Xへの手紙
「批評とは生命の獲得ではないが発見である。」
というのは小林秀雄の言葉だが、これっていろんなことに言えるんじゃないかと。
音楽とは生命の獲得ではないが発見であるとか。ほんといろいろ。
肝心なことは、彼が自分の仕事に見出したコレを自分が感じれるかどうかで。
なかなかね、仕事だとかなんだとか抽象的に考えたところで手元にソレは降りてこないわけで。
冬の木枯らしが吹く道を足早に歩いているときにも、自分が生きていることを発見することはある。寒さも悪くはないと最近思えるようになってきた。そういう瞬間に最近幸せを感じるのだけれど。
そんな瞬間だけでも充分なんじゃねえのかなあっていう気もするんだよね。
あーやっぱり弱ってるのかなあオレ。生きてる感はあるんだけどなあ。
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)/著者不明

¥756
Amazon.co.jp
この本を最近ツラツラながめていて、やはり20代の小林秀雄はそれ以降の小林秀雄を突き放して良い。早熟であることは、他者を寄せ付けないし、追いつかせない。そして、30代以降の彼には書けない文章を書いていたりする。まったく。。
この本の中に『Xへの手紙』の抜粋がいくつか収められているのだが、いままで正直まったくわからなかった。なので興味も沸かなかったのだけど、いまになってようやく少しづつわかってきた。彼が20代のときに書いた文章なのだが。
すごく気にいった一節があったので引き写しておく。
ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、しばしば、人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われる様な頂きをみつける。この頂きを持っていない思想家は俺には読むに堪えない。頂きまで登りつめた言葉は、そこで殆ど意味を失うかと思える程ふるえている。絶望の表現ではないが絶望的に緊迫している。無意味ではないが絶えず動揺して意味を固定し難い。俺はこうゆう極限をさまようていの言葉に出会うごとに、譬えようのない感動を受けるのだが、俺にはこの感動の内容を説明することが出来ない。だがこの感動が俺の勝手な夢だとは又どうしても思えない。(『Xへの手紙』4-七七)
というのは小林秀雄の言葉だが、これっていろんなことに言えるんじゃないかと。
音楽とは生命の獲得ではないが発見であるとか。ほんといろいろ。
肝心なことは、彼が自分の仕事に見出したコレを自分が感じれるかどうかで。
なかなかね、仕事だとかなんだとか抽象的に考えたところで手元にソレは降りてこないわけで。
冬の木枯らしが吹く道を足早に歩いているときにも、自分が生きていることを発見することはある。寒さも悪くはないと最近思えるようになってきた。そういう瞬間に最近幸せを感じるのだけれど。
そんな瞬間だけでも充分なんじゃねえのかなあっていう気もするんだよね。
あーやっぱり弱ってるのかなあオレ。生きてる感はあるんだけどなあ。
人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)/著者不明

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この本を最近ツラツラながめていて、やはり20代の小林秀雄はそれ以降の小林秀雄を突き放して良い。早熟であることは、他者を寄せ付けないし、追いつかせない。そして、30代以降の彼には書けない文章を書いていたりする。まったく。。
この本の中に『Xへの手紙』の抜粋がいくつか収められているのだが、いままで正直まったくわからなかった。なので興味も沸かなかったのだけど、いまになってようやく少しづつわかってきた。彼が20代のときに書いた文章なのだが。
すごく気にいった一節があったので引き写しておく。
ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、しばしば、人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われる様な頂きをみつける。この頂きを持っていない思想家は俺には読むに堪えない。頂きまで登りつめた言葉は、そこで殆ど意味を失うかと思える程ふるえている。絶望の表現ではないが絶望的に緊迫している。無意味ではないが絶えず動揺して意味を固定し難い。俺はこうゆう極限をさまようていの言葉に出会うごとに、譬えようのない感動を受けるのだが、俺にはこの感動の内容を説明することが出来ない。だがこの感動が俺の勝手な夢だとは又どうしても思えない。(『Xへの手紙』4-七七)
リバイタライズ
日曜日に買ったのだった。
パッカハーブスのハーブティー。

友達に昔貰って、たまたま店で見つけて懐かしかったので。
こういうのは冬にしか飲まないねえ。
さっき飲んでみた。
味おんちなのでうまいとかどうとかよくわからないのだが、
こういうのって時間を愉しむものなんだろうねえ。
パッケージがリバティー柄っぽいけど違うのだろうか。
とにかくそれに魅かれる。
てかずっとプッカだと思ってた笑。
最近やたらと赤いモノばっかし買ってしまっている。
よわっちょるなー。
ん?
もしかして冬だから赤いものが欲しくなるのか?
無彩色の世界だからさぁ、色合い的にビビットなものに惹かれるとか。
で、赤の補色として緑と。あるいはその逆とか。
違うかなあ。

