人たちだからね。
そういう相手に響くかどうかというところ。
それに対して客はお金を払ってるんだろうと思う。
夢の無い話をすると。
でもやりとりしてるのがお金だけだったら、すべてのライブハウスなんてとっくに潰れてるし。
そもそもそんな世界なら歌や音楽なんていらない。
そんなふうに誰でも思ってんじゃないかなあと思うのだけど。
特に女子達。
あの子たちはヤバイよ。
そんなことなんて1秒で見抜く。
男なんて一瞬で三枚に卸されるね笑
すげーから。
欲望にリアルだから。
いくいく、こいこいって笑
負けるぜ!ちくしょー!
つっか、なんだかんだって前の方にいる女の子たちって愛だよなと。
いつものように思ってしまった名古屋ライブ。
まじ負ける苦笑
VEZ
2012/3/20(祝) Ikebukuro Chop

あ
、そうか!X JAPAN!!「お客さんがみんなセイイチさんのベーアンヘッドを写メしまくっていたから何だろう?と思って見てみたら、hideちゃんの写真が貼ってありました。泣けた…」
だそうで。。やっぱそっちなのか、強えぇなあ、X。
live a life
ふたたび
再び路上で
元素記号を
さがしはじめる
キミみたいな武闘派のために
と最初。
いやブトウハというのは、舞踏派のほうがカッコいいなあ。
でも結局、本当は
キミみたいな無党派のために
だった佐野元春の『再び路上で』
そういう詩の聞き間違いって不思議なモーメンタムを自分の中に与える。というか、勝手に聞き間違える言葉っていうのは自分の中の無意識と繋がっているのだろうか。無意識からなにかが表出すると同時にその表出に自分でも驚くというか改めて気づくというか。
ずっと舞踏家が気になっていた。
自分の身体のすべてをその瞬間に随意に扱わなくてはいけない。意識されて統制された筋肉。なんかそれってなにげに究極のアスリートじゃない?
だが実際にテレビで暗黒舞踏をみたときには、いやたしかに「肉体の質感の提示」ではあったのだけど。どうもすっーと心に入ってこないし、なんだかなあと。
自分の無意識の中にある言語化できないフレームワーク化された何かというものが、ただ躍る肉体をみることで引っぱり出されてきて、あーそういうことかとハタと膝を打つなんていうのを期待してたんだけれど。まあ、ムシのいい話だけど。
それから時はながれて2008横浜トリエンナーレ。田中泯とか勅使川原三郎、佐東利穂子とか。結局時間の関係でそれらはみれなかったけど、三溪園で行われているティノ・セガールの《Kiss》を観た。
三溪園の日本家屋のなかで、男女2人のダンサーがまあ「いちゃつく」わけだけれども、なんていうのか凄い緊張感があるんだよね。畳の上で演じられて、自分達もその部屋の中にいて、ほんとに手の届く範囲で至近距離で見てたんだけれど、とくにお互いの身体をゆっくりと抱き合いながら臥位のままで身体を移動させていくシーン、どうやっておたがいにタイミングを取ってるのかがわからない。そのくらい自然ではあるけれど、張り詰めているのがわかる。まさに、《Kiss》っていう題にふさわしい、恋愛の駆け引き的な動き。聞こえるのは、畳をする音、衣擦れの音だけで。ひっそりと、ゆっくりとそれが行われる。まあ普通じゃない状況ではある。ティノ・セガールの作品は撮影禁止で、今までの作品もすべて記録に残していないそうで。
ああ、そういうことなんだと。舞踏というものの本質はそういうものなんだと。見たかったのは肉体が持つ緊張感なのだと。そして存在そのものなのだと。存在の瞬間というか、一瞬の生というか。その場で演じられて終わる、痕跡をのこさない一瞬というか。過ぎ去っていく現在というか。生きていることそのもので。今これを書いてて気がついた。田中泯のインタビュー記事(クリックすると飛びます)をこれを書くまえに見ていたのだけど、その中で
