仏心は慈と悲となり。

 

大慈はすなわち楽を与え、

 

大悲はすなわち苦を抜く。

 

抜苦(ばっく)は軽重を問うことなく、

 

与楽(よらく)は親疎(しんそ)を論ぜず。

 

【現代語訳】

仏の心は、慈(いつくしみ)と悲(あわれみ)の二つであるといいます。大慈は人々に楽を与え、大悲は人々の苦を抜くことです。「抜苦」は人の軽重を問うことなく、すべての人を救うことであり、「与楽」はその人が親しいかそうでないかにかかわらず、すべての人を幸せにすることです。(『性霊集』巻第六)

 

 

「仏心は慈と悲となり」という言葉は、仏教の一般的な理解であって特に密教に限ったわけではありません。(略)人知を超えた自然現象を扱う雨乞いの原文であることを押さえておく必要があります。

 

すなわち、雨が降る降らないは、人の力では何ともできない現象です。そこで空海は、仏の慈悲にすがることによって降雨を願っているのです。

 

 

「抜苦は人の軽重を問わず」、「与楽は人の親疎を論ぜず」という言葉は、この願いを聞き届けてくれる仏心の寛大さを述べています。

 

仏の慈悲心は、人の軽重や親しさなどによって影響されず、すべての人を平等に扱う心であるということですが、空海が、このように述べている理由は、梅雨の時であるのに雨が降らないことに関係しています。

 

【欧州と豪州】記録的な熱波と干ばつ(2018/8/10)より

 

『呂氏春秋』などの漢籍を引用して、次のように続けています。

 

干ばつが続くのは、贈賄が行われているからか、無実の人を罪としたためか、法令を出してすぐ引っ込めたためであろうか、いずれにせよ、万民に罪があるとすれば、それはすべて天子の責任であり、天子がいい政治をしていないから、干ばつが起こり万民が苦しむのである、と。

 

そこで、天の子たる天皇は、自らの行いを正しくし、人民を統率し、国中の災いをなくすべく、帝釈天に加護を仰ぎ、仏教を仰ぎたてまつることになるわけです。

 

どうか、万民の罪を問わず、朕の不徳を許し雨を降らせたまえ、という願いが「人の軽重を問わず、人の親疎を論ぜず」という言葉であり、それにもとづく仏の慈悲として「抜苦与楽」が求められているのです。

 

 

わたしたちの身近な場面でいえば、相手の間違いや過失を責めて許さず、差別したり、疎外したりすることは、決して慈悲の行為ではないということです。

 

人はとかく、偉いとか、地位が低いとか、親しいとか、そうでないとかいうことで、他人を判断しがちですが、心の奥にそのような差別意識や好悪の感情が宿っていることに気づかないのではないでしょうか。(『日本人のこころの言葉・空海』)