『八日目の蝉』 角田光代
そう言えば、年末にダイハツクーザに行ったのだ。

妹と姪っ子2人と。
今、角田光代の『八日目の蝉』を観ている。映画のほう。
姪っ子の成長を見ていて、友達が言っていた「女のコは生まれたときから女」というのは全くその通りだと。正直、角田光代の小説は嫌いなのだ。生理的に受け付けない。
「甘い、ヌルい、あつかましい」
女の持つそういう面が小説の前面に押し出されている。しかも、「それをすべて受け入れて欲しい」という意識がどこかしらに見える。しかもそれが女のすべてなのだと。
正直、人間として気持ち悪いだろうと。自分自身ですら扱いに困るし、それってどうなの?って思っている(であろう)そんな面。それだけを丸投げされて「ああ、全部オッケー!」。んな寛大な男がいたら逆に、裏を疑うのが筋ってもんでしょ?そういう甘さ。
だがね、どうも姪っ子どもを見てるとそれだけでもない。
しかし、女のコっていうのは、どうしてこうもほんと一人一人ぜんっぜん違うのに、女であることは同じなのかと思う。同じ親から生まれたのかと思うほど姪っ子2人性格が違うのだけれど。
しかもまだ、6歳と9歳なのにしっかりしてるというか、ほとんど基本は出来てしまっているしね。男のコはたぶん10歳くらいにならないと基本はできないんじゃねえか。ぐずぐずしてる。
妹夫婦が自分のことをどう喋っているのかっていうのは、だいたい彼女たちの話を聞いてて、それに対する妹の慌てた反応を見てるとわかるのだが。しかし、オイラの妹はほんとバカだなあと思う笑。隠し切れていると自分では思っているのだろうけど、底が浅すぎなんだよ、おめえ。ウソなんていっつもバレバレだぜ。しょうがねえなあ苦笑。まあ、それはともかく、それを隠したうえで、さらに自分の考えを反語的に喋ってくる下の6歳の姪っ子。6歳だぜ?まったく…
そういう逆に言えば正直なところとかさ、そういうところがやっぱり『八日目の蝉』を観てると見えて来て、まったくしょうがねえなと思いつつ、どこかで許してしまうんだろうねえ。どこかで腹立たしく思いながらも。
この作品を観ていて、あるいは彼女の本を読んで、男は男同志、女は女同志で過ごしたほうが楽にちがいないとも思うんだけど、とくにね、あのエンジェルホーム。あれは一つの理想社会ではあるのだと思う。
だけど、一方でそれだけではオモシロくも可笑しくもないという人生のやっかいさというか苦しさというか。そしてあのエンジェルホームは、なにかを逃れた世界でしかないというか。困ったもんだね苦笑。あんなに円環はキチンと閉じているというのに。
「七日で死ぬよりも、八日目に生き残ってしまった蝉のほうが悲しいと思ってたけど、違うのかも知れない。八日目の蝉ははさ、他の蝉に見られなかったなにかを見れるかもしれないよね。」そのセリフがやっぱり金言なこの映画。
ていうか、必死に生きる。そういういのちのギリギリっていう。そういうところでしか見れない景色があるかないかを知ってるか否か。八日目に生き残ってしまった蝉が悲しい存在なのかどうなのか?っていうのを各自が決めるのはそういうとこなのだと思う。なにかを自覚してしまった。なにかを知ってしまった。しかし、そこで更に…。そこを汲み取れるかどうかっていうところがこの映画を観て面白いとおもえるかどうかの境目なんだと思う。
結局、そこを今までの経験から知っているかどうか。
そういうことなのかもしれない。
そのために生きているのかも知れない。
人が自殺するかしないか、極論すればそういうことなんだろうか?あるいは女の人が自分の子供を堕ろす堕ろさないかを決める基準になるとか。あるいは夫婦ともに子供を作るか作らないかを決める基準になるとか。
考えてみればコワいことなのだけど。そこまで迷うことがないならそれはそれで幸せだけど、迷った後に生のほうに倒せるのであれば、そっちのほうがやはりより素敵なことだと思うのだね。そこに共感したというか。
でも小説のほうを読んでないからなあ。映画はいいんだけど。読んだらまた胸が悪くなるかもしれないなあ、wikipediaでちょっと小説の方の筋を見たけど、やっぱ、角田光代はダメだわ、生理的にダメだ。受け付けんわ。