さて、これはなんでしょう?
ヒントはこれ。

パッカハーブスのハーブティー。

友達に昔貰って、たまたま店で見つけて懐かしかったので。
こういうのは冬にしか飲まないねえ。
さっき飲んでみた。
味おんちなのでうまいとかどうとかよくわからないのだが、
こういうのって時間を愉しむものなんだろうねえ。
パッケージがリバティー柄っぽいけど違うのだろうか。
とにかくそれに魅かれる。
てかずっとプッカだと思ってた笑。
最近やたらと赤いモノばっかし買ってしまっている。
よわっちょるなー。
ん?
もしかして冬だから赤いものが欲しくなるのか?無彩色の世界だからさぁ、色合い的にビビットなものに惹かれるとか。
で、赤の補色として緑と。あるいはその逆とか。
違うかなあ。

さて、これはなんでしょう?
ヒントはこれ。

平清盛 雑感
映像表現で、1つのシーンの時間を随意に引き延ばしたり縮めたり、心臓の鼓動と同期するみたいに揺らしたり、複数の視点から同時に撮影したり、しかもそれらを組み合わせたり、なんだか最近のアメリカ映画ってすごいのだが、『平清盛』製作費が大河史上最高とか言ってるわりには、そのあたりが昔のままで。
映像は綺麗なのだけど、クレーン使うにしても二次元的なカメラワークだし。空間認知が長けている人は画面の複数のポイントの動きを無意識にグルーピングしながら移動して撮影したりできるのだけど、そのあたりがあいかわらず弱い。夜中の環境番組的な映像っぽい。絵は綺麗なんだけど、絵コンテ的に構図として固定で撮る的な発想しかまだないというか、1点集中な感じで。もう時代はそんなもんじゃなくなってるのに。特に若い世代はゲームでそういう認知や感覚が格段に発達して来てるだろうから物足りないんじゃなかろうか。そうでもないんだろうか。まあ、自分は古い人間なのでこういう映像のほうが体に馴染みやすいのだけど。
3DCADも一般的な設計技術になってきてそれに触れる人も多くなっている現在、立体的な構図の視点を持つ人が一般の人にも増えているし、デジカメやらなにやら、何度でも撮ったり消去したりしながらシミュレートできるのでそのあたりのフツーの人の視覚映像の能力の上がり具合なんて、昔の比じゃない。
そういえば、和太鼓とブラジルのサンバ音楽の打楽器を聞いてても、リズムが和太鼓の方が未分化というか。サンバだと身体の複数の部位をまったく違うリズムで動かせて、そういうのが躍りになると複雑なリズムを1つの体でなぞりだす。そんなことが出来たりするのだけど、日本の舞踊ってそこまでいってない。日本の舞踊や能なんかが形を重要視するっていうのも、そういうことなんじゃないかなあと。スポーツでもほんとは動きの中でどこをどう使うか認識しなければいけないのに二次元的に型でしか認知できないというか。不得意というか。発達してないというか。マンガも考えてみたらそういう文化っぽいし。日本絵画もどっちかといえばのっぺりぺったりしてるし。個人差はあるけど、企業のようなグループワークが主体な生産組織だと、そのあたりに強い人の個人差も吸い込まれてしまったりするだろう。
結局、そういう表現とかなんとかって過去の時代を生きた人に引きづられながら推移していくしかないので、劇的に世の中が変わるということはないのだろうなあ。少子高齢化が進む社会だとさらにその傾向は強化されそうな気も。それって、残念なのだか、残念でないのか、自分でも今はよくわからない。すくなくとも年寄りが幅を利かせてる時代って社会的にはよろしくはないだろう。価値観が変わらないと経済も動かない。
音楽と空間認知能力というのは密接な関係があって、音楽の場合、時間芸術なわけだけど、空間認知というのもただ単にある一瞬の空間を認知するだけでなく。そこにあるものがどう動くか、あるいは自分はどう動いているかというものも把握しながら、時間連続的に把握するわけで。
当然、そういう認知の中では予知を行いながら動かないと、ボールをキャッチできないし、車にも轢かれるので、それぞれの目に見える物体のスピードや動く方向を見定める能力が必要で。その処理の方式がどうやら音楽認知の方式と被るらしい。たぶん映像をグループ化、チャンク化して認知してるんだと思うんだけど。時間的にグループ化して処理するという点で脳の同じ部分を使い回ししていると考えるほうがより自然だと素人な自分にも思える。
たとえば、池谷裕二氏の『単純な脳、複雑な私』に15ドットの人間ていうのがある。(PCだとクリックするとそれぞれ飛びます)
「わずか15個の点の動きをみただけで、私たちの脳は瞬間的に相手の性別や感情を的確に解釈する」って本に書かれているようにこんなふうに人の動きもゲシュタルト群化認知してて、その認知の際のグルーピング方法とか処理の方法とかが音楽認知の方式と被っているってことだと思うんだけど。
ちなみに、モーツァルトの「二台のピアノのためのソナタ , ニ長調 , K448」を聴くと頭が良くなるというのは、この空間認知に限った話。ただそれもまだ研究途中のレベルで発表されたものだけど。
なんかでも、ふつうに考えるとそれもありそうな気がするんだよね。高い音、低い音とか弾むようにだとか沈むようにだとか、そういう空間認知や空間運動認知的なメタファーで音や音楽を表すのもそういう理屈で。
クラッシックやオーケストラをよく聴く人って、たとえばそれぞれの楽器の音をグルーピングしながら同時進行で認知できていて、指揮者とかだと、一人一人の演者が出す音まで聴けるらしいのだけど、日本人にもそんなとんでもない能力を持った人がいるのだろうけど、おしなべて平均すると世界的にはまだまだなのだろうか。なんて思ってしまった。おれもクラッシック聴かないし、ちゃんと聴けないからなあ。まあ、なにからなにまで音楽と空間認知を結び付けるのもどうかとは思うけど。
