喜劇 眼の前旅館 -42ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

とくに書くことがなくても短歌について時々無理に何か考えて日記を書くことにしよう、と思ったので日記を書く。
今年の前半は自転車に関する(あまり関してない)連作的な歌をせっせとつくり続けていたが、しばらくの休止を挟んで今はまったく別の連作(的な歌)が溜まりつつある。前半にやっていたのよりだいぶ過去の自分の作風に戻っていて、それを連作的につくっているという感じ。かつてはそれを連作としてはつくれなかったというか、たぶん一首単位の完成度に(分をわきまえず)こだわり過ぎてたのと、連続してつくられてゆく歌の、その連続性に価値が見出せなかったのだろうと思う。あとはまあ単純に一首ごとにイメージを引きずりつつ微妙にリズムや景色をコントロールしてずらしてゆく(だから並べても単調になりにくい)技術というか知恵が、それなりに行き届くようにはなったのか。

しかし短歌がいくら溜まったところでとくに使い道はない。「そのゲーセンでしか使えないコイン」を溜め込んでいるような虚しさを感じる。歌葉新人賞があったときはコインを賞品に換えるチャンスが年に一度だけあった。そのチャンスを絶たれたことと、連作が際限なくつくり続けられるようになったことは無関係ではない。あらかじめ設定されたゴール(締め切り、三十首、歌集出版という賞品など)に向かってではなく、ひたすら虚しく作り続けることが私の短歌との関わり方としてその後発見されたということだ。

以前ある方に「三十首という尺が(我妻には)合ってないのではないか」と指摘を受けたことがある。三十首でなければ賞品がゲットできたと思ってるわけではない。と断ったうえで思うのだが、この指摘は正しいと今は思う。
一首というミクロな枠でなければあとはもう枠として意識できないようなぼんやりした大枠(連作でいえば終りにさしかかったとき、読者が初めの方を忘れかけているような枠)でしか私は短歌をつくらない方がいいかもしれない。小説で掌篇の書き方がそのまま通用するのは短篇~中篇よりむしろ長篇ではないかと最近思うのだが、それは短歌にも言えることのような気がする。
小説でいう短~中篇サイズが要請する構成意識、をひとまず取っ払ったところで短歌と関わり続けるにあたり、現在の私が身を置く虚しさはふさわしいものではないかと思う。一首の中でぐるぐる循環して永久に終らない、ということと、次の一首が永久に並び続けて際限がない、ということが両立するところでならいくらでも書けるという気が今はする。
書けるというだけで、それが読むに価するか判定するスイッチは切りっぱなしだが。
このところ短歌はほとんどつくってないけど、つくってた最後の方はずっと連作仕様になってて、すると私の歌の味といえなくもない素っ頓狂な部分はかなり抑えられた出来になるわけです。定型の枠を信頼して預けちゃって後は知らないよっ、ということはせず、一連の流れの中でいずれ責任はとっていきますから。私を信じてください。という態度でつくるということなんですね、私にとって連作をつくるとは。だから責任取れなくなりそうなことは初めから言わない、ということになる。定型それじたいの枠以外の枠を信じることによって、連作は可能になるんじゃないか、と思ったわけです。つまりそれが短歌における倫理ってやつですね。
だけど短歌をしばらく離れていた目でそういう一連の自分の歌を見ると、何か今ひとつピンと来ないなあ、ずいぶん地味だよなあという気がしてしまう。もっとこう、破れかぶれなところがないと、短歌なんて存在する価値ないんじゃないの。連作がどうこういうのなんて、あくまでその先の話じゃない? という気分が今は優勢になってきていますが、たぶん短歌をつくることを再開したらまた変わってしまうのだろう。良くも悪くも。


それから短歌関連の話題なんでリンクしておきますが
http://d.hatena.ne.jp/ggippss/20071011/p1
私のもう一個のブログの方の記事です。
記事中にリンクしてる(というかほとんどリンクしかないけど)過去の日記はなかなか我ながら面白いなあ、と思いました。ああいうことが今も書けるなら、短歌のブログをこうして分けて隔離する必要はないんだけど。
それからあの人はどうも私のこと好きなんじゃないか、という気がしたんですがどうでしょう。
もうすぐ本屋に並ぶと思われる「短歌ヴァーサス」第11号に、連作十首を寄稿しております。「ペダルは回るよ」という題です。ちなみにクランクではなくペダルです。
まだ少ししか読んでませんが、すごく読むところありますよ。そしてこの号で休刊です。この先はないんです。
「自転車用迷路」 (短歌研究新人賞落選作品)


