田植え機
ひさびさにと、思ったけど乗る機会はなく。
補植のみ手植えで。今時、そんなものほんとはいらないのだが、日本人のDNAっていうのが、人目をはばかるらしい。あまりにばかばかしいサガだと思う。農民だけではない、日本人に影のように沁みついた気質。
田植え機というのは、日本独自のものだと思ってたが中国にも輸出しているらしい。
あれって意味あるのか?まさに、ガラパゴスそのものだと思ってたのだが。
過去にあったものを、今作ることはできない。技術がすべて文書化できると思っていることがそもそも間違いで、システムというのは暗黙知を含んでいるのだが、それってすっぽり抜け落ちるので、過去にあった技術が今再現できるものでもないし、第一社会システムそのものがそれを今やろうとすることを非効率的なものとしてハジいてしまう。循環するシステムの中の一部だけを蘇らせることはできないのだ。進化の虚しさというものだってある。
たぶん、TPPで無くなっていくんだろうなあと思っているのだが。
補植のみ手植えで。今時、そんなものほんとはいらないのだが、日本人のDNAっていうのが、人目をはばかるらしい。あまりにばかばかしいサガだと思う。農民だけではない、日本人に影のように沁みついた気質。
田植え機というのは、日本独自のものだと思ってたが中国にも輸出しているらしい。
あれって意味あるのか?まさに、ガラパゴスそのものだと思ってたのだが。
過去にあったものを、今作ることはできない。技術がすべて文書化できると思っていることがそもそも間違いで、システムというのは暗黙知を含んでいるのだが、それってすっぽり抜け落ちるので、過去にあった技術が今再現できるものでもないし、第一社会システムそのものがそれを今やろうとすることを非効率的なものとしてハジいてしまう。循環するシステムの中の一部だけを蘇らせることはできないのだ。進化の虚しさというものだってある。
たぶん、TPPで無くなっていくんだろうなあと思っているのだが。
ジェンダー
アジアの女性アーティスト展
アジアをつなぐ―境界を生きる女たち 1984-2012
卵が増殖していくイメージ。
そういうモチーフをよく女性作家の作品の中に見る。
ボタン恐怖やら斑点恐怖の人がみたら卒倒するような。草間彌生が有名だけど、別に彼女だけの専売特許ではない。それって結局、裏返しのような気がする。
自分の中にある女性性に対する恐怖と嫌悪。思春期に起こりがちな。それらは、トゲや、針の集合体に形をかえることもある。成長もしくは性徴の否定へ揺れ動く感じというより、むしろ声をあげて身体全体で否定する。
倉橋由美子の『パルタイ』を思い出す。あるいは男性に対する嫌悪という方向へ。逆にBLへ行ったりするのか。女子高っぽいなにか。マインドマップで書けそうだ。
クリムトの絵の中にもあるのだけど、あの人は権力の中にあって、幼児性とか胎内回帰願望から女性への傾倒という、あるいは生まれ変わるなら女にっていうのがあったような気がする。ダナエとか。風景画についても、あの点で画面を構成するのは、印象派の網膜混合や光の粒を表すベクトルではなく、彼の中にある女性側からの要請によるものだと思う。

女性性、食べ物にもあって。豆だとか、穀物だとかのつぶつぶ。
こねたり、まるめたりする行為も含めて、食べることへ向かったり。
そういう、生なましい作品のイメージが自分のどこかに残っていく。髪の毛もそうだ。身体的には顔の部分の比重が作品の中で大きかったり。
ジェンダーがテーマということで、「弱者である女性が」というような社会的モチーフを作品に込めたものは、男の視点ではわかりにくい。女の人だと、「あー、あるわ。わかるわかる」っていうのがあるのかもしれない。
心理学の分野でも、フロイトとかユングとかあの時代から、女性患者に対する症例を解析するにしても、あるいはもっとまとまったものを提出するにしても、男の視点で教義が作られているようなところがあって、女性性というものがなんらかのかたちで枠組み化され、階層化された形式で提示されるとか、論文として体系化されているようなものがない気がする。そういう意味で、ジェンダーというのは、まだ夜が明けたばかりなのかもなあと。
