喜劇 眼の前旅館 -40ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

赤の他人の人生などどうでもいいし、そもそも人生という単位というか考え方自体どうでもいいものだとも言えるが、それ以上に短歌でうたわれる(作者の)人生というものは単にどうでもいいだけでなく、なにか積極的にうんざりさせられるものがある。
人間が生きているというだけで人生なのではなく、人生にはまさにこれが人生だなという構図の切り取り方があるのであって、それを短歌というフレームが担っている状態というのがあり、しばしば見事に担ってしまいもする。そのとき生じる豊かさのようなもの、を保証するために短歌が果たしている貧しい役割にうんざりする。
短歌はだいたい一人分の横顔とかうしろ姿と、そのすぐそばにいる家族とか恋人とか友人の体の一部やシルエット、職場などを想像できるくらいの背景の一部、というようにじつにほどよく人生を暗示する情報が盛り込めるサイズである。人生と短歌は何かの罠かと思うくらい相性がいい。そこがアマチュア文芸としての短歌の強みであって、人生というのは自分を主人公に潜在的に誰でも語れる物語なので、それを適度な技術習得でもっともらしく見せてくれる短歌は、適度な人々が適度に満足感を得られる形式である。
さらに作者にちょっとした過剰、ちょっとした欠落があればその適度さにほどよい刺激を加えることもできる。
互いに家の窓を覗かせあうような制度化された覗き(露出)趣味の場にとって、そうしたほどよい刺激は大層よろこばれる。
家とか人生という単位への忠誠さえどこかで表明しておけば安心してもらえる。短歌は共感をあてにしなければ読めないものなのだろう。ほとんどそれは絶望的なまでに。

屋上が滝なす手摺りしがみつきそれなのにまばたきの音がする


拍手のなか滝があなたの書きすぎた手紙洗ってくれるのを見た


ぼくたちが文字のかわりに文字盤にならぶ時代がきっといつかね


体育館よりも小さな月をもつ惑星がこの町を通過する


朝露をすべらせていく屋根 胸に侏儒のつけた踊るあしあと

ターミナル越しに夕日のいくつかは顔をゆがめて笑わせるのだ


バスと枝道がカメラの中にあるひどい嘘つきと別れたあとに


ほの寒いセーラー服の入り口で泣き叫ぶ誰かと行きちがう


あばら浮く学生服の団体の挨拶はひきつづき小窓から


屋上を果てまで知ると繋いでる手にこめてくるちからうれしい
口語短歌はその「内容の確定できなさ」に本領があると思う。景色や出来事や意見としてプレゼンテーションの弱さが自己完結、他者がいないという評価を受けやすいそういう短歌だが、その歌じたいを他者のつぶやく声として接するのが読み方としては正しい。

作中主体が他者に出会っているかどうか以前に読者が作中主体あるいは作者という他者に出会っている。
あくまで「作中主体の出会っている他者」という自分に身の危険が及ばない他者にしか出会いたくない読者、短歌を「ある人物=作中主体をめぐる現実」という虚構として心配なく消費したい読者には評判が悪くなる。

他人というのはそもそも理解不能だが、たしかにそこにいて何か考えたり喋ったり行動している。というそのことの観察を手がかりに他者の理解に近づこうという態度が一方にあり、他方にはまず社交としてあらかじめ用意されたサークル内の規律的ふるまいを通じ互いに親密さを獲得してから、身の上話のようにその人の他者性も受け入れるという態度がある。

短歌をやっている人は短歌イコールなんらかの集団という意識のもちかたをしている人が多いから、後者の態度に偏りがちなのだろう。
わけのわからない人のつくったものは読みたくないのだ。
短歌というのは、すごく乱暴にいうと「いかに読みにくくつくるか」が問題なわけです。つまりこんな字数の少ないものに文学的価値を見出すには、字数をたどる時間イコール作品の消化時間、であってはまずい。たしかに文字は少ないけど実はそれだけのものではない、字数以上の価値が隠されていると思われたい。そのために、漠然と文字を目でたどっただけでは読みきれないものにしてある。再読三読を促したいというもくろみが作る側にはあるわけです。
文語、旧仮名遣いというのはこの場合強力な武器になります。その読み慣れなさによって周囲の活字環境からそこだけ異質な空気をまとい、文学的価値を主張する。見るからに短歌である、とまでは分からなくとも、何か文学的なものなんだろうなあという予断を与える。まず読み方がわからない。なんとか読めたけど意味がわからない。というわけでその文字の上で足止めを食らう滞在時間が価値に換算される。そういう側面があります。
困るのは足止めされる以前に、ひと目見た時点で敬遠を決める読者が圧倒的多数だという点です。たぶん何か伝統とかに根ざした価値のあることが書いてあるのだろう、と思うので尊重しますけど、私はちょっと遠慮しときます。というのが世間が漠然と短歌に対してとる態度であり、この態度によって逆に短歌が(敬して遠ざけられ)生かされているということでもある。
対する口語の短歌は周囲の活字との区別をほとんどレイアウトのみに頼ることになります。余白に囲まれることでそれが短歌、とまで分からなくとも、何か詩のようなものだと気づかせる。
読み方はわかる。意味も、語彙の次元ではとくにひっかかることなくわかる。したがってあっというまに読めた、消化したという意識を読者にもたらしてしまい、結果期待したような文学的価値を見出せず、通過していく人がほとんどだと思う。実は口語の短歌はいっけん普通の現代日本語のように見えても読み方、というか読むためにとるべき姿勢や費やすべき時間や手間が違うのですが、そこを汲み取って親切につきあってくれる読者はまずいない。そこだけレイアウトが贅沢にとってある理由を訝りつつ「上げ底?」とつぶやき首をかしげながら、読者は去ってゆく。
だから私は口語短歌はあまり気軽に外に出さない方がいいと思う。といいつつここには垂れ流していますが、こんな殆ど人の見てないところはともかく、短歌にあらかじめ好意的な視線の前以外では原則、口語短歌は隠しておいた方がよい。新聞とかテレビとか雑誌とか外の目にふれる場所に出すのは文語、できれば旧仮名の短歌だけに抑えるべきです。そして口語短歌は、その見せ方読ませ方を徹底して管理できる条件が整っている時だけ、満を持して乗り出してゆけばよい。歌集もむやみに出すべきじゃないし、出すならなるべく一般の書店に並ばない形で出すか、とにかくそれが短歌にしか読めないように(文学的価値をうっかり素通りされないように)緻密にコントロールする覚悟と技術が必要です。
文語の歌集は今までどおり気軽にじゃんじゃん出せばよいと思います。