口語は隠せ | 喜劇 眼の前旅館

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

短歌というのは、すごく乱暴にいうと「いかに読みにくくつくるか」が問題なわけです。つまりこんな字数の少ないものに文学的価値を見出すには、字数をたどる時間イコール作品の消化時間、であってはまずい。たしかに文字は少ないけど実はそれだけのものではない、字数以上の価値が隠されていると思われたい。そのために、漠然と文字を目でたどっただけでは読みきれないものにしてある。再読三読を促したいというもくろみが作る側にはあるわけです。
文語、旧仮名遣いというのはこの場合強力な武器になります。その読み慣れなさによって周囲の活字環境からそこだけ異質な空気をまとい、文学的価値を主張する。見るからに短歌である、とまでは分からなくとも、何か文学的なものなんだろうなあという予断を与える。まず読み方がわからない。なんとか読めたけど意味がわからない。というわけでその文字の上で足止めを食らう滞在時間が価値に換算される。そういう側面があります。
困るのは足止めされる以前に、ひと目見た時点で敬遠を決める読者が圧倒的多数だという点です。たぶん何か伝統とかに根ざした価値のあることが書いてあるのだろう、と思うので尊重しますけど、私はちょっと遠慮しときます。というのが世間が漠然と短歌に対してとる態度であり、この態度によって逆に短歌が(敬して遠ざけられ)生かされているということでもある。
対する口語の短歌は周囲の活字との区別をほとんどレイアウトのみに頼ることになります。余白に囲まれることでそれが短歌、とまで分からなくとも、何か詩のようなものだと気づかせる。
読み方はわかる。意味も、語彙の次元ではとくにひっかかることなくわかる。したがってあっというまに読めた、消化したという意識を読者にもたらしてしまい、結果期待したような文学的価値を見出せず、通過していく人がほとんどだと思う。実は口語の短歌はいっけん普通の現代日本語のように見えても読み方、というか読むためにとるべき姿勢や費やすべき時間や手間が違うのですが、そこを汲み取って親切につきあってくれる読者はまずいない。そこだけレイアウトが贅沢にとってある理由を訝りつつ「上げ底?」とつぶやき首をかしげながら、読者は去ってゆく。
だから私は口語短歌はあまり気軽に外に出さない方がいいと思う。といいつつここには垂れ流していますが、こんな殆ど人の見てないところはともかく、短歌にあらかじめ好意的な視線の前以外では原則、口語短歌は隠しておいた方がよい。新聞とかテレビとか雑誌とか外の目にふれる場所に出すのは文語、できれば旧仮名の短歌だけに抑えるべきです。そして口語短歌は、その見せ方読ませ方を徹底して管理できる条件が整っている時だけ、満を持して乗り出してゆけばよい。歌集もむやみに出すべきじゃないし、出すならなるべく一般の書店に並ばない形で出すか、とにかくそれが短歌にしか読めないように(文学的価値をうっかり素通りされないように)緻密にコントロールする覚悟と技術が必要です。
文語の歌集は今までどおり気軽にじゃんじゃん出せばよいと思います。