ども!あいりんです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
間が空いてしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

過去記事連投しましたが、一旦お休みしてまた書きます。

MONOやSerphなどライブレポも書きたいのですが、なかなか…
ごめんなさい(;_;)


今月は夜勤とダンスパフォーマンスの仕事があり、2日間家に帰れないこともありましたが…なんとか元気です!



ダンスパフォーマンス当日


元々、去年の忘年会の為につくったダンスでしたが、チーフが感激してくれて
「忘年会だけじゃもったいない!」
と言ってくれて、2/11の祝日スケジュールにパフォーマンスの枠を組んでくださいました♪

当日のパフォーマンス動画撮って編集したので、良かったら観てみてください(o^^o)
最初は宣伝動画で、本編はそのあと始まります!


「The Other Side」

★ミュージカル映画「Greatest Showman」より
物語の前半部分で、主人公バーナム(ヒュー・ジャックマン)はある程度サーカス業を軌道に乗せます。
しかし、いまひとつ人々からの信用や「見世物小屋」としてのイメージが払拭できずに悩んだバーナム。
そこで上流階級に強い劇作家のフィリップ(ザック・エフロン)をショーの演出家にスカウトするため、ビジネスパートナーとして引き込みをかけます。

・Ailyn → バーナム
・セレスティン坂本 → フィリップ

役になりきり、リズミカルな曲と共に、2人のバーでの押し問答を再現しました!
サビ以外は全て私のオリジナル演出&振付です。



「This Is Me」

★ミュージカル映画「Greatest Showman」より
「私は暗闇には慣れているわ」
「私は自分の欠点を恥じてきた」
と歌うこの曲の歌詞に合わせて振付をしました。

サビのコリオは映画本家のコリオを参考にしつつ、2人でも映えるようにオリジナルに所々変えてあります。
それ以外は完全私のオリジナルの振付です。

冒頭部分は、欠点を恥じてきた自分を見つめる"鏡"のイメージで、対面で展開していきます。
暗闇の中で葛藤しているイメージです。

「でも私は誰にもゴミ扱いさせない」
「見られることを恐れない」
「これが私のあるべき姿なの、これが私よ」
という歌詞と共に立ち上がり、力強く突き進むありのままの姿を2人で表現しました。



パフォーマンス中の写真はカメラマンさん(会員さん)に撮っていただきました!いいカメラで。

写真は800枚ほどありました!
ほぼ連写してたからパフォーマンス観れてないんだとか。笑

撮っていただいた写真の一部です♪
ありがとうございました!


パフォーマンス終わったあとも撮っていただきました!

前も言ったかもしれませんが、衣装は私の普段着(お出かけ用)です。
それに後ろが長いパニエを合わせただけなの。

パフォーマンス観てくださった会員さんに
「衣装作ったんですか?!」
って聞かれたけど…

自前なのです!(﹡ˆ﹀ˆ﹡)❤️

相方のセレスティンちゃんに着せたネイビーのワンピも私の自前のワンピですよ!



パフォーマンスを終えて


相方のセレスティンちゃん、現役の東京藝大生です。
ダンス経験は私のダンスレッスンのみ!
それでここまでついてきてくれて、本当にすごい!

実は彼女は、1月中旬に松葉杖つくくらいの酷い足の捻挫をしたんですが、半月で回復しつつも、やや痛みあり…
それでもサポーターして練習し、踊り通しました。

ホント一生懸命で、根性ある子なんですよ。
だから教え甲斐があります。
彼女の頑張りは表彰状モノです(*´-`*)


それから振り付けるうちに、いつのまにか忘年会の余興レベルを越えたものが出来上がっていて…

「私が去年『Greatest Showmanって映画観ましたか?!』って香山さんにLINEしてから、まさかこんなことになるなんて…」
とセレスティンちゃん。笑

私は連絡もらったときはGreatest Showmanを知らなかったんですが、一緒に映画観に行って、曲聴いて
「私が振り付けるから、忘年会で一緒に踊ろう!」
って言ったのが始まり。

それがこんないつのまにか大作になり、こんな大ごと(?)になり…笑


曲の歌詞と映画から吸収した私のイメージで振付したダンスなので、もう私の中ではこの2曲は「作品」なんです。

今まで、誰に見せる訳でもない、ダンスレッスンのための振付はもう何年もやってきたし、何十曲も踊ってきました。
年長〜小学生の子ども対象にダンスレッスンをしていた頃は、子どもたちの親御さんに向けてのお披露目会のために振付して踊らせたり。

でもそれは私の仕事だから当たり前で。

だから"自分が振付したものを、自分が踊る"っていうのは、高校卒業して以降なかったかもしれない(高3のときは体育祭で私が振り付けたダンスを応援団のメンバーでパフォーマンスしたことがあります)

しかもミュージカル映画の曲でジャズダンスやストリートダンスっぽく振り付けたのは初めてかも。

今までホント仕事で振り付けてただけだったから。
「作品として残す」ってことがなかった。
でも私が振り付けたパフォーマンスを観て感動したり、感激したりしてくれる人が居るって知ったので、これをキッカケに、これからもちょくちょく「作品」として残せていけたらいいな、って思いました。



私の表現に対する心境の変化


私は昔は、切ないバラードの曲や寂しい曲に、振付をしたがらなかったんです。

攻撃的な曲、楽しい曲、可愛い曲、セクシーな曲など…
比較的アップテンポのノリのいい曲ばかり選曲してて。

でも、それは多分「仕事で使う曲」っていう意識だったから。
私のレッスン受けるメンバーさんからは「選曲いいね!」と褒められていたので、なるべくバラードやスローな曲を使うのを避けていました。

それに仕事で踊ってると、やっぱり「自分を表現するダンス」って踊る機会ないし、振付する時間もないのよね。

わりと早いうちからダンスは私の仕事になっていたから、正直そんなの考えもしなかったし
「人を楽しませるレッスンのための振付」しか考えたことなかった。

でも最近は「バラードに振り付けてみたい」とか「切ない曲をダンスで表現してみたい」と思うようになりました。

今まで私は「人の為に、仕事の為に」ってずっとやってきたけど…
最近ようやく自分にも目を向けられるようになってきたのかな?