そら耳の玄関ブザー降り積もりゆく穴を心に持ち墓場まで

春ののち団地に木々は滲み込んで百科事典の売られるワゴン

外廻り用自転車の前籠にたまる花 発てる旅の少なさ

サンダルを夏用に買う散歩には日陰が少なすぎる道を来て

ゆめに訪ねた靴屋を染める土間で吹く扇風機のうすみどりの羽は

緑道がとぎれて握る掌の中にいつの切符だろう刺さるのは

ワイシャツに生白き腕ぶらさげて炎天をバス停からあゆむ

去年まで坂道だった階段に人を待たせています今朝から

埋め立てた川が海までつづいてる そういうことって誰にでもある

首飾りきみが引き摺る坂道をまぶしくて開けられない目蓋

来るはずのきみと市バスは間引かれて入日がいつもより長かった

まばたきに群れのひまわり閉じ籠めてくだる畑みちに石を蹴る

ジャンボ機が揺する街の灯 くだりつつこの丘を恐怖しはじめる

祭りでもないのに明るい森を見てなぜか黙っていようと思う

この部屋に死ぬまで暮らす心地するあけぼの憶えなき壁のしみ

電話でも雨だと知れるほどの降り 聞いてよ、から後が聞こえない

写真にはレンズを向けて手を揺らすきみを映した壁の姿見

赤いベスパがトンネルで鮮やかに転ぶ 見てきたような真夏の中で

鍼灸師だったんだって死ぬ前は もちろんしんだひとは蒼いが

女の子がキャンパスの青芝でするパントマイムに纏うはねおと

「自転車用迷路出口に先回りしてきたの切り花を捧げに」

目が合うと視える線路が滝になるパノラマ ひとことも云うまえに

網棚へのせて帰れば片付けてもらえるだろうその自転車も

この歯痛いつからだっけと呟けばそばであなたが横に振る首

コーラから泡以外のもの噴き上げるように虚ろな小便が漏れた

甲子園出場 人身事故により列車が遅れております おめでとう

「白線につぶれてる猫ありがとうわたし今年で十二になるわ」

からっぽなエレベーターをひとひらの 逃げまわるけど蝶に見えない

サンダルが手紙を履いて沓脱にぬれる拝啓さようなら敬具

畦道へ軽トラックが荷台から指示する人をバックで搬ぶ


少し前に千葉聡歌集『微熱体』を読んだ。
千葉さんの作品を読むと感じるのはテンションの高さというものですね。
それがなんかちょっと危ういというか、不自然なまでのテンションの高さ、のようなもの。
山あり谷あり、にジグザグに折れたグラフの頂点の尖がった部分だけを刈り取ってきたようなテンションの高さ、というのかな。
その高さの持続を保証する技術とかアイデアの惜しみない投入ぶり、がしかも口語で行われているところには個人的にも刺激があるし、かなり勉強にもなります。
ただ、そのテンションが向かう方向には全然共感できないというか、それは基盤にある人生観みたいなものへの共感の出来なさ、ということにたぶんなるんでしょうかね。
短歌観というより人生観。もとよりそれはきれいに区別できるものではないけど。
人生観が作品にすごく出る作風ということはいえる気がしますね。
この歌集には固有名詞(人の名前)がたくさん出てきて、だから人生観は人間観ということでもある。
その固有名詞たちの属する世界に、私は長時間はいられないなあ居心地悪そうだなあと感じてしまうんですが、まあ大抵の歌人の属する人間関係は、私にとっては無関係だし接点のない、話のあわなそうなものに決まってるわけです。
でも普通はいちいちそんなこと短歌を読みながら思わない。べつに景色のようにふーん、と眺めるだけなのに、千葉さんが「リョウ」とか「リン」とか「マサル」とか記す人たちのいる世界が私に居心地悪く思えるのは、それらの人々への真剣な仲間意識が歌にあふれてるせいかな、という気がします。
つねに千葉さんが横に付き添ってる感じがするんですね。勝手に友だちになったりできない感じ。私がその人の魅力をおのずと見出す前に「○○君のいいところはね…」と横から作者が解説を始めてくれそうな気配、がみなぎっている固有名詞群だと思います。
親切な歌集だとは思う。ただその親切さには、余裕が決定的に欠けているとも思う。

十首選、みたいなのはあとでまた書くかもしれません。