象の夢を見たことはない -109ページ目

意識と本質

意識と本質。

そういう名前の本がある。
本質論というのは魅力的らしく、古より哲学的命題として多くの人が考えてきた。
本質が実体であって、実在するものは本質の仮の姿であるとか。本質こそが普遍的なものだとか。神はいます的な。

もういいでしょう。
というのが自分の結論で。

結局、心理的に人は本質というものを定義せざるをえない性質をもっている。
あるいはそれを考えること自体が、人の思考の枠組みのクセのようなもので。
そういう枠組みを維持するために本質というものを定義して、それが実在することを信じることで生きる糧を得ているというか。それだけの話で。

本質というのは、相対的なものであって、そういう信仰心が強い人には強く現れるし、ないと思っている人には見えない。モノをつくる場合も同じで、目的をはっきり定義していればいるほど、作るモノに本質が現れる。工程的にも同じ。その工程で何をするべきか。顕現させようとする意志が強くあれば、物事に本質が現れる。無分節から分節させる。それが空即是色の意味なんだと思う。

人の強さというのも同じで、生きる目的がはっきりしている人は強いし、信仰心を持っている人は強い。そしてモノを作る人もそういう人のほうがあとあとまで残る仕事をする。それが自分にとっての意識と本質。

インド人に仕様書を書かせると字ばかりズラズラ書いてくる奴がいる。
頭の良いヤツは違うのだけど。

基本的に理系の人間で図が書ける奴は頭がいい。
文字だと誤魔化されるのだ。相手もそして自分も。

ソフトウエアの場合、設計に穴があっては困るので、マトリックス化する。
そうすることにより、穴がわかりやすくなる。バグ探しでも同じ。

そしてさらに図というものがある。ソフトウエアのバグで、致命的な結果となるものの大部分はインタフェイスバグだ。ソフトウエアの構成を描く場合に、それぞれのモジュールの関係を図示する。そうすることにより、どこのモジュールとどこのモジュールがインタフェイスを持つのか、あるいは持たせなくてはいけないのかが明確になる。

基本的にそれをサボるとバグだらけで筋の悪いソフトウエアが出来上がる。
そういうヤツは、表や図が読む人に分かりやすくするために書いているサービスだ思っている。

「なんで書かないんだ?」と詰め寄るとそう答える。顧客に説明するためだけのマンガを書くのに、大切な時間を割くのなんてバカバカしい。妙に口だけ達者だったり。そういう奴はバグもまともに潰せない。結局筋の悪いプログラムを量産するだけだ。そういうコはだいたいにおいて、本質が何かをよく考えずに作業している。

スジがいい、スジが悪いとよく職人さんは言うけれど、スジと言われるものの実体はそういうものだと思う。本質が何かを考えて常に作業する。それだけの話。

だがしかし、指導する者は、せつせつとそういうことを説くより、相手に対して実際にやってみせたほうがよっぽど早い。要はそれができるか、できないかってことで。めんどくさがって、あるいは時間がないからって、そこをサボるとやり直しさせることになったり、相手が不信感を持ったりで、結局何倍もの時間を無駄にしたりする。

同じ日本人だとそこまでしなくてもわかるんだけど、なかなか一筋縄ではいかないのである。

常識

一応、言っておくと動物であることと、いわゆる道徳的に(そういうのが流行りらしいけど。「美しい国」だとかね。笑える)在れということを清算できる場所などどこにもない。未来永劫ありえない。

スカイネットと言ったけど、コンピューターというモノを考える場合、それは一つの答えを導き出すものとして捉えるわけだが、世界中が1つの答えとなって、平衡した時点で、世界は死ぬ。滅ぶのではなく、停止する。要は千日手になってしまうわけで。

小林秀雄の『考えるヒント』に「常識」っていう話があって。
コンピューターが将棋を打つ人工頭脳の話なのだが、昭和34年(1959年)に書かれたものだ。その頃にはまだ人工頭脳も不完全だったのだけど、代わりに彼は神様同士が将棋を打つということを仮定している。

秀雄の結論はこうだ。
「いくら神様だって計算しようと思えば何億年かかるかわからない。」
「何億年かかろうが一向にかまわぬ。」
「そんなら、結果はでるさ。無意味な結果が出る筈だ。」
「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな。」
「無論そうだ。」