では!
最後に、私の振り付けてみたい曲を紹介して今日はお別れですヾ(・ω・`)

Martin Garrix  ft.Khalid
「Ocean」

歌詞に合わせて振り付けたいなあ。
まさに海のように透き通るカリードの声も素敵です。
切なくて綺麗で、愛おしい気持ちが湧いてくる曲。



こんにちは!アイリンです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶


まだ過去の記事をお読みでない方は

必ずコチラの3つの記事を

1から順にお読みください。










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あ と か ら 知 っ た 衝 撃 の 事 実



2. ill-treatment 虐待で、何故私が転校してまで、おばあちゃん家に1年間預けられたか、私はずっと知らなかった。

中学生になる頃に、その理由を母からではなく、おばあちゃんから聞いたんです。

私はたまに、土日おばあちゃん家に遊びに行っていました。

そのときに
「愛(私)がばあちゃんとこ来てたときね、お母さん家庭裁判所通って、あの子2人(母の再婚相手の連れ子)をどうするか相談しに行ってたんだよ」
と、おばあちゃんから直接聞きました。

「え…そうだったんだ…」

私が寂しい思いしている間に、そんなことしていたなんて。


それから母が唯一、後から私に話してくれたことがあります。

「お母さんね、小学校6年間、家庭訪問で先生たち皆 口を揃えて『あなたのお子さんは子供らしくないですね』って、言われ続けたんだよ」

母はガッカリしたように言いました。

私は、また言葉が出ない…



私が悪いの…?

自分では、そんなことないと思ってた。



小学校のときの先生たちのことは、あまり信用していなかったけど、それを聞いて不信感すら湧きました。



大人なんて、先生なんて

大っ嫌い!



私は授業中、挙手をするような子ではなかったけど
普通に友達とも外で遊んでたし…

私は他の子供と何が違ったの?

「子供らしい」って何?
「子供らしくない子供」って一体何?



でも、母はそれが何故なのか、一緒に考えてくれるような人ではありません。

ただ、私にガッカリして、終わりです。

お母さんを失望させたくない。

中学生になったら絶対変わってやる。変えてやるって決めました。




中 学 1 年 生


私は中学1年生になりました。

中学生になっても学年のメンバーは小学生のときと同じメンバーです。

2人くらいは私立に行きましたが、それ以外の子はほぼ全員一緒。

小学校6年間ずっと2クラスだったし、中学になっても2クラス。
他校から2人くらいは来たかな?


それから小学校6年間
「あなたのお子さんは子供らしくない」
と言われ続けた家庭訪問では…

母はそのことを女性の担任の先生に言っていました。

でも先生はそれを否定しました。
「そんなことないですよ、お母さん。よく笑っていますし」

まあなるべく笑顔つくるようにしてるんだけどね。

この先生は、小学校のときの先生たちとは違うかもしれない。





初 め て 年 上 の 人 に

優 し く さ れ た こ と



部活は吹奏楽部に入りました。
パートはパーカッションです。

3年生の同じパートの男の先輩が、すごく優しかった。


パーカッションの楽器は、ティンパニやドラムセットなど重い上に、文化祭やコンクールでは下の階に運ばなくてはいけない。

そんなときに
「重いの無理しなくて大丈夫だよ。ケガされたら困るから」
と、私が抱えてた重い楽器を持っていってくれました。
絶対私には重い楽器持たせてくれなかったほど過保護な先輩でした。
いざとなったら頑張って持ってたけど。

先輩はいつも優しく教えてくれて、優しく声かけてくれて、こんな優しい人いるんだ…って初めて感じて。

私はお父さんも居ないし、優しい年上の男性と接する機会って、中学に上がるまでなかったんですよ。

彼は私の知らない世界だった。

その先輩は皆に優しかったけど、私は初めてだった。

彼は私を傷付けない。

たぶん初恋です。
私は純粋すぎて、付き合うとか恐れ多くて考えられなかったから…ひそかに1年間ずっと想っていました。

好きな人に対しては、意識すると話せなくなっちゃうタイプだったから、あんまり私から言葉を発したことはないし、大人しい子だと思われてたと思う。
それでも一生懸命、いつも優しく声かけてくれたんです。

私は100%心の目で人を見ていました。

直接伝える勇気はなかったから、彼が卒業する前に お手紙を書いたんです。
音楽の話がしたくて、出来なかったから、私の好きな洋楽や好きな曲を入れたMDと一緒に。

手紙には好きっていう気持ちを書いたけど、返事なんか要らなくて
「このことは心の片隅にしまっておいてください」とも書きました。

仮に返事もらっても傷付くのなんか絶対嫌だし、私なんかが憧れの先輩と付き合うなんて滅相ないし、私なんか絶対無理だってわかっていたから。

ただ、感謝の気持ちと好きな気持ちを伝えたかっただけ。

そしたらもう部活引退して来ないはずの先輩が音楽室に遊びに来てくれて、手紙の内容には触れずに
「洋楽聴くんだね。僕も聴きますよ」
って音楽聴いてくれたみたいで、そんな何気ない話をしてくれて。

想いが伝わったんだって…それだけで嬉しかったです。

私も先輩みたいに優しい人になりたいな。




父  と の 再 会



母の暴力はだいぶ、落ち着いていました。

やっぱり私のお母さんは、お母さんだから。

心には傷を抱えたまま、そう信じるしかなかった。


私は中学生のとき、学年で4人しか出場できない、地区の英語スピーチコンテストに3年連続出場。


約20校から選ばれた各学校、学年の生徒が部門ごとにステージに上がり、呼ばれたら壇上でスピーチするんです。

2年生のときの、スピーチの部に出場した日。

自分のスピーチが終わって、ステージの上で椅子に座っていたとき、客席に懐かしい顔を見つけたんです。




お父さん…なの?





それは間違いなく、私のお父さんでした。




お父さん…なんでここに居るの…?

見に来てくれたの…?