温故知新っていうけど、そういうところで、温めるべき故と捨てるべき故を自分の中で常に見なおしてないとダメな年齢になってきたんだな。そしてそういう自分にとっての選択の基準は、日本の内側にいるより外に出た方がはっきり見えるのだろう、おそらく自分の場合。外に出た方が日本人の良さがわかりやすい。
映像は綺麗なのだけど、クレーン使うにしても二次元的なカメラワークだし。空間認知が長けている人は画面の複数のポイントの動きを無意識にグルーピングしながら移動して撮影したりできるのだけど、そのあたりがあいかわらず弱い。夜中の環境番組的な映像っぽい。絵は綺麗なんだけど、絵コンテ的に構図として固定で撮る的な発想しかまだないというか、1点集中な感じで。もう時代はそんなもんじゃなくなってるのに。特に若い世代はゲームでそういう認知や感覚が格段に発達して来てるだろうから物足りないんじゃなかろうか。そうでもないんだろうか。まあ、自分は古い人間なのでこういう映像のほうが体に馴染みやすいのだけど。
3DCADも一般的な設計技術になってきてそれに触れる人も多くなっている現在、立体的な構図の視点を持つ人が一般の人にも増えているし、デジカメやらなにやら、何度でも撮ったり消去したりしながらシミュレートできるのでそのあたりのフツーの人の視覚映像の能力の上がり具合なんて、昔の比じゃない。
そういえば、和太鼓とブラジルのサンバ音楽の打楽器を聞いてても、リズムが和太鼓の方が未分化というか。サンバだと身体の複数の部位をまったく違うリズムで動かせて、そういうのが躍りになると複雑なリズムを1つの体でなぞりだす。そんなことが出来たりするのだけど、日本の舞踊ってそこまでいってない。日本の舞踊や能なんかが形を重要視するっていうのも、そういうことなんじゃないかなあと。スポーツでもほんとは動きの中でどこをどう使うか認識しなければいけないのに二次元的に型でしか認知できないというか。不得意というか。発達してないというか。マンガも考えてみたらそういう文化っぽいし。日本絵画もどっちかといえばのっぺりぺったりしてるし。個人差はあるけど、企業のようなグループワークが主体な生産組織だと、そのあたりに強い人の個人差も吸い込まれてしまったりするだろう。
結局、そういう表現とかなんとかって過去の時代を生きた人に引きづられながら推移していくしかないので、劇的に世の中が変わるということはないのだろうなあ。少子高齢化が進む社会だとさらにその傾向は強化されそうな気も。それって、残念なのだか、残念でないのか、自分でも今はよくわからない。すくなくとも年寄りが幅を利かせてる時代って社会的にはよろしくはないだろう。価値観が変わらないと経済も動かない。
音楽と空間認知能力というのは密接な関係があって、音楽の場合、時間芸術なわけだけど、空間認知というのもただ単にある一瞬の空間を認知するだけでなく。そこにあるものがどう動くか、あるいは自分はどう動いているかというものも把握しながら、時間連続的に把握するわけで。
当然、そういう認知の中では予知を行いながら動かないと、ボールをキャッチできないし、車にも轢かれるので、それぞれの目に見える物体のスピードや動く方向を見定める能力が必要で。その処理の方式がどうやら音楽認知の方式と被るらしい。たぶん映像をグループ化、チャンク化して認知してるんだと思うんだけど。時間的にグループ化して処理するという点で脳の同じ部分を使い回ししていると考えるほうがより自然だと素人な自分にも思える。
たとえば、池谷裕二氏の『単純な脳、複雑な私』に15ドットの人間ていうのがある。(PCだとクリックするとそれぞれ飛びます)
「わずか15個の点の動きをみただけで、私たちの脳は瞬間的に相手の性別や感情を的確に解釈する」って本に書かれているようにこんなふうに人の動きもゲシュタルト群化認知してて、その認知の際のグルーピング方法とか処理の方法とかが音楽認知の方式と被っているってことだと思うんだけど。
ちなみに、モーツァルトの「二台のピアノのためのソナタ , ニ長調 , K448」を聴くと頭が良くなるというのは、この空間認知に限った話。ただそれもまだ研究途中のレベルで発表されたものだけど。
なんかでも、ふつうに考えるとそれもありそうな気がするんだよね。高い音、低い音とか弾むようにだとか沈むようにだとか、そういう空間認知や空間運動認知的なメタファーで音や音楽を表すのもそういう理屈で。
クラッシックやオーケストラをよく聴く人って、たとえばそれぞれの楽器の音をグルーピングしながら同時進行で認知できていて、指揮者とかだと、一人一人の演者が出す音まで聴けるらしいのだけど、日本人にもそんなとんでもない能力を持った人がいるのだろうけど、おしなべて平均すると世界的にはまだまだなのだろうか。なんて思ってしまった。おれもクラッシック聴かないし、ちゃんと聴けないからなあ。まあ、なにからなにまで音楽と空間認知を結び付けるのもどうかとは思うけど。
温故知新っていうけど、そういうところで、温めるべき故と捨てるべき故を自分の中で常に見なおしてないとダメな年齢になってきたんだな。そしてそういう自分にとっての選択の基準は、日本の内側にいるより外に出た方がはっきり見えるのだろう、おそらく自分の場合。外に出た方が日本人の良さがわかりやすい。
深く、濃く、柔らかく
今、世間はバザールなんだねえ。
正月明けって金銭感覚が外れ気味なんだよね。
なので、買ってしまう。
ルパンIII ボックススツールってのをパルコで買ってしまった。
いまお取り寄せ中。
そんな高くないんだよ。