「世界を回っていて一番好きな場所はどこですか」とか「一番記憶に残るパフォーマンスは」などと質問されると、もう、ダメですね。自分の記憶の中からエポックを取りだし、それを一つの存在証明にするやり方は、僕には出来ない。一瞬一瞬を生きているのであって、次の瞬間に何を思い、何を言うかなんて、分からないんですから。」
とあって。そうか、この人ってだからそうなのかと。
『八日目の蝉』を観ていて、「なんだかすげえじいさんが出てる。なんだ、この存在感?この人、ただもんじゃねえなあ」と思ってたら田中泯だったのだよ。
いやまじで存在感が半端ないんだよ。無言というのはすごいね。まあ、無言ではないんだけどさ。
たぶん彼らが行っているのは、存在そのものの追求なんだよね、それを思索でなくて肉体そのもので表現するというか、一瞬一瞬の自己の存在確認。その作業が見ている観客に、肉体そのものを感じさせるというか、その人の存在そのものを確認させるというか。。
即興というのは、そのための手段であって。一瞬一瞬を生きること。そのことを他者に実際にリアルに感じさせること。
そういうことを普段から生業にしているから、ああいう映画にあって、ほんと多彩な俳優陣の中でも、とくに存在感が強いというか。
だからドキドキしたんだと思うんだね。ティノ・セガール*1の《Kiss》を見てて。人の恋愛を盗み見るような背徳感。それもあり。それをダンサーたちに逆にみられているという感覚。それもあり。それによって、自分自身がそこにいることを、自分の存在を客観的、主観的、その両方で同時に確認している自分。そういうのもあり。
こうやって話していても「あなた」と「わたし」がひっくり返るかも知れない。
あー、それってそういう意味だったのかと。
だから、生で見ないと意味がないんだね。
その場その場で一瞬の生を生きる。
一瞬一瞬それを続けること。
そのことによって、人がどういう存在になれるのかというのを確認する。
それがもし自分だったらどうなのかと。
そういうことを確認する場でもあるのだと。
<参考>
横浜トリエンナーレ2008-パフォーマンスを中心に
そう、だから
再び路上で
元素記号を
さがしはじめる
キミみたいな舞踏派のために
だからそれもやっぱり違うんだね。元素記号を探すこと自体がおかしかったのだ。探しているのは記号じゃない。探していたのは、探したいのは存在そのものを生きることだったのだよ。
もちろん日常ってのは常にそうじゃないけど、ふとした瞬間にためらったり迷ったりすることってあって。で、あのときなんでオレは行かんかったんやろ?とか動けよオレ!とかいう。。そういうことがより少なくなるほうに自分を倒していくことでしか何かに近づいていくことなんて出来ないと思うし、そう常に心がけることができたらハッピーだよなあと形而上ではなく単純に思う。
後記 2012.2.2
*1 ティノ・セガール(誤)→ティノ・セーガル(正)
誤り。スティーヴン・セガールという俳優が頭にあったんだろう。
恥っずー苦笑
再び路上で
元素記号を
さがしはじめる
キミみたいな武闘派のために
と最初。
いやブトウハというのは、舞踏派のほうがカッコいいなあ。
でも結局、本当は
キミみたいな無党派のために
だった佐野元春の『再び路上で』
そういう詩の聞き間違いって不思議なモーメンタムを自分の中に与える。というか、勝手に聞き間違える言葉っていうのは自分の中の無意識と繋がっているのだろうか。無意識からなにかが表出すると同時にその表出に自分でも驚くというか改めて気づくというか。
ずっと舞踏家が気になっていた。
自分の身体のすべてをその瞬間に随意に扱わなくてはいけない。意識されて統制された筋肉。なんかそれってなにげに究極のアスリートじゃない?