一瞬、息が止まった。

そしてお父さんが居るとわかった瞬間、涙が溢れそうになって、全員のスピーチが終わってステージ降りるまで、ずっと涙を堪えるのに必死でした。



ずっと会いたいって思ってた。

でも、こんなとこで泣いちゃダメだ…。

泣いちゃ、だめ…




ステージ降りたとき、私は真っ直ぐお父さんのところへ。


「…お父さん…!」

「愛、スピーチ良かったよ」

「ありがと…なんで来てくれたの?ステージに居る時に見つけて…本当にビックリしたよ」

「お母さんが教えてくれたんだよ」



私は胸がいっぱいで、目にいっぱい涙を溜めていたけど、コンテスト中だから…と思って、やっぱり必死で堪えてました。

そんな少しの会話をした後、お父さんは私の顔を見て

「愛、またね」

と行ってしまいました。


何か言ったら言葉と一緒に涙まで溢れてしまうから、何度も頷くことしかできなかった。



私が死のうとしていた毎日、私がどれだけあなたに会いたいと願ったか。

あのとき、あなたが居てくれたら、私はどれだけ救われたかって…ずっと考えてたよ。

でも私一人で、ここまで乗り越えてきたよ。


…そんな想いは伝えられなかったけど。



私は中学2年生になって、初めて携帯電話を持たされて。

お母さんから、お父さんの連絡先を教えてもらいました。

嬉しかった。

誕生日とか、クリスマスとか、そういう特別な日だけ会えた。

ただ、お母さんに暴力振るわれてたこととか、死のうとしていたことは、やっぱり言えなかった。

とにかく会えるのが嬉しかった。





出 る 杭 は 打 た れ る


「変わってやる」って決めてから、私は中学1年生で学級委員になりました。
中学2年生で、副学年委員長も務めました。

いつも中心に立って活動していたから、文化祭とか修学旅行とか、イベントシーズンの放課後は学校中駆け回っていつも忙しくしていました。

小学生の時はホントそういうタイプじゃなかったから、劇的変化でした。

変わるって決めてから、クラスを良くしたいって意識とか、正義感とかが強く表に出て、私はいつも真っ直ぐだった。

クラスで男子同士のイジメがあって、私の隣でやってるもんだから
「ねえ、やめなよ!」
って面と向かって言いました。

「は?」って睨まれたけど、私も強く睨み返した。

そしたらその翌日、いつ書かれたのかわからないけど、私のノートに勝手に

死 ね ば ?


って書かれている文字を見つけた。

この細くて弱そうな字。
昨日、私の隣の男子イジメてた奴の筆跡だってすぐにわかった。

私はそいつには何も言わなかったけど、それ見て
「いや、死なないし」
って心の中で返事した。

"死ねば?"
って書かれた文字も消さずに、ノートを閉じた。

くだらない。

生きるって決めたから死なない。

あんたに死ねって言われたくらいじゃ、私は死なないよ。
意地でも生きなきゃいけないからね。


私は担任の先生にクラスのことや、イジメられてる男子のこと相談したりしたんです。
クラスを良くしたいし、イジメもなくしたいって訴えて。

先生は私が報告したことに感謝して、親身になって話を聞いてくれました。
信頼できる大人の女性であり、私が初めて信頼できた先生です。

「出る杭は打たれる」
その言葉も、その先生から教えてもらいました。

「中学校なんて狭い世界なの。今レベルの低いことやってる馴れ合ってる子たちは高校生になったらカルチャーショック受けるから」
と、大人の目線で話してくれました。


今まで感じていた
「なんか変だな」
っていう違和感は、これだったのか。

私は周りの子たちとは趣味も合わないし
考え方も、行動も違う。

でも私は打たれても絶対諦めない。

今が辛抱。頑張り時だな。

いま耐えれば、きっと必ず…。


私はクラスを良くしようと、よく発言して、何かクラスで問題があったらその日の帰りの会で皆に伝えていました。
そうすると先生が私に賛同してくれて、先生からも私の訴えに付け加えて発言してくれたりもしました。


私はクラス→学年→学校全体と規模を広げて考えるようになり、学校全体を良くしたくて、私はのちに生徒会にも立候補しました。

でも落選してしまったんです。


私はやっぱり誰にも認められない存在なんだ…

変わるって決めたのに…

何も変わってないじゃん私。


と悔しくて泣いてしまったんですが、先生だけは認めてくれました。

「周りがまだ子供なだけなの。あなたは大人だから。周りの子たちはあなたの話が理解できないかもしれないけど、先生たちはあなたの演説よかったって皆褒めてたよ! だから自分に自信持ちなさい」と。

それは慰めじゃなく、事実であり、本音で話してくれたのがわかりました。
今度は嬉しくて泣きました。

先生が言ってくれた
「あなたは大人だから」
「子供らしくない」って言われるより、ずっと良かった。

まだ私は中学生だけど、信頼できる先生のような大人に「大人だ」って認められるのが嬉しかった。

先生は、いつも真正面から向き合ってくれる。
先生は、いつも本音で話してくれた。
真っ直ぐな私の想いを、いつも受け止めていてくれました。

のちに吹奏楽部の顧問の先生と、先輩達が、私を部長に推薦してくれたんです。

顧問の先生が
「生徒会は落選しちゃったかもしれないけど、3年生の子達と話し合って、あなたを部長に推薦したいって話になったの。私も3年生の子たちも、あなたのこと認めてるわよ」
って言ってくれたんです。


人から認められるって、こんなに嬉しいことなんだ。

人から信頼されるって、こんなに喜ばしいことなんだ。

同年代の子にわかってもらえなくても
認めてくれる大人が居るって、すごく心強い。


だから、私は頑張れたの。



私 の 取 り 合 い を す る
可 愛 い 後 輩 た ち


ありがたいことに私は部活の後輩には好かれました。

すごく大切にしていたから、その愛情が伝わっていたのかもしれません。

後輩は女の子とも、男の子とも、お手紙交換してました。

みんな私の妹や弟みたいな大切な存在。

女の子からの手紙は何気ない雑談や色恋ごとの手紙が多くて、男の子からの手紙はクラスのことで相談の手紙が多かったかなあ。
いつも悩みや愚痴聞いてました。

慕ってくれる後輩ちゃんや後輩くんはみんな学校内で、遠くからでも私を見つけては
「愛理せんぱーい♥」
って手を振ってくれて、毎日癒されてました。

私が外にいると、校内の2階から…
私が渡り廊下歩けば、外から…

次の授業のため移動してると、廊下の向こうで遠くから私を見つけては、走ってきてギュッと抱きついてきます。

絶対、後輩たちは私を見つけるんだよね。
みんな同じジャージ着てるのにさ、すごいよ。


私が2年生のときは同じパートに、2人とも負けず嫌いの女の子の後輩が居て、やきもち妬いて私の取り合いになって喧嘩してたことがありました。

ある日、後輩Kちゃんが泣きながら音楽室に来たから話聞いたら、クラスの男子に悪口言われて、それが傷付いたみたいで。

「気が済まないなら直接伝えに行ったらどう?不安なら私も一緒について行くから」
と私は言って、Kちゃんと一緒に悪口言ったという本人のところへ。
私が隣に居るからその男子がちょっとビビってた。

ただ私はその現場を見ていないから、彼を責める権利はない。
どっちの味方をするわけでもない。
けど、何かあったときのためにKちゃんの側に居ました。
無事に謝ってもらい、解決しました。

彼も勢いで言っちゃったのかもしれないし、私は本当は優しくて真面目な子だと思ったな。
「部活中に呼び出しちゃって、ごめんね。話聞いてくれてありがとう」
と私からもお礼を言って、丸くおさまりました。

音楽室に帰ってくると、残された後輩Yちゃんが何故かムスッとしていて
「愛理先輩、私も同じような状況になったら、私にも同じことしてくれますか?」
と真っ直ぐ私の目を見て言った途端、彼女の目から涙がポロポロ…


うわわ!

