錯視画像はネコにも動いて見えるらしい
数日前にyahooで見かけた。
すごい。猫にも錯視があるのかと。
マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を買って読んでいた。

トヨタ方式だとか知識経営論で謳われている暗黙知とはまったく概念自体異なるものだった。知識経営論では、形式知に対して、「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」を暗黙知という。野中郁次郎氏の暗黙知理論に基づくものらしい。
のだが、これが蔓延してしまったおかげで、暗黙知の本質がまったく見えなくなった。日本の学問は、どうも目先だけに注意がいって本質に目が向かない傾向があるらしい。マイケル・ポランニーの暗黙知は、ゲシュタルト心理学に端を発する。
ゲシュタルト心理学によれば、ある対象の外形を認識するとき、私たちは感知している個々の特徴を、それが何かとは特定できないままに、統合しているのだと言う。たとえば、
①近接の要因
接しているもの同士はひとまとまりにして見てしまう。
|| || ||
②類同の要因
同じものを固まりとして見てしまう。
□■■□□■■□□■■□□■■□□■
③閉合の要因
互いに閉じあっているもの同士(閉じた領域)はひとまとまりに見てしまう。
〕〔 〕〔 〕〔 〕〔
(by wikipedia)
音でも同じような統合が起こる。メロディの認識だとか。パクリだ!って言ってるものは、そういうゲシュタルト認識により成立している。目の錯覚とかは、こういう心的な傾向により起こるわけで。
これって動いているように見えるのだけど、実は動いてない。こういうふうに目で見たものをなんとなく頭の中で統合して判断してしまう。そのせいで動いて見えるわけで。
ゲシュタルト心理学では、このようなことが起こる原因を、人間による対象物の外形の認識は、網膜もしくは脳に刻印された個々の特徴が、自然な平衡を得て生起するからだと定義しているのだが、マイケル・ポランニーは、それを一歩進めて、人間が対象物を認識する場合、その過程で能動的に経験を形成しようとする結果として、生起するものだとしている。
そして、マイケル・ポランニーは、その形成(シェービング)もしくは統合(インテグレーション)こそが、人間の偉大な暗黙の力であって、その力こそがすべての知を発見する元になるものだと言っている。
つまり、漫然と見ているものから関連したものを見だす能力とか、同質のものをひとまとめにして統合する能力だとか、ものの違いを判別する能力だとか。そしてそれを人は無意識のうちに行っているわけで。意識してどうこうする以前に身体で無意識のうちにやってしまっている。そういう例が、いくつもいくつも、これみよがしにこの本に書いてある。
それこそが暗黙知であって、人間が知を形成するためのエンジンである。つまり暗黙知とは、「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」というような表面的な知の分類ではない。
これはすごく深い。それこそが、空から色をつくる力であって。それは、人間の認識に止まらず、宇宙にある万物が持つ力であって、人はただそれを認識するように出来ている。というか、それがないと、生きていけないから、そうなっただけで。
人は自分の探すものを見つける能力がある。無意識のうちに。もっと言えば、人はシンクロニシティー(偶然の共時性)を引き出す能力があるわけで。しかも識閾下でそれを自動的に行っているということ。暗黙のうちに。無意識のうちに。セレンディピティもそう。結局、もとになるのは、この暗黙の力によるのだと。なんとすごい話じゃないですか。この暗黙知こそが、仏教でいう智慧の正体だと。すげえぜと。そして、それは宇宙を成り立たせている法則に繋がっているのだ。
で、マイケル・ポランニーの残念なところは、やっぱり西洋人の人間至上主義というか、人間はほかの動物と違うというキリスト教的世界観の中にしかいなくて。人だけがそれを持っていて、道徳という概念にまでこれを延ばしていて。そのせいですべてを台無しにしてしまっている。それがこの本の第Ⅲ章以降。惜し過ぎである。だから、この本はこれまで日本であまり注目されなかったのかも。
上にある錯視画像はネコにも動いて見えるらしい。
つまり、その力が動物にもあるということで。これって当たり前のように思えるけど、実はすごいことなんだぜ!と。つまり、物事を概念化する能力というのは、人間だけにあるわけではないし、彼らも暗黙知を使っているということで。ますます、動物と人間の違いなんてほとんどなくてってことで。猫にも智慧はあるのだ。
でも、逆にコンピューターにはこの暗黙知が生起できない。たとえば、カメラの顔認識とかは、人間のゲシュタルト認知の機構を、カメラに持ち込んだものだけど、それは、決まったことしかできない。動物のように暗黙知を生起できないから。もしかしたら、暗黙知を生起できるかできないかが、生物かそうでないかの違いなのかもしれない。認知というのは植物にもある。なんかさあ、それにハッと気がついたときに、震えたわけよ。シンクロニシティは機械には作れないのよ。まあ、ネット検索とか、cookieの広告利用とかでシンクロニシティを作ってるように見えるけど、あれは機械的に行っているだけで、それを最終的に判断して使うのは、結局人間の側に委ねられているというか、暗黙知を持っているのが人間のほうだからそう見えるだけというか。
この本、哲学や脳科学や心理学に興味がある人は一読されたい。自分の拙い文章では伝えられないわ。「第Ⅰ章 暗黙知」「第Ⅱ章 創発」がすごい。第Ⅲ章はいらない。薄っぺらいのに1000円もするから、図書館で借りたほうがいいかも。世界観が変わったわ。
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

¥945
Amazon.co.jp
すごい。猫にも錯視があるのかと。
マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を買って読んでいた。

トヨタ方式だとか知識経営論で謳われている暗黙知とはまったく概念自体異なるものだった。知識経営論では、形式知に対して、「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」を暗黙知という。野中郁次郎氏の暗黙知理論に基づくものらしい。
のだが、これが蔓延してしまったおかげで、暗黙知の本質がまったく見えなくなった。日本の学問は、どうも目先だけに注意がいって本質に目が向かない傾向があるらしい。マイケル・ポランニーの暗黙知は、ゲシュタルト心理学に端を発する。
ゲシュタルト心理学によれば、ある対象の外形を認識するとき、私たちは感知している個々の特徴を、それが何かとは特定できないままに、統合しているのだと言う。たとえば、
①近接の要因
接しているもの同士はひとまとまりにして見てしまう。
|| || ||