だが実際にテレビで暗黒舞踏をみたときには、いやたしかに「肉体の質感の提示」ではあったのだけど。どうもすっーと心に入ってこないし、なんだかなあと。
自分の無意識の中にある言語化できないフレームワーク化された何かというものが、ただ躍る肉体をみることで引っぱり出されてきて、あーそういうことかとハタと膝を打つなんていうのを期待してたんだけれど。まあ、ムシのいい話だけど。
それから時はながれて2008横浜トリエンナーレ。田中泯とか勅使川原三郎、佐東利穂子とか。結局時間の関係でそれらはみれなかったけど、三溪園で行われているティノ・セガールの《Kiss》を観た。
三溪園の日本家屋のなかで、男女2人のダンサーがまあ「いちゃつく」わけだけれども、なんていうのか凄い緊張感があるんだよね。畳の上で演じられて、自分達もその部屋の中にいて、ほんとに手の届く範囲で至近距離で見てたんだけれど、とくにお互いの身体をゆっくりと抱き合いながら臥位のままで身体を移動させていくシーン、どうやっておたがいにタイミングを取ってるのかがわからない。そのくらい自然ではあるけれど、張り詰めているのがわかる。まさに、《Kiss》っていう題にふさわしい、恋愛の駆け引き的な動き。聞こえるのは、畳をする音、衣擦れの音だけで。ひっそりと、ゆっくりとそれが行われる。まあ普通じゃない状況ではある。ティノ・セガールの作品は撮影禁止で、今までの作品もすべて記録に残していないそうで。
ああ、そういうことなんだと。舞踏というものの本質はそういうものなんだと。見たかったのは肉体が持つ緊張感なのだと。そして存在そのものなのだと。存在の瞬間というか、一瞬の生というか。その場で演じられて終わる、痕跡をのこさない一瞬というか。過ぎ去っていく現在というか。生きていることそのもので。今これを書いてて気がついた。田中泯のインタビュー記事(クリックすると飛びます)をこれを書くまえに見ていたのだけど、その中で
「世界を回っていて一番好きな場所はどこですか」とか「一番記憶に残るパフォーマンスは」などと質問されると、もう、ダメですね。自分の記憶の中からエポックを取りだし、それを一つの存在証明にするやり方は、僕には出来ない。一瞬一瞬を生きているのであって、次の瞬間に何を思い、何を言うかなんて、分からないんですから。」
とあって。そうか、この人ってだからそうなのかと。
『八日目の蝉』を観ていて、「なんだかすげえじいさんが出てる。なんだ、この存在感?この人、ただもんじゃねえなあ」と思ってたら田中泯だったのだよ。
いやまじで存在感が半端ないんだよ。無言というのはすごいね。まあ、無言ではないんだけどさ。
たぶん彼らが行っているのは、存在そのものの追求なんだよね、それを思索でなくて肉体そのもので表現するというか、一瞬一瞬の自己の存在確認。その作業が見ている観客に、肉体そのものを感じさせるというか、その人の存在そのものを確認させるというか。。
即興というのは、そのための手段であって。一瞬一瞬を生きること。そのことを他者に実際にリアルに感じさせること。
そういうことを普段から生業にしているから、ああいう映画にあって、ほんと多彩な俳優陣の中でも、とくに存在感が強いというか。
だからドキドキしたんだと思うんだね。ティノ・セガール*1の《Kiss》を見てて。人の恋愛を盗み見るような背徳感。それもあり。それをダンサーたちに逆にみられているという感覚。それもあり。それによって、自分自身がそこにいることを、自分の存在を客観的、主観的、その両方で同時に確認している自分。そういうのもあり。
こうやって話していても「あなた」と「わたし」がひっくり返るかも知れない。
あー、それってそういう意味だったのかと。
だから、生で見ないと意味がないんだね。
その場その場で一瞬の生を生きる。
一瞬一瞬それを続けること。
そのことによって、人がどういう存在になれるのかというのを確認する。
それがもし自分だったらどうなのかと。
そういうことを確認する場でもあるのだと。
<参考>
横浜トリエンナーレ2008-パフォーマンスを中心に
そう、だから
再び路上で
元素記号を
さがしはじめる
キミみたいな舞踏派のために
だからそれもやっぱり違うんだね。元素記号を探すこと自体がおかしかったのだ。探しているのは記号じゃない。探していたのは、探したいのは存在そのものを生きることだったのだよ。