え…? え?!

どどどどうしたの?!

えーーー!!

私…泣かせちゃった?

いやいや、待って待って!

なんでそうなるのーーー?!


ビックリしたけど
「もちろんだよ!二人とも私の大事な後輩だから…ね?泣かないの!」
とYちゃんの頭をナデナデすると

「ホントですかあああ?…Kちゃんだけズルい…(T_T)」
って…涙目でチョーむすっとして、ほっぺた膨らまして、Kちゃんをギロリと睨むYちゃん。


Yちゃん…ちっちゃくて可愛いお顔が台無しよ…?


そのあと、KちゃんとYちゃんは2人でモメてた。


あー!もー!困ったなあ…

私が二人いれば取り合いせずに済む…?
なんて。
いやいや、そんな非現実的な考えは…
どう考えても私は一人しか居ないんだし。

とにかく!私は二人とも大好きなんだから!

お願いだから喧嘩しないでよ〜!


間に入って私がなだめてたから、その日は練習開始が遅れたな。

困ったエピソードだけど、やきもち妬いて取り合いしちゃうくらい私のこと大好きでいてくれる後輩ちゃんが可愛いすぎて…愛おしかったです。笑

 


〜 あ と が き 〜

ホント中学上がってからは劇的変化でした。

きっと本当に死んで生まれ変わったんでしょうね、あのとき。

自分で決めたら絶対やるんですよ、私。

私の芯の強さとか、そういう人間として大切なことの土台は中学生のときに全て養ったと言ってもいいくらい。

学校も休まなかったし、精神的にも更に強くなっていたけど、やっぱりいろんなこと我慢した。

でも実は、その陰で誰のことも傷付けない代わりに、自分が傷付いて満足していたことも。
本編には書かなかったけどね。

それから3年間ずっと同じだった担任の先生のこと、今もずっと忘れません。
親にも認められなかった私を、認めてくれた先生に本当に感謝しています。

お父さんに会えたことにも感謝。
お母さんが離婚してからも、私のためにずっと連絡は取っていたと、そのとき言っていました。

でも、このときはまだ虐待されてたなんて言えなかったなあ…
まだ誰にも言えなかったよ。


あと初恋の話もしたけど、こういうこと公開するのって苦手。頑張った…笑

だから本編に書いてないけど、私が好きだった先輩が卒業したあと、私が2年生のときに1コ上の先輩に告白されたんです。
私はそんなこと初めてだったので、どうしたらいいかわからず流れでOKしてしまい、その日にイキナリ帰りに手を繋がれて、純粋な私はビックリして怖くなってしまい…すごい嫌悪感に陥って。
更にその先輩が生徒会長で見た目も目立つ人だったから、その翌日全校にウワサが広まってて、それもすごく嫌だった。
だから「今日は一緒に帰れません」と避けたりしながら、1週間くらいしてお断りしてしまいました。

私の中学生の恋愛なんて、純粋すぎてこんなもんよ。笑


あと後輩ちゃんたちのエピソードはオマケ的な!
私を取り合う2人が可愛かったからすごい覚えてる。

いつも2人は負けず嫌いで、仲良く、喧嘩して、いつも私がなだめてて。
彼女たちは、すごくヤキモチ妬きだったから、2人に平等に…って気を遣いましたけど。
中学生のとき、あんなに私のこと好いてくれるのは後輩たちしか居なかったな。
とっても大好きでした!



また次回!

ここまで読んで下さり、ありがとうございました♪(*・ω・)*_ _)ペコリ



こんにちは!あいりんです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶






まだ過去の記事をお読みでない方は

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1から順にお読みください。












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自 殺 の 練 習



私は12歳。小学校6年生でした。

私に手を上げるお母さんが怖くて、恐怖で、私はいろんなことを隠すように嘘をついたりしていました。

誰も私を守ってくれないし、自分の守り方もよくわからなくて、自然と嘘をついたり、本当のことを隠したりするようになっていました。


そしたら、とうとう私は母から

「死んじまえ!」

と、いつものように暴力を振るわれながら言われてしまいました。

髪を引っ張って振り回され、床に引きずられ、倒れた私の背中を蹴り続け、そう言われたのです。



私はもう、身体を起こすことが出来ない。



痛いからじゃない。



私は母にとって要らない存在だったから、暴力を振るわれていたんだと、そのとき初めて気付いて絶望したからです。



目の前が真っ暗になって、もう私は終わりなんだって思いました。



12年の人生の中で生まれて初めての絶望を経験しました。



でも私は、お母さんが好きだったよ。

おばあちゃん家に1年預けられてたときも。

ずっと、お母さんのこと待ってた。

また一緒に暮らせて、嬉しかった。

私には、お母さんだけだったから…



そんな私の気持ちも、もちろん言葉に出来ない。



私は倒れたまま静かに泣きました。



母が部屋から出て行ったあとも、私は床に横たわったまま。



力が…入らない…



あれだけ髪を引っ張られて、引きずられて、蹴られたけど、痛くはなかった。

もう、痛みには慣れてた。

ちょっと、身体が重いだけ。



なんだか、もう…疲れちゃったな…

もう、泣くのも疲れちゃったし。

ずっと、こうして倒れたまま…動きたくないな。

このまま私の身体なんか動かなくなればいいのに。

私に、朝なんか来なければいい。



しばらく横になったまま、涙で滲む私の目の前に、部屋の窓があって、それを見つめました。



そこからは、曇った灰色の空が見えました。



ここはマンションの5階の部屋。




そうだ…

私…お母さんに言われた通りにしなくちゃ…

でも…

どうしたら死ねるんだろう…

飛び降りたら死ねるの?

生きてたらどうしよう…

死ぬなら…ちゃんと、死なないといけないよね。

生きてたら、また怒られちゃうよ。

頭を下にして落ちたら死ねる?




