こんにちは!アイリンです٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
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突 然 の 転 校
私は小学校1年生になりました。
でも、3日くらいN市の小学校に通って、いきなり私は転校することに。
突然、なんの前触れもなく、私だけおばあちゃん家に預けられることになり、おばあちゃん家から近い小学校に通うことになりました。
私は、お母さんと離れるのが嫌だった。
前回の記事でも話したような、ヒステリックで暴力的な母親だったとしても、私はまだ小学校入学したばかりの新1年生。
お母さんと離れて暮らすのは寂しい…
なんにも理由なんて聞かされてない。
聞いても、言葉を濁すだけで何も教えてくれなかった。
なんで?
なんで私だけ
お母さんと離れて暮らさなきゃいけないの…?
でも、まだ子どもの私は母に従うしかなかったのです。
小 学 校 1 年 生
私は理由も聞かされないまま、おばあちゃん、おばあちゃんの息子さん(おじちゃん)、おばあちゃんの息子さんの奥さん(おばちゃん)、その娘さん(いとこ)が暮らす家で、私が一人入ることに。
学校はN市の小学校から、A市の小学校へ。
友達はすぐ出来たし、私を山に捨てる事件があったときに通ってた保育園のときの幼馴染みも居たのですぐ馴染めました。
やっぱり私は、モノをつくるのが好きで、ポケモン書いた手作りの切手やパズルを紙で作ったり、遊びも自分で考えたりして、お友達と一緒に遊んでました。
いろんなお友達とお手紙交換もしました。
おばあちゃん家では、おばあちゃんも、おばちゃんも、いとこも優しくしてくれて、おじちゃんもたまにしか顔合わせなかったけど、優しかったです。
お庭のお花や植物の水やり、朝の玄関の掃き掃除などよくやった記憶があります。
それから最初はおばあちゃんが朝、私の髪を結ってくれていましたが、そのうちすぐに「自分でやる」と言って、わりと何でも自分でやりました。
おばあちゃんがフラダンスを習っていたので、それについて行ったり、おばあちゃんの作る料理が好きだったり、私はすっかりおばあちゃん子になりました。
泣 い た 記 憶
私はとても我慢強い子だったと思います。
でもたまにお母さんが会いに来てくれて、やっぱりバイバイするときは泣いてしまいました。
寝る前に、こっそり一人で泣いた記憶もあります。
おばちゃんや、いとこにも心配されながら、泣いた記憶もあります。
お母さんに会いたい…
寂しい…
たまに泣いては、優しく励ましてくれる人達のおかげで、寂しさを乗り越え、毎日頑張って過ごせました。
こうして1年が経とうとしていました。
再 び 転 校
小学2年生に上がる前に、お母さんが私を迎えに来ました。
「また転校することになるから」
またお母さんと一緒に住めるのは嬉しいけど、せっかくここでお友達が出来たのに…
「なんで?何で?」
と、私は母に何度も聞きましたが、母はやっぱり答えてくれません。
また私はお母さんに従うしかないの…。
せっかく出来たお友達と離れ離れになるのは寂しかったけど、お手紙を書いたり、もらったりしてお別れしました。
もうすぐ私は2年生。
小 学 校 2 年 生
私は3日ほど通ったN市の小学校へ舞い戻り。
家も以前住んでいたマンションに戻りました。
そのときには、母の再婚相手の連れ子は居なくなっていました。
母に
「〇〇ちゃんと、〇〇くんは?」
と聞くと、"2人のお母さんのところへ行った"とだけ聞きました。
それ以上は教えてくれなかった。
また、母と再婚相手の人との間に子どもが産まれました。
男の子。私の弟です。
7歳年下の可愛い私の弟。
父親違いとか関係なく、弟のことは大変可愛がりました。
それから同じクラスで、同じマンションに住んでいる友達が出来ました。
その子はシングルファーザーの子で、すぐに気の合う一番の仲良しになり、毎日のように一緒に遊びました。
陰 湿 な イ ジ メ
私が転校生だったからか、何かが気に入らなかったのか、2〜3年生の頃はよく上履きを隠されました。
私の上履きが、女子トイレの和式便器の中に突っ込まれていたのも覚えています。
それで、一番仲良しの子も私と関わってるからなのか標的にされて、彼女の上履きは夏以降使ってない緑色のプールに投げ込まれていたことも。
私なにもしてないのに。
彼女だって何もしてないよ。
上履きを隠した犯人は誰だかわからなかったけど、犯人探しもくだらないから、放っておいた。
それから当時流行っていたシャープペンシルを、ほとんどの子が持っていて、私は皆が持っていない優しいピンク色の花柄のを愛用していました。
でも、ある日突然そのシャーペンなくしちゃったんですよ。
無いな、なくしちゃったな、と思っていたら数日後に外の花壇から土まみれになって見つかりました。
もちろん私は自分でお気に入りのシャーペンをそんな風にしないので、誰かに投げ込まれたか、埋められたかだと思います。
先生にも、そんな状況になっていたことを知られてしまい、その流行りのシャーペンは学校に持ち込み禁止になりました。
3〜4年生の頃は、クラスの班の子全員に無視されてたり、何を聞いても話しかけても無視か、冷たい対応。
何かした覚えはないけど
きっとみんな私のことが気に入らないんだ。
何にもしていないけど
私は皆から嫌われる存在なんだ。
だんだん、そう思うようになっていきました。
母 の ス ト レ ス の 捌 け 口 は 私 へ
一方、家でも…
連れ子2人が居なくなったので、母は私に当たりました。