誰にだって経験はあるんだと思う。そういうギリギリで見た景色っていうのが、永遠に覚えているかもって思ったこととかね。そう思える経験さえあればさ、まだこの先にもそれがあるから生きていけるんだと。
忘れっちまうんだよね、そういう経験って。
だから行けるときは行かないと笑
ACOがいないと、この歌、締まらない二人だよね。

妹と姪っ子2人と。
今、角田光代の『八日目の蝉』を観ている。映画のほう。
姪っ子の成長を見ていて、友達が言っていた「女のコは生まれたときから女」というのは全くその通りだと。正直、角田光代の小説は嫌いなのだ。生理的に受け付けない。
「甘い、ヌルい、あつかましい」
女の持つそういう面が小説の前面に押し出されている。しかも、「それをすべて受け入れて欲しい」という意識がどこかしらに見える。しかもそれが女のすべてなのだと。
正直、人間として気持ち悪いだろうと。自分自身ですら扱いに困るし、それってどうなの?って思っている(であろう)そんな面。それだけを丸投げされて「ああ、全部オッケー!」。んな寛大な男がいたら逆に、裏を疑うのが筋ってもんでしょ?そういう甘さ。
だがね、どうも姪っ子どもを見てるとそれだけでもない。
しかし、女のコっていうのは、どうしてこうもほんと一人一人ぜんっぜん違うのに、女であることは同じなのかと思う。同じ親から生まれたのかと思うほど姪っ子2人性格が違うのだけれど。
しかもまだ、6歳と9歳なのにしっかりしてるというか、ほとんど基本は出来てしまっているしね。男のコはたぶん10歳くらいにならないと基本はできないんじゃねえか。ぐずぐずしてる。
妹夫婦が自分のことをどう喋っているのかっていうのは、だいたい彼女たちの話を聞いてて、それに対する妹の慌てた反応を見てるとわかるのだが。しかし、オイラの妹はほんとバカだなあと思う笑。隠し切れていると自分では思っているのだろうけど、底が浅すぎなんだよ、おめえ。ウソなんていっつもバレバレだぜ。しょうがねえなあ苦笑。まあ、それはともかく、それを隠したうえで、さらに自分の考えを反語的に喋ってくる下の6歳の姪っ子。6歳だぜ?まったく…
そういう逆に言えば正直なところとかさ、そういうところがやっぱり『八日目の蝉』を観てると見えて来て、まったくしょうがねえなと思いつつ、どこかで許してしまうんだろうねえ。どこかで腹立たしく思いながらも。
この作品を観ていて、あるいは彼女の本を読んで、男は男同志、女は女同志で過ごしたほうが楽にちがいないとも思うんだけど、とくにね、あのエンジェルホーム。あれは一つの理想社会ではあるのだと思う。
だけど、一方でそれだけではオモシロくも可笑しくもないという人生のやっかいさというか苦しさというか。そしてあのエンジェルホームは、なにかを逃れた世界でしかないというか。困ったもんだね苦笑。あんなに円環はキチンと閉じているというのに。
「七日で死ぬよりも、八日目に生き残ってしまった蝉のほうが悲しいと思ってたけど、違うのかも知れない。八日目の蝉ははさ、他の蝉に見られなかったなにかを見れるかもしれないよね。」そのセリフがやっぱり金言なこの映画。
ていうか、必死に生きる。そういういのちのギリギリっていう。そういうところでしか見れない景色があるかないかを知ってるか否か。八日目に生き残ってしまった蝉が悲しい存在なのかどうなのか?っていうのを各自が決めるのはそういうとこなのだと思う。なにかを自覚してしまった。なにかを知ってしまった。しかし、そこで更に…。そこを汲み取れるかどうかっていうところがこの映画を観て面白いとおもえるかどうかの境目なんだと思う。
結局、そこを今までの経験から知っているかどうか。
そういうことなのかもしれない。
そのために生きているのかも知れない。
人が自殺するかしないか、極論すればそういうことなんだろうか?あるいは女の人が自分の子供を堕ろす堕ろさないかを決める基準になるとか。あるいは夫婦ともに子供を作るか作らないかを決める基準になるとか。
考えてみればコワいことなのだけど。そこまで迷うことがないならそれはそれで幸せだけど、迷った後に生のほうに倒せるのであれば、そっちのほうがやはりより素敵なことだと思うのだね。そこに共感したというか。
でも小説のほうを読んでないからなあ。映画はいいんだけど。読んだらまた胸が悪くなるかもしれないなあ、wikipediaでちょっと小説の方の筋を見たけど、やっぱ、角田光代はダメだわ、生理的にダメだ。受け付けんわ。