もちろん日常ってのは常にそうじゃないけど、ふとした瞬間にためらったり迷ったりすることってあって。で、あのときなんでオレは行かんかったんやろ?とか動けよオレ!とかいう。。そういうことがより少なくなるほうに自分を倒していくことでしか何かに近づいていくことなんて出来ないと思うし、そう常に心がけることができたらハッピーだよなあと形而上ではなく単純に思う。
後記 2012.2.2
*1 ティノ・セガール(誤)→ティノ・セーガル(正)
誤り。スティーヴン・セガールという俳優が頭にあったんだろう。
恥っずー苦笑
夢と文章
自分の夢の内容を記述してみようと思い立って文章を書き始めたのだ。
そしてそれが難しいことに気づいた。景色を記述する場合の筆の使い方がよくわからない。全体像から始めるのか。部分から始めるのか。
通常文章を書く場合、自分の目と意識が向いている方向から書き始めて、視点をずらしていく。その視点の先にあるものと、自分の意識に浮かんだことを交互に書いていく。基本的に自分の意識がどう動くのかという動き方を考えてそれを追っていけば、自らの脳の動きが文章に転写されていく。その脳の動き方は、自分が景色を捉える動き方と同じ。「情」と「景」。
芥川龍之介の『歯車』は精神に異常をきたした人の主観でモノを眺めている。そういうものの見方が自然に自分の視点となって、自分が狂っているのか、主人公が狂っているのか、その境界があいまいになる。あれは気持ちの悪い読書体験だった。
文章を作る上での基本は読み手の意識の運動をどう作りだすかということに尽きるように思える。文章を読む人の意識を操る。でもそれは、自分の意識の動きを丹念に追っていくことでしかできないように思える。小手先で操ろうとすると、その筆先が読み手にはどうしても見えたりする。伊坂幸太郎のそれは自分にはよく見えてそれが彼の本を敬遠する理由の一つ。考えも浅いくせに教条じみてるからむかつくんだよね。人によってそれもさまざまだろうけど。
夢の記述に話を戻すと、夢の場合、自分の見えている風景があいまいで。
たぶん、あいまいなものをあいまいなまま記述することはできるけど、それだと読み手の意識が動かない。よくSFやファンタジーで地上に存在しない場所を書いていたりするけど、そういうものを記述しようとすると、自分がそれまでに見たことのあるものを引き合いに出してきて、「~のような」と書いてしまう。そうとしか書けないから。で、それを続けると冗長で締まりがない文章になってしまう。
だから途中で辞めてしまった。でも一番の理由はたぶんはっきりとモノが見えてないから。モノがはっきり見えてないと描けない。あたりまえだけど。
少し脱線するが、理系で仕事が出来る人には絵の才能がある人が多い。プログラマでも、絵が上手に描ける人には仕事のできる人が多い。文章だと誤魔化せるけど、絵にするとあいまいなところがすぐに露呈するから。特に設計能力のある人は絵が上手い。まあそれはともかく。
夢でなくても、景色を書こうとするとそんなふうに文章が冗長になる。テンポをつくって区切ってくというのがそれを防ぐ代表的な方法なんだろうけど、会話を入れたりして。それをしないで、一文で文章を書いていくとそれはそれでぐにゃぐにゃしたオモシロイ文章になるんだろうけど、例えば中上健次の『千年の愉楽』みたいに。でも、あれはあれで文章が不思議に締まっている。
『千年の愉楽』では、というか中上健次はメタファーを使わない。いとうせいこう氏がいうように間違っても「時計と目が合った」的な文章は書かないし、三振の美学的な文章なのだけど、文章を絞めるというか、読み手の意識の運動の方向を固定させるために使われる手法のひとつがメタファーなんだと思う。よいメタファーの場合、個々の情景描写に掛けるのではなく、もうすこし大きなある固まりで掛けるんだろうけど。蓮實氏との対談で、「表象をやるには技術論をやるしかないが、その技術というのはたんなる小手先の技術だったり飾ることではない。メタファーにしても本当にいいメタファーは一つしかないわけでそれをどう厳密に探すかということを小説の場合考えます」と村上龍は言っていて。本当にいいメタファーは一つしかない、それをどう厳密に探すか、たぶんそこがミソなんだろうと。どの単位でどう掛けるかとかね。よいメタファーは人にとって根源的な無意識の運動を含んでいるから、その動きで冗長さが救われたりするのかもしれない。よくわからんけど。
とはいえ技術論、そんなふうな文章作成のいろいろな手法を分析的に体系的に記述した本があればおもしろいなあ。その人の独断でもいいので、すごく読みたい。ないものだろうか。作家別にそれぞれの人がよくとる手法だとか。文学部のゼミでそういうのを考えたり研究したりしているところってあるのだろうか。筒井康隆なら自分でいろいろそういうのを纏めてるに違いないのだが。
