象の夢を見たことはない -105ページ目

sleep

「自分は経験フェチだ」っていうのを、桐谷健太氏がグータンヌーボーだかで言ってたのを聞いた。かなり昔の話。「ああ、それはいいことだわ。すばらしいわ」と思ったのだけど。

「脳神経をいかに成長させるのか?」ということを目的とする場合、なにかを経験することだけが果たして有効な手段なのだろうかということもふと思ったわけで。
たぶんそれの逆にあるのが寝ることなのだろうなと。

眠った後の脳活動が低下している場合は間引きをしているんじゃないかと自分は思っていて。例えば、山に杉の木を植えたとする。それが経験にあたる。でも、植えるだけで間引きをしないと、杉は多く生えるけれど、一本一本が細くなる。
間引きをすると、本数が少なくなるけれど、一本一本が太くなる。どっちの杉が売れるかというと、間引きをした方の杉だ。

多分、寝るというのはそういう働きがあるのだと思う。

脳波の周波数は、γ>β>α>θ>δの順で高い→低いだとか。γは興奮時、βは通常の覚醒時、αはリラックス時あるいはウトウトし始め、θはα波よりも眠りに近く、δは睡眠時だという話。

興奮しているときには、杉がにょきにょき生えたり育ったりしていて。通常のときはゆっくり成長。リラックスしているときは、成長はとまっていてさてどうしたものかなと、切り株に腰かけて一服。眠りに入ったときは、よしコレを残してアレを伐採するとして木に印をつけ、睡眠時にバリバリ伐採する。

あまり伐り過ぎてもいけないし、植え過ぎもいけない。プラスとマイナスの差分によって、脳に世界が構築されるわけで。この話は、池谷裕二氏の『海馬』とかいろいろ読んでて、あー多分眠りとか夢っていうのはそういうことかいなと思ったわけで。ただ伸ばすときも伐採するときも、その人の生理的な好き嫌いっていうのがすごく関わってくる。

寝ているときに、その日の経験に対して、そういう好き嫌いとか、感情の重みづけをすることをしていて。記憶を入れ替えたり、順番を決めたりして、それが一時的に脳のスクリーンに写される。それが夢なんだろうなと思っている。それは覚醒時とは違うルートで、脳のある部分だけでプライベートパーティみたいに催されるので、起きたときには覚えていないんだろうと。起きる瞬間には、その中間状態で脳が活動しているので、その部分だけ思い出せるんだろうと。たまに睡眠中のレムとノンレム睡眠のキワのヤツも記憶に残ってそっちも思い出せたりとか。

そして、目覚めの一瞬前と目覚めた後の一瞬、脳波がクロスオーバーするときがなにかが閃く瞬間だったり。眠りに入る直前もそう。でもこの二つは閃くものの種類が全く逆で、自分の場合、眠る前は美術とか音楽とかそういうもので、起きる瞬間はプログラムのロジックだとかだったりする。人によって違うのかなあ。自分の経験的にはそうなのだが。
それが、木に印をつけているとき。θ波のときで、θ波はα波が徐波化して出現する場合は後頭葉優位であり、傾眠時は側頭葉優位に出現するとか。
例えばそんな風な脳の活動部位の違いだったりで悟りの質が違うというか。座禅で瞑想に入るときと出るときの上り坂、下り坂っていうあの井筒俊彦氏の『意識の形而上学』に書いてあった話とかも含めて考えたり。いわゆる分節と統合というか。

この推論、はなはだ素人考えではあるが、あながち全くは誤ってはいないと思うのだけど。

今日買った本

否、今日届いた本だった。

$ニャンちゅうなブログ-こころと脳の対話

ひとさまのブログで紹介されてて。
おもしろそうなので買ったら、やっぱりおもしろい。
わかりやすく書かれたもののほうが、目からウロコのものが多い。

そういう人たちと対話するのに難しい言葉だと相手に届かないから、っていうことをどこかで書かれていた。河合さんの本は、ご自身が書かれた本より対談のほうがわかりやすくておもしろい。(←失礼だわ)

ふと思ったのだが、難しいことを簡単な言葉にするとどこかにウソが混じる。だから、それは難しいまま理解しなければならないのだけど、難しい言い回しをしても意外と深いことは言えてない。深いところはわかりやすい言葉でしか到達できないのかもしれない。寸鉄人を刺すみたいな。それが科学と心理学の方法論の違いなのかも。

そういえば物理学でも世界を変えるような重要な論文はつねに異様に短いという話をきいたことがある。プログラムでもエレガントな(とそのスジの人たちがいう。カーネル開発者とか)ものほどシンプルで直感的にわかりやすい。

なんかこのブログもダラダラ長くなり過ぎだ。修行が必要だわ。
この本の表紙もすごくわかりやすい。本の内容はこのまんまだもの笑
シンプルなものが常に良いわけではなく。
ただ良いものはつねにシンプルなのかも。

そうかひらめき電球、やっとわかった。シンプル・イズ・ベストって言う人がなんだか胡散臭せえなあとずぅーっと思ってたのだ。その理由が今わかったわ。

芸術のみかた

たとえば、文章を書いている最中に何かに気付く。書きだすときには、なにかよくわからないものが自分の中にある。書いているうちに、それが姿を表す。ある瞬間に、「はっ!」とそれがわかる。なるほどと自分で膝を打つ。

作品を作っている最中に作者が何かに気付く。その気付くプロセス自体ってもしかして共有されるんじゃないだろうか。というか、そのプロセスというのがイメージと呼ばれるものの正体なんじゃないかと。