まあ、これは普通な感じなんだけど。
時計も買った。

これがなかなか感じいいっしょ?
二回見に行った。1回目は売り切れてて在庫なし。
これで安いのだな。
カーテンも買おうかとおもったけど、でかいファブリックはやっぱ高いなあ。
70年代風っていうのが、『ノルウエイの森』を観てから今になって意識の上の方に上がってきてて。
自分の中で熟成される時間っていうのが家具のデザインものとか陶器とかには必要らしく。
見てからそのエッセンスが意識の上のほうに上がってくるまで時間がかかる。
そういうのって自分だけなのかなあ。
あのプールの水原希子のシーンで出てきたカーテンが今でも目の中に残照みたいに残ってて。
それが残照として残るための時間。夾雑物が剥ぎ取られるための時間。
すぐに反応して買ったものってあんまり良くないんだよね、自分の場合。
なんなんだろうねえ。
そういやさ、美容師さん的なデザインセンスなのかもしれないなと思う。
トラン・アン・ユン。たぶん『ノルウエイの森』がそうだからかなあ。
どこか全体の感じが今の日本のヘアサロンと似ている。
正月明けって金銭感覚が外れ気味なんだよね。
なので、買ってしまう。
ルパンIII ボックススツールってのをパルコで買ってしまった。
いまお取り寄せ中。
そんな高くないんだよ。

まあ、これは普通な感じなんだけど。
時計も買った。

これがなかなか感じいいっしょ?
二回見に行った。1回目は売り切れてて在庫なし。
これで安いのだな。
カーテンも買おうかとおもったけど、でかいファブリックはやっぱ高いなあ。
70年代風っていうのが、『ノルウエイの森』を観てから今になって意識の上の方に上がってきてて。
自分の中で熟成される時間っていうのが家具のデザインものとか陶器とかには必要らしく。
見てからそのエッセンスが意識の上のほうに上がってくるまで時間がかかる。
そういうのって自分だけなのかなあ。
あのプールの水原希子のシーンで出てきたカーテンが今でも目の中に残照みたいに残ってて。
それが残照として残るための時間。夾雑物が剥ぎ取られるための時間。
すぐに反応して買ったものってあんまり良くないんだよね、自分の場合。
なんなんだろうねえ。
そういやさ、美容師さん的なデザインセンスなのかもしれないなと思う。
トラン・アン・ユン。たぶん『ノルウエイの森』がそうだからかなあ。
どこか全体の感じが今の日本のヘアサロンと似ている。