重い身体をやっと起こして、フラフラと立ち上がり、部屋のベランダに小さな椅子を用意して、そこに立ち、シュミレーションしました。



身を乗り出して、頭から落ちていくイメージをする。



ちょっと高さが足りないかな。



でも、きっと運良く打ちどころが悪ければ死ねるよね。




その日から私は毎日ベランダに出て、自殺の練習をしました。




まだ生きていてごめんなさい。

私ちゃんと死ぬから。




私は、お母さんに好かれなかった。

だから、せめてお母さんの願いを叶えてあげたいの。

私の大好きなお母さんの願いは、私が死ぬこと。







今 を 精 一 杯 生 き る 歌



生きた心地のしない日々。

ずっとふわふわと宙に浮いている感覚。

でも学校は休まない。
学校の方がマシだった。

ランドセルを背負ってずっと下を向いて通学路を歩く毎日。

きっとお母さんは、翌日になったら「死んじまえ」って言ったことも忘れたんだろうけど。


それでも私は家では毎日ベランダに出て。

頭を下にして、身を乗り出して…
毎日そんなことをしていました。


そんな私に転機が訪れます。


私は、ある日本のバンドの曲に出会いました。

当時は今ほど知名度も人気もなかった頃、そのバンドは「今を精一杯生きる歌」を歌っていたのです。

その曲の主人公は、精一杯生きた後に死んでしまうんです。



私は、その曲を聴いて

「この人たちは今を精一杯生きてるのに、なぜ私は今こうして死のうとしてるんだろう」

と、ハッとしたんです。


そして、自ら命を絶とうとしていた自分を恥じました。


私は精一杯、生きないまま死のうとしてた。

それでいいの…?

別に人から嫌われたっていい。

誰も信用できなくなったっていい。

孤独になったっていい。

どんなツラいこと苦しいことがあったっていい。

ただ、それでも、生きることだけは忘れちゃいけない。

それ以外はどうでもいいから。

とりあえず生きてみよう。

とにかく精一杯、生きよう。


その歌を聴いて、そう思いました。


その瞬間、私は死にました。


とても不思議な体験ですが、私は生きたまま死ぬことが出来ました。

もちろん記憶はあるけど、それまでの自分が全てリセットされて、とにかく"生きる"という、人間にとって一番大切な土台が生まれました。

ただ生まれ変わったので、生きる土台以外は何も持っていません。

これから拾い集めて、建て直していくんです。





私 の 生 き て い く 意 味



何がこの世に、私を引き留めたんでしょうか。

思いとどまってる間に、今を生きるあの歌に出会えて良かった…なんて思う日が、いつか来るのでしょうか。

当時の私は、まだその先の未来に興味は持てなくて。

「今」この瞬間に必死で食らいついて。
「今」に興味を持つようになりました。

なんの価値もない私が、ただ生きるところから始まります。

12歳で私は一度死に、生まれ変わりました。

ただ、生きていればいい。

ちゃんと精一杯生きて、力強く生き抜く。

とにかく今はそれだけ持っていればいい。

それから毎日、生きることだけを意識していきました。

「今」という、この瞬間瞬間を大切にしていたら、きっと未来に繋がっていくかもしれない。

「生きたい」という思いが強く、私の中に深く根を張っていきました。

私はこうして、小学校を卒業していきます。










〜 あ と が き 〜

※このあとがきは
の記事の分からまとめてあります。


当時の鮮明に覚えてる記憶を、呼び覚まして書きました。

自分の目に写る風景とか、傷が出来た私の目を心配してくれた学童の先生の表情とか、クラスの先生のこととか、声とかも全て思い出せました。

なるべくそのときの私の状況や気持ちに沿って書きました。



ただ、当時の私は「虐待」なんて、そんな言葉も知らない、まだまだ幼い子供でした。

子供の頃の私は、母親の言うことは絶対だった。
私だけじゃなく、多くの子供にとって母親は絶対的存在だと思います。

だから、ただただ耐えるしかなかったんです。
「耐えることしか知らなかった」んです。

当時は「自分が悪いから」と思っていましたが、今なら違うとわかります。



あれは

「しつけ」なんかじゃありません。


「虐待」なんです。



ただ私は手を上げる母が恐怖で…
でも母のことは好きで…
抵抗も出来ないし、誰にも助けを求められなかったから、本当に誰にも頼らずに一人で乗り越えてきました。

ここに書かれている当時の虐待の事実は、私がひたすら隠し続けたため、家に居て目撃した家族以外、当時は誰も知りませんでした。

だから本当に一人で乗り切って、"生き延びた"っていう感じです。

今の私の精神的な強さとか、根性あるとことか、我慢強さとかは、そこが原点かもしれませんね。

あとは当時ピアノとダンスをやっていたから、誰にも相談できなかったり、助けを求められなかった分、そういう芸術的な表現が逃げ場になっていたのかもしれません。



それから勢いでも、冗談でも、自分の子どもに死を希望するような言葉を言ってはなりません。

もちろん自分の子どもでなくても、絶対に言ってはなりません。

子供は純粋で、言われたら本当にその通りにしてしまう子供だって居ます。

世の中には、学校の先生が生徒に言って、本当に自殺してしまった子供だって居ましたよね。

自分の吐いた言葉も、その子の命も、もう取り返すことは出来ないのです。

言葉の重さ、命の尊さを、今一度考えてみてほしいのです。


私も言われた通りにしようとしていました。

まだ子供の私は、一番側にいる大人である母親を信じるしかなかった。

父親も居ない、間に入って止めてくれる人も居ない、事実は他の誰も知らないから自分で考えるしかなかった。


でも、私はタイミング良く、音楽、歌に救われました。

あんなに一生懸命生きることを歌った歌を、私はそれまで聴いたことがなかったから。

私も、あの「気づき」がなければ、とっくにあの頃12歳で人生を終わらせていたでしょう。

ある意味では、本編で書いた通り本当に死んだんですけどね。

死にたかった自分が、自分の中で静かに死んでいきました。

絶対に生きなきゃいけないわけじゃありません。

"とりあえず生きてみよう"

が、まず大切なんです。

そういう強い信念の土台が出来てからは、私はツラいことがあっても死のうとすることは一切なくなりました。

あれから今まで一度もありません。



楽しい記憶はやっぱりこの虐待の日々で、ほとんど吹っ飛んでいて思い出せなくて…

友達と遊んだ記憶や学校のこと、ピアノやダンスのことは覚えてるけど、家でのことや家族で過ごしたことなどは、ここに書いたような記憶しかないんです。

たくさん頭たたかれて、頭を床に打ちつけられたから、記憶飛んじゃったのかな?笑

でも…

大人になって、このような写真を見つけたんです。


弟と楽しそうに遊んでる写真です。

でも私、一切覚えてないんです。

だから前も言った通り、別の子供の写真見てるようで不思議なんですよね。
覚えてないから、そう簡単には「良かった」とも思えない。

なんだかこのような楽しい写真を見てると気持ちが悪いような感覚になるんです。
酷くツラい記憶とは反対に、写真はいい部分だけが切り取られて、残されているから。

自分の中では、これはパズルのピースで、ピースが合わないような感覚なんです。
パズルのピースが私の記憶の中の、どこにも当てはまらないから、気持ちが悪い。
恐ろしい映像だけがずっと目の前で流れていて、手元にある楽しいパズルはずっと完成しないまま…。



