象の夢を見たことはない -110ページ目

鍋とお釜と燃える火と

最近ナナメ読み直ししてて、しばらく気になってたのだが、青山二郎氏の言葉に

「日本人の眼は昔から鑑賞陶器では納まらなかったから、物の姿や形を我が人生と観て、活用の途を工夫し、眼というものが物をぱくぱく食わずには置かなかった。…見れば解るというのは先ずそれつきりの物だが、これこそは人が物を人格にまで高めて眼がそこから学ばなければならない暮しである


この文は白洲正子さんの『名人は危うきに遊ぶ』の中の「陶芸のふるさと」からの引用で。太字は、正子さんが傍点をうった部分。正子さんは、最初のうちはそういうことがどうしても呑み込めなかったと書かれている。

考えてみればモノに執着して収集したりするのは男のほうが多い。女の人は家の中にガラクタが増えるのが許せなくて、旦那が知らないうちに捨てたりする。そうすると旦那は生きる気力を失ってしまって、なんていうことになる。

まあ、気力がなくなるのも一時的なものなのだろうけど、ある意味、そういうのって信仰なわけで。ご神体を失くされるのと同じようなものなんだろう。ただ、それは偶像崇拝みたいに、モノになってしまうとダメなんだと思う。最初はもっと違うわけで。なんというかエネルギーみたいなもので。たまに初心にかえったりするのだけれど。

骨董のおもしろさについて、青山二郎氏も小林秀雄も白洲正子さんもそれぞれに書いているのだけれど、結局それぞれ「これは!」と思って借金してまで買うのだけれど、違うものを買うためにやっぱりそれも売り払ってしまったりして、自分の手元にはたいして残らなかったようで。ある意味、断捨離の行を骨董を通して実践していたのかもしれない。

そしてもう一つ言っているのは、実際にそれを手で弄ること。使ってみることをしないとわからないということ。割ったり壊したりしてしまって痛い思いをすることも含め。

暮しか。修行だよなと。諸行無常なんて楽すぎる。癒しだ。思考停止だ。

ふと石垣りんさんの同名の詩が今浮かんだ。あれってすごく悲しい感じがするのだけれど、してたのだけど、かなしいだけの、あるいは執着だけってものでもなくて。あの詩は「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」と対になっているもののような気がしていて。そんなふうに、同じ暮しを書いた詩でも、両方が揃っているから彼女の詩は素敵なのだと思う。

Lost in Translation

『nice box 1983』とか書いたTシャツを着ている日本人の女のコがいて、そこは日本じゃなくハワイだったかで、「このコは大丈夫なのか?」と思ったとかいう話が、村上春樹か誰かのエッセイにあった。

ちなみに、昨日のお題「Straight to tell」なんて英語はない。文法からしておかしいのだけど、言いたいことは日本人にはわかる。

むかーし、妹がロンドンで英語学校にいたときに、友達たちと車でパリに遊びに行って。車内での会話は英語だったのだけど、一人だけネイティブのコがいて。他の国から来たコたちの間では通じるのだけど、ネイティブには通じないっていう状況がたまにあったと言っていた。

ゆるい文法の間違いがあったとしても、そういうのはネイティブには汲み取れるわけで。たぶん会話だと短いセンテンスで終わってしまうことがあって。短いとそういう感じになってしまうことがあるのだろう。インド英語にもそういうのはある。新聞の見出しなんて特に意味がわからない。恐らくどこの国にもあるのだ。

とはいえ、へんな漢字の刺青をした外人さんはやっぱりオカシイし、映画に出てくる日本料理屋の内装に意味不明の言葉が飾られていると、いやいやあのねえ、もしもし?って思ってしまう。
一生懸命訳しましたって感じがする海外のレストランの日本語メニューや、お菓子のパッケージの説明文の残念な感じっていうのは、どうしたって拭えないわけで。まあでも、そういうのは頑張りました感が味になってたりもするのだけど、品質もそういうレベルだと思われてしまうわけで。

そういう状況は世界中どこの国の人も自分の国以外で目にしてたりするのだろう。ああいうのってどうしたもんだろうねえ。でもやっぱりあれは恥ずいよなあ。それもでも楽しいんだけどね。Sometimes you have to go halfway around the world
to come full circleか。うむ。



やっぱ、短いわ笑 日本人の英語、短っ!