②類同の要因
同じものを固まりとして見てしまう。
□■■□□■■□□■■□□■■□□■
③閉合の要因
互いに閉じあっているもの同士(閉じた領域)はひとまとまりに見てしまう。
〕〔 〕〔 〕〔 〕〔
(by wikipedia)
音でも同じような統合が起こる。メロディの認識だとか。パクリだ!って言ってるものは、そういうゲシュタルト認識により成立している。目の錯覚とかは、こういう心的な傾向により起こるわけで。
これって動いているように見えるのだけど、実は動いてない。こういうふうに目で見たものをなんとなく頭の中で統合して判断してしまう。そのせいで動いて見えるわけで。
ゲシュタルト心理学では、このようなことが起こる原因を、人間による対象物の外形の認識は、網膜もしくは脳に刻印された個々の特徴が、自然な平衡を得て生起するからだと定義しているのだが、マイケル・ポランニーは、それを一歩進めて、人間が対象物を認識する場合、その過程で能動的に経験を形成しようとする結果として、生起するものだとしている。
そして、マイケル・ポランニーは、その形成(シェービング)もしくは統合(インテグレーション)こそが、人間の偉大な暗黙の力であって、その力こそがすべての知を発見する元になるものだと言っている。
つまり、漫然と見ているものから関連したものを見だす能力とか、同質のものをひとまとめにして統合する能力だとか、ものの違いを判別する能力だとか。そしてそれを人は無意識のうちに行っているわけで。意識してどうこうする以前に身体で無意識のうちにやってしまっている。そういう例が、いくつもいくつも、これみよがしにこの本に書いてある。
それこそが暗黙知であって、人間が知を形成するためのエンジンである。つまり暗黙知とは、「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」というような表面的な知の分類ではない。
これはすごく深い。それこそが、空から色をつくる力であって。それは、人間の認識に止まらず、宇宙にある万物が持つ力であって、人はただそれを認識するように出来ている。というか、それがないと、生きていけないから、そうなっただけで。
人は自分の探すものを見つける能力がある。無意識のうちに。もっと言えば、人はシンクロニシティー(偶然の共時性)を引き出す能力があるわけで。しかも識閾下でそれを自動的に行っているということ。暗黙のうちに。無意識のうちに。セレンディピティもそう。結局、もとになるのは、この暗黙の力によるのだと。なんとすごい話じゃないですか。この暗黙知こそが、仏教でいう智慧の正体だと。すげえぜと。そして、それは宇宙を成り立たせている法則に繋がっているのだ。
で、マイケル・ポランニーの残念なところは、やっぱり西洋人の人間至上主義というか、人間はほかの動物と違うというキリスト教的世界観の中にしかいなくて。人だけがそれを持っていて、道徳という概念にまでこれを延ばしていて。そのせいですべてを台無しにしてしまっている。それがこの本の第Ⅲ章以降。惜し過ぎである。だから、この本はこれまで日本であまり注目されなかったのかも。
上にある錯視画像はネコにも動いて見えるらしい。
つまり、その力が動物にもあるということで。これって当たり前のように思えるけど、実はすごいことなんだぜ!と。つまり、物事を概念化する能力というのは、人間だけにあるわけではないし、彼らも暗黙知を使っているということで。ますます、動物と人間の違いなんてほとんどなくてってことで。猫にも智慧はあるのだ。
でも、逆にコンピューターにはこの暗黙知が生起できない。たとえば、カメラの顔認識とかは、人間のゲシュタルト認知の機構を、カメラに持ち込んだものだけど、それは、決まったことしかできない。動物のように暗黙知を生起できないから。もしかしたら、暗黙知を生起できるかできないかが、生物かそうでないかの違いなのかもしれない。認知というのは植物にもある。なんかさあ、それにハッと気がついたときに、震えたわけよ。シンクロニシティは機械には作れないのよ。まあ、ネット検索とか、cookieの広告利用とかでシンクロニシティを作ってるように見えるけど、あれは機械的に行っているだけで、それを最終的に判断して使うのは、結局人間の側に委ねられているというか、暗黙知を持っているのが人間のほうだからそう見えるだけというか。
この本、哲学や脳科学や心理学に興味がある人は一読されたい。自分の拙い文章では伝えられないわ。「第Ⅰ章 暗黙知」「第Ⅱ章 創発」がすごい。第Ⅲ章はいらない。薄っぺらいのに1000円もするから、図書館で借りたほうがいいかも。世界観が変わったわ。
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

¥945
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冷血
フランシス・ベーコン展行きたい!
はりつけておこう。

東京の近代美術館は5月26日(日)明日まで。行けんわ。
高村薫『冷血(下)』を読んだ。テーマはこっちなのね。
というか上巻と下巻で2枚綴りの絵。
上巻は事件。下巻は公判。
だけど、印象的には上巻が静で黒。下巻が動で白。
『太陽を曳く馬』のマーク・ロスコを曳きずって抽象絵画風に言えば。
しかし、ロスコの黒に対する彼女の感想、
「わたしは、この黒い絵は人間の生命の手触りだという気がしました。
これは手触りとしかいいようがないもので、これは命とはなんだといいあてられないような、なにものかだと。たとえば、一見黒いように見えるけれども、色がある。真っ暗なようだけれども、光がないわけではない。冷たいようだけれども、ほのかに温度がある。…
おそろしく奥深いものだと。そういういのちの、人間の生命の手触りとしての感覚がこの黒い絵にはある。としたら、こういう文章が書けるのではないか。」
それを仮に真如(無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である)とするならば、『冷血』は逆に、それこそ空っぽの『空くう』であり、色即是空の空であった。
それはもともと設定からして「解は空である」もの取り上げてるからで。
あたりまえじゃん!と。なんだか、やっぱり設定段階で自家中毒だ。
それなりに下巻はおもしろかったのに。刑事モノで何がしたいんだろう?文学?美術?ううむ。結果的にそれが文学なり美術になるならともかく。はじめからそれを目指すからおかしくなるんじゃないだろうか。てか、どうせ書くならベーコンみたいな絵にして欲しい。具象にしてよと。マークスの山っぽく。現実の皮がベロンとめくれて人間の何かが顔を出す。ベーコン同性愛者らしいし。
と冷たく書いてみる。冷血。
追記
6月8日(土)、豊田市美術館のオープニングの日に、世界的に活躍する舞踏家・田中泯氏によるパフォーマンスが開催されます。だって。ますます見たい。えっ?応募がいるの?5月25日(土)豊田市美術館必着です?だめじゃんか。orz(←ひさびさ書いたわ。死語なの?)