ただ弟とは仲は良かったですよ。

弟を想う、その気持ちだけは覚えています。

私は長女だから面倒見が良くて、いつも一緒に遊んでいた記憶はあります。

そして母は弟には一度も手を上げたことがない。

私にとって大切なたった一人の弟だから、痛くてツラい思いしたのが私だけで…良かったな

それだけは救いです(*^^*)



私が自殺を初めて考えたのは小学6年生、12歳のときでしたが、世の中には私が自殺を考えた歳よりもっと幼い子が自ら命を絶ったりしているじゃないですか。

イジメや虐待が原因で…

そういうの見ると、すごく悲しくなります。
誰にも救われなくて一人ぼっちで死んでいった子供が居ると思うと、すごくツラいです。

そういう子供がちゃんと生きて、愛情のある人に巡り会って愛を知り、大人になれることを祈るばかりです…。




ここまで読んで下さり、ありがとうございました!

次回は、その後の出来事と中学時代を書いていきます。


コメントは感想や質問、相談でも何でも受け付けております(*´˘`*)

お気軽にどうぞ!お待ちしております♪








BUMP OF CHICKEN
「ガラスのブルース」



こんにちは!アイリンです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶



まだ前回の記事をお読みでない方は

必ずコチラからお読みください。












突 然 の 転 校


私は小学校1年生になりました。

でも、3日くらいN市の小学校に通って、いきなり私は転校することに。

突然、なんの前触れもなく、私だけおばあちゃん家に預けられることになり、おばあちゃん家から近い小学校に通うことになりました。


私は、お母さんと離れるのが嫌だった。


前回の記事でも話したような、ヒステリックで暴力的な母親だったとしても、私はまだ小学校入学したばかりの新1年生。

お母さんと離れて暮らすのは寂しい…

なんにも理由なんて聞かされてない。
聞いても、言葉を濁すだけで何も教えてくれなかった。



なんで?

なんで私だけ
お母さんと離れて暮らさなきゃいけないの…?



でも、まだ子どもの私は母に従うしかなかったのです。





小 学 校 1 年 生


私は理由も聞かされないまま、おばあちゃん、おばあちゃんの息子さん(おじちゃん)、おばあちゃんの息子さんの奥さん(おばちゃん)、その娘さん(いとこ)が暮らす家で、私が一人入ることに。

