(法の)あるいは行われ、あるいは蔵(かく)れる、時の変なり。

 

たちまちに興りたちまちに廃る、実に人によれり。

 

時至り人叶うときは、道、無窮(むきゅう)に被らしむ。

 

人と時と矛盾するときは、教えすなわち地に墜(お)つ。

 

興廃流塞(こうはいりゅうそく)、人を待ち時を待つ。

 

【現代語訳】

真の教えが世の中で行われたり、かくれたりするのは、時の動きによります。突如として興ったり、突如として廃れたりするのは、まさに人によるのです。時が熟し人が相応ずるときは、道は限りなく世に広まります。

 

人と時とが互いに矛盾する時は、教えは地に墜ちて廃れるものです。真の教えが盛んになるか廃れるかは、すべて、その人を待ち、その時を待つものです。

 

 

この文章は、唐の長安の都から帰国の途につき、806年4月、越州(現在の浙江省紹興)に到着した空海が、仏教と儒教・道教などの経典類の収集を越州の節度使(長官)にお願いしたときのものです。

 

意味するところは、優れた教えが世に行われるためには、人の力が必要であり、その人が力を発揮するためには、その時を待たなければならないということです

 

 

「人を待ち時を待つ」という言葉自体は、新しい時代の到来や新しい人物の出現を期待するときによく使われます。

 

時と人との関係は、空海が「時至り」と述べているように、時の熟すことが先のようです。つまり、天下にすぐれた人物がいても、時がこの人物を必要としない限り現れることはない、ということです。

 

弥勒下生の暗号~「五六七」(2019/10/25)

 

このように考えると、空海とその師である恵果阿闍梨との出会いの時とは、余命を悟った恵果が空海に教えを伝授することを決意したまさにその時であったのではないでしょうか。

 

密教界最大の超人~空海(5)(2019/10/26)より

 

◆恵果の言葉

「わたしは前からあなたがこの地に来られているのを知って、長いこと待っていました。わたしの寿命も尽きようとしているのに、法を授けて伝えさせる人がまだおりません」(『御請来目録』より)

 

恵果の言葉は、師が弟子に密教の教えを伝授するという歴史的出来事において、まさに「人を待ち、時を待った」、その瞬間であったのです。

 

【空海の言葉】~虚しく往きて実ちて帰る(2019/11/8)

 

空海は、この文章で経典を日本に持ち帰る理由を次のように述べています。

 

「もって蒙を発(ひら)き、物を済(すく)うべき者多少、遠方に流伝せしめよ」

 

すなわち、人々を救うことのできる色々な経典類を多少にかかわらず、遠方である日本に伝えたい、と願っているのです。

 

 

この時の空海は、わずかな財力は尽き果て、もはや自力で収集することができない状況だったのですが、貴重な経典類をこの機会に求めなければ二度と日本に伝わることのないことを知っていました

 

しかも、遣唐使船の積載量の問題などで膨大な経典類のすべてを持ち帰ることができません。そこで請来する経典類を選ばなければならないわけですが、その選択の基準をどうするか。

 

つまり、空海の価値観がどこにあったのかを教えているのが、先の「もって蒙を発(ひら)き、物を済(すく)うべき者多少」という言葉だったのです。

 

この言葉を『菩薩大士の考えること』と述べていることから、空海の関心は、あくまでも人々の救済に向けられていたのです。

 

【空海の言葉】生と死の実相を知るために(2019/9/13)

 

無知ゆえに、生死の海に呻吟(しんぎん)し、罪業を深めている人々に心の仏性について教え、救済することのできる経典類に選定の基準を置いていたのです。

 

この言葉からも、空海の師の遺命を忠実に果たそうとしていたことがわかります。(『日本人のこころの言葉・空海』)より

 

(過去記事)

【空海の言葉】すべては担う人間にかかっている

 

 

【空海の言葉】慈悲とは人を平等に扱う心である

 

 

 

【空海の言葉】生死は輪廻するもの