人は神様ではないから、結局、人の行く先は、常識というものの行く末ということなりそうだ。人が動物でもあり、人でもある。そのちょうど中庸といわれる場所にあるのが常識というもので、それは天の理でもあるわけで。

そんな常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方の届く射程は、ほんの私たちの私生活の私事を出ないように思われると。

そしてさらに言う。「事が公になって、一たび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。」と。

それが人間といわれるものの限界なのだと思う。私たちが私たち自身で有れる範囲は、畢竟、私事を出ない。もっともなことだ。それ以上自分はなにも望まないし、それで結構であると。

スカイネット

地震警報はじめて聞いた。何が鳴っているのかと焦った。

揺れた。あ、これは大丈夫な感じだと思ったあとに警報で飛び起きる。
ニュースをみたら、重症の二人のうちの一人は、「就寝中の80歳代の女性が地震を知らせる警報音に驚いてベッドから転倒、左足を骨折した」だと。

「揺れてるなあ」と寝ボケてるときに、鳴らされたら余計に人を焦らせてケガ誘うだけじゃん。だいたい揺れたあとに出すなや。アホちゃうか。

最近のリスク対策というのは、国や企業側が自分の社会的責任を果たしていると言い訳するためにやっているだけなので、本質から外れているだよな。いまどきのソレは、個人の足を引っ張るだけだ。

資本主義経済が発展すると、金があるところに金が集まるから、二極化するわけで、そうなると自分を守るために政治を使って大勢に対して不利益なことを平気でやってお構いなしになるってことが最近になって露呈してきた感がある。

コミュニストじゃないけど、この有り様はヒドイ。議会制民主主義というのは、資本主義初期には機能してたけど、もう今では時代遅れのシステムだ。これだけ時代が変わったのに百年以上も前のアーキで政治が動いていいわけがない。

SFじゃないけど、政治はコンピューターにやらせたほうがいいわ。いまどきの政治家なんて昔と違って普通の人より頭が良いわけでもないし。二世だの三世だのタレント議員だの。無作為抽出した人にネットと鍵認証使って議決権与えたほうがまだマシだ。補正だけ小さな政府で人が行うとか。なんせコンピューターが棋士に勝ってしまう時代だしねえ。


PS. さっき、ツイッター見てたらこんなのを見つけた。
志茂田景樹 ‏@kagekineko
夏、セミの抜け殻を見てよく思う。ああ、成長って要らなくなったものを殻として捨てることなんだ、って。成長できないのは要らなくなったものを捨て切れず引きずっているからなんだ。引きずっているから自分を成長させるものに目が行かないんだと思うの。

まったくその通りだな。

メロディ

勝手にマニアックなコーナー

というわけで、今日はLucyちゃん。

メロディのアニメーションバージョン。



なんか、三ツ矢サイダーのCMって感じ?

そうそうこういう小学生の女のコな感じもある。

で、その実写バージョン。

「昔チア部で"独特"と言われた私のダンス」っていうツイートが気になってたのだが。

それがこれ。まだ途中らしいのだけど。




「門出ピーチクパーチクを筆頭に芸人さんやらおもしろ野郎たちもガチで踊ってくれた!」

てことでなんだかいろいろつっこみどころがあってニマッて感じ。

ほんと後ろのほうの黒帽黒服のお兄さん、超いい踊りしてるわ笑

なにより、むっちゃ楽しそうなのがいい。やっぱりそれが一番な感じがする。

とにかくソロになっていろんなことにトライ中!

ex LAZYgunsBRISKYからの~

そしてex BORZOIQからの~

コレなわけで。

すげえわ。

そういう姿勢とくじけても何度でもっていうガッツ。

CyntiaのAZUちゃんもそうだけど何回羽化すんねん!っていう。

スポ根だよ、見ててエネルギー貰う。

この曲もサビとかどこかなつかしい感じ。

歌詞は、でもらしくてエッジ効いててシビア。だけど、なんだか楽しい。

このコを見てると佐野元春の

街のビートで踊りだす♪  
騙されてもまだ 自由でいたいから
心はいつでもヘビー だけど 
顔ではだいじょうぶだいじょうぶ

ていう歌を思い出すんだけど、でももっとなんか大きな感じがする。

大きなウソで生かされているよな メロディー響け!

早く名古屋でプロの皆に踊ってもらった完璧なダンス映像を出さないと、カオスになってまう!!笑

とからしいけど、カオス冗長してやるぜ。

ラブ・カオス!