よく、作家の人が小説を書くときに最初は五里霧中で書いてるんだけど、途中からそれ自体がモメンタムを持ち始めて、勝手に動いていくということを言ってたりする。芸術作品でも同じで、描いたり作っている最中に作品自体が慣性を持ち始める。

それは、脳科学でいう創発というものなのかもしれないが、そんな単純なものではない気がする。

$ニャンちゅうなブログ-セル・オートマトン
(セル・オートマトン、ライフゲーム from wikipedia)

こんなふうな、コンピューター的な創発ではなく、どちらかというと組織論で使われる創発。創造するというほうに近いもので。

暗黙知というのは二種類あって、トヨタ方式なんかで形式知に対するものとしての暗黙知といわれているものは、一部の経営学者たちがそういう見方を広めたようで、誤解なのだそうだ。そっちのほうは、「経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの」という意味で使われていて、自分もそっちの意味で使っていたのだけど、本当の暗黙知は、「知識というものがあるとすると、その背後には必ず暗黙の次元の「知る」という動作がある」ということを示した概念らしい。これって、仏教でいう智慧というものに近いような気がする。

1042夜『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー|松岡正剛の千夜千冊

で、小説の話に戻るけれど、そういう作者ですら書いてて結末がわからない作品というのは、読者の創発を引き起こす作用があるんじゃないかと。よく村上春樹氏が物語という言葉で示すものは、それのことで、おとぎ話という意味でもなければ、ある特定の形をもったストーリーでもなく。ユング派の言う元型(アーキタイプ)というものも、型って書いてあるから間違ってしまうのだけど、あれは特殊な創発を引き起こすタネのようなもので。

イメージというのは、タネから植物が芽をだし、双葉を出し、茎がのびてっていう感じで、そのプロセス自体が作者と読者で共有されるというか。だからイメージというのは生きものであって。人には他者とそのプロセスを共有できる不思議な力があるというか。

芸術作品でも同じで。

絵画でも、完成された絵より、習作やデッサンのほうが受け手が得られるそういう情報は豊富だ。デッサンの場合、数多くの線から、確かなある線を受け手が選択するように、手描きのメモやスケッチとかって結構大事で、例えば、仕事で相手に何かを説明するときに、清書した文書で渡すより、その場で目の前で紙に書いてあげる方が、相手に伝わりやすい。もしその最中に自分が何かにハッと気付いたとする。それって相手も先読みしたりして、相手はさらに先のことを思いつくかもしれない。ペア・プログラミングっていうのが一時生産性向上とか効率化という上で俎上にあがったけど、あれの本当の意味ってそっちにあって。

そういうプロセスの共有って時間を持たない絵画とか彫刻とかでは難しいんだけど、その人の作品をずっと見続けてると、あるいはその時代の他の作家の絵を見てたりすると、「あっ!」という瞬間がある。つまり、時間のフローを受け手の側で作ることで気付きが生まれる。模写したりするとそれがわかったりすることも多い。

もっともそれらによって受け手の中にそのモメンタムが引き継がれて、ニュートンのゆりかごのごとく、受け手の中で動き始めて、なんかすごい発明や発見をしてしまうかどうかはわからないけれども笑

$ニャンちゅうなブログ-ニュートンのゆりかご
(ニュートンのゆりかご from wikipedia)

ちなみに、明確な形をもっている彫刻やブロンズ像にすらそういう「イメージ」というものはある。動かない静物に動きがある。みえる。ずっと芸術作品をみているとそういうのがわかるようになる。それは知識というより、もうちょっと動的なもので、それも暗黙知と呼ばれるものの一部なんだろう。

恣意的なものが見えすぎたり、作ったあと手を加え過ぎるとそういうモメンタムがなくなって、作品自体が死んじゃうことがある。職人さんが作品を見て、スジがいいとか悪いとかって言ってるのは、そういうのを感得してるんだろうなあと思う。そして、そういうスジがいい作品は、その職人さんにもあらたな動きを与える。形ではなく、それがもつ運動が受け継がれる。もっとこうしてやろうとか。それが、作品が生きているっていうことなんだと思う。

それって別に芸術作品だけでなく。
生きることそのものも、そういうものなんだろうなと。

キティちゃん

$ニャンちゅうなブログ-KITTY

知人の作品。
ゲームのクリエーターなのだ。
もちろん女のコだ。
すげーぜ。

読んだ本

ゴールデンウィークに読んだ本

$ニャンちゅうなブログ-本

『冷血(上巻)』(高村薫)と『舟を編む』(三浦しをん)。

『冷血(上巻)』は、合田雄一郎シリーズなのだが、捜査の手順と人員配置とかの話が多過ぎて、正直、ううーんっていう感じ。ディテールは必要だけど、合田の作業の説明はそこまでは要らんなあと。人間模様のアヤのほうが魅力だったのに、そういう話がほとんどなくて。ただ、上巻で終わってしまうのかという展開だったので、逆に下巻でどうするんだろう?と。まだ、テーマがまったく見えない。

『舟を編む』は、恋愛ものと辞書編纂というなんだからしい話なのだけど、ちょいちょい妄想してるなあという部分があってニヤッと。まほろのようなバディものと較べるとシリアスなキレもなく、やっぱり男女の恋愛モノだと脇が甘くなってて、そこでもニヤリ。最近では、小説を読むというより、三浦しをんちゃんの観察してるようなものだわ。

そういえば、実家帰ったときに妹と話をしてて、妹が美杉出身の人にしをんちゃんの本を貸したらしく。その人は三浦しをんを知らなかったらしいのだが、お父さんの里が美杉だよって話をしたら、「三浦って、もしかしたらあそこかもしれない」なんていう話が出て、なんかみょーに興奮した笑。