誰にだって経験はあるんだと思う。そういうギリギリで見た景色っていうのが、永遠に覚えているかもって思ったこととかね。そう思える経験さえあればさ、まだこの先にもそれがあるから生きていけるんだと。
忘れっちまうんだよね、そういう経験って。
だから行けるときは行かないと笑
ACOがいないと、この歌、締まらない二人だよね。
溺れる者は藁をもつかむ
もうひとつ。
日本では、経験したことがほとんどないのだけれど、海外に一人っきりで旅行に行くと、全部自分で決められるけれどそうそう予定通りにはいかなくて、トラブルとか予期しない出来事があり。腹の立つことも多いけど、その分、なぜだか、人に助けられることも多い。あるいは自分の第六感に助けられたり。
必死なときには、偶然何かが起こるというか何かに出会う。
溺れる者は藁をもつかむ、なんていうけど、溺れた人は藁であろうとなんであろうと掴むだろうし、それで藁じゃないものを掴む機会も増えるわけで。
すでに何かを持っていて更にすけべ心出してるヤツがババ掴んでヘの字口になってるのってよく見るけど、そうじゃない人っていうか、そうじゃないときって、もう感謝するオンリーだし、その気持ちは相手に当然伝わるから、お互いにハッピーな方向へ行くじゃない?なので、結局、その後、いろいろ良いことが続いて起こる。しかもトントン拍子にそれが続いたりする。なんなんだろう?そう思い込むからか?単純だからねえ、おれ。いや、確かにひでえやつも多いけどね。いまだに思い出すだけでもムカつくヤツも何人もいるけど。
なんかね、結局助けられてるね。そういう経験も含めて。生きることで。もうそうとしか考えられない。
という楽観主義者であることにあまりこれまで不都合を感じたことがないのですが、何か?笑
ってか、何で日本にいるとそういう感謝の気持ちが薄くなってしまうのかなあ。腹立つことのほうが多い。比率が真逆だ。甘えなんだろうか?甘えなんだろうなあ。甘えかっこわるい。
追記
いや、多分必死でなにかを最近やってないからだな。
最近というかここ何年もといったほうがいいのか。
そういうことなのかもしれない。
日本では、経験したことがほとんどないのだけれど、海外に一人っきりで旅行に行くと、全部自分で決められるけれどそうそう予定通りにはいかなくて、トラブルとか予期しない出来事があり。腹の立つことも多いけど、その分、なぜだか、人に助けられることも多い。あるいは自分の第六感に助けられたり。
必死なときには、偶然何かが起こるというか何かに出会う。
溺れる者は藁をもつかむ、なんていうけど、溺れた人は藁であろうとなんであろうと掴むだろうし、それで藁じゃないものを掴む機会も増えるわけで。
すでに何かを持っていて更にすけべ心出してるヤツがババ掴んでヘの字口になってるのってよく見るけど、そうじゃない人っていうか、そうじゃないときって、もう感謝するオンリーだし、その気持ちは相手に当然伝わるから、お互いにハッピーな方向へ行くじゃない?なので、結局、その後、いろいろ良いことが続いて起こる。しかもトントン拍子にそれが続いたりする。なんなんだろう?そう思い込むからか?単純だからねえ、おれ。いや、確かにひでえやつも多いけどね。いまだに思い出すだけでもムカつくヤツも何人もいるけど。
なんかね、結局助けられてるね。そういう経験も含めて。生きることで。もうそうとしか考えられない。
という楽観主義者であることにあまりこれまで不都合を感じたことがないのですが、何か?笑
ってか、何で日本にいるとそういう感謝の気持ちが薄くなってしまうのかなあ。腹立つことのほうが多い。比率が真逆だ。甘えなんだろうか?甘えなんだろうなあ。甘えかっこわるい。
追記
いや、多分必死でなにかを最近やってないからだな。
最近というかここ何年もといったほうがいいのか。
そういうことなのかもしれない。
Hi5
エンターテインメントという言葉がどうも嫌いだ。
それは、なにか確立されたものというイメージがあるのだけれど。
消費者にとっては多分そうなのかもしれないけど、作り手にとってはどうなのだろうと。たとえば、AKBが出てきたときとか、レディーガガが出てきたときとか。