学校はN市の小学校から、A市の小学校へ。

友達はすぐ出来たし、私を山に捨てる事件があったときに通ってた保育園のときの幼馴染みも居たのですぐ馴染めました。

やっぱり私は、モノをつくるのが好きで、ポケモン書いた手作りの切手やパズルを紙で作ったり、遊びも自分で考えたりして、お友達と一緒に遊んでました。

いろんなお友達とお手紙交換もしました。


おばあちゃん家では、おばあちゃんも、おばちゃんも、いとこも優しくしてくれて、おじちゃんもたまにしか顔合わせなかったけど、優しかったです。

お庭のお花や植物の水やり、朝の玄関の掃き掃除などよくやった記憶があります。

それから最初はおばあちゃんが朝、私の髪を結ってくれていましたが、そのうちすぐに「自分でやる」と言って、わりと何でも自分でやりました。

おばあちゃんがフラダンスを習っていたので、それについて行ったり、おばあちゃんの作る料理が好きだったり、私はすっかりおばあちゃん子になりました。





泣 い た 記 憶


私はとても我慢強い子だったと思います。

でもたまにお母さんが会いに来てくれて、やっぱりバイバイするときは泣いてしまいました。

寝る前に、こっそり一人で泣いた記憶もあります。

おばちゃんや、いとこにも心配されながら、泣いた記憶もあります。


お母さんに会いたい…

寂しい…


たまに泣いては、優しく励ましてくれる人達のおかげで、寂しさを乗り越え、毎日頑張って過ごせました。

こうして1年が経とうとしていました。





再 び 転 校


小学2年生に上がる前に、お母さんが私を迎えに来ました。

「また転校することになるから」

またお母さんと一緒に住めるのは嬉しいけど、せっかくここでお友達が出来たのに…


「なんで?何で?」
と、私は母に何度も聞きましたが、母はやっぱり答えてくれません。

また私はお母さんに従うしかないの…。

せっかく出来たお友達と離れ離れになるのは寂しかったけど、お手紙を書いたり、もらったりしてお別れしました。

もうすぐ私は2年生。





小 学 校 2 年 生


私は3日ほど通ったN市の小学校へ舞い戻り。

家も以前住んでいたマンションに戻りました。

そのときには、母の再婚相手の連れ子は居なくなっていました。

母に
「〇〇ちゃんと、〇〇くんは?」
と聞くと、"2人のお母さんのところへ行った"とだけ聞きました。

それ以上は教えてくれなかった。



また、母と再婚相手の人との間に子どもが産まれました。

男の子。私の弟です。

7歳年下の可愛い私の弟。

父親違いとか関係なく、弟のことは大変可愛がりました。



それから同じクラスで、同じマンションに住んでいる友達が出来ました。

その子はシングルファーザーの子で、すぐに気の合う一番の仲良しになり、毎日のように一緒に遊びました。





陰 湿 な イ ジ メ


私が転校生だったからか、何かが気に入らなかったのか、2〜3年生の頃はよく上履きを隠されました。

私の上履きが、女子トイレの和式便器の中に突っ込まれていたのも覚えています。

それで、一番仲良しの子も私と関わってるからなのか標的にされて、彼女の上履きは夏以降使ってない緑色のプールに投げ込まれていたことも。

私なにもしてないのに。
彼女だって何もしてないよ。

上履きを隠した犯人は誰だかわからなかったけど、犯人探しもくだらないから、放っておいた。


それから当時流行っていたシャープペンシルを、ほとんどの子が持っていて、私は皆が持っていない優しいピンク色の花柄のを愛用していました。

でも、ある日突然そのシャーペンなくしちゃったんですよ。

無いな、なくしちゃったな、と思っていたら数日後に外の花壇から土まみれになって見つかりました。

もちろん私は自分でお気に入りのシャーペンをそんな風にしないので、誰かに投げ込まれたか、埋められたかだと思います。

先生にも、そんな状況になっていたことを知られてしまい、その流行りのシャーペンは学校に持ち込み禁止になりました。


3〜4年生の頃は、クラスの班の子全員に無視されてたり、何を聞いても話しかけても無視か、冷たい対応。



何かした覚えはないけど
きっとみんな私のことが気に入らないんだ。


何にもしていないけど
私は皆から嫌われる存在なんだ。



だんだん、そう思うようになっていきました。






母 の ス ト レ ス の 捌 け 口 は 私 へ


一方、家でも…

連れ子2人が居なくなったので、母は私に当たりました。

3年生の頃、学童に通っていましたが、帰りの車で助手席に座る私の顔面に、思いっきり母の平手が正面から飛んできたり。

家の廊下で、すれ違いざまに私の頬を平手打ちしたり。

とにかく毎日のように暴力がありました。

叩かれたときの骨まで感じる音とか、痺れるような痛みとか、今も鮮明に思い出せます。



暴力以外にも、私が可愛がって大切に飼っていたハムスターを捨てられそうになったこともあり、ゲージごと外に持って行く母を裸足で追いかけたりもしました。


私は音楽や美術、国語など文系の教科は好きだったのですが、算数が苦手でした。

母に教えてもらっているとき、答えを間違えると
「なんで?!なんで?!」と怒鳴られ、怖くて、問題が解けなくて、頭にも入らなくて、ただただ怖かった記憶があります。

私はずっと、算数や数学は苦手なままです。



毎日、暴力に必死に耐えました。


でもね、私が悪いの…

テストで100点取らなかったから。

部屋を片付けなかったから。

だからお母さんは、私を怒って叩くの。



これは、私が小学校に通っている間ずっと続きます。





誰 に も 言 え な い


小学3年生のある日、感情的になると物を投げる癖のある母が投げたアルミ缶が私の目に当たり、まぶたが腫れてしまったんです。

たまたまプルタブの尖った部分でも当たったんでしょうか。

投げられたときは母も私も気付かず、そのまま過ごしていたら、少し時間が経って母が

「目どうしたの?腫れてるよ?さっきお母さんが缶投げたから?当たったの?」

と他人事のように聞いてきたのを覚えています。

私は頷くのが精一杯で、何も言葉が出ませんでした。

そのとき、私の腫れた方の目から涙がこぼれ落ちました。

でも、まぶたが腫れてるから涙が出てるのか、悲しくて涙が出てるのかわかりませんでした。


「ごめんね、大丈夫?」



え…?

な…んで…

そんなこと…言うの…?



私が、悪いのに…



そのときだけはお母さんが優しく見えた。

母が初めて、自分のしたことに対して謝ってきたんです。

本当は母自身が自分でやったことなのに、我に返ったように謝ってきた…
だけど、そんな母を許してしまう、まだ子供の私。



その翌日。

私の目の腫れは治まっていましたが、まぶたには傷が残ってしまいました。
だけど自分が悪くてやられた傷だからと、私は気にせずそのまま学校に行き、学童にも行きました。


しかし、学童の先生は私のまぶたの傷に気付きました。

「愛理ちゃん、目どうしたの?傷ができてるよ」
と心配そうに聞いてきました。

傷のことは気にしていなかったのに、学童の先生に気付かれて聞かれたときは、何故か思わず動揺してしまいました。


オカアサンに缶を投げられました


なんて当然言えるはずもなく、とっさに
「自分でやりました」
と答えてしまいました。

学童の先生は私の言ったことを信じたかどうかわからないけど
「そうなの?気を付けてね」
と言ってくれました。



お母さんは悪くない。

だから自分でやったことにしなくちゃ。



缶を投げられてまぶたに傷ができたこと以外にもう一つ、大人に言うチャンスがあったのに、言えなかったことがあります。

小学5年生のときです。

髪の長かった私は、よくツインテールにしていました。

そのとき好きだったマンガの、明るく元気いっぱいの主人公の女の子に憧れて、髪を伸ばし、自分で同じ髪型に結って学校に行っていました。

私が5年生になっても家では毎日のように母からの暴力が耐えなく、ある日母が突然ハサミを持ち出してきて、私のツインテールにしていた髪を


ザクッ

ザクッ


と2つ分、髪を結ってあった根元から切られてしまいました。

悲しくて…

泣きました。

でも私は何も言葉を発することは出来ません。

私はいつも我慢して、痛みにも耐えて、せめて泣くことしか出来ない。

私は「やめて」とか「痛い」とか抵抗する言葉を発したことがありません。

ただただ受け止めるんです。

母からの暴力を。


髪…伸ばしてたのにな…

短くなっちゃった…


その翌日、クラスの担任の男の先生にすぐ聞かれました。

「髪切ったのか!もうすぐ林間学校だからか?」

と。

「はい、そうです」
と私は答えました。


そう。理由はなんだっていい。

お母さんにやられたってことがバレなければ。

もうすぐ学年の行事である林間学校を理由にしてくれた先生に、心の中で感謝しました。





父 親 の 存 在


私は母から暴力を振るわれていたその頃から
「今もしも私のそばに、お父さんが居たら」
と考えていました。

私にとってお父さんは世界で一人だけ。

例えお父さんと離れ離れになって、お父さんに会えなくても…

私のお父さんは、お父さんだけだから。


母から暴力を受ける度に


もし、お父さんが居たら私を守ってくれた?

お父さんが居たら全力でお母さんを止めてくれた?

なんで、私の側にお父さんが居ないの…?


と、私は周りの大人にも、誰にも助けを求めることが出来なかったから、居ない父親の存在を求めるようになっていました。

絶対に叶わない願いなのに、ずっと「もしもお父さんが居たら」なんて考えるようになってた。

ずっと、声も届かない人に助けを求め続けてた。

たぶん私、生きたかったんだと思う。

誰かに助けてほしかった。


誰も私を守ってくれなかったけど、私はお母さんを守りたかったんだ。

私のお母さんだって、世界で一人だけだもの。

そう思って、いつも我慢して、私に当たるお母さんを受け止めていました。











〜 あ と が き 〜


この記事は次の記事に続いているので、この記事のあとがきは省略し、次の記事にまとめさせていただきます。

…というのも、実は長くなりすぎて4万字越えちゃって、分けさせていただきました;;

次の記事は明日、更新いたします。

コメントは感想や質問、相談なども受け付けております。

お気軽にどうぞ!

では、また明日(*´˘`*)ノ❣





どもー!あいりんです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

遅ればせながら…
2018年12月22日(土)Virgin Babylon Night 4行ってきましたー!一人で!


world's end girlfriend観に!