はりつけておこう。
東京の近代美術館は5月26日(日)明日まで。行けんわ。
高村薫『冷血(下)』を読んだ。テーマはこっちなのね。
というか上巻と下巻で2枚綴りの絵。
上巻は事件。下巻は公判。
だけど、印象的には上巻が静で黒。下巻が動で白。
『太陽を曳く馬』のマーク・ロスコを曳きずって抽象絵画風に言えば。
しかし、ロスコの黒に対する彼女の感想、
「わたしは、この黒い絵は人間の生命の手触りだという気がしました。
これは手触りとしかいいようがないもので、これは命とはなんだといいあてられないような、なにものかだと。たとえば、一見黒いように見えるけれども、色がある。真っ暗なようだけれども、光がないわけではない。冷たいようだけれども、ほのかに温度がある。…
おそろしく奥深いものだと。そういういのちの、人間の生命の手触りとしての感覚がこの黒い絵にはある。としたら、こういう文章が書けるのではないか。」
それを仮に真如(無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である)とするならば、『冷血』は逆に、それこそ空っぽの『空くう』であり、色即是空の空であった。
それはもともと設定からして「解は空である」もの取り上げてるからで。
あたりまえじゃん!と。なんだか、やっぱり設定段階で自家中毒だ。
それなりに下巻はおもしろかったのに。刑事モノで何がしたいんだろう?文学?美術?ううむ。結果的にそれが文学なり美術になるならともかく。はじめからそれを目指すからおかしくなるんじゃないだろうか。てか、どうせ書くならベーコンみたいな絵にして欲しい。具象にしてよと。マークスの山っぽく。現実の皮がベロンとめくれて人間の何かが顔を出す。ベーコン同性愛者らしいし。
と冷たく書いてみる。冷血。
追記
6月8日(土)、豊田市美術館のオープニングの日に、世界的に活躍する舞踏家・田中泯氏によるパフォーマンスが開催されます。だって。ますます見たい。えっ?応募がいるの?5月25日(土)豊田市美術館必着です?だめじゃんか。orz(←ひさびさ書いたわ。死語なの?)
父殺し
ふと目についた松岡正剛さんの中島敦評を読んでいて
361夜『李陵・弟子・名人伝』中島敦|松岡正剛の千夜千冊
またしても正剛さんにやられてしまった。
そうかそういうことかと。まったく。
正剛さんにはやられっぱなしだ。
そして正剛さんの中島敦評を通して見てたのはもちろん春樹さん。
父との関係が相似だ。。
なるほどと。あまりに合点がいってしまった。
そっちかと。
あのジョニー・ウォーカーというのは父親だったのかと。
そして、1Q84で青豆が殺したのもそうだったのかと。
なんでカフカでいきなり父殺しが出て来たんだろう?ジョニー・ウォーカーのあたりが全然わかんねえなあと思ってたのだけど。
そして、「村上春樹 父」で検索かけたら出てくる、出てくる。
一番衝撃だったのはコレ。
村上春樹はなぜ両親について語らないのか―全共闘世代のルーツ
これと正剛氏の中島敦評を重ね合わせて確信した。
深いわ。ねじまき思ってたよりずっと深いわと。
そうか間宮中尉ってそうだったんだ。ううむ。ねじまきの重層感ぱねえな。
そうなんだよ、カフカからおかあさんも明示的に出てくるんだよね。
あれって、なんなんだろうなあ?と思ってたんだけど。
まてよ?じゃあノルウェイの森のレイコさんっていったい?
しかし、なにこのいきなりのエディプス神話感苦笑。
もともと縦糸と横糸があったってことなのか。
今世界的にイニシエーションせずに大人になってるからってこと?