そういう価値観に対して最初多くの人はどう反応したのかと。
前にも書いたけど、「RVR 第142回芥川賞 HD」(クリックすると飛びます)で、村上龍がこう言ってた。
昔、三島由紀夫が、「本当にあたらしくていい作品は人々をまず不快にする」って言ったんですよ。不愉快にさせるんだと。でその作品のことが次第に理解されてくるとみんな非常に興味をもって喜んでその作品を読むようになると。で、その作品が、時代、状況からはるかに遅れて古びちゃうとみんな笑うつったんですよ。失笑すると。
まあ、それがすべてのパターンではないだろうけど、ビートルズだってそうだし、iPhoneだってはじめっからマーケットに受け入れられたわけではないだろうと。最初は一部の好事家から始まって…。
ただ、そうやって星の数ほど多くの新しいトライはされるけど、すべてがすべて受け入れられて「売れる」わけではないだろうし。
同じRVRで、これも前に書いたんだけど、
僕が考える、読み物でない小説というか文学というのは、結局その作家が、その書き手よりも、その書き手が伝えようとしているもののほうが大きいっていうか、深いっていうか、こうコントロールできないものなんですよね。コントロールできるんだったら一言で言えばいいわけだから。こうスローガンみたいにして。それが言えないってことは、自分でも掴んでいるんだけど、なかなかこう短い言葉にできないことなんですよ。というのは、制御できない、コントロールできないものなんで。
読む人はそこを見たいんだよね。この人は自分の中の、そういうのを中上健次は獰猛な異物ってよく言ってたんだけど、自分の中ではどうしていいかわかんないような、ある想いだったり、何かに対する想いだったり…。
まあ、僕の場合、たとえば『半島を出よ』だと、北朝鮮のコマンドって出てくるでしょ?で、…どうしようもないんですよ、書き始める前は。で他の作品も皆そういうのがあって。どこ書いていいかわかんないようなもん、最初は。で、手探りで書いていくうちにかたちが見えてきたりするんですけど。それが僕は小説の魅力じゃないかと思うんですよね。
で、それは、あのいろんなスタンダードっていうか、世の中の常識とか、あるいは、良いこととされていることとか、悪いとされていることがあって、あるいはヒューマニズムとか、善悪とかを超えたもんなんだよね。小説の中のことをやったら逮捕させるって小説いっぱいあるけど。
で、善悪とかヒューマニズムとかを超えて、なんか表現されているんで、なんていうのか、読む人を自由にするんですよ。
と村上龍は言っていて。
まあ、AKBやら嵐やEXILEがそういうものかどうかは知らないけれど。
結局そういうものを感じられないものは人から評価などされないし、売れる以前の問題で。そういうものがエンターテインメントとして確立されていくんだろうと。
だからはじめっからそこにあるものではなく。
それを真似て作ったとしてもそれはただの形であって。
そういうのはオモシロクないんだよという坂本龍一氏の言葉につながってく。
でも、俺は作っている本人が楽しければ、それはそれで良いのだと思う。
それはその人自身が決めることだし。人それぞれにそれぞれのステージで課題は違うわけで。
で、今年の自分の抱負。
ハイファイブ。
2人が同時に頭の高さで互いの手のひらを平手打ちをするような動作。
称賛・祝勝を意味するジェスチャーである。
"Give me five"
ハイファイブを行えるかを常に自問すること。
心が躍らなければ生は続かない。
心が躍らなければ生には意味がない。
心が躍らなければ人とつながれない。
仕事をする上で、一番大事なことは続けることである。
理想を追うだけでは続かない。人間は感情で動く。
どうやったら続けられるか。
自分が楽しくなければ続かない。
どうすれば自分が楽しいと思えるか。
そのためには、目指すものを明確にイメージできなければならない。
イメージできたものを実現できた、あるいはそれ以上のものを実現できた。
そういうときにしかハイファイブをする気にはならないだろう。
そしてハイファイブが出来たとき、生きる喜びを感じられる。
ハイファイブしたい。
だから、それを目指す。
まずは自分がハイファイブを自分自身とできるか?
