KARAとか
ふと、ロバート・パーマーを思い出すときがある。
オリジナルってものに価値なんてないのかもしれない。
そう思わせるのって、もうマルセル・デュシャンがやってるのよね。
ただ生身の身体でそれをやるっていう時代。
キャシャーンがやらねば誰がやる?っていうか。
すげえ時代になってきたぜ。
ポップカルチャーか。
たしかにアディクトされちゃうな。テクノとか。
ループするからさ、やっかいなのよ。
オリジナルってものに価値なんてないのかもしれない。
そう思わせるのって、もうマルセル・デュシャンがやってるのよね。
ただ生身の身体でそれをやるっていう時代。
キャシャーンがやらねば誰がやる?っていうか。
すげえ時代になってきたぜ。
ポップカルチャーか。
たしかにアディクトされちゃうな。テクノとか。
ループするからさ、やっかいなのよ。
本質とセレンディピティ
セレンディピティとは、
偶察力。何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。by wikipedia
だそうだけど、どうもなんかその表現って貧相な気がしていて。セレンディピティというのは、そんな安い感じのものじゃないだろうと。
意識を集中させて、作業をしているとブレークスルーする瞬間がある。めったに経験したことはないのだけど、そういう瞬間っていうのは、論理ではなく直観であって、ジャンプなのだ。論理を積み上げていっても、そこに至るはしごっていうのは見えない。そこに到達した後も、なぜ自分が辿り着けたのかがわからない。知恵の輪がいきなりスポッと外れるような瞬間というか。
それを表すイメージで自分が思ったのはピラミッドで。
ダフトパンクのピラミッドセットを見てもらえばわかるかもしれない。
ピラミッドの頂上の石は特別で、土台とはまったく別モノ。太陽神ラーの霊が宿るのはここであって、それ以外はただの土台でしかなく。まあ、そういう意味合いはこの映像にはないけれども、要はこのセットみたく、そこに至るまでにギャップがあって、そのギャップは論理では埋められない。そういうイメージ。キャップストーン。それが、セレンディピティのイメージ図。
果たしてこの頂上の石の部分を、誰かが本質であると定義しているならば、「ああ、確かに」と。うむ、それを本質とは言わないか。でも、そういうものはあるだろうなと思える。神はいます的な。枠組みから離れて存在しているものというか。
ミュージシャンとかクリエーターだと降りてくる瞬間があるみたいに。
一生懸命なときにしか、そういう瞬間は訪れないし、けれどいくら一生懸命でも、訪れないときはまったく訪れない。そんなものがコントロールできるわけがない。
昔、『成功者の絶対法則 セレンディピティ』を読んだのだけど、セレンディピティというものを表現しようとすると、事例集的なものに成らざるを得ない。けれど、少なくともそういうものが降り立つ場所が必要であって。それを表すためには、その土台の部分を丁寧に書くことでしか表現しようがない。
まあ、そういう意識を超えたものも確かにあるよなあと。
考えてみれば、今なにげに使っている道具だとか、身の周りにあるものに、誰かのそういう奇跡が入ってたりするわけで、それをなーんも考えることなく享受している。
なんだかそれって生きててすみませんというか。やはり男ならちゃんとそういうのは世間に返さないといけないだろうというか。返せてねえなあ。
偶察力。何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。by wikipedia
だそうだけど、どうもなんかその表現って貧相な気がしていて。セレンディピティというのは、そんな安い感じのものじゃないだろうと。
意識を集中させて、作業をしているとブレークスルーする瞬間がある。めったに経験したことはないのだけど、そういう瞬間っていうのは、論理ではなく直観であって、ジャンプなのだ。論理を積み上げていっても、そこに至るはしごっていうのは見えない。そこに到達した後も、なぜ自分が辿り着けたのかがわからない。知恵の輪がいきなりスポッと外れるような瞬間というか。
それを表すイメージで自分が思ったのはピラミッドで。
ダフトパンクのピラミッドセットを見てもらえばわかるかもしれない。
ピラミッドの頂上の石は特別で、土台とはまったく別モノ。太陽神ラーの霊が宿るのはここであって、それ以外はただの土台でしかなく。まあ、そういう意味合いはこの映像にはないけれども、要はこのセットみたく、そこに至るまでにギャップがあって、そのギャップは論理では埋められない。そういうイメージ。キャップストーン。それが、セレンディピティのイメージ図。
果たしてこの頂上の石の部分を、誰かが本質であると定義しているならば、「ああ、確かに」と。うむ、それを本質とは言わないか。でも、そういうものはあるだろうなと思える。神はいます的な。枠組みから離れて存在しているものというか。
ミュージシャンとかクリエーターだと降りてくる瞬間があるみたいに。
一生懸命なときにしか、そういう瞬間は訪れないし、けれどいくら一生懸命でも、訪れないときはまったく訪れない。そんなものがコントロールできるわけがない。
昔、『成功者の絶対法則 セレンディピティ』を読んだのだけど、セレンディピティというものを表現しようとすると、事例集的なものに成らざるを得ない。けれど、少なくともそういうものが降り立つ場所が必要であって。それを表すためには、その土台の部分を丁寧に書くことでしか表現しようがない。
まあ、そういう意識を超えたものも確かにあるよなあと。
考えてみれば、今なにげに使っている道具だとか、身の周りにあるものに、誰かのそういう奇跡が入ってたりするわけで、それをなーんも考えることなく享受している。
なんだかそれって生きててすみませんというか。やはり男ならちゃんとそういうのは世間に返さないといけないだろうというか。返せてねえなあ。