だからこそ読まれてるとか、中国とか。一人っ子政策なんてやってたらそりゃイニシエーションの機会なんて余計なくなるわ。男兄弟いるとかなり違うんだよね。どっちかが父越えやるからさ。負けずにやるわな。どっちかが家業継ぐとかだったら、そいつは親を越えないと評価されないし。春樹さん一人っ子だし。
しかも父親を越えないと中二のままっていうのが、返す刀で自分の喉元に苦笑
子供を産まないとかあ。いやいや、無理だわ、この年では。それ以前にダメダメな部分を直さないと。背筋ピーンしないと。うーむ。
そうそう、なんで陶器なんだろうと思ってたんだけど、空洞なのね。まるで、河合隼雄さんの日本人の心の中空構造からも、彼の中にぽっかり空いた喪失感でもありえるように。でも、それだと、1Q84の空気さなぎなわけで。でも、多崎では、容器という中にちゃんとものが入れられるようになって、しかも絵柄までついて。すごく変容してるわけで。空気さなぎって閉じられたものだったからさ。灰田くんから多崎つくるになって、真空から駅になったわけだ。人が出入りできる、人が利用できるもの。でもこれはなんか成長として多分に意図的な感じがしないでもないな。ちゃんと世界にコミットしようっていう意志というか。それってこの本の宣言と被るわけで。ん?あ
、クロっておかあさんだったのか。だから入れモノを作ってるのか。しかも、夢でもセックスの対象から外れるのってそういうわけか。いやいや、もともと彼女はレイコさんの役割だった筈。ああ、だから衝撃だったんだ、ノルウェイ。なんか石を呑み込んだ気がしたんだよ、あの部分を読んだとき。そうか。そういうことか。だからなのか。。今やっと自分が何故そう感じたのかがわかったわ。いまは春樹氏かなりそのあたりもなくなって来たってこと?おとうさんもクロと寄り添って暮してるし。そうか、あれが今の彼にとってのお父さんなのか。穏やかすぎる。しかも何?なにこのキレイなまとまりかた?はじめっから決め打ちで、わかって書いてたの?どの作品から?ううむ、春樹さんの本にはまだまだ謎がある。
やっぱり、ねじまき鳥というより、その前の『国境の南、太陽の西』ももともとその一部だったらしいからそこからちゃんと読まないとわからないなあ。
追記 父殺しの瞬間
やっとわかった。お父さん(綿谷ノボル=間宮中尉=灰田の父)と春樹さん(僕・暗黒面はワタナベノボル)がクロスオーバーしたのは、ノモンハンだったんだ。あの村上春樹のノモンハンでの個人的な体験、戦争を擬似体験して揺れた部屋からまろび出た瞬間に、自分と父親が重なったんだね。父親の戦争を擬似体験した瞬間に、(自分の喪失感=罪深さ)と(父親の中国での戦闘=罪深さ)が重なった。それで激震が走ったのか。それが『辺境・近境』のとき。1994年6月か。
レキシントンの幽霊ってそのときくらいに書いてた短編か?ちょうど河合さんとプリンストンで対談したときくらい(1994年5月5日)。ねじまきニ部まで終わって、三部を書く前か書こうとしてるときか。そのころからチャネルがいきなり開いたんだね。あっちの世界と。だからノモンハンでいきなりイっちゃったのか。壁抜けってそのことだったのか。あれって、ほんとうに身も蓋もなく壁抜けだったのか。そりゃまともじゃいられないわ。そういうことがほんとに起こるんだ
。すごいねえ。鳥刺し男編が激ヤバなのか。ピンポイントでそこなのね。もう一回ちゃんと読まんといけん。
そこから徐々に変わっていくんだろうなあ。たぶん、父殺しっていうのは、瞬間じゃないんだわ。現実世界で考えてみればわかる通り。共感なんだわ。父親とのコミットメント。それが子供にとっての父殺しなんだと今気付いた。そのコミットメントの過程が、海辺のカフカ→1Q84→多崎つくると巡礼の年で、たしかに、カフカ~1Q84で微妙に父殺しの書き方がかわってて、1Q84ではあの殺しの瞬間、自分も殺している、ある意味自殺のような書き方なんだけど、実際にお父さんが鬼籍に入る、それで多崎でやっと自覚したというか。ほんと、あの本は村上春樹総まとめだわ。
1992年に、プリンストン大学院で日本文学のクラスを1年間を通して持ったときに、日本文学の教師だった親の気持ちがわかったというか、親嫌いを克服する一段階を終えたわけで。それはまさに『河合隼雄 こころの声を聴く』に書いてあることに今気付いた。なんとまあ、読んでたのに気がつかなかったよ。そんな深い話だとは思わなかったし。そこから20年だよ、2013年。かかってるねえ。
やっぱ、そのくらい今の時代はかかるんだよ。第二次世界大戦が終わってから、紛争地域を除いて、廃墟から国を一から作る過程で親を越えた。そういう機会がなくなった。世界的に戦争を知らない子供たちなわけで。明確にイニシエーションを自覚できる機会がなくなった。そういう人が多くなった。そういう国で村上春樹が読まれているんだと。多分、そういうことなんだろう。
361夜『李陵・弟子・名人伝』中島敦|松岡正剛の千夜千冊
またしても正剛さんにやられてしまった。
そうかそういうことかと。まったく。
正剛さんにはやられっぱなしだ。
そして正剛さんの中島敦評を通して見てたのはもちろん春樹さん。
父との関係が相似だ。。
なるほどと。あまりに合点がいってしまった。
そっちかと。
あのジョニー・ウォーカーというのは父親だったのかと。
そして、1Q84で青豆が殺したのもそうだったのかと。
なんでカフカでいきなり父殺しが出て来たんだろう?ジョニー・ウォーカーのあたりが全然わかんねえなあと思ってたのだけど。
そして、「村上春樹 父」で検索かけたら出てくる、出てくる。
一番衝撃だったのはコレ。
村上春樹はなぜ両親について語らないのか―全共闘世代のルーツ
これと正剛氏の中島敦評を重ね合わせて確信した。
深いわ。ねじまき思ってたよりずっと深いわと。
そうか間宮中尉ってそうだったんだ。ううむ。ねじまきの重層感ぱねえな。
そうなんだよ、カフカからおかあさんも明示的に出てくるんだよね。
あれって、なんなんだろうなあ?と思ってたんだけど。
まてよ?じゃあノルウェイの森のレイコさんっていったい?
しかし、なにこのいきなりのエディプス神話感苦笑。
もともと縦糸と横糸があったってことなのか。
今世界的にイニシエーションせずに大人になってるからってこと?