これが自分が建てた年始の目標の一番上位レベルのものというか基本。1こ1このことでこれを実現すること。結構きびしいと思うのだけど。でもそうなのだ。やらねば生きている意味はないのだ。そう自分に言い聞かせて。下位レベルのものは、具体的に決めているものもあるし、あいまいなままのものもあるけど。
別にエンターテイナーでも小説家でもないけれど、村上龍氏が言っていることは、たぶん生きていく上での基本でもあるんだと思う。あまりにも今まで自分をおろそかにしてきた、というか自分と向き合うことを避けてきた。めんどくさいし、楽だから。でもそれを続けていると生きている気がまったくしなくなった。最後には季節すら感じなくなった。すくなくとも、自分自身に対して正直になろうと。まずそこからはじめないとと。
私は私を生きなければならない。
いのちに課せられた
自分の役割を果たさなければならない。
と石垣りんさんの詩にあるように
基本このブログは全部自分に宛てた手紙なので。
人のことなどかまっている余裕はもうないのだと自分に銘じて。
2011.1.17記
それは、なにか確立されたものというイメージがあるのだけれど。
消費者にとっては多分そうなのかもしれないけど、作り手にとってはどうなのだろうと。たとえば、AKBが出てきたときとか、レディーガガが出てきたときとか。
そういう価値観に対して最初多くの人はどう反応したのかと。
前にも書いたけど、「RVR 第142回芥川賞 HD」(クリックすると飛びます)で、村上龍がこう言ってた。
昔、三島由紀夫が、「本当にあたらしくていい作品は人々をまず不快にする」って言ったんですよ。不愉快にさせるんだと。でその作品のことが次第に理解されてくるとみんな非常に興味をもって喜んでその作品を読むようになると。で、その作品が、時代、状況からはるかに遅れて古びちゃうとみんな笑うつったんですよ。失笑すると。
まあ、それがすべてのパターンではないだろうけど、ビートルズだってそうだし、iPhoneだってはじめっからマーケットに受け入れられたわけではないだろうと。最初は一部の好事家から始まって…。
ただ、そうやって星の数ほど多くの新しいトライはされるけど、すべてがすべて受け入れられて「売れる」わけではないだろうし。
同じRVRで、これも前に書いたんだけど、
僕が考える、読み物でない小説というか文学というのは、結局その作家が、その書き手よりも、その書き手が伝えようとしているもののほうが大きいっていうか、深いっていうか、こうコントロールできないものなんですよね。コントロールできるんだったら一言で言えばいいわけだから。こうスローガンみたいにして。それが言えないってことは、自分でも掴んでいるんだけど、なかなかこう短い言葉にできないことなんですよ。というのは、制御できない、コントロールできないものなんで。
読む人はそこを見たいんだよね。この人は自分の中の、そういうのを中上健次は獰猛な異物ってよく言ってたんだけど、自分の中ではどうしていいかわかんないような、ある想いだったり、何かに対する想いだったり…。
まあ、僕の場合、たとえば『半島を出よ』だと、北朝鮮のコマンドって出てくるでしょ?で、…どうしようもないんですよ、書き始める前は。で他の作品も皆そういうのがあって。どこ書いていいかわかんないようなもん、最初は。で、手探りで書いていくうちにかたちが見えてきたりするんですけど。それが僕は小説の魅力じゃないかと思うんですよね。
で、それは、あのいろんなスタンダードっていうか、世の中の常識とか、あるいは、良いこととされていることとか、悪いとされていることがあって、あるいはヒューマニズムとか、善悪とかを超えたもんなんだよね。小説の中のことをやったら逮捕させるって小説いっぱいあるけど。
で、善悪とかヒューマニズムとかを超えて、なんか表現されているんで、なんていうのか、読む人を自由にするんですよ。
と村上龍は言っていて。
まあ、AKBやら嵐やEXILEがそういうものかどうかは知らないけれど。
結局そういうものを感じられないものは人から評価などされないし、売れる以前の問題で。そういうものがエンターテインメントとして確立されていくんだろうと。
だからはじめっからそこにあるものではなく。
それを真似て作ったとしてもそれはただの形であって。
そういうのはオモシロクないんだよという坂本龍一氏の言葉につながってく。
でも、俺は作っている本人が楽しければ、それはそれで良いのだと思う。
それはその人自身が決めることだし。人それぞれにそれぞれのステージで課題は違うわけで。
で、今年の自分の抱負。
ハイファイブ。
2人が同時に頭の高さで互いの手のひらを平手打ちをするような動作。
称賛・祝勝を意味するジェスチャーである。
"Give me five"
ハイファイブを行えるかを常に自問すること。
心が躍らなければ生は続かない。
心が躍らなければ生には意味がない。
心が躍らなければ人とつながれない。
仕事をする上で、一番大事なことは続けることである。
理想を追うだけでは続かない。人間は感情で動く。
どうやったら続けられるか。
自分が楽しくなければ続かない。
どうすれば自分が楽しいと思えるか。
そのためには、目指すものを明確にイメージできなければならない。
イメージできたものを実現できた、あるいはそれ以上のものを実現できた。
そういうときにしかハイファイブをする気にはならないだろう。
そしてハイファイブが出来たとき、生きる喜びを感じられる。
ハイファイブしたい。
だから、それを目指す。
まずは自分がハイファイブを自分自身とできるか?