3年生の頃、学童に通っていましたが、帰りの車で助手席に座る私の顔面に、思いっきり母の平手が正面から飛んできたり。
家の廊下で、すれ違いざまに私の頬を平手打ちしたり。
とにかく毎日のように暴力がありました。
叩かれたときの骨まで感じる音とか、痺れるような痛みとか、今も鮮明に思い出せます。
暴力以外にも、私が可愛がって大切に飼っていたハムスターを捨てられそうになったこともあり、ゲージごと外に持って行く母を裸足で追いかけたりもしました。
私は音楽や美術、国語など文系の教科は好きだったのですが、算数が苦手でした。
母に教えてもらっているとき、答えを間違えると
「なんで?!なんで?!」と怒鳴られ、怖くて、問題が解けなくて、頭にも入らなくて、ただただ怖かった記憶があります。
私はずっと、算数や数学は苦手なままです。
毎日、暴力に必死に耐えました。
でもね、私が悪いの…
テストで100点取らなかったから。
部屋を片付けなかったから。
だからお母さんは、私を怒って叩くの。
これは、私が小学校に通っている間ずっと続きます。
誰 に も 言 え な い
小学3年生のある日、感情的になると物を投げる癖のある母が投げたアルミ缶が私の目に当たり、まぶたが腫れてしまったんです。
たまたまプルタブの尖った部分でも当たったんでしょうか。
投げられたときは母も私も気付かず、そのまま過ごしていたら、少し時間が経って母が
「目どうしたの?腫れてるよ?さっきお母さんが缶投げたから?当たったの?」
と他人事のように聞いてきたのを覚えています。
私は頷くのが精一杯で、何も言葉が出ませんでした。
そのとき、私の腫れた方の目から涙がこぼれ落ちました。
でも、まぶたが腫れてるから涙が出てるのか、悲しくて涙が出てるのかわかりませんでした。
「ごめんね、大丈夫?」
え…?
な…んで…
そんなこと…言うの…?
私が、悪いのに…
そのときだけはお母さんが優しく見えた。
母が初めて、自分のしたことに対して謝ってきたんです。
本当は母自身が自分でやったことなのに、我に返ったように謝ってきた…
だけど、そんな母を許してしまう、まだ子供の私。
その翌日。
私の目の腫れは治まっていましたが、まぶたには傷が残ってしまいました。
だけど自分が悪くてやられた傷だからと、私は気にせずそのまま学校に行き、学童にも行きました。
しかし、学童の先生は私のまぶたの傷に気付きました。
「愛理ちゃん、目どうしたの?傷ができてるよ」
と心配そうに聞いてきました。
傷のことは気にしていなかったのに、学童の先生に気付かれて聞かれたときは、何故か思わず動揺してしまいました。
オカアサンに缶を投げられました
なんて当然言えるはずもなく、とっさに
「自分でやりました」
と答えてしまいました。
学童の先生は私の言ったことを信じたかどうかわからないけど
「そうなの?気を付けてね」
と言ってくれました。
お母さんは悪くない。
だから自分でやったことにしなくちゃ。
缶を投げられてまぶたに傷ができたこと以外にもう一つ、大人に言うチャンスがあったのに、言えなかったことがあります。
小学5年生のときです。
髪の長かった私は、よくツインテールにしていました。
そのとき好きだったマンガの、明るく元気いっぱいの主人公の女の子に憧れて、髪を伸ばし、自分で同じ髪型に結って学校に行っていました。
私が5年生になっても家では毎日のように母からの暴力が耐えなく、ある日母が突然ハサミを持ち出してきて、私のツインテールにしていた髪を
ザクッ
ザクッ
と2つ分、髪を結ってあった根元から切られてしまいました。
悲しくて…
泣きました。
でも私は何も言葉を発することは出来ません。
私はいつも我慢して、痛みにも耐えて、せめて泣くことしか出来ない。
私は「やめて」とか「痛い」とか抵抗する言葉を発したことがありません。
ただただ受け止めるんです。
母からの暴力を。
髪…伸ばしてたのにな…
短くなっちゃった…
その翌日、クラスの担任の男の先生にすぐ聞かれました。
「髪切ったのか!もうすぐ林間学校だからか?」
と。
「はい、そうです」
と私は答えました。
そう。理由はなんだっていい。
お母さんにやられたってことがバレなければ。
もうすぐ学年の行事である林間学校を理由にしてくれた先生に、心の中で感謝しました。
父 親 の 存 在
私は母から暴力を振るわれていたその頃から
「今もしも私のそばに、お父さんが居たら」
と考えていました。
私にとってお父さんは世界で一人だけ。
例えお父さんと離れ離れになって、お父さんに会えなくても…
私のお父さんは、お父さんだけだから。
母から暴力を受ける度に
もし、お父さんが居たら私を守ってくれた?
お父さんが居たら全力でお母さんを止めてくれた?
なんで、私の側にお父さんが居ないの…?
と、私は周りの大人にも、誰にも助けを求めることが出来なかったから、居ない父親の存在を求めるようになっていました。
絶対に叶わない願いなのに、ずっと「もしもお父さんが居たら」なんて考えるようになってた。
ずっと、声も届かない人に助けを求め続けてた。
たぶん私、生きたかったんだと思う。
誰かに助けてほしかった。
誰も私を守ってくれなかったけど、私はお母さんを守りたかったんだ。
私のお母さんだって、世界で一人だけだもの。
そう思って、いつも我慢して、私に当たるお母さんを受け止めていました。
〜 あ と が き 〜
この記事は次の記事に続いているので、この記事のあとがきは省略し、次の記事にまとめさせていただきます。
…というのも、実は長くなりすぎて4万字越えちゃって、分けさせていただきました;;
次の記事は明日、更新いたします。
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