あらためて見ると、困惑するビル・マーレイが巧いなあ。素なのか?
でも逆に彼の側になってみたいとも思う。いたれりつくせり。
しかし、へんなふうにぐるりと周っていく感じとか。
この映画やっぱりすごいなあ。スカーレット・ヨハンソン綺麗やし。

ヨーロッパの人たちって、英語の文法間違ってても、がっつり話そうとするから、それで前へ前へ進んでいくんだろう。日本人の場合、恥ずかしいっておもっちゃうからねえ。外人意識しすぎて、へんにカッコつけちゃったりとか。んで通じなくて逆切れしたりとか。ニヤニヤしてごまかしたりとか。そういうところ、ソフィア・コッポラ監督、すごくよく観察してる。この人やっぱりすごいなあ。

Straight to tell

マイライフ・アズ・ア・ドッグ。

映画自体はもう忘れてしまったけれど、最初のシーンだけは覚えている。
人工衛星に乗せられて帰ってこなかったライカ犬の話だ。
主人公の少年は、自分の不幸を想いながら、でも「人工衛星に乗せられて死んでいったライカ犬より、僕の人生のほうがまだ幸せだ」という哲学をもっている。

哲学?そう哲学だ。
むしろそっちのほうがずっと哲学らしいと言えるのかもしれない。
考えてみればひどい話だ。

でもほんとうの生きた哲学というのは、
こんなふうにもっと率直でずっと残酷なものだったりするのかもしれない。
どこか滑稽でもの悲しい。

やがて燃え尽きる 落ちていく衛星
寂しかったのさ そこには何もない

そうして satellite to tell
あの衛星は 君を守るだろう 

(「satellite to tell」 from エウロパ by 高木フトシ)

ムービー

食い散らしてきた やさしさが
ノドの奥に 突っかえている

「私」 by BYEE the ROUND


金もこころも
食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所にちらばつている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙

「くらし」 by 石垣りん


題名も韻を踏んでるのか?
ということで、突っかえているのは鳥の骨?
鳥の骨は刺さるので犬にやってはダメなのだ、パブロフ。

いろんなところから題材をとっているのでいろいろおもしろい。
ギターフレーズとかもそういう隠し味があるし。オイラは音楽無知なのでそのあたりがわからんのが悔しいが。

ところで、アポロでワンマンやるけど、クロスミュージックのロケで行ったゆかりのある人を呼ぶんだろうか?と思う今日この頃。というかせっかくの名古屋なんだから、セッションすればいいのにと。ムチャか笑 

公開録画のときの武裕美アナのあの質問も、結局、「うちの局とちゃんと繋がってくれてる?」っていうメッセージだったと自分は客席で受け取ったのだけどね。まあ、客が受け取ってどうする的な。どんだけ俺はイタいんだ。
とはいえ、二人ともいまいちなコールアンドレスポンスだったわ苦笑

$ニャンちゅうなブログ-クロスミュージック

ところで、新しいのを買ったので使い古したウォークマンIT'S A SONYを姪っ子7才にあげたのだけど、こないだの花見のときも持って来ていて。
『メッセージ』が好きらしくて、そればかり聞いているらしい。
最年少のバイザファン候補だ。

そんなふうにいろんな人の風景が一枚の絵になればいいなあ、
毎日が毎日の続きだと確信して。

仏教どうでしょう

家に帰ったら届いていた。

$ニャンちゅうなブログ-中村元

龍樹をナナメ読みしたけど、思ってたものと違った。
仏典の翻訳について、どっちが系統として正しい・正しくないなんて正直どうだっていい。文系の学者さん同士の足の引っ張り合いみたいなものに興味などない。

用語的にも概念的にも、定義が不完全なものをお互いあーでもない、こーでもないと言っているだけで、内容が深まっていかない。やはり日本の人文系の学問って常に表文化論的なレベルにとどまってしまうらしい。コアが作れない。井筒俊彦氏の本のほうがまだぜんぜん東洋哲学として面白かった。

それはまあいいのだけど、認識論的にもちょっとなあと。信仰だのなんだのまでひっついてしまっているからタチが悪いし、スジもよろしくない。今現在の脳科学、宇宙物理学の本を漁ったほうがオモシロイということがわかっただけでも良しとしよう。