これが自分が建てた年始の目標の一番上位レベルのものというか基本。1こ1このことでこれを実現すること。結構きびしいと思うのだけど。でもそうなのだ。やらねば生きている意味はないのだ。そう自分に言い聞かせて。下位レベルのものは、具体的に決めているものもあるし、あいまいなままのものもあるけど。
別にエンターテイナーでも小説家でもないけれど、村上龍氏が言っていることは、たぶん生きていく上での基本でもあるんだと思う。あまりにも今まで自分をおろそかにしてきた、というか自分と向き合うことを避けてきた。めんどくさいし、楽だから。でもそれを続けていると生きている気がまったくしなくなった。最後には季節すら感じなくなった。すくなくとも、自分自身に対して正直になろうと。まずそこからはじめないとと。
私は私を生きなければならない。
いのちに課せられた
自分の役割を果たさなければならない。
と石垣りんさんの詩にあるように
基本このブログは全部自分に宛てた手紙なので。
人のことなどかまっている余裕はもうないのだと自分に銘じて。
2011.1.17記
魂があれば形にでる筈だ
とはいえ、はじめから形のないものを指向してそれをモノにできるほど、パーソナリティーの強い人はそうそういるわけでもなく。
日本の芸事は、最初に形を習う。ずぅーと何十年もそれをやっていて、しかも最後はどうなるかわからない。形はできるけど、最後にその人の人間がじわじわ現れるところまでいくのか、たとえ現れても大したことはないという結果に終わるかもしれない。
そういうのが平均的な日本人のパーソナリティの強さなのかもしれない。
イメージを持つというのは結構大変だ。
奥村康氏(免疫学者、順天堂大学医学部教授)と村上龍の対談で、奥村氏が
医学の現場でも、イメージを持つことは大切なんです。明確なイメージを持つ人間の方が絶対にいい仕事をします。脳外科の権威の学長さんも「精神科をやりたい」という受験生は注意しろと。触って実体のないものに興味を持つ若者には、危険なところがあります。「手術して癌をとりたい」とか「看護婦さんと手術室で手術している姿がかっこいい」とかそういう関心の持ち方をしてるほうが自然で、単純な欲望を自然に持ってる学生は先へ行っても落ちこぼれないんです。免疫学をやろうとか精神科へ進もうとか、若いうちからわけのわからないものに興味を持つ学生は、ほとんどが途中で落ちこぼれて駄目になってしまいますね。
なんてことを言っていて、尤もなことだなあと。
青山二郎は「魂があれば形にでる筈だ」と言っていて、形にでないもの、たとえば夢二の絵みたいに空ばかり見て「形の奥に秘められた何かを掴みたい」なんて夢みたいなことばかり言ってるヤツはダメだと。ああいうのは精神病だと。精神的なものが精神を隠してしまう。なんてことを言っている。
それもまた尤もなことで。
そういう一見反語的なことも弁明のために書いておこう。まる。
これって自分の中では繋がってるんだけどね。
日本の芸事は、最初に形を習う。ずぅーと何十年もそれをやっていて、しかも最後はどうなるかわからない。形はできるけど、最後にその人の人間がじわじわ現れるところまでいくのか、たとえ現れても大したことはないという結果に終わるかもしれない。
そういうのが平均的な日本人のパーソナリティの強さなのかもしれない。
イメージを持つというのは結構大変だ。
奥村康氏(免疫学者、順天堂大学医学部教授)と村上龍の対談で、奥村氏が
医学の現場でも、イメージを持つことは大切なんです。明確なイメージを持つ人間の方が絶対にいい仕事をします。脳外科の権威の学長さんも「精神科をやりたい」という受験生は注意しろと。触って実体のないものに興味を持つ若者には、危険なところがあります。「手術して癌をとりたい」とか「看護婦さんと手術室で手術している姿がかっこいい」とかそういう関心の持ち方をしてるほうが自然で、単純な欲望を自然に持ってる学生は先へ行っても落ちこぼれないんです。免疫学をやろうとか精神科へ進もうとか、若いうちからわけのわからないものに興味を持つ学生は、ほとんどが途中で落ちこぼれて駄目になってしまいますね。