アジアをつなぐ―境界を生きる女たち 1984-2012
卵が増殖していくイメージ。
そういうモチーフをよく女性作家の作品の中に見る。
ボタン恐怖やら斑点恐怖の人がみたら卒倒するような。草間彌生が有名だけど、別に彼女だけの専売特許ではない。それって結局、裏返しのような気がする。
自分の中にある女性性に対する恐怖と嫌悪。思春期に起こりがちな。それらは、トゲや、針の集合体に形をかえることもある。成長もしくは性徴の否定へ揺れ動く感じというより、むしろ声をあげて身体全体で否定する。
倉橋由美子の『パルタイ』を思い出す。あるいは男性に対する嫌悪という方向へ。逆にBLへ行ったりするのか。女子高っぽいなにか。マインドマップで書けそうだ。
クリムトの絵の中にもあるのだけど、あの人は権力の中にあって、幼児性とか胎内回帰願望から女性への傾倒という、あるいは生まれ変わるなら女にっていうのがあったような気がする。ダナエとか。風景画についても、あの点で画面を構成するのは、印象派の網膜混合や光の粒を表すベクトルではなく、彼の中にある女性側からの要請によるものだと思う。

女性性、食べ物にもあって。豆だとか、穀物だとかのつぶつぶ。
こねたり、まるめたりする行為も含めて、食べることへ向かったり。
そういう、生なましい作品のイメージが自分のどこかに残っていく。髪の毛もそうだ。身体的には顔の部分の比重が作品の中で大きかったり。
ジェンダーがテーマということで、「弱者である女性が」というような社会的モチーフを作品に込めたものは、男の視点ではわかりにくい。女の人だと、「あー、あるわ。わかるわかる」っていうのがあるのかもしれない。
心理学の分野でも、フロイトとかユングとかあの時代から、女性患者に対する症例を解析するにしても、あるいはもっとまとまったものを提出するにしても、男の視点で教義が作られているようなところがあって、女性性というものがなんらかのかたちで枠組み化され、階層化された形式で提示されるとか、論文として体系化されているようなものがない気がする。そういう意味で、ジェンダーというのは、まだ夜が明けたばかりなのかもなあと。
5月4日の日記
アジアの女性アーティスト展 アジアをつなぐ―境界を生きる女たち 1984-2012
@三重県立美術館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/women_in_between/women_in_between_shosai.htm


スールー諸島っていう島々があるらしい。
フィリピンとマレーシアのカリマンタン島の間。治安が悪くて、島に渡ることは出来ないとか。
参考:海賊のこころ―スールー海賊訪問記
カリマンタンのコタキナバルに10日近くいたことがある。フィリピンが近いせいで、フィリピン人が多い地区があった。海上に住んでる人たちもいて、そこは現地の人たちも治安が悪いとあまり近づかない。アジアについて知らなさすぎる自分。
インドネシア、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシア、それぞれの国には、それぞれの文化があるが、単一民族ではないから、国の中でも様々な模様がある。一つの街の中にすら、いろんな民族が住んでいるから、地区毎に治安の状態やらなんやらで角をまがれば、そこは別世界なんていうことも多い。
展示された絵や写真やビデオ映像やインスタレーションに、国ごとの特徴というのがあるのかと思ってみてたのだけど、そういう状態だからわかる筈もなく。しかも、今どき情報が文化として、国を跨いでクロスオーバーしているから、若い作家が生まれ育った時分には、もはやモザイクの境界があいまいにもなっている。
そこに住んでみないとこれらの美術はわからない。そう思っていたけど、たとえ住んでいたとしても、10年も経てば価値観も変わっていく時代に、果たしてこれらの美術は生命を保てるのだろうか。いや、むしろ今ですらあいまいかもしれない。
ただ、風化されずに残るものだけが真である。それも、果たしてどうなんだろう?と最近は思わないこともない。結局は観る人の個人的な体験だから、そこだけで評価されるべきものでもないだろうと。
まあでも、個人的な体験にしろ、観ているその場より、あとになって自分の中にぽっかりと浮かんでくる何かがあるかどうかが問題で、結局そういうモノが自分の中に残っていく。
果たしてこの日の作品で、あとあと自分の中にぽっかり浮かんでくるものはあるだろうか?それが美術館へ行く一番の愉しみ。
@三重県立美術館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/women_in_between/women_in_between_shosai.htm


スールー諸島っていう島々があるらしい。
フィリピンとマレーシアのカリマンタン島の間。治安が悪くて、島に渡ることは出来ないとか。
参考:海賊のこころ―スールー海賊訪問記
カリマンタンのコタキナバルに10日近くいたことがある。フィリピンが近いせいで、フィリピン人が多い地区があった。海上に住んでる人たちもいて、そこは現地の人たちも治安が悪いとあまり近づかない。アジアについて知らなさすぎる自分。
インドネシア、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレーシア、それぞれの国には、それぞれの文化があるが、単一民族ではないから、国の中でも様々な模様がある。一つの街の中にすら、いろんな民族が住んでいるから、地区毎に治安の状態やらなんやらで角をまがれば、そこは別世界なんていうことも多い。
展示された絵や写真やビデオ映像やインスタレーションに、国ごとの特徴というのがあるのかと思ってみてたのだけど、そういう状態だからわかる筈もなく。しかも、今どき情報が文化として、国を跨いでクロスオーバーしているから、若い作家が生まれ育った時分には、もはやモザイクの境界があいまいにもなっている。
そこに住んでみないとこれらの美術はわからない。そう思っていたけど、たとえ住んでいたとしても、10年も経てば価値観も変わっていく時代に、果たしてこれらの美術は生命を保てるのだろうか。いや、むしろ今ですらあいまいかもしれない。
ただ、風化されずに残るものだけが真である。それも、果たしてどうなんだろう?と最近は思わないこともない。結局は観る人の個人的な体験だから、そこだけで評価されるべきものでもないだろうと。
まあでも、個人的な体験にしろ、観ているその場より、あとになって自分の中にぽっかりと浮かんでくる何かがあるかどうかが問題で、結局そういうモノが自分の中に残っていく。
果たしてこの日の作品で、あとあと自分の中にぽっかり浮かんでくるものはあるだろうか?それが美術館へ行く一番の愉しみ。
未明あるいは無明
表現することにより深まるのだろうか?
表現すること自体に意味はなし、価値もない。
表現することでキヅキが在ることがある。
それによって自己が深まる。
気付きのない自己表現に意味などない。
プロディガル・サンズの森重氏の歌詞に、
「椅子取りゲームからは降りたつもりだったのだけど…」
っていうのがある。
ずっとそれが気になってたのだけど。
結婚したとか、子供ができたか、離婚したとか、出世したとか、何十カ国周ったとか。
自分より先に何かを経験したとかいう友人たちに対する口惜しさ。
そして先を取られたことに対する「自己否定」だとか。
一方で、それらを経験している筈の知人や、自分の親の幼さとか、痛さ。
それらに、どこでどういう決着をつければいいのかいまだによくわからない、
表現すること自体に意味はなし、価値もない。
表現することでキヅキが在ることがある。
それによって自己が深まる。
気付きのない自己表現に意味などない。
プロディガル・サンズの森重氏の歌詞に、
「椅子取りゲームからは降りたつもりだったのだけど…」
っていうのがある。
ずっとそれが気になってたのだけど。
結婚したとか、子供ができたか、離婚したとか、出世したとか、何十カ国周ったとか。
自分より先に何かを経験したとかいう友人たちに対する口惜しさ。
そして先を取られたことに対する「自己否定」だとか。
一方で、それらを経験している筈の知人や、自分の親の幼さとか、痛さ。
それらに、どこでどういう決着をつければいいのかいまだによくわからない、