だからこそ読まれてるとか、中国とか。一人っ子政策なんてやってたらそりゃイニシエーションの機会なんて余計なくなるわ。男兄弟いるとかなり違うんだよね。どっちかが父越えやるからさ。負けずにやるわな。どっちかが家業継ぐとかだったら、そいつは親を越えないと評価されないし。春樹さん一人っ子だし。
しかも父親を越えないと中二のままっていうのが、返す刀で自分の喉元に苦笑
子供を産まないとかあ。いやいや、無理だわ、この年では。それ以前にダメダメな部分を直さないと。背筋ピーンしないと。うーむ。
そうそう、なんで陶器なんだろうと思ってたんだけど、空洞なのね。まるで、河合隼雄さんの日本人の心の中空構造からも、彼の中にぽっかり空いた喪失感でもありえるように。でも、それだと、1Q84の空気さなぎなわけで。でも、多崎では、容器という中にちゃんとものが入れられるようになって、しかも絵柄までついて。すごく変容してるわけで。空気さなぎって閉じられたものだったからさ。灰田くんから多崎つくるになって、真空から駅になったわけだ。人が出入りできる、人が利用できるもの。でもこれはなんか成長として多分に意図的な感じがしないでもないな。ちゃんと世界にコミットしようっていう意志というか。それってこの本の宣言と被るわけで。ん?あ
、クロっておかあさんだったのか。だから入れモノを作ってるのか。しかも、夢でもセックスの対象から外れるのってそういうわけか。いやいや、もともと彼女はレイコさんの役割だった筈。ああ、だから衝撃だったんだ、ノルウェイ。なんか石を呑み込んだ気がしたんだよ、あの部分を読んだとき。そうか。そういうことか。だからなのか。。今やっと自分が何故そう感じたのかがわかったわ。いまは春樹氏かなりそのあたりもなくなって来たってこと?おとうさんもクロと寄り添って暮してるし。そうか、あれが今の彼にとってのお父さんなのか。穏やかすぎる。しかも何?なにこのキレイなまとまりかた?はじめっから決め打ちで、わかって書いてたの?どの作品から?ううむ、春樹さんの本にはまだまだ謎がある。やっぱり、ねじまき鳥というより、その前の『国境の南、太陽の西』ももともとその一部だったらしいからそこからちゃんと読まないとわからないなあ。
追記 父殺しの瞬間
やっとわかった。お父さん(綿谷ノボル=間宮中尉=灰田の父)と春樹さん(僕・暗黒面はワタナベノボル)がクロスオーバーしたのは、ノモンハンだったんだ。あの村上春樹のノモンハンでの個人的な体験、戦争を擬似体験して揺れた部屋からまろび出た瞬間に、自分と父親が重なったんだね。父親の戦争を擬似体験した瞬間に、(自分の喪失感=罪深さ)と(父親の中国での戦闘=罪深さ)が重なった。それで激震が走ったのか。それが『辺境・近境』のとき。1994年6月か。
レキシントンの幽霊ってそのときくらいに書いてた短編か?ちょうど河合さんとプリンストンで対談したときくらい(1994年5月5日)。ねじまきニ部まで終わって、三部を書く前か書こうとしてるときか。そのころからチャネルがいきなり開いたんだね。あっちの世界と。だからノモンハンでいきなりイっちゃったのか。壁抜けってそのことだったのか。あれって、ほんとうに身も蓋もなく壁抜けだったのか。そりゃまともじゃいられないわ。そういうことがほんとに起こるんだ
。すごいねえ。鳥刺し男編が激ヤバなのか。ピンポイントでそこなのね。もう一回ちゃんと読まんといけん。そこから徐々に変わっていくんだろうなあ。たぶん、父殺しっていうのは、瞬間じゃないんだわ。現実世界で考えてみればわかる通り。共感なんだわ。父親とのコミットメント。それが子供にとっての父殺しなんだと今気付いた。そのコミットメントの過程が、海辺のカフカ→1Q84→多崎つくると巡礼の年で、たしかに、カフカ~1Q84で微妙に父殺しの書き方がかわってて、1Q84ではあの殺しの瞬間、自分も殺している、ある意味自殺のような書き方なんだけど、実際にお父さんが鬼籍に入る、それで多崎でやっと自覚したというか。ほんと、あの本は村上春樹総まとめだわ。
1992年に、プリンストン大学院で日本文学のクラスを1年間を通して持ったときに、日本文学の教師だった親の気持ちがわかったというか、親嫌いを克服する一段階を終えたわけで。それはまさに『河合隼雄 こころの声を聴く』に書いてあることに今気付いた。なんとまあ、読んでたのに気がつかなかったよ。そんな深い話だとは思わなかったし。そこから20年だよ、2013年。かかってるねえ。
やっぱ、そのくらい今の時代はかかるんだよ。第二次世界大戦が終わってから、紛争地域を除いて、廃墟から国を一から作る過程で親を越えた。そういう機会がなくなった。世界的に戦争を知らない子供たちなわけで。明確にイニシエーションを自覚できる機会がなくなった。そういう人が多くなった。そういう国で村上春樹が読まれているんだと。多分、そういうことなんだろう。
lost
喪失感。
それがテーマだった。だから、春樹作品に独特の浮遊感があったのかと思っていたけど、それは夢の中の物語でもあったからで。
まるで浦島太郎だなと。あれはすべて竜宮城での物語だったわけだ。唐突にそう気付いた。竜宮城にしてはずいぶんおかしなものも出てきたけれど。そして、最後に玉手箱をあけると、煙が出ておじいさんになってしまう。これって、まるっきり春樹さんのことだと。
現実世界では、日本から離れて世界中のいろんな場所で暮らしてきたけれど、その間中ずっーと夢の中の世界に閉じ込められてきた。刑期を終えて井戸の外へ出てきたら、自分はもう青年ではなく、また30代でもなかった。やれやれ。
しかし、煙っていうのがすごい。この比喩はまさにそれが夢だったっていうことかと。あのもやの中にいる感じ。まさにハードボイルドワンダーランドの世界だ。
そして、はっと気がついた。浦島太郎って、男の人生そのものなのかもしれないと。
「敦盛」じゃねえか。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。そうか、村上春樹作品全体が、浦島太郎の話なのか。
男にとって仕事ってそういうものだし。自分の年齢とか考えずに仕事をしている。それは、実は竜宮城にいるのと同じことで。まあ、鯛やヒラメは舞い踊るわけじゃないけれど、一生懸命やってれば、苦労話も笑い話になっているわけで。それは自分次第ってことなんだろう。