もちろん、それは上から目線で研究するだけじゃなく、自分で真似してやってみるために纏めてるだろうわけで。あのオッサンのそういう偏執狂的なところが好きだ。なんにせよ自分でやってみないとホントのところはわからない。
別に小説家になりたいわけじゃないけれど、どんなことでも自分で実際真似してやってみないと気付かないことって多いものだと、こういう作業を始めてみるとわかる。
逆に言えば、やらないと絶対わからない。そしてわかることは人によって違うのかもしれない。
なにごとにおいても基本というのはたぶんそこなんだろうと思う。真似して考えながらトライしてみる。そして気付いてまたやってみる。地道な積み重ねだけど、そこでどう遊べるか、自分が楽しめてるかっていうのがまず始めにないと、基本続かないから積み重ねられない。その小さな愉しみが厚みを増していくといつのまにか目の前に別の世界が開けているっていうことがあるのだと思う。自分だけの大きな世界。しかもそこで初めて他の人と繋がれるというか。
上から目線で「自分を探す暇があったら自分を磨く」とかそんな当たり前のことだったら言う必要もないし、「世の中、探したって実現するほどの自分がない人間が大半だ」と言われても、それを言っちゃおしめえよとなるだけで。なんとかなんねえの?その袈裟斬りばりな言葉ってさとか思うわけ。芸がないというか、もうちょっと建設的な方向へ持っていけないのかねえ?と。
そういえば、ムーミン谷のじゃこうねずみさんって、『すべてがむだである事について』という哲学書を持っていてよくハンモックに寝ながら読んでいるとか。そんなふうになにもしないで知ったかぶりで自分の気持ちにフタをして終わっていく人から得られることなどなにもない。一人で死んでいくだけだろう。
なんだか、子供のときからこのじゃこうねずみさんというのがずっと気になっていたのだけど、たぶんそうやって自分を慰めることもときには必要なんだけど、見ないふりとか。自分の中にそういうところが人より多分にあるから気になってたんだろうと思う。だから余計にそういう言葉を吐く人に腹が立つというか。
しかし、トーベ・ヤンソンっていうのはすごい人だなあ。女の人にしかこういう小説は書けないんじゃなかろうか。人に対する洞察力と人生に対する慧眼を童話的に昇華させるというか。ときにやわらかく、そして辛辣に。てか一冊も読んだことないんだけど。なんじゃそりゃ苦笑。今度買ってみよう。
そしてそれが難しいことに気づいた。景色を記述する場合の筆の使い方がよくわからない。全体像から始めるのか。部分から始めるのか。
通常文章を書く場合、自分の目と意識が向いている方向から書き始めて、視点をずらしていく。その視点の先にあるものと、自分の意識に浮かんだことを交互に書いていく。基本的に自分の意識がどう動くのかという動き方を考えてそれを追っていけば、自らの脳の動きが文章に転写されていく。その脳の動き方は、自分が景色を捉える動き方と同じ。「情」と「景」。
芥川龍之介の『歯車』は精神に異常をきたした人の主観でモノを眺めている。そういうものの見方が自然に自分の視点となって、自分が狂っているのか、主人公が狂っているのか、その境界があいまいになる。あれは気持ちの悪い読書体験だった。
文章を作る上での基本は読み手の意識の運動をどう作りだすかということに尽きるように思える。文章を読む人の意識を操る。でもそれは、自分の意識の動きを丹念に追っていくことでしかできないように思える。小手先で操ろうとすると、その筆先が読み手にはどうしても見えたりする。伊坂幸太郎のそれは自分にはよく見えてそれが彼の本を敬遠する理由の一つ。考えも浅いくせに教条じみてるからむかつくんだよね。人によってそれもさまざまだろうけど。
夢の記述に話を戻すと、夢の場合、自分の見えている風景があいまいで。
たぶん、あいまいなものをあいまいなまま記述することはできるけど、それだと読み手の意識が動かない。よくSFやファンタジーで地上に存在しない場所を書いていたりするけど、そういうものを記述しようとすると、自分がそれまでに見たことのあるものを引き合いに出してきて、「~のような」と書いてしまう。そうとしか書けないから。で、それを続けると冗長で締まりがない文章になってしまう。
だから途中で辞めてしまった。でも一番の理由はたぶんはっきりとモノが見えてないから。モノがはっきり見えてないと描けない。あたりまえだけど。
