地蔵の由来。
地蔵は、どこからやってきたのでしょうか。あまりに身近な存在すぎて、その由来に思いを馳せるのも大変かもしれません。
いくつかの説があるので、これが正しいということは言えませんが、「地蔵」という名前が書かれた仏教の教典は、既に、聖徳太子の時代~奈良時代ぐらいには日本に入ってきたいたようです。ただし、その頃には子どもを守るとか、賽の河原で子どもを救うとか、いぼを取ってくれるとか、安産祈願とか、そういう願い事の対象ではなかったようです。
「願い事」と言っても、いろいろあります。平安時代の貴族たちの間では「無事に極楽浄土に行けますように」という願い事が流行っていたそうですが、その頃には、地蔵も「極楽浄土」を祈願する対象となりはじめていたようです。しかし、貴族ではない人びとが、「あの世」に行けるように願うよりも、今、この世に生きているいろんな苦労や悲しみから解き放たれたいと、願うようになりました。それは、鎌倉時代に入ってからだそうです。「この世」の願いを聞き届けて欲しい。これを「現世利益」と言います。
地蔵が現世利益と結びつけられて信仰を得るようになるのは、鎌倉時代以降のことだと言われています。古い説話などにも地蔵が登場してきますが、京都が舞台となることが多いようです。地蔵信仰の中心地は京都だということで間違いないと思いますが、地方に地蔵信仰が浸透していく過程、時期や経路などを特定しながら把握することはなかなか難しいことだと思います。
信仰が伝播していくためには、街道沿いに広がるだけでなく、西国三十三ヶ所巡りや、四国八十八ヶ所巡りなど、巡礼のルートなども関係あるかもしれません。また、各地で地蔵や仏像を彫って歩く雲水や巡礼の僧などの存在も重要だったと思いますので、それらが重なり合いながら、全国各地に地蔵信仰が広まっていったことでしょう。
そう考えると、謎だらけの地蔵信仰です。しかも、文明開化以降の地蔵信仰の広がりも、実はかなり大きなものです。たとえば神戸などでは、都市の近代化に伴って、周辺の農村部から出てきた工場労働者が暮らす長屋住宅が作られました。この長屋住宅の路地に、多くの地蔵が設置されました。一説では、長屋で生まれた子どもの不幸を悲しみ、子どもの無事な成長を願い、新たにたくさんの地蔵が設置されたということです。
また高度成長期には、堕胎した若い女性を対象とした「水子供養」のための水子地蔵信仰が広がりを見せた、という主張もあります。神戸の震災後には、震災の犠牲者を祀る地蔵も多く作られました。いずれにせよ、世情を反映して、地蔵祭祀の内容は常に変化し続けてきた、と言えるのかもしれません。