浦島太郎って万葉集にすでにあったのね。あらまあ、すごい。りっぱな日本の物語じゃないですか。ロールモデルの提示でもあるわけで。そうか、男はそうあってしかるべきなんだ。あれは悲しい物語だと子供の頃にはおもっていた。なんて理不尽な話なんだろうと。亀を助けてじじいかよと。しかも、戻ったら家族も親類縁者も友達も全部死んでしまっているのだ。でも、この年になって感じる。あれは男にとっては理想の夢物語だったのかも知れないと。うむうむ。
しかし、ほんとにオイラもマジやばいな。そんなふうに思えるお年頃なのかと。
まさに、じじいだ苦笑
まあでも、春樹さんの場合は、浦島みたいなハッピーエンド?(その後、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再び巡り会って夫婦の神になった by 御伽草子)じゃなく、ほんとはイザナギ・イザナミ神話なわけで。イザナミが、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなる(直子の死。死んだ原因の一端は自分にあるのではないかという意識は無意識へ追いやられる)。喪失感だけが残る。そして、黄泉の国へ。黄泉の国で、決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれたイザナミの姿であった。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう(ねじまき鳥。実は殺したのはオレであることに気付く。自分の喪失感は、罪の意識が自分を無意識から責めていたからだった。いや、むしろそれは過度な自尊心の裏返しでもある。失っていることに自己陶酔していたのだ。失う原因が自分であることに対しても。そして同時にそのありのままの自らの邪悪な影をリアルに見る。混乱。とにかく逃げた。だから、ねじまきは無茶苦茶で混乱している。だからこそエネルギーをもっている話で。そしてリアルなのだ。村上龍が読んである種のそら恐ろしさを感じたといってたものの正体はそれかもしれない)。壁抜けというのは、むしろただケツまくって逃げただけかもしれない。ぐるっと世界が反転しただけなのかも知れない。その瞬間は自分ではわからない。そして逃げた自分を正当化する。あれは一体なんだったんだろう?その整理をするための作品が、カフカ、アフターダーク、1Q84、巡礼の年。スプートニクは余技でしかない。あれは、ねじまきの余波で狂ってしまった自分を取り戻すためのルーチンとして必要だった作品でこの系統からは外れている。1Q84なんて、自分を正当化するために、その場所にもどって、自分の邪悪さを人になすりつけて殺してるし。ひでえ話。マジ心的な防衛反応だよね。しかし、こんなキレイに人生が小説の中に収まるものなのか?なんかおかしい。ていうか、直子って春樹さんにとって一体誰なの?ほんとにいたの?っていうのが最大の謎。でもそれは知りたくもあり、知りたくもなしってところ。
小学生の頃、このイザナギ・イザナミの話をよんで、「イザナギっていうのは、なんて卑怯で自分勝手で臆病なやつなんだ、ひどいやつだなあ」と子供心に思ったんだよね。なんかそれって今考えても当ってたんだと思う。(←ばっさり笑)
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」ていうやつが彼にもある。中島敦と同じ病だ。中二なのだ。永遠の少年だ。そういえば、主題を読者にはわからないように隠すとことか似ている。山月記みたく。でも、そんなことは彼のストーリーテリングの巧みさと関係ない。中島敦だってそう。彼らの作品と較べたら、そんなことはオイラにはどうだってよいのである。
あるいは逆にイザナミの姿を見ても、逃げ出さずに、「憐れだ」と思ってそこに居続けてしまったとしたら、死んでしまっていたわけで。生きるというのは本質的にそういうことなのかもしれない。それって、プラトンの「洞窟の比喩」ともどこか似ているんだよね。
それがテーマだった。だから、春樹作品に独特の浮遊感があったのかと思っていたけど、それは夢の中の物語でもあったからで。
まるで浦島太郎だなと。あれはすべて竜宮城での物語だったわけだ。唐突にそう気付いた。竜宮城にしてはずいぶんおかしなものも出てきたけれど。そして、最後に玉手箱をあけると、煙が出ておじいさんになってしまう。これって、まるっきり春樹さんのことだと。
現実世界では、日本から離れて世界中のいろんな場所で暮らしてきたけれど、その間中ずっーと夢の中の世界に閉じ込められてきた。刑期を終えて井戸の外へ出てきたら、自分はもう青年ではなく、また30代でもなかった。やれやれ。
しかし、煙っていうのがすごい。この比喩はまさにそれが夢だったっていうことかと。あのもやの中にいる感じ。まさにハードボイルドワンダーランドの世界だ。
そして、はっと気がついた。浦島太郎って、男の人生そのものなのかもしれないと。
「敦盛」じゃねえか。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。そうか、村上春樹作品全体が、浦島太郎の話なのか。
男にとって仕事ってそういうものだし。自分の年齢とか考えずに仕事をしている。それは、実は竜宮城にいるのと同じことで。まあ、鯛やヒラメは舞い踊るわけじゃないけれど、一生懸命やってれば、苦労話も笑い話になっているわけで。それは自分次第ってことなんだろう。
浦島太郎って万葉集にすでにあったのね。あらまあ、すごい。りっぱな日本の物語じゃないですか。ロールモデルの提示でもあるわけで。そうか、男はそうあってしかるべきなんだ。あれは悲しい物語だと子供の頃にはおもっていた。なんて理不尽な話なんだろうと。亀を助けてじじいかよと。しかも、戻ったら家族も親類縁者も友達も全部死んでしまっているのだ。でも、この年になって感じる。あれは男にとっては理想の夢物語だったのかも知れないと。うむうむ。
しかし、ほんとにオイラもマジやばいな。そんなふうに思えるお年頃なのかと。
まさに、じじいだ苦笑