私は8年くらい前からwegが好きで、でもライブ観たことなかったんですよね。

wegにしか目がいってなくて、他のアーティストは予習しないで行きました。

私あえて予習しないで、知らないアーティスト観に行くの好きだったりする。

生音聴いて、その場でいいアーティストに出会えたときの衝撃って快感でクセになるからやめられない。
だから知らなくても音源はあえて聴かないで、生音を聴きに行くんだ。

あと私の特技でもあるんだけど、初めて聴く曲でも、興味ない曲や嫌いな曲以外、大体ノれちゃうんですよね。
知らない曲でも音さえかかれば即興で音に合わせて踊れる、ダンサー特有の特技です。笑


Laxenanchaos
(ラクセナンカオス)



ブレイクコア。

変態だー。音楽的変態。
褒め言葉ですよ?

綺麗なピアノの音に重ねるカオスなビート。
途中から「なんなんですかこれは…意味がわからない…」という気分に(いい意味で)

そして何かが降臨したかのように急に踊り出したかと思ったら、次の瞬間には冷静にツマミいじってたりして。
もう…音も動きも読めない…笑

観ていて、聴いていて、とても楽しかったです!



BOOL
(ブール)


画面にこれらが現れたときは、正直どんな気持ちで見たらいいかわからなかった…

変態!音楽的にじゃなくて…もういろいろ変態!笑




 
全体的に「陽」の雰囲気が強いバーチャルYouTuber界。
それとは正反対に、ミソシタは
バーチャルYouTuberポエムコア=VYPC
を提唱し、アーティスティックなドス黒い動画を投稿しているそう…。

私、知らなかったよ。ミソシタさんのこと。
そして、そのミソシタさんをプロデュースしているのがBOOLさんなわけだ。ポエムコアの創始者だそうです。


あとは私は上手く説明出来ないのでコチラをどうぞ(←丸投げ)


実はBOOLさんのライブ中にミソシタさんが出てきちゃって、割り込んでライブしてたんですが、1曲終わったあとに

BOOL「 次 こ そ は … ! 」

ミソシタ
「あ、次もう1曲入れちゃったから☆」

と言いながら、BOOLの前に被って現れ、悪びれる様子もなくカラオケ感覚で割り込んできて、続けて歌うミソシタ。笑


BOOL「 今 度 こ そ 歌 う ぞ … ! 」


とラストにBOOLさんが歌う「エロ本と俺」

音源の冷静さとは違い、どんどん泣き叫ぶように「エロ本と俺」を連呼するので、だんだん可哀想な気持ちになってきてしまいました…みんな笑ってたけど私は真顔でした(  ˙-˙  )←

ライブ観るとき「可哀想」って感情抱いたことないよ私。初めてだ。笑


sione
(湯川潮音)


歌はあるけど歌詞はない。

「ラララ」や「ルルル」でここまで感情豊かに表現できるsioneさんすごい。

本当に素敵でした。

「Kemono」

「Wealth of Flower」



world's end girlfriendとフィーチャーした曲もあります。
「Plein Soleil」

sioneさんの声は、わくわくするようなポップな曲にも合わせられるし、world's end girlfriendの切なく壮大な演奏にも合っていて、どの曲も素敵で…
まるで色が見えるような感覚になるくらい色とりどりの曲を歌っていました。

sioneさんが、バイオリン、チェロ、キーボード奏者さんたちのメンバー紹介をしたり、少しMCもされていました。
私にはsioneさんの穏やかで、優しくて、カドの無い、まあるいオーラが見えました。
sioneさんの、ふんわりした、あの雰囲気も好きだなあ。

そんなsioneさんの人柄が滲み出るような世界観の音楽で、とても温かい気持ちになれました!


Vampillia
(ヴァンピリア)


Vampilliaに関しては、めっちゃくちゃ度肝抜きました…
なんなんですかあれは。



Vampilliaは2005年に結成された、自称10人+αの「ブルータルオーケストラ」

ジャンルは轟音系ポストロックでもありますが、ブラックメタルっぽくもあり、ちょっとエクスペリメンタルで実験的な要素も感じました。

ボーカルが叫んでたり凄い金切り声出したりしてて、もうボーカルというか「音」。
あれは人の魂がこもった音でしたね。

ホント綺麗でした。
轟音が心地よくて。

途中で静寂からのギターの歪んだ大きな音が自分の心臓のど真ん中に入って、全身にビビッと電撃が走ったかのように鳥肌立って、開いた口が塞がらない状態になってしまった瞬間がありました。
あの音が凄すぎて。
なんだこの音は…と呆然と立ち尽くしてしまった。

最後メタルっぽい曲で締めたんですが、ボーカルさんダイブして、他のテンション上がったメンバーさんも次々ダイブして
「お前も行け!」って感じでボーカルさんが促して、結果10人中メンバー4人がダイブするっていうw

私は渋谷WWWのフロアの2段目から、それをにやにやしながら観てました。笑

あと下手側の男性キーボードの方の動きが変態すぎて目が離せなかったり、キーボード持ち上げて暴れて、壊しそうでハラハラしたけど、本気のパフォーマンス感じて激アツでした…!
なんせ10人も居るから、あっちこっち観なきゃって忙しい。笑

美しくて、激しくて、すごすぎて…いい意味で頭おかしいバンド。

ライブ終わってからも、すぐVampilliaが観たくなって調べたら4月14日(日)渋谷eggmanでライブするそうで。
即チケット取りました。

また今度観れるのが楽しみ(((o(*゚▽゚*)o)))


world's end girlfriend
(ワールズ・エンド・ガールフレンド)


念願の!world's end girlfriend!!

world's end girlfriendは日本の音楽家、前田勝彦さんによるソロユニットです。

初めはミソシタさんとフィーチャーした曲から始まりました。
「Life is Dark」

「地下二階のレジスタンス」

world's end girlfriendの演奏が良すぎて、ミソシタさんには申し訳ないけど歌なんか途中から聴こえなかった。
まあ私は歌ない方が好きだけど、声も音として聴けました。

緊迫したキケンな雰囲気の「Life is Dark」のあと、すごく切なく響く「地下二階のレジスタンス」

いいコラボでした!


そしてライブで演奏してた私の好きな曲!

「Les Enfants du Paradis」


「Birthday Resistance / 誕生日抵抗日」

↑この曲が収録されたアルバム「Hurtbreak Wonderland」が、私がwegを知るキッカケになったアルバムでした。
アルバムアートワークも大好き。

もう生で聴けて…もう…(言葉に出来ないので上手くレポできません)


そしてラストはworld's end girlfriendが演奏するクリスマスソングの「ジングルベル」!!

他のどんなジングルベルのカバーより、world's end girlfriendのカバーが世界で一番ステキでした。

ノイジーで、ポップで、とても幸せでした(*´-`)

素敵な夜でした…!

またVirgin Babylon Night 「5」があれば、ぜひ行きたいですね♡



またレポしますねー!

ここまで読んで下さり、ありがとうございましたっ♪(*´˘`*)ノ❣