少し前に千葉聡歌集『微熱体』を読んだ。
千葉さんの作品を読むと感じるのはテンションの高さというものですね。
それがなんかちょっと危ういというか、不自然なまでのテンションの高さ、のようなもの。
山あり谷あり、にジグザグに折れたグラフの頂点の尖がった部分だけを刈り取ってきたようなテンションの高さ、というのかな。
その高さの持続を保証する技術とかアイデアの惜しみない投入ぶり、がしかも口語で行われているところには個人的にも刺激があるし、かなり勉強にもなります。
ただ、そのテンションが向かう方向には全然共感できないというか、それは基盤にある人生観みたいなものへの共感の出来なさ、ということにたぶんなるんでしょうかね。
短歌観というより人生観。もとよりそれはきれいに区別できるものではないけど。
人生観が作品にすごく出る作風ということはいえる気がしますね。
この歌集には固有名詞(人の名前)がたくさん出てきて、だから人生観は人間観ということでもある。
その固有名詞たちの属する世界に、私は長時間はいられないなあ居心地悪そうだなあと感じてしまうんですが、まあ大抵の歌人の属する人間関係は、私にとっては無関係だし接点のない、話のあわなそうなものに決まってるわけです。
でも普通はいちいちそんなこと短歌を読みながら思わない。べつに景色のようにふーん、と眺めるだけなのに、千葉さんが「リョウ」とか「リン」とか「マサル」とか記す人たちのいる世界が私に居心地悪く思えるのは、それらの人々への真剣な仲間意識が歌にあふれてるせいかな、という気がします。
つねに千葉さんが横に付き添ってる感じがするんですね。勝手に友だちになったりできない感じ。私がその人の魅力をおのずと見出す前に「○○君のいいところはね…」と横から作者が解説を始めてくれそうな気配、がみなぎっている固有名詞群だと思います。
親切な歌集だとは思う。ただその親切さには、余裕が決定的に欠けているとも思う。
十首選、みたいなのはあとでまた書くかもしれません。