まあでも、春樹さんの場合は、浦島みたいなハッピーエンド?(その後、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再び巡り会って夫婦の神になった by 御伽草子)じゃなく、ほんとはイザナギ・イザナミ神話なわけで。イザナミが、火の神であるカグツチ(軻遇突智、迦具土神)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなる(直子の死。死んだ原因の一端は自分にあるのではないかという意識は無意識へ追いやられる)。喪失感だけが残る。そして、黄泉の国へ。黄泉の国で、決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれたイザナミの姿であった。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう(ねじまき鳥。実は殺したのはオレであることに気付く。自分の喪失感は、罪の意識が自分を無意識から責めていたからだった。いや、むしろそれは過度な自尊心の裏返しでもある。失っていることに自己陶酔していたのだ。失う原因が自分であることに対しても。そして同時にそのありのままの自らの邪悪な影をリアルに見る。混乱。とにかく逃げた。だから、ねじまきは無茶苦茶で混乱している。だからこそエネルギーをもっている話で。そしてリアルなのだ。村上龍が読んである種のそら恐ろしさを感じたといってたものの正体はそれかもしれない)。壁抜けというのは、むしろただケツまくって逃げただけかもしれない。ぐるっと世界が反転しただけなのかも知れない。その瞬間は自分ではわからない。そして逃げた自分を正当化する。あれは一体なんだったんだろう?その整理をするための作品が、カフカ、アフターダーク、1Q84、巡礼の年。スプートニクは余技でしかない。あれは、ねじまきの余波で狂ってしまった自分を取り戻すためのルーチンとして必要だった作品でこの系統からは外れている。1Q84なんて、自分を正当化するために、その場所にもどって、自分の邪悪さを人になすりつけて殺してるし。ひでえ話。マジ心的な防衛反応だよね。しかし、こんなキレイに人生が小説の中に収まるものなのか?なんかおかしい。ていうか、直子って春樹さんにとって一体誰なの?ほんとにいたの?っていうのが最大の謎。でもそれは知りたくもあり、知りたくもなしってところ。
小学生の頃、このイザナギ・イザナミの話をよんで、「イザナギっていうのは、なんて卑怯で自分勝手で臆病なやつなんだ、ひどいやつだなあ」と子供心に思ったんだよね。なんかそれって今考えても当ってたんだと思う。(←ばっさり笑)
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」ていうやつが彼にもある。中島敦と同じ病だ。中二なのだ。永遠の少年だ。そういえば、主題を読者にはわからないように隠すとことか似ている。山月記みたく。でも、そんなことは彼のストーリーテリングの巧みさと関係ない。中島敦だってそう。彼らの作品と較べたら、そんなことはオイラにはどうだってよいのである。
あるいは逆にイザナミの姿を見ても、逃げ出さずに、「憐れだ」と思ってそこに居続けてしまったとしたら、死んでしまっていたわけで。生きるというのは本質的にそういうことなのかもしれない。それって、プラトンの「洞窟の比喩」ともどこか似ているんだよね。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。

うーん、村上春樹版エクスペンダブルズというかアベンジャーズというか。
それまでの春樹作品の材料をちりばめて、というか結構おもしろがってそういうことやってるんだろうなと。
彼のモノガタリはねじまき鳥で終わった。1Q84では、もう井戸から出ていて、外から中を眺めている感じだったのだけど(あの2つめの世界の月は井戸の水面に映った月だ。だから小さくて歪んでいた)、もう井戸からも離れていて、いままでの人生を客観的に眺めている。だから、巡礼なんだろう。
かたちとしては、ノルウェイの森のアンサーソングなんだけど、失ったものは風化してしまったし、固くしまった壜の蓋はそのままサビついてしまった。いまさらコジ開ける必要もないし、開けたところで何も変わらないのを知っている。それだけ年をとったってこと。それが敢えて言えばこの本のテーマかな。
もう、ノーベル文学賞とかそんな自分の外の馬鹿騒ぎなんてどうだっていいや。これまでどおり、自分は職業として小説書いていくよっていう終結宣言みたいなものだと勝手に感じながら読んでいた。
ああ、そうそう、上で書いた壜はもちろんアノ壜で、今はお守りなんだね。失われたものが入ってるやつ。そこでピアノを一回奏でればもう充分だったてこと。それがこの作品。彼の影でありネズミにあたるのは今回は2人いる。そんなふうな暗喩は健在でやっぱりいろいろちゃんとつながっている。ワタナベノボルとタザキツクル、なんだか名前もそれっぽい。
(そういえば、今気付いたのだが、村上春樹と安西水丸、村上龍と坂本龍一っていう関係って、小説家のほうから見たらいいネタなのかも笑 救いだったりね。自分の影を引き受けてくれる存在なんだろうと思う)
しかし、30年以上にもわたって、彼自身の作品が彼自身の影をずっと写しだしてきたっていうのはマジすごい。まさにそれがモノガタリの所以で。そのあたり蓮實重彦なんて村上春樹を全然読みとれてないわけだ。
芝生もビールも80年代のポップソング*1も出てこなくて、クラッシックとワインなんていうふうに人生のステージはあがっちゃってるけれど、でもどっちかというと、このての本のほうが自分にとっては村上春樹らしいというか好きだ。自分にとっては、文庫本で読む本で、新刊で村上春樹の本を急いで買って読むのってもともとおかしかったのだ。やれやれ。
*1 ワム!とかさ、出てるんだけどネ。いまや、それは記号でしかなく。昔はもっとバカにしてる対象として生きてたのさ、小説の中で。俗物というかそういう現実世界の象徴という意味で生きたワードだった。でも案外逆に気になってたんだと思うんだけど、80'sのMTV全盛時代のコマーシャリズム音楽。