なんてことを言っていて、尤もなことだなあと。
青山二郎は「魂があれば形にでる筈だ」と言っていて、形にでないもの、たとえば夢二の絵みたいに空ばかり見て「形の奥に秘められた何かを掴みたい」なんて夢みたいなことばかり言ってるヤツはダメだと。ああいうのは精神病だと。精神的なものが精神を隠してしまう。なんてことを言っている。
それもまた尤もなことで。
そういう一見反語的なことも弁明のために書いておこう。まる。
これって自分の中では繋がってるんだけどね。
イメージ
あたりまえなのだけど
形が定まって見えるものは既に死んでいる。
坂本龍一が「音楽大学では、形を教えられるんだけど、その形を守って曲を作っても全然その曲はオモシロクないんだよ」ってなことを言っていた。リアルな言葉を聴いたのはRVRと思うのだけど、ほんとにそういうことを言っていたのかどうかは一連のRVRから自分で探して欲しい。坂本龍一と村上龍の対談っていうのはほんと刺激的だ。
まあ、そういうことで、生きている形というのは小林秀雄が言うように、絶えず動揺して意味を固定し難いような運動を含んでいるだよね。
河合隼雄氏と村上春樹の対談以降、村上春樹の長編はどこか死んでいるように感じる。彼は形を意識するべきではなかったのだとおもったりもする。
物語の本質はユングが言うような元型という形ではないような気がするんだよね。
形を追うと本質が逃げる。パターン化すると本質は死ぬ。
イメージという言葉を考えてみたけど、それは形じゃなくて、ある広がりとか、動きを含んでいるような気がする。
「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」。そう、ユング自身が言っているように、形を指向するとすべての芸は死んでしまうんだと思う。スポーツも芸だしね。芸というのは、あらゆる職人さんが持っている、というか指向するものだと思う。
後記
元型というのはほんとは形じゃないんだけどね。それが俎上に上がる時、どうしても象徴とかシンボルというのが表立ってしまう。けどほんとはそうじゃない。そういうところがユング心理学の難しいところで、今ユングの本を読んでも正直なところわからない部分のほうが多い。
形が定まって見えるものは既に死んでいる。
坂本龍一が「音楽大学では、形を教えられるんだけど、その形を守って曲を作っても全然その曲はオモシロクないんだよ」ってなことを言っていた。リアルな言葉を聴いたのはRVRと思うのだけど、ほんとにそういうことを言っていたのかどうかは一連のRVRから自分で探して欲しい。坂本龍一と村上龍の対談っていうのはほんと刺激的だ。
まあ、そういうことで、生きている形というのは小林秀雄が言うように、絶えず動揺して意味を固定し難いような運動を含んでいるだよね。
河合隼雄氏と村上春樹の対談以降、村上春樹の長編はどこか死んでいるように感じる。彼は形を意識するべきではなかったのだとおもったりもする。
物語の本質はユングが言うような元型という形ではないような気がするんだよね。
形を追うと本質が逃げる。パターン化すると本質は死ぬ。
イメージという言葉を考えてみたけど、それは形じゃなくて、ある広がりとか、動きを含んでいるような気がする。
「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」。そう、ユング自身が言っているように、形を指向するとすべての芸は死んでしまうんだと思う。スポーツも芸だしね。芸というのは、あらゆる職人さんが持っている、というか指向するものだと思う。
後記
元型というのはほんとは形じゃないんだけどね。それが俎上に上がる時、どうしても象徴とかシンボルというのが表立ってしまう。けどほんとはそうじゃない。そういうところがユング心理学の難しいところで、今ユングの本を読んでも正直なところわからない部分のほうが多い。