少し脱線するが、理系で仕事が出来る人には絵の才能がある人が多い。プログラマでも、絵が上手に描ける人には仕事のできる人が多い。文章だと誤魔化せるけど、絵にするとあいまいなところがすぐに露呈するから。特に設計能力のある人は絵が上手い。まあそれはともかく。
夢でなくても、景色を書こうとするとそんなふうに文章が冗長になる。テンポをつくって区切ってくというのがそれを防ぐ代表的な方法なんだろうけど、会話を入れたりして。それをしないで、一文で文章を書いていくとそれはそれでぐにゃぐにゃしたオモシロイ文章になるんだろうけど、例えば中上健次の『千年の愉楽』みたいに。でも、あれはあれで文章が不思議に締まっている。
『千年の愉楽』では、というか中上健次はメタファーを使わない。いとうせいこう氏がいうように間違っても「時計と目が合った」的な文章は書かないし、三振の美学的な文章なのだけど、文章を絞めるというか、読み手の意識の運動の方向を固定させるために使われる手法のひとつがメタファーなんだと思う。よいメタファーの場合、個々の情景描写に掛けるのではなく、もうすこし大きなある固まりで掛けるんだろうけど。蓮實氏との対談で、「表象をやるには技術論をやるしかないが、その技術というのはたんなる小手先の技術だったり飾ることではない。メタファーにしても本当にいいメタファーは一つしかないわけでそれをどう厳密に探すかということを小説の場合考えます」と村上龍は言っていて。本当にいいメタファーは一つしかない、それをどう厳密に探すか、たぶんそこがミソなんだろうと。どの単位でどう掛けるかとかね。よいメタファーは人にとって根源的な無意識の運動を含んでいるから、その動きで冗長さが救われたりするのかもしれない。よくわからんけど。
とはいえ技術論、そんなふうな文章作成のいろいろな手法を分析的に体系的に記述した本があればおもしろいなあ。その人の独断でもいいので、すごく読みたい。ないものだろうか。作家別にそれぞれの人がよくとる手法だとか。文学部のゼミでそういうのを考えたり研究したりしているところってあるのだろうか。筒井康隆なら自分でいろいろそういうのを纏めてるに違いないのだが。
もちろん、それは上から目線で研究するだけじゃなく、自分で真似してやってみるために纏めてるだろうわけで。あのオッサンのそういう偏執狂的なところが好きだ。なんにせよ自分でやってみないとホントのところはわからない。
別に小説家になりたいわけじゃないけれど、どんなことでも自分で実際真似してやってみないと気付かないことって多いものだと、こういう作業を始めてみるとわかる。
逆に言えば、やらないと絶対わからない。そしてわかることは人によって違うのかもしれない。
なにごとにおいても基本というのはたぶんそこなんだろうと思う。真似して考えながらトライしてみる。そして気付いてまたやってみる。地道な積み重ねだけど、そこでどう遊べるか、自分が楽しめてるかっていうのがまず始めにないと、基本続かないから積み重ねられない。その小さな愉しみが厚みを増していくといつのまにか目の前に別の世界が開けているっていうことがあるのだと思う。自分だけの大きな世界。しかもそこで初めて他の人と繋がれるというか。
上から目線で「自分を探す暇があったら自分を磨く」とかそんな当たり前のことだったら言う必要もないし、「世の中、探したって実現するほどの自分がない人間が大半だ」と言われても、それを言っちゃおしめえよとなるだけで。なんとかなんねえの?その袈裟斬りばりな言葉ってさとか思うわけ。芸がないというか、もうちょっと建設的な方向へ持っていけないのかねえ?と。
そういえば、ムーミン谷のじゃこうねずみさんって、『すべてがむだである事について』という哲学書を持っていてよくハンモックに寝ながら読んでいるとか。そんなふうになにもしないで知ったかぶりで自分の気持ちにフタをして終わっていく人から得られることなどなにもない。一人で死んでいくだけだろう。
なんだか、子供のときからこのじゃこうねずみさんというのがずっと気になっていたのだけど、たぶんそうやって自分を慰めることもときには必要なんだけど、見ないふりとか。自分の中にそういうところが人より多分にあるから気になってたんだろうと思う。だから余計にそういう言葉を吐く人に腹が立つというか。
しかし、トーベ・ヤンソンっていうのはすごい人だなあ。女の人にしかこういう小説は書けないんじゃなかろうか。人に対する洞察力と人生に対する慧眼を童話的に昇華させるというか。ときにやわらかく、そして辛辣に。てか一冊も読んだことないんだけど。なんじゃそりゃ苦笑。今度買ってみよう。