まあ、それだけじゃなく、この小説の場合、昔の名前で出ています系なワードがすべて記号になってしまって、白雪姫だのなんだの。マジックワードじゃなくなってるんだけど(アオとアカ=現実・意識、シロとクロ=眠り・無意識。からの、シロクロで呼ばれるのを嫌う人と話す→そういうニ分された世界から統合された世界へっていう記号的な図式とか。そのあたりは、昔からか。名古屋から東京へいく間に失ったものを、黄泉の国までいって取り戻すとか。お気づきか。ノルウェイの森はその黄泉の国ドイツへ突っ込むところから始まる。ハードボイルドワンダーランドはどこか中世のヨーロッパ風味だったでしょ?どうも彼の中では長編の場合そうみたい。四国=死国なカフカ少年もそういうことです。)でもちゃんと新たに生きてるイメージがある言葉も入ってる。そう感じた。現実にもどってきて、喪失からの揺り戻しが入って逆に過剰にダブって見えてる。まだ焦点があってないからだろう。
そういえば、ネズミ=灰色くんが現れるタイミングと消えるタイミングとかって、前はどんな感じだったんだっけ?風の歌を聴け~羊をめぐる冒険までの一連の作品で。忘れてしまった。まあ、今回はそれらを完全にテーブルの上に並べることを目的にしてたし、それが逆にあきらかに読者に見えるようにもした。そういう意味で実験的だったと春樹氏は語っていたんだと思っている。要は蓋はこじ開けることはしないけど、蓋のマークくらいは見てやろうと。(もちろん、それは彼自身が蓋に明示的なマークを意識してつけることとイコールでもある。知るということは本質的にそういうことだ)。そしてちゃんとそれをしないとやっぱり前へ進めないという意識のもとにそんなふうに書いたってことなんだろうと思う。
いまちゃんと最後まで読み切ったら、やっぱり最後は大団円からのあらたな決意宣言だった笑
しかし、ほんと出しきりました。長い間ほんとうにごくろうさまでした。(←勝手に終了フラグ)

うーん、村上春樹版エクスペンダブルズというかアベンジャーズというか。
それまでの春樹作品の材料をちりばめて、というか結構おもしろがってそういうことやってるんだろうなと。
彼のモノガタリはねじまき鳥で終わった。1Q84では、もう井戸から出ていて、外から中を眺めている感じだったのだけど(あの2つめの世界の月は井戸の水面に映った月だ。だから小さくて歪んでいた)、もう井戸からも離れていて、いままでの人生を客観的に眺めている。だから、巡礼なんだろう。
かたちとしては、ノルウェイの森のアンサーソングなんだけど、失ったものは風化してしまったし、固くしまった壜の蓋はそのままサビついてしまった。いまさらコジ開ける必要もないし、開けたところで何も変わらないのを知っている。それだけ年をとったってこと。それが敢えて言えばこの本のテーマかな。
もう、ノーベル文学賞とかそんな自分の外の馬鹿騒ぎなんてどうだっていいや。これまでどおり、自分は職業として小説書いていくよっていう終結宣言みたいなものだと勝手に感じながら読んでいた。
ああ、そうそう、上で書いた壜はもちろんアノ壜で、今はお守りなんだね。失われたものが入ってるやつ。そこでピアノを一回奏でればもう充分だったてこと。それがこの作品。彼の影でありネズミにあたるのは今回は2人いる。そんなふうな暗喩は健在でやっぱりいろいろちゃんとつながっている。ワタナベノボルとタザキツクル、なんだか名前もそれっぽい。
(そういえば、今気付いたのだが、村上春樹と安西水丸、村上龍と坂本龍一っていう関係って、小説家のほうから見たらいいネタなのかも笑 救いだったりね。自分の影を引き受けてくれる存在なんだろうと思う)
しかし、30年以上にもわたって、彼自身の作品が彼自身の影をずっと写しだしてきたっていうのはマジすごい。まさにそれがモノガタリの所以で。そのあたり蓮實重彦なんて村上春樹を全然読みとれてないわけだ。
芝生もビールも80年代のポップソング*1も出てこなくて、クラッシックとワインなんていうふうに人生のステージはあがっちゃってるけれど、でもどっちかというと、このての本のほうが自分にとっては村上春樹らしいというか好きだ。自分にとっては、文庫本で読む本で、新刊で村上春樹の本を急いで買って読むのってもともとおかしかったのだ。やれやれ。
*1 ワム!とかさ、出てるんだけどネ。いまや、それは記号でしかなく。昔はもっとバカにしてる対象として生きてたのさ、小説の中で。俗物というかそういう現実世界の象徴という意味で生きたワードだった。でも案外逆に気になってたんだと思うんだけど、80'sのMTV全盛時代のコマーシャリズム音楽。
まあ、それだけじゃなく、この小説の場合、昔の名前で出ています系なワードがすべて記号になってしまって、白雪姫だのなんだの。マジックワードじゃなくなってるんだけど(アオとアカ=現実・意識、シロとクロ=眠り・無意識。からの、シロクロで呼ばれるのを嫌う人と話す→そういうニ分された世界から統合された世界へっていう記号的な図式とか。そのあたりは、昔からか。名古屋から東京へいく間に失ったものを、黄泉の国までいって取り戻すとか。お気づきか。ノルウェイの森はその黄泉の国ドイツへ突っ込むところから始まる。ハードボイルドワンダーランドはどこか中世のヨーロッパ風味だったでしょ?どうも彼の中では長編の場合そうみたい。四国=死国なカフカ少年もそういうことです。)でもちゃんと新たに生きてるイメージがある言葉も入ってる。そう感じた。現実にもどってきて、喪失からの揺り戻しが入って逆に過剰にダブって見えてる。まだ焦点があってないからだろう。
そういえば、ネズミ=灰色くんが現れるタイミングと消えるタイミングとかって、前はどんな感じだったんだっけ?風の歌を聴け~羊をめぐる冒険までの一連の作品で。忘れてしまった。まあ、今回はそれらを完全にテーブルの上に並べることを目的にしてたし、それが逆にあきらかに読者に見えるようにもした。そういう意味で実験的だったと春樹氏は語っていたんだと思っている。要は蓋はこじ開けることはしないけど、蓋のマークくらいは見てやろうと。(もちろん、それは彼自身が蓋に明示的なマークを意識してつけることとイコールでもある。知るということは本質的にそういうことだ)。そしてちゃんとそれをしないとやっぱり前へ進めないという意識のもとにそんなふうに書いたってことなんだろうと思う。
いまちゃんと最後まで読み切ったら、やっぱり最後は大団円からのあらたな決意宣言だった笑
しかし、ほんと出しきりました。長い間ほんとうにごくろうさまでした。(←勝